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ジョン・レノン

じょんれのん

イギリス・リヴァプール出身のミュージシャン(1940.10.9-1980.12.8)。ビートルズのメンバー。
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概説編集

1940年10月9日生まれ。出生名は、ジョン・ウィンストン・レノン(John Winston Lennon)で、オノ・ヨーコとの結婚後は、ジョン・ウィンストン・オノ・レノン。ミドルネームの「ウィンストン」は当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルにあやかっていた。

1960年代に世界的に人気を博したザ・ビートルズのリーダーで、基本的にはギターヴォーカルを担当した。また、ポール・マッカートニーと作曲のコンビを組み、数々の名曲を世に送り出してきた。

解散後は1971年に渡米してソロ活動を行うが、息子ショーンが誕生した1975年に活動停止し、育児に専念することとなった。

1980年、ヨーコとの共作アルバム『ダブル・ファンタジー』を発表し第一線に復帰するが、同年12月8日にマーク・チャップマンという男に射殺された。享年40歳。


生涯編集

出生からデビュー前編集

ジョンの生い立ちは幸福なものとは云えなかった。アルフレッドは商船の乗組員として不在、ジュリアは他の男性と同棲しており、ジョンは伯母(メアリー・スミス。「ミミおばさん」として知られる。1906-91)夫妻の家庭で育てられた。両親の愛情を知らずに育ったせいか、不良少年でけんか騒ぎを起こす事もあったと言う。また、学校の成績も良くなかったが、これは強度の近視の為であった。

1956年に、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴いて衝撃を受け、ロックンロールに傾倒していくことになる。この頃から、母ジュリアの家に遊びに行くようになったとされている。

1957年に、クオーリー・バンク校で「クオリーメン」というスキッフル(※)バンドを結成、同年7月6日のクオリーメンのコンサートで、友人からこのコンサートを熱心に聴いていた少年を紹介された。この時に紹介された少年こそが、ポール・マッカートニーである。ギターのチューニングが出来たポールを加えたクオリーメンは、翌年ジョージ・ハリスン(グループに彼を紹介したのはポールである)を加え、その後は1960年までメンバーチェンジを繰り返していた。

しかし、1958年7月に母ジュリアが飲酒運転警官が運転する車に轢かれて死亡。この事件はポールも触れる事が出来ないほどのトラウマになった。ちなみに、ポールも1956年に母メアリーを亡くしており、二人の友情を深めることにもなった。

1960年にはバンド名をザ・ビートルズと改名し、ハンブルクで活動した。翌年からリヴァプールのキャヴァーン・クラブで演奏し、人気を獲得する。


※……ブルースやジャズなどに影響を受けた、手作りの楽器(箒の柄を使ったベース)、即席の楽器(洗濯板)などを使う音楽のジャンル。1950年代にイギリスで流行していた。

デビュー後編集

1962年にEMIのオーディションを受け、その後、ビートルズのドラマーだったピート・ベストを解雇し、リンゴ・スターを新たなドラマーに迎えてデビューする。デビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」のヒットを皮切りに、ビートルズはスターダムへと駆け上がっていくこととなる。

ジョンは1962年にシンシア・パウエル(1939-2015)と彼女の妊娠をきっかけに結婚しているが、両親の愛情を知らずに育った彼は、長男ジュリアンに対する接し方が分からずに戸惑っていたと言う。ジュリアンも父に対する良い思い出はあまり無く、ポールの方がよく遊んでくれたという証言をしている。ポールはジュリアンを励ます曲を作ったが、それが珠玉の名曲"Hey Jude"であった。

1966年には「ビートルズはキリストよりも有名になった」という発言をした。この発言はイギリスでは殆ど無視されたが、アメリカでは大問題になり、釈明に追われた。ローマ教皇庁がジョンの発言を赦免したのは2008年になってからである。

同年、リチャード・レスター監督の映画How I Won the War(邦題『ジョン・レノンの僕の戦争』但し、主演はマイケル・クロフォード)に出演した(公開は67年)。レスターはビートルズ主演の映画A Hard Day's NightHelp!を手掛けていた。

この映画への出演をきっかけに、ジョンは公の場でも眼鏡を掛けるようになった。なお、ビートルズ初期には顔が出ないラジオ出演などの場合には黒縁の眼鏡を掛けていた事があり、写真も残っている。

オノ・ヨーコとの出会いと結婚以後編集

1966年の11月のヨーコの個展でジョンとヨーコは出会い、67年には交際を開始していた。68年には同棲を始め、68年11月にジョンはシンシアと離婚。69年3月にヨーコと結婚した。いわゆるW不倫結婚であった。

ジョンとヨーコは結婚後、「ベッド・イン」などの奇抜なスタイルの反戦平和活動を展開していった。このことが影響し、渡米後は1976年に永住権を獲得するまで法廷での闘争を余儀なくされる事になった。

ジョンとヨーコは1968年にTwo VirginsWedding Albumなどの前衛音楽作品を発表し、69年以降はプラスティック・オノ・バンドとして音楽活動を展開する事になった。

ちなみに、ポールも1969年3月、ジョンとヨーコが結婚する数日前にリンダ・イーストマンと結婚している。


ソロ活動編集

ビートルズ在籍中の1968年から、ジョンはソロ活動を開始した。69年にはシングル"Give Peace a Chance"(「平和を我らに」)、"Cold Turkey"を発表した。同年にはライヴも行っている。ビートルズ解散直前の1970年2月ににはシングル"Instant Karma"をリリース。


公にはならなかったものの、1969年には「ビートルズと離婚したい」と脱退の意思を明確に持っていたジョンであったが、実際に解散してしまうと、そのショックは大きかった。1970年に出されたJohn Lennon/Plastic Ono Band (邦題『ジョンの魂』)は「原初療法」なるセラピーを受けた上で制作された。このアルバムにはリンゴ・スターが参加していた。

翌71年6月からアルバムImagineを制作し10月に発表。この年の9月に渡米した。結果として、二度とイギリスの土を踏むことはなかった。

アメリカでは反体制的・左翼的な政治活動を繰り広げたことから、FBIの監視に遭い、表向きは大麻不法所持を理由とした再入国禁止措置を取られ続けていた。このような状況下で、1972年にはヨーコとの共作名義で政治的色彩の強い2枚組のSometime in New York Cityを発表。

1973年11月にはMind Games(当時の邦題『ヌートピア宣言』)を発表した。邦題にもなった「ヌートピア」は1973年4月1日にジョンとヨーコにより建国が宣言され、国民は自らを「ヌートピア国民である」と宣言した者、国旗は白いハンカチ国歌は「ヌートピア国際賛歌(Nutopian International Anthem)」である。「ヌートピア」は領土法律国境を持たない概念上の国家、イマジナリーな国家である。国歌も実際には6秒間の無音状態で、ここでヌートピア国民になりたい者はその意思を表明するのである。

一方で、この頃はヨーコと別居状態(いわゆる「失われた週末」)にあり、ジョンは個人秘書のメイ・パンと生活を共にし、リンゴ・スターやキース・ムーンといった仲間たちと呑み歩いていた。

1974年にはその頃の体験をベースにしたWalls and Bridges(『心の壁、愛の橋』)を発表した。このアルバムの中で、お遊び的な演奏であるが"Ya Ya"で長男ジュリアンと共演している。同年、エルトン・ジョンとの共演をきっかけにヨーコとよりを戻した。

1975年にはカヴァー・アルバムRock'n'Rollを発表し、そのなかから"Stand by Me"(「スタンド・バイ・ミー」)がヒットした。


活動休止~カムバックから死まで編集

1975年10月9日、ジョンの35歳の誕生日にはヨーコとの間にショーン・タロー・オノ・レノンが誕生。EMIとの契約が切れることもあり、これをきっかけにジョンは主夫として育児に専念する事を表明、ミュージシャンとしての活動を休止した。活動休止期間中には、ジョンの死後、ビートルズの「新曲」としてリリースされる"Free as a Bird"や"Real Love"が録音されていた。また、70年代後半にはたびたび来日し、軽井沢の別荘に滞在していた。

ジョンは1980年にバミューダ諸島で新作アルバムの為のレコーディングを開始した。このアルバムは、11月にヨーコとの共作名義でDouble Fantasyとしてリリースされることになる。

81年からは本格的なライヴ活動の再開と、来日公演を含めたワールド・ツアーの構想を持っており、アルバムの先行シングル"(Just Like)Starting Over"がイギリスでナンバーワンを取れば帰国する意向も持っていた。

しかし、1980年12月8日、仕事から帰宅した所を待ち受けていたマーク・チャップマンに拳銃で撃たれた。警官によりパトカーで病院に搬送されたが、全身の8割の血液を失っており、病院で死亡が確認された。

チャップマンの言動には不可解な部分が多く、ジョンの反戦活動を嫌ったCIAによる暗殺説などが実しやかに囁かれたが、結局チャップマンの単独犯行であると結論付けられた。


ジョンの死後の83年には、未発表曲を用いたアルバムMilk and Honeyがリリースされた。

それ以降も未発表音源のリリースが度々行われている。


ジョンの二人の息子、ジュリアンとショーンはどちらもミュージシャンとして活動しており、彼らの仲は良いと言う。また、ジョンの最初の妻シンシアは2015年4月に癌のため、ジョンとの息子であるジュリアンに看取られ75歳で死去した。


ポール・マッカートニーとの関係編集

1970年代初頭は、ポールの"Some People Never Know"やジョンの"How Do You Sleep?"(こちらにはジョージ・ハリスンも参加)など、互いの楽曲で中傷合戦を繰り広げていた。しかし、ビートルズにまつわる数々の問題が決着しつつあった70年代半ばには親交を取り戻しており、ポールと他のミュージシャンを交えてジャム・セッションをしたこともあった。

さらには、ジョンの自宅でポールと二人でテレビを見ていたところ「ビートルズはギャラをいくら出せば再結成するか」というネタが出たのを見て、二人でスタジオに乗り込もうとしたこともあるという。

ポールとの確執については、ジョンは「兄弟喧嘩のようなもの」だとしており、「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ、他の奴が言うのは許さない」と発言したとも伝わっている。

また、ジョンはの直前に「人生で2回素晴しい選択をした、ヨーコとポールだ」とインタビューで述べている。

ジョンとポールは、ソロ活動においても自身のを重要なパートナーとして位置づけ、音楽活動を展開したところも共通していた。

ジョン・レノン・ミュージアム編集

ジョン・レノンの生誕60周年の日である2000年10月9日に、さいたま市のさいたまスーパーアリーナの4階・5階部分の一角に開館したジョン・レノンに関する初の常設博物館である。オノ・ヨーコの全面協力の下、ジョンが実際に使っていたギターやそのレプリカ、直筆の歌詞カード、愛用していた眼鏡、カタカナで「ジョン レノン」と打刻されたクレジットカードなどの私物が展示されていた。

「人生は後戻りできない」という意味も込めて、4階と5階は上りだけのエスカレーターで移動し、出口以外では5階から4階には戻れない構造になっていた。同様に、出口では5階から4階に下り専用のエスカレーターで移動し、5階には戻ることができなかった(但し、バリアフリーの観点から、館内にはエレベーターが設置されている)。

なお、ミュージアムは2010年9月末を以て閉館した。

代表曲編集

ビートルズ時代編集

  • I Want to Hold Your Hand(1963)
  • A Hard Day's Night(1964)
  • Help!(1965)
  • Strawberry Fields Forever(1967)
  • All You Need Is Love(1967)
  • Across the Universe(1968/1970)
  • Come Together(1969)

ソロ時代編集

  • Give Peace a Chance(1969) 実は当初、作曲クレジットは「レノン=マッカートニー」名義だった。
  • Working Class Hero(1970) 邦題「労働階級の英雄」。ただし、ジョン・レノン自身はミドルクラスの出身である。
  • Imagine(1971) 説明不要の代表曲。イギリスではシングル・カットされたのは1975年になってからである。
  • Mind Games(1973)
  • Whatever Gets You thru the Night(1974) エルトン・ジョンとの共演。初めての全米1位。
  • #9 Dreams(1974) 邦題「夢の夢」。「9」はジョンにとってのラッキーナンバーであったが、この曲が全米9位を獲得し、ジョンは喜んだという逸話がある。
  • (Just Like) Starting Over(1980)最後の全米1位。
  • Woman(1980)

使用楽器編集

  • Rickenbacker325 ジョンの初期のトレードマークでもあった。12弦のモデルを含めて4本所有していたが、1本はリンゴに譲った。
  • Gibson J160-E ビートルズ時代のメイン・ギターの一つ。アコースティック・ギターとしても、エレクトリック・ギター(搭載されていたピックアップがエレキ用だった為)としても使用された。2台購入しており、1台目はいつの間にかジョージ・ハリスンのものと入れ違っていた。元々ジョージが所有していたモデルについては1963年末以降長らく行方不明になっていた。破損していた、という説もあったが、60年代後半にアメリカ在住の男性が中古楽器屋にて安値で購入し、長らく保管されていたことが2015年に発覚した。このギターは同年11月にオークションに掛けられ、241万ドル(当時の日本円に換算して約3億円)で落札された。なお、ギターを保管していた男性は、これがレノンの楽器であったことを知らなかったという。
  • Epiphone Casino ビートルズ後期のメイン・ギター。
  • Gibsonレスポール・ジュニア ソロ活動において使用された。

 上記のギブソン、エピフォン社製の3本については共通してP-90というピックアップが搭載されており、ジョンのギターサウンドにおける好みが窺える。

  • Honer Blues Harp ハーモニカ。ブルースハープとは、元々はホーナー社の十穴ハーモニカの機種名である。"Please Please Me"や"Thank You Girl"など、特に初期の曲でジョンはしばしばハーモニカを演奏している。

関連項目編集

ビートルズ ポール・マッカートニー ジョージ・ハリスン リンゴ・スター

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