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須田寛

すだひろし

JR東海の初代代表取締役社長

1931年1月28日生まれ。京都府出身。父親は洋画家の須田国太郎

少年時代は身体が弱く、教練の成績が悪いことで教師から少国民と責められたり、非国民と呼ばれたりもした。更に公立中学校の受験も教師に禁じられ、同志社中学校に進んだ時には強い劣等感を抱えていたという。


京都大学卒業後国鉄へ入社。国鉄入社後は旅客局設備課長、総務課長などの職務を経て名古屋鉄道管理局長・本社旅客局長・常務理事を務めた。

シルバーシート生みの親、青春18きっぷの名付け親はこの人。国鉄においてホームライナーを設定したのもこの人である。


1987年の国鉄分割民営化でJR東海社長に就任。国鉄の分割民営化案に本人は反対していたため、就任要請が来た時は戸惑いを感じたという。

JR東海の社長就任後は中日ドラゴンズ落合博満が入団したことでナゴヤ球場の観客が増加。これを受け、JR貨物名古屋港線の第二種鉄道事業免許を取得。ナゴヤ球場正門前駅を設置して観客輸送の臨時列車を走らせた。当時の須田社長も正門前駅開業初日には一晩中乗客への対応に当たった。


東海道新幹線のぞみ号の名古屋飛ばしが問題になった時、地元との対話などで忙殺されたが、それが結果として地元とのパイプになったという。

1995年に社長を退任して会長に就任。産業観光の概念を紹介するなど精力的に活動している。

2022年現在もJR東海の非常勤顧問、鉄道友の会会長として健在である。

JR東海の後任社長の葛西敬之がネット上で何かと叩かれていたのに対し鉄道に対して非常に愛着を持っている人物であることから鉄道ファンから『神様』や『レジェンド』とされている人物である。


2024年12月23日、JR東海のニュースリリースで同月13日、老衰により93歳で死去したことが発表された。参照


エピソード編集

  • JRの社長・会長経験者の中ではJR九州石井幸孝JR東日本山之内秀一郎と共に鉄道ファンとして知られている。
  • JR東海の社長時代、名車と名高い車両の保存を積極的に指示したり鉄道博物館構想を発表していたりした。高山本線太多線の車両を預かる美濃太田車両区の一角に長年多くの引退した車両が保管されていたが、それの保管を指示していたのは須田社長である。須田コレクションと呼ばれるのはそのため。

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