【推しの子】 The Final Act(2024)
監督:スミス
出演:櫻井海音、齋藤飛鳥、齊藤なぎさ、原菜乃華、茅島みずき、あの、成田凌etc
評価:80点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
社会現象になった「推しの子」の実写化が公開された。本作はプライムビデオにてドラマが先行配信され、最終回を映画でやるといった内容となっている。なので、アニメ第一期しか観ていない私にとってある程度空白があるものとなっている。とはいえ、漫画の映画化ってそもそも難しいわけで、ドラマやアニメである程度カバーできたとしても2時間で物語を過不足なく描くことは離れ業に近い。さて、実際に観てみると、本作は脚本がRTAばりに洗練されており、そのテクニカルな演出の数々に息を飲んだ。2024年映画納めはこれで正解であった。ということで語っていく。
『【推しの子】 The Final Act』あらすじ
赤坂アカ(原作)と横槍メンゴ(作画)による大ヒットコミック「【推しの子】」の実写映画版。Amazonと東映がタッグを組んだ実写映像化プロジェクトとして、2024年11月28日からAmazon Prime Videoでドラマシリーズ「【推しの子】」全8話を配信。映画「【推しの子】 The Final Act」は、ドラマシリーズの続きとなる。
主人公の青年が、自身が大ファンだったアイドルの子どもとして転生するというファンタジックな設定や、ショッキングな描写もいとわないサスペンス要素、芸能界の闇に切り込んだ内容で話題を集めた「【推しの子】」。映画版では、物語のはじまりである、アイと雨宮吾郎(ゴロー)の出会いと転生、そしてゴローが転生した青年アクアの復讐劇の行方を描く。
産婦人科医のゴローは、かつて担当していた患者の影響で、アイドルグループ「B小町」のアイを“推し”としてオタ活をエンジョイしていた。そんなある日、突然、妊娠したアイが患者として彼の目の前に現れる。その後ゴローはある事件に巻き込まれ、理由も原理もわからないまま、アイの子どもに転生することに。アクアという名で“推しの子“として幸せな日々を過ごしていたが、ある日、アイが何者かに殺されてしまう。アクアは、アイを殺した犯人への復讐に身を捧げるが……。
アクア役を櫻井海音、アイ役を齋藤飛鳥、アクアの双子の妹で亡き母のようなアイドルを目指すルビー役を齊藤なぎさ、ルビーとともにアイドル活動を始める有馬かな役に原菜乃華、アクアに恋心を抱く女優・黒川あかね役に茅島みずき、ルビー、かなとともにアイドル活動をする人気YouTuberのMEMちょ役をあのが務める。また、アクアとルビーにとって最大の宿敵となりうる謎の男カミキヒカル役を二宮和也が演じた。監督はテレビドラマや数多くのミュージックビデオを手がけてきたスミス。
実は『瞳をとじて』だったり『Four Daughters』だったり
ドラマ版を観ていないので開幕早々驚かされる。なんと、アニメ第1話が90分かけてやったゴローがアイを引き取り、やがてアクアへ転生。そしてアイが死亡するまでの過程を45分程度で駆け抜けていくのである。余計なエピソードはそぎ落としつつも、ゴローが「B小町」のアイを推すようになるまでの心理的変化を丁寧に描く。最初は患者のポスターを事務処理的に貼っていく。しかし、家族が全く見舞いに来ない、どんどんと容態が悪くなっていくにつれ、ゴローはアイを意識するようになる。ロッカーの中も最初は患者からのDVDを奥に仕舞うだけだったのが、いつしかアイのグッズで埋め尽くされている。さりげない反復で時間の経過を表現する。これは映画内RTAとして重要な短縮テクニックであろう。赤ちゃん編ではディープフェイクを用いた不気味の谷全開なベイビーフェイスに怖さを抱きつつも、後半の展開に必要な要素を抽出しつつ、破綻しない程度に並べていく。そして宿敵カミキヒカルとの対決編が幕を上げる。
さてようやく本編なわけだが、この対決方法が面白い。アクアとルビーがアイの隠し子であることを公表し、アイ殺害事件の真相に迫る映画を作ろうとするのだ。そしてアイ役をルビーが演じる、よく製作委員会方式で作れるなといった衝撃の展開となる。その製作の過程を通じて過去のトラウマや、アクアとルビーの前世が結びついていくのだが意外なことにヴィクトル・エリセ『瞳をとじて』やカウテール・ベン・ハニア『Four Daughters』と共鳴するものがある。
ヴィクトル・エリセ『瞳をとじて』は俳優が撮影中に失踪してしまった映画を中心に数十年ぶりに真相を追う。記憶と記録を結び付ける装置として映画が扱われる作品だ。本作でも、アイが託したDVD、映画製作を軸に記憶を辿っていくアプローチが取られている。そして製作する映画に当事者が起用され、演技、フィクションを通じて人生のトラウマと向き合っていく方式、当事者であるルビーと非当事者カナがアイを演じ合う場面は『Four Daughters』における当事者と俳優が事件を再現する様に近いものがある。
そうした意外な関係性に気づきながら、本作ならではの高度な技法の存在が浮かび上がってくる。それはアイが壱護と出会う場面の再現である。前半のセットアップで、アイと壱護の出会いを感傷的に描く。そして中盤でそれをルビーが演じる。ルビーはその場にいないので、脚本からアイの行動を推察しながら演じる。それを壱護が見つめるのだが、彼は彼女の演技を通じて記憶を引き出す。目の前の虚構を通じて現実を掴む様、まさしく媒介としてのメディア像を強調するために、カメラは演技をする彼女を捉えたモニターを画に収めるのである。この多層的な構造を老若男女楽しめる大衆娯楽映画でいとも簡単にやってのける様に感動した。
2024年は洋画が弱かったとの声がある。それは本当に、特にハリウッド映画がすっかり弱くなってしまったことを言い表していると思う。アニメもそうだが『はたらく細胞』のような茶番系映画、『グランメゾン・パリ』のようなドラマ映画であっても地盤固めた脚本の上でアッと驚くようなテクニックを披露して魅せるのである。だから、正確な表現として日本映画は全体的に大成長している。世界水準のレベルとなっているから誇りに思って良いと言うべきなのだ。
2025年が明るいなと思った年の瀬であった。
※映画.comより画像引用