凶笑面―蓮丈那智フィールドファイル〈1〉 (新潮エンターテインメント倶楽部SS)が

ドラマになっていた(4日前に放送済)ことを今日知ったが、同時に「前もって知っていても見なかっただろう」とも思った。
私にとって小説の映像化というのはあまり良い印象がない。ドラマだけでなく、それが映画化であってもコミカライズであっても、或いはゲーム化であっても。

文章とは情報を伝達するためのインターフェイスであるが、そのデータ量はすべての情報を伝えるにはあまりに少ない。従って効率の良い情報伝達のために予め送信側と受信側にデータを蓄積し、それを検索するコードを送信する事で認識の共有を図っている。
ただし、双方のデータを突き合わせて同一性を確認する手段はないから、送信側が送信したと期待した情報を受信側が確実に受信できているとは限らない。それを補うのは送信側、受信側双方の文章解析アルゴリズムにかかっている。
だから小説には想像の余地が多く残され、読み手がそれぞれに独自のイメージを抱くのだが、そのイメージは曖昧であり、固着のためには何らかの媒体を必要とする。-----例えば、実在の人物にイメージを仮託するとか。


対して映像化は、文章に比べ圧倒的に情報量が多く、曖昧さの介在する余地があまりない。とりわけ人間は視覚に偏重した生物であるから、その効果は絶大である。先に映像から入った場合、それを変更するのは殆ど不可能だろう。
想像力(読解したイメージの固着力、と言い換えても良い)が弱い人に対しては、映像化は内容を理解する上で大きな助けになる。しかし、既に文章から確固たるイメージを形成している場合、映像はそのイメージとコンフリクトを起こしてしまう。
また、映像化はその性質上、視覚的イメージの明快さを何より重視する。それは時に、ストーリー上重要だが地味なポイントの無視や大幅な変更に結びつく事も少なくない。それは前述のイメージコンフリクトと相俟って、原作の文章を偏愛する読者を酷く苛つかせる事になる。


逆に、映像作品の小説化もまた、良い印象を持たない。映像作品が視覚的演出を中心に構成されてしまうが故に、それを文章化しても小説として面白くなりようがないからである。原作は視覚効果に重点を置いて情報を圧縮しているから、それ以外の部分がどうしても削られてしまっている。しかし文章は、その削られたものこそを中心にした圧縮形式であるから、両方を通過した情報は酷く中身の少ないものになってしまう。GIFで256色に減色したものにJPEG圧縮をかけてしまったようなもので、情報が間引かれ過ぎてしまうのだ。