多田野数人
ただのかずひと
概要
プロ野球選手。右投右打。
高校時代は千葉県の八千代松陰高校にて1998年春季県大会優勝及び東千葉大会(記念大会で東西に分かれた)優勝で甲子園出場を果たしている。
立教大学卒業後、ドラフト会議での指名がかからず、渡米してマイナーリーグでプレーする。マイナーリーグ時代はジャンクフードと水で空腹を紛らわし、英会話習得と節約のため通訳を遠慮するなど辛酸を舐めたが見事メジャー昇格、超遅球イーファスピッチをモノにする。
2007年ドラフトにおいて、北海道日本ハムファイターズがドラフト一位指名し、3000万円で契約。メジャー帰りの秘密兵器・大型新人として、鳴り物入りでファイターズの一員となった。ちなみに、ドラフト指名当日に日本ハムのウインナーを食べて喜んでいた。
2010年秋に球団から戦力外通告を受けるも、同年12月に年俸77%オフ(規定により25%以上の減俸が出来ない為)で再契約となる。
2012年4月16日、およそ2年ぶりに1軍の試合で先発登板。2009年8月27日以来963日ぶりの勝利を挙げた。 同年の日本シリーズでも登板。
長時間の連投は苦手で5~6回あたりで下がることがほとんどだが、そこそこの成績を収めチームの勝利に貢献している。
2014年に戦力外通告を受けた後、BCリーグ・石川ミリオンスターズの投手兼コーチとして入団となった。背番号は「65」をそのまま使用。
現役引退後は米マイナーリーグの球団経営が夢。
趣味はダーツでマイダーツも所持している模様。
背番号
2008年から2010年まで「16」、2011年以降は「65」。
イーファスピッチ
山なりの軌道と驚異的な遅さが特徴な、かつてメジャーでA・ロッドを三ゴロに打ち取った魔球。
「チェンジアップのサインが出たけど投げたことがなかったので とりあえず遅い球を投げてみた。」
日本初披露は2008年6月18日の広島市民球場における広島戦にて、シーボルに対して。
その特徴的な山なりを描く軌道でカメラから見切れ、消える魔球と称された。その試合は惜しくも負けてしまったものの、野球ファンは騒然、スポーツニュースは多田野のイーファス一色に染まった。
その速度はスピードガンでは計測不能であり、48km/hとも39km/hとも言われる。本人いわく、流れを変えるために投げる。ちなみにイーファスピッチとは「しょんべんボール」という意味。岩本勉は「スーパーガチョーン」と呼ぶが、まったく定着していない模様。むしろ「多田野ボール」「スカイツリーボール(多田野の出身地は墨田区)」の方が通りが良い。
多田野せっかち伝説
球は遅いのに行動は無駄に早い。チーム一のせっかちである。
- 武田勝曰くフォーム、仕草、ボークの三拍子とのこと。
- 投球するとすぐ返球を催促する。
- 牽制がせっかち。
- あまりにテンポの良すぎる投球でボーク王に輝く。吉井コーチに「投げる前に 審判にウインク しろ」とアドバイスされる。
- 試合中のテンポを重視しており、勢いに乗っているときはサクサク試合が進む。が、打たれ始めると一気にピンチに陥りやすいのが難点。
- ゴルフボールは置いたらすぐ打つ、結果はご想像にお任せします。
- 1分1秒を大事にするあまり運転が荒い。鎌ヶ谷の敷地内でも猛スピード、バックも速い。
- 麻雀でノーテンリーチをかけたらしい。
- 10月2日QVCマリンフィールドでの対ロッテ戦でリリーフカーを乗車拒否。自分の足でマウンドへ行くせっかち登板→最初の打者の井口からあっという間のせっかち被弾。
- なお、本人はせっかち王を自覚しているが「せっかちなのは悪いことじゃない」「生きている1分1秒を無駄にしたくない」とのこと。彼があるスキャンダルにより、日本球界に出遅れてしまったことを考えると、非常に重い言葉である。
エピソード
- まばたきをほとんどしない。
- ものすごい負けず嫌い。バッターボックスに立つカブレラに何か言われ、物凄い顔でメンチを切りながら英語で言い返したこともある。本人曰く、何を言ったのか覚えていない。
- 体(特に股関節)が人並みはずれて固い(それ故ギクシャクした独特の変則フォームを駆使する)
- 2008年ファンフェスにてドッヂボールに出場、岩本勉の「出るか、スーパーガチョーン」の煽りで空気を呼んでドッヂでイーファス、あっさり捕球&ぶつけられ即死。「ドッヂボールでは通用しないことがわかりました」
- 現北海道日本ハムファイターズ監督の栗山英樹監督とはマイナーリーグ時代からの知り合いで、食うにも困っていた頃に中華料理をごちそうしてもらったりしていた。「一番の目標は先発枠に入ること。それが駄目でもチームが必要とされるところで力を出したい。苦しいときに支えてくれた監督の力になりたいんです」
- マック鈴木に次いで史上2人目の「NPB所属経験無しにMLB昇格を果たした日本人選手」であり、日米両方で初登板初勝利を達成した数少ない投手でもある。