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渡辺はま子

わたなべはまこ

戦前から戦後の日本の歌謡界で活躍した女性流行歌手。

概要編集

(1910年(明治43年)10月27日 - 1999年(平成11年)。

神奈川県横浜市平沼出身。本名 加藤 濱子


1933年12月にビクターから「海鳴る空」でデビューした。

1936年(昭和11年)、「忘れちゃいやヨ」をレコーディングするもステージでの上演とレコードの発売を禁止する統制指令が下る。タイトルを変更し歌詞の一部分を削除してレコードを発売、大人気を得る。しかし、このヒットによりこの種の曲『ネエ小唄』ブームが起こった。


1937年(昭和12年)4月、コロムビアに移籍。翌年、皮肉にも流行歌の浄化を統制された国民歌謡の「愛国の花」が、渡邊にとっての移籍後のヒット曲第一号となる。この頃から、戦時下の上海など戦地への慰問も積極的に行うようになり、「支那の夜」「広東ブルース」などの大陸を題材にした曲目が徐々に増え、人々からは『チャイナ・メロディーの女王』『チャイナソングのおハマさん』と呼ばれ支持された。


戦後、1947年(昭和22年)に結婚し、歌手活動の傍ら横浜で花屋を営みながら、「雨のオランダ坂」「東京の夜」といったヒット曲を飛ばし続けた。


1950年(昭和25年)、敗戦後初めての日本人の芸能使節団として、小唄勝太郎三味線けい子らと共に、祖父の眠るアメリカ各地を公演。帰国後は、古巣のビクターに移籍し、「火の鳥」「桑港のチャイナ街」などのちに代表曲となるヒット曲を出す。


1952年(昭和27年)、フィリピンの日本人戦犯が作詞作曲した曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」を渡辺がレコード化。日本国政府の厚生省復員局と渡辺の奔走で、モンテンルパ市のニューピリビット刑務所へ慰問コンサートが実現。フィリピン政府当局に減刑、当時のフィリピンの元首であったキリノ大統領に日本人戦犯の釈放を決断さた。


昭和40年代には、東海林太郎らと共に歌手協会の発展に尽力し、1973年(昭和48年)には紫綬褒章を受章。


1981年(昭和56年)、勲四等宝冠章を受章した。

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