旧約聖書とは、ユダヤ教の聖典である。キリスト教やイスラム教でも重視される。
※ただし、この「旧約聖書」という呼び方はキリスト教の視点から見た呼び方であり、「旧約聖書がユダヤ教の聖典である」という表現も厳密には正しくない。後述
元々はヘブライ語で記されたユダヤ教の聖典である。内容としては、神が世界をどのように創造したかという創世神話や、世界創造後に神が世界にどのような干渉を行ったかと言う神話・伝承、ヘブライ人指導者モーセが神との契約に成功したエピソード、その神と契約し守ることになった律法の条文、ヘブライ人が神の影響を受けてどのような運命をたどったかという歴史物語、などを含んでいる。
ユダヤ教をルーツとして発生した宗教であるキリスト教やイスラム教も旧約聖書を重視する。ただしそれぞれの宗教において最も重んじるのは開祖であるイエスやムハンマドが伝えた新約聖書やクルアーンであるため、それらの宗教においては相対的に旧約聖書の重要性はそれらの書よりも低くなる。
いずれにせよユダヤ教はもちろんのこと、キリスト教の各宗派、イスラム教においても重要視される書物である。
旧約聖書は、一人の人間によって著された本ではなく、段階的に追加されていったものである。また、年代が古いものから順番に書かれたわけでもないため(例えば、創世記第1章「天地創造」は最も古い歴史だが、書かれた年代はむしろ新しい部類の箇所である)、成立年代をはっきりと確定することは不可能に近い。現在でも聖書学による研究が続けられている。
ただ、どの部分がいつ頃成立したか、という大まかな年代は判明している。詳しくは旧約聖書成立史表(外部リンク)を参照していただきたいが、最も古いものは紀元前10世紀頃、新しいものは紀元前2世紀頃に成立している。
「旧約」聖書という名称は「旧い契約」という意味で、モーセによる神との契約を表現している。「旧い」というのは、キリスト教徒は新約聖書に記載された内容のとおり、イエス・キリストによって神と「新」たな契「約」が為されたと考えるためである。つまり「旧約聖書」とはキリスト教徒の立場からの名称である。
イエスがメシアであるとは認めないユダヤ教徒たち自身の立場からは、イエスによる神との新たな契約自体存在しない以上、モーセの契約はそもそも旧くなっていない。よって旧約聖書とは呼ばず、旧約聖書に当たる彼らの聖典のことを(文書の三分類の頭文字を取って)タナハと呼ぶ。
ちなみに旧約聖書は別々に書かれた複数の文書をまとめたものであるが、どの文書までを収録するかの選択は宗教や教派によって異なっている。聖書に収録されている文書は正典と呼び、外された文書は外典と呼ぶ。さらに内容が不確かで疑わしいと認定された文書は偽典と呼ばれる。ただし何を正典とするかや、外典と偽典の区別も教派によって異なる。さらに、タナハと旧約聖書の収録内容にも若干の差がある。よってタナハ=旧約聖書とするような、例えば「旧約聖書はユダヤ教の聖典である」とか「旧約聖書の別名がタナハである」という表現は、実は厳密には正しくない。
「旧約聖書とは、ユダヤ教の聖典タナハを『基にした』キリスト教の聖典である」という表現が正確である。
しかし現在では信徒の数においてユダヤ教よりもキリスト教が格段に多く、そもそもユダヤ教は非信徒への布教・宣教を活発には行っていないため、広く聖書を配布しているのはキリスト教徒のみである。よって多くの人が目にすることができるのは、タナハではなく旧約聖書の方のみである。その結果、ユダヤ教の聖典について語る場合でも、タナハとは呼ばずに旧約聖書と呼ばれてしまう場合が多い。
キリスト教においては、基本的に「新約聖書に書かれている出来事は、すべて旧約聖書の預言に基づくものである」という態度をとっている。
これについては、新約聖書の「マタイによる福音書」2:22における「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」という記述からもうかがい知ることができる。この対応付けのことをタイポロジーと呼ぶ。イエス・キリストの誕生から復活までのすべてを、旧約聖書における預言が成就されたと読むのだ。
たとえばマリアの処女懐胎は、旧約「イザヤ書」における預言者イザヤの「見よ、乙女が身ごもっている。そして男の子を産み……」から引かれたものである。ほかにもマタイによる福音書では、東方の三博士(MAGI)の礼拝などの事柄も、旧約聖書における預言の成就として見なしている。
ただ、キリスト教においては、マタイはもちろん、イエスやほかの弟子たちも、ギリシア語を使うユダヤ人であったことを見逃してはならない。先に書いてあるように、旧約聖書はあくまでもヘブライ語で記された書物である。紀元前三世紀頃にギリシア語に翻訳され、彼らはギリシア語訳聖書を使用していた。従ってギリシア文化——とりわけヘレニズム的な伝統——を強く受けていることを指摘せねばならない。
たとえば、マリアの処女懐胎は、イザヤ書原典では「アルマー」(乙女)とされているが、ギリシア語旧約聖書では「パルテノス」(処女)として翻訳されている。ユダヤ教の文化では必ずしも処女崇拝は存在しなかった。つまり「アルマー」は必ずしも処女を意味しない。一方、ギリシアのヘレニズム文化においては、処女性に重きを置いていたので、はっきりと処女であることが確認された。
このように、キリスト教にとっては、旧約聖書はイエス・キリストが救い主として登場することを預言した書として扱われる一方で、誤解されて解釈されている部分も多々ある。それは意図的なものであるかもしれないし、あるいは意識していなかった部分もあるかもしれない。
新約聖書を注意深く読むと、旧約聖書の面影がうっすらと見えることがわかるだろう。そして、旧約聖書をどのように解釈してきたかが、キリスト教に大きな影響を与えているのだ。
前述の通り、旧約聖書はヘブライ語で書かれた経典である。そして、旧約聖書では、神の名は神聖なる四文字(テトラグラマトン)によって記されていたのだが、現在ではその発音が消失してしまったという経緯がある。詳しくは、「神」の記事の「旧約聖書の中の神」の項や「YHVH」の記事参照。
旧約聖書の内容を紹介してください。
以下で全文が読める。
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最終更新:2025/03/11(火) 19:00
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