この春から最寄りの駅まで自転車を使って通勤している。バス代の節約と健康のために。朝7時半ちょうどに赤いママチャリにまたがる生活。朝の空気が体の外側を流れていく感覚は思いのほか、心地よいものだ。女の子の横を過ぎるときにはストールする寸前まで徐行。二人乗りのアベックのうしろに貼り付いてスリップストリーム。あぁ朝がこんなに楽しいなんて。
先々週だろうか。奴が現れたのは。僕の娯楽を侵略する悪い奴。白いママチャリを駈るオッサン。推定五十才。圧倒的なスピードで僕をぶっちぎっていく。抜いた瞬間にジリジリっと錆びたベルを鳴らす。最初は気にしなかったのだけれど、毎朝、追い抜かれていたら世界中のどんな平和主義者だって自転車に油をさすだろう?
奴のスピードの秘密は独特のフォルムと地の利にある。フォルム。奴は前頭部が禿げている。毛髪は後頭部に縞模様を描く程度に遺すだけ。空気抵抗は限りなく少ない。地の利。奴は丘の住宅地に住んでいる。メインストリートまでは緩やかな傾斜がある。奴はそこで加速をつけて僕の背後に現れる。二つの決定的なアドバンテージ。
今週から僕は思い切り加速して充分なスピードを得てから奴が現れる地点に出ていってる。可愛い女性が居ても全て無視。悲しいけどこれ戦争なのよね。オッサン同士のプライドをかけた戦争だ。そして今朝、奴は現れた。僕の背後に。エンゲージ。
僕は前回の三倍のスピードを得ている。奴は戸惑っているはずだ。前回とは違う、と。それでも奴は近づいてきた。間隔が狭まってくるのがわかる。ジリジリ。あの錆びたベルの音。僕にプレッシャーをかけている?運動不足の足に力を込める。
それでも奴は距離を詰めてきた。八百屋の前でピタリと後ろに付き、薬屋の横で僕に並ぶ。奴の後頭部の髪は競争馬のたてがみのように後方へと流れ飛んでいた。奴はまだ足を残しているのか?ケーキ屋の角を右へターン。僕がイン。オッサン二人は華麗なアウトインアウトの二重線を完璧に描く。
残りは直線。ゴールは駐輪場。その手前にはバスストップ。バスを待つ夏服に衣替えをした女子高生たちが並ぶ。将来僕と恋に落ちる可能性が僅かにでもあるハイティーンガールの前で負けたくない。もっと。もっと、スピードを。骨格が肉体からぶっ飛んでしまうくらいのパワーを。
汗が、涎が、フケが白く輝く粒子となって通り過ぎたあとに撒き散らされた。融けた整髪料の香りが、加齢臭が、腋臭が、混然一体となり甘酸っぱいスメルとなって痕跡に残留した。声にならない声があがる。プリミティブな呻き。ふん。ヌハッ。オェ。でっ。
僕と奴の脇をカッコいい自転車に乗った若者たちが音楽を聴きながら悠然と追い抜いていく。消えろ。これは僕と奴の決闘だ。どうせ軟弱なラブソングでも聴いているのだろう。君らはスマート過ぎる。ロックじゃない。たとえば、そのシャーッていうクールな通過音。ビートが、ソウルが、感じられないんだよ。僕は、俺は、俺たちはロックンレーサーだ。ツッツチャツツッツチャツ。赤と白。二台のママチャリがエイトビートを刻みながら朝の街を突進する。
ゴール前。女子高生が並んでいるのが見える。二つの塊は並んで女子高生の列の前を通過した。そのときだ。二人の戦士の熱は上昇気流を産んだ。浜風と一体となって突風となった。突風は女子高生たちの短いスカートをまくりあげた。レースを祝うようにパンチラが舞った。白く、鳩のように。奴はパンチラに負けた。減速して僕の横から消えた。勝敗は決した。ガンダーラ十六僧一人目撃破。
僕にはわからない。奴が減速した理由が。闘いを放棄した理由が。お前は僕と同じ世界をみていたのではなかったのか?駐輪場までの単独飛行のあいだ、僕の心を占めたのは勝利の歓喜ではなく寂しさだった。そして僕はまた、一人の無名のサラリーマンとして電車に飲み込まれ、その汗臭さで隣り合わせた女性に嫌な顔をされた。彼女は、僕らの戦いを知らない。愛をめぐる誇り高き戦いを。始業時間、午前9時、Don't be late.