ガラスの花と壊す世界感想


今日はガラスの花と壊す世界を見てきました。


この作品は、ポニーキャニオン主催のアニメ化大賞というコンテストでトップに輝いた企画を、A-1 Picturesが翻案してアニメ化したものです。そういう経緯もあって個人的に期待も大きかったのですが、いざ見てみると非常に期待外れでした。自分がこれまで見てきたアニメ映画の中でもここまで退屈なフィルムは無かったんじゃないかというくらい。企画のアニメ化に際しては従来の原作モノよりも自由だったとのことなので、完全にアニメ化スタッフの技量の問題でしょうね。
具体的に言えば、映像表現としての工夫に乏しい、という点に尽きます。設定・物語から推察される元々の企画の意図に対して表現が追いついておらず、企画の魅力を映像的に表現しきることができていません。少なくとも、話の要所要所が映像的表現によってではなく説明セリフによって進行するのはもうちょっと何とかならなかったのかと思わずにはいられませんし、そもそもSF的表現の引き出しが少なすぎるんじゃないかと思います。せっかくの企画が、アニメ化スタッフの力量の不足によって凡作になってしまっている感じ。1800円払って見る価値は無かったとつくづく思いました。


以下、ネタバレあり。




本題に入る前に、この作品が前提としているであろう、コンピュータサイエンスの昨今の潮流について触れておきます。機械学習と総称されるものですね。
従来のプログラムは、解くべき問題に対し、人間が解法の仮説を立てて、その解法をコーディングすることによって作られる、いわば仮説ベースのプログラムでした。こういったプログラムが実際にうまく問題を解決できるかどうかは(コーディング技術の良し悪しを別とすれば)仮説の正しさに大きく依存してしまいます。仮説がそもそも間違っていれば、その仮説に基づくプログラムが問題を正しく解決できるわけないですからね。したがって、プログラムを作る前に(あるいは作りながら)試行錯誤を繰り返して正しそうな仮説に辿り着く必要があり、問題の複雑さ次第ではその試行錯誤に多くの労力が費やされ、場合によっては有力な仮説が立てられないようなことさえしばしばありました。
そこで、正しい仮説を探す試行錯誤の段階からまるまる計算機に任せることでこれを克服しようというのが、機械学習のアプローチです。人間は解法そのものの仮説を立てるのではなく、問題に対する適切な試行錯誤の仕方=有力な仮説の探し方をコーディングしてプログラムにします。少量のサンプルデータを入力としてこのプログラムを実行すれば、コーディングされた試行錯誤の仕方に則り、うまくいかなかった仮説は捨ててうまくいった仮説だけを残していく過程(サンプルデータに基づく学習)を繰り返していき、最終的に(そのサンプルデータについての)最も有力な仮説が得られます。そしたらその仮説を大量の本番データに適用してやれば、それはすなわち解くべき問題を最も有力そうな仮説で解くことと同じになります。これは学習ベースのプログラムと言えるでしょう。
もちろん、試行錯誤の仕方として適切な学習モデルを選べるかどうか、またサンプルデータとして適切な小集団を選べるかどうか、という難しさがあって、特に応用分野ではそこが焦点になることが多いのですが、そこがうまくクリアされれば、試行錯誤の回数は計算機の圧倒的な速度で稼げてしまうので、なまじ人間が仮説を探すよりも早く、かつ正しく、問題の解法を見つけてくることが期待できます。
それゆえ、計算機の能力が人間を超える日=シンギュラリティが今後30年以内に訪れるのではないかとまことしやかに語られるようになり、それが人類の滅亡につながるのではないかとする終末論なども唱えられるようになってきています。


本作に登場するマザーも、そういう話題を踏まえた設定でしょう。すなわち、人類が自らの問題解決を計算機に丸投げした結果、計算機に芽生えた知性によって人類が滅ぼされる、という。これ自体はSFにはありふれた設定ですが、マザーが世界データの中から綺麗なものだけ集めようとしたという描写が、前述の「うまくいかなかった仮説は捨ててうまくいった仮説だけを残していく」機械学習の特性と符合することなども考えると、これは学習ベースのプログラムとして意識的に描いているように思われます。
その一方で、マザーと対置されるデュアルとドロシーは、セキュリティソフトウェアという、仮説ベースのプログラムであるとして描かれています。マザーが2人のヒューリスティックエンジンを人間性の残滓として危険視していた、という描写があることから、これも意識的にそのような描き方になっていることが伺えます。
そして物語は、両者の対決という形では終わっていません。リモとの交流を通じて最終的に2人が人間性を獲得した、という経緯を読解すれば、仮説ベースのプログラムと学習ベースのプログラムが相補的に働くことによってはじめて人間性が立ち現れてくる、ということを示唆していると考えられます。


終末後の世界になお残る人間ならざる存在が人間性を継承していく、という世界観はやはりSFにはありふれていますが、そこに、仮説ベースのプログラムvs学習ベースのプログラムという現在のコンピュータサイエンスのトピックを導入し、またそれらの対立ではなく協調によって人間性が継承されるとする描き方に、この作品の提示する新しい視点とユニークな魅力があります。
そしてこういうSF的に面白い話を、3人の少女たちの交流という形式に擬態することで、作品を重層的な形で描き出そう、というのがこの企画のそもそもの意図だったのではないか、と推察されます。


私が問題だと思うのは、そういう企画の素晴らしさがありながら、その映像表現としての出来が悪いことです。


まず骨子として「人間ならざるものが人間性を獲得していく」話なのだから、キャラクターの見た目を最初から生身の人間っぽくしすぎてはいけないはずでしょ。プログラム間のやりとりを少女たちの交流に擬態するという意図があるにせよ、だからといってまんま人間の少女と変わりなく描いてしまったら「人間ならざるものが人間性を獲得する」という骨子が希薄化してしまう。そのジレンマの中できちんと考え抜いて妥協点を探ったという映像的な工夫が見られないんですよ。
電脳空間を描写したアニメっていうといろいろ先例があるけど、物理法則に縛られてる感じを出さない、っていうのが割と共通してて大事なんじゃないかと。この作品でも申し訳程度にデュアルとドロシーが上下さかさまに立つ場面とかもあるけど、蓮の花の形をした“機械に乗って”空中を“飛ぶ”のがもうダメじゃん、電脳空間なのに物理法則が働いているかのような描写になっちゃってるわけでさ。今日び、ラノベ原作の異能力バトルアニメでもそんなレトロな描写せず、空中移動するにしても例えば足元に蓮の花のような光輪を描くだけにして不思議な原理で飛んでる感じに演出するでしょ。防御にはバリアを随時展開できるんだったら武器だって杖とかじゃなく何もない空間から直接ビームが出たりファンネルみたいなのを召還・具現化するとか何でしないの?
こんなふうに2人の見た目の描き方があまりにも生身の人間っぽいというか物質的・実体的すぎることが「最初は人間味を持ちあわせていませんでした」ということの説得力を著しく損なっていて、物語が映像とが遊離してしまっているように感じます。


ありがちな表現としてはキャラの輪郭線を実線じゃなく光線で描くみたいなのがあるよね。例えば、冒頭、スミレの友達として(世界データ内の登場人物として)振る舞っているときは実線だけど、プログラムとしての本性を現すと光線っぽくなって、リモとの交流を続けているうちに(世界データ外でも)だんだんと実線度が増していく、とすると、2人が徐々に人間味を増していく展開と呼応しているように見えるはず。でも設定上は実はマザーの更新ファイルのせいでそういう見た目の変化が起きていて、クライマックスで2人がバックデートしたらこれまでで一番明るい光線になり、リモに最終アップデートを受けて完全な実線になる、という展開にすれば、物語の起伏に追随した映像表現になったんじゃないかなあ?
“家”の発展にしても、電脳空間なればこその全く生活感のない空間をもっときちんと提示したうえで、世界データから持ってきた生活感あふれるモノがだんだんとその内部に増えていき、また世界データ内の文化を模した増築がなされていく、という過程をもう少し丁寧に描くべきだった。実際の映画ではいつの間にか台所が整備されており、またカットが切り替わるごとに異なる様子の建物で3人が過ごしているという見せ方だったので、家が発展してるのではなく、どこかの世界データ内で過ごしているのか、家を都度作り変えてるのか、ともかく誤解しやすい。もっとベタに、光の粒子を集めて内装が増える・増築されるみたいな描写をして、同一の建物がどんどん変貌し、無味乾燥なデータ的空間から血肉の通った人間の文化に近づいていくという様子を明確にすべき。


そういう、SF設定を映像表現として納得させる技術力の足りなさを説明セリフで補っちゃってるわけですよ。「この1つ1つがデータで〜」なんて言わせずに、データ解凍によってビックバン的に世界が生まれる様子を美しくわかりやすく描けば視聴者にはそれでわかるじゃないですか。見たこともないようなダイナミックな映像美でアピールできるのがSFアニメの強みの1つなのに、それが活きるはずのシーンを捨てて説明セリフや字幕にしちゃってるんだよね。じゃあこういうSF作品をアニメ映画というフォーマットでやる意味あんの?ラノベサウンドノベルやCDドラマでよくない?
人類・マザー・箱の真相にしても(その後にもう一段階重要な真相=スミレの正体の話が控えているとはいえ)リモにベラベラ喋らせるってのも芸が無さすぎるよね。リモに少し語り出させ→すぐにカットを変えて当時の様子の回想シーン(ニュース映像仕立てとか色々な見せ方を長めに切り貼り)を通じて人類がマザーの危険性に気付いて消去するまでの顛末を描写→カット切り替わりデュアル「あなたは誰なの?」で現在の会話に戻す、とか、できるかぎり映像を通じて話を進めるようにしましょうよ。


まあ表現力が全く稚拙というわけでもなくて、様々な世界を巡るところのカットとか、終盤のスミレとデュアルの回想・スミレとリモーネの回想とかは、綺麗な見せ方だな〜とは思うんですよ。でもだからこそSF表現の稚拙さとのアンバランスさがよりいっそう際立ってしまっていて、現代劇での表現技術しか磨いてこなかった人たちなのかなという疑念が生まれる。上掲リンク先のインタビューではアニメ業界内にオリジナリティのある人がいないみたいなことを言ってるけど、まさに自分たちこそが、今まで作ってきたのと毛色の違う作品を任された途端に馬脚を露す、オリジナリティの無い人間であると証明してしまっていませんかね・・・。


最初に述べたSF企画としての面白さには光るものがあるし、3人の少女の交流という視点ではいわゆる泣ける話だし、素材としては悪くないはずなんだけど、それらをアニメ映画の形に落とし込む料理の仕方のマズさゆえにそれらを素直に楽しめなかった、というあたりが総評でしょうか。なんとなくボーッと見るぶんなら耐えられても、チケット買ってまで見るにはかなりツラいなあと感じました。


興行収入がどんなもんかは知りませんけど、このアニメ化の結果を受けて第2回以降のアニメ化大賞が開催されなくなったりすると残念ですね。企画自体はそこまで悪くなかったであろうだけに。