TRPG論:対戦から予定調和へ

最近のTRPGに顕著なシステムとして「ハンドアウト」というものがある。
語源としては、講演や会見などに際し事前に配布される資料のことを指す。TRPG用語としても大まかには事前配布資料を指すことに変わりはないのだが、それがゲームシステムに組み込まれているというのはどういう意味なのか。
一括りにハンドアウトと呼ばれはしても、内容は様々である。


広義のハンドアウトは、プレイヤーに対し事前に通知される全情報が含まれることになる。」「今日のシナリオはダンジョンものだ」「魔法使いが一人は欲しい」「君たちは冒険者として、この町の酒場にいる」、いやもっと言えば「システムはこれを使う」までもが広義のハンドアウトに含まれる。
しかし、こうした情報はTRPGの開闢以来ずっと開示され続けてきたもので、わざわざシステムとして規定するようなものではない。
実際にハンドアウト制を採るシステムのリプレイやシナリオを見る限りでは、ハンドアウトは概ね次のような構成を取っている。

PC番号
これは、今回のシナリオに於ける重要度順のようなもの。1なら主演格、2〜3あたりが助演、それ以外が脇役といったところか。
クラス
このハンドアウトに推奨されるキャラクタークラスなど。あるいは取るべきスキルなど。
コネクション
このキャラクターがシナリオ中に持っているコネクションの指定。
概要
このシナリオ中に於けるキャラクターの立ち位置、役割の解説、あるいは導入部の描写。

この中で特に重要なのが、コネクションと概要である。クラスにも若干その要素があるのだが、これらは要するにシナリオ中に於けるキャラの立場を明示するものだ。平たく言えば「どうシナリオに関っているか」の指定である。ここが、旧来のRPGとの最大の相違だ。
ハンドアウトは、PCにシナリオの中心的立場を与えるために存在している。


旧来のRPGに於いて、PCは傍観者だった。勿論シナリオを進めるのは彼らであって、その意味では主役なのだが、同時に事件そのものに直接的な影響を受ける位置にいることは少なかった。例えば「村がゴブリンに襲われて困っております、お助け下され」というのであれば事件の主体は村人とゴブリンであって、PCはそこへ介入する傍観者に過ぎない。極論、ゴブリンを退治して村を救おうが、見棄てて逃げようが、彼らにはさしたる違いがないのだ。
それに対し、ハンドアウト制では「君は村長の家族だ」とか「かつてゴブリンによって恋人を殺されて以来、君はゴブリンを決して許さないと誓った」とかいった形で事件に積極的に関与せざるを得ない立場が与えられ、まさにドラマの主役として振る舞うことになる。


また、ハンドアウトとは別の方向からキャラの立ち位置を規定するシステムも存在した。これらは主にテンプレート制を取り、職業や技能などだけではなく過去の経歴、抱えるトラウマなどまでも規定することで、キャラの振る舞いパターンを明確化する。シナリオ中での立場そのものは傍観者ながら、精神面の設定から主体的に事件へ関与する理由を与え、また苦悩の場面を演じることによるドラマティックな展開を可能とするものであった。


これらに共通するのは「PCをドラマの主役とする」ことである。それまでのシステムが傍観者に徹しており、ストーリーそのものの外に位置していたのに対し、新世代のシステムはPC自体に脚光を浴びせ、ストーリーに於いても主体的立場となることを要求した。
些か余談ながら、これらは奇妙にライトノベル、或いは18禁ゲームの変化と一致するように思う。
読者という第三者視点から当事者への移入へ。エロ主体から等身大(+美化)の主人公によるドラマへ。
つまり、「プレイヤーとGMの鬩ぎ合い/共同幻想によってひとつの物語を創る」から「GMが用意したストーリーを演出する」「自分の分身が活躍することに満足する」へと変わってきたのではないか。
そういうユーザがTRPGにも流入した-----というか、TRPGを支える主流世代がそういうユーザになったと見るべきだろうか。


かつて、GMがストーリーを語り過ぎることは禁忌であった。TRPGはGMの考えたお話を聞く場ではないからだ。むしろストーリーの骨子は陳腐なぐらいで丁度良いとさえ言われてきた。しかし、ハンドアウトはそうした「練り込まれたストーリー」にすらPCの居場所を作り、プレイを可能とする。
またPLが演技に酔ってはゲームにならぬと戒められてきた。演劇をしに来ているのではない、ゲームをしに来ているのだと。しかしハンドアウトはむしろ、PLに演劇的であることを要求する。
無論、ストーリーが重厚であるに越したことはないし、演技が巧いに越したことはない。だがそれらはあくまで付加価値であって、主体ではなかった筈なのだ。けれどもハンドアウトにより、それらは逆転する。
ハンドアウトさえあれば、「GMの考えた美しいストーリー」はそのままPCのストーリーになる。「PLの素晴らしい演技」はそのままシナリオを彩る演出になる。最早RPGはゲームではなく即興劇になったのだ。それは只のRPであってGではないもの。


念の為。
ハンドアウトそのものは、半分は「導入の失敗によるグダグダなプレイを防止する」ことを目的に作られた(少なくともそのように運用されている)のだろうと思われる。実際、導入でプレイヤーが乗ってこなかったという例は枚挙に暇がなく、その責の所在はどうあれ回避する手段があるなら回避するに越したことはない。導入さえ乗り切れば、つまり行動の動機が与えられれば、あとは(目標が達成できるかどうかはともかくとして)どうにか時間いっぱいプレイを楽しむこともできよう。少なくともそのようなツールとしての有用性は理解する。
また、明らかに有用なハンドアウトの効用として、群像劇RPGの実現という側面は見逃せない。予めひとつの事件に対する異なる立場のハンドアウトを作っておくことで、PCとしては対立しつつ、PLとしては協力してひとつのストーリーを多面的に演出するようなプレイである。これは紡がれるストーリーに複雑な深みを与えるもので、巧く極まれば最高の体験となる可能性を秘めてはいる。


RPGそのものが、定義の不明瞭なゲームである。単にストーリーの完成を以てゲームの勝利条件と見做すならば、GMの語りだろうが即興劇だろうが、それどころかシナリオとしてはバッドエンドであっても勝利とも言える。或いはグッドエンドでの終了を勝利と見做すならば、やはり語りでも即興劇でも何でも構わないことになる。
しかし思考ゲームとして捉えれば、知略を競う要素なしにゲームと呼ぶのは憚られる。ある種対戦的に、GM対PC、あるいはPC同士の知恵の比べ合い。ストーリーの完成はその結果であり、目的ではない。
「そういうゲームは古い」と言われれば、まあその通りなのだと思う。即興劇を楽しむ時代なのだと言われれば、その邪魔をする気はない。ただ、それだけがRPGになってしまうというのだけは拒否したい。