日陰者の最低限の権利

何かと言うと「覚悟が足りない」「覚悟が足りない」って黄色い声張り上げる表現者がいる件。


どのような表現が高尚で、どのような表現が卑賤か、ということについては絶対の基準など無く、各個人が自分の価値観に従い主観で決めることです。それら各個人の評価の総体として、多くの人々から賞賛される表現と後ろ指さされる表現の区別が生まれます。昨今の社会情勢に照らしてもエロゲは後者に該当するものだと思うし、したがって父親に殴られたり母親に泣かれたりご近所様の顰蹙を買うということもあるでしょう。しかしエロゲに対するそういった反発というのは、それらの人々が彼ら自身の価値観に立脚し彼ら自身の権利と責任の範囲でそのように反発しているということを忘れてはなりません。あくまでも個人vs個人の間で起きていることです。
それと比べて、表現に対する法規制はどうであるかというと、これは国vs個人です。すなわち、国家権力による収監と焚書の脅威に個人がさらされるということです。


この違いは明らかです。個人vs個人であるなら、周囲から嫌われながらでも、日陰者として生きていくことはまだ可能でしょう。しかし国vs個人で生き残るということは逃亡犯として生き延びるということであり、人生を決定的に損なう危険と隣り合わせの抑圧を受け続けながら生きていかなければならないということです。


つまり、「地下に潜るべき」だから「官憲には徹底した弾圧を望む」との主張は、「命がけでやれ」と言ってるのと同じです(実際そのような文言も散見されますし)。


「好きなもののために命をかける」というのは、自分自身に課す信条としてならばわかりますが、他人にそれを求めるのは間違いです。そう求めている本人は「自分は命かけてるんだから」とか「自分がそういう立場に置かれたとしたら命をかけるから」とか思ってるのかもしれませんけど、それって自分の好きなものが今たまたま“安全圏”にあるからその脅威にさらされてなくてラッキーってだけのことでしょ。そのことに無自覚ゆえ「自分は好きなものに命をかけてる・かけられる」と錯覚し自己陶酔してるだけなのに、他人に向かって「お前も命をかけるべき」と言うのは浅はかなのではないですか。*1


表現の自由ってのは、一個人という弱い存在が、国家権力相手にそういう命のかけ方をしなくても済むようにするための発明なんです。国家は表現に対して軽々しく手出ししてはいけない、これは人類が歴史の中で学んできた大事な教訓です。*2


人々から後ろ指さされるような表現を楽しもうとするかぎり、周囲の人から好ましく思われないというのはそのとおりでしょう。しかし、表現の自由があるおかげで、命まで脅かされることはありません。元エントリでは「堂々と日向で」か「命がけの日陰ぐらし」かの二元論しか頭に無いようですが、表現の自由が可能にしているのは「命をかけない日陰ぐらし」です。その意味では、表現の自由は錦の御旗でもなんでもなく、国家権力という獣を檻に繋いでおく鎖であって、それが擦り切れたら日陰者たちは食い殺されてしまう*3、そういう性質のものなんです。


だから今回のような騒動が起きて無根拠な規制推進が叫ばれるたび、表現の自由を主張してそれらに反対するということは、表現の自由の本義からすれば正しいことなんです。
もし、表現の自由が毎度のように主張されていることをうるさく感じているのだとすれば、それはむしろ、表現の自由という民主主義の根幹に抵触するような規制を毎度のように求めてくる規制推進派がおかしいということです。


まあ、弾圧を支持するような主張を述べる権利も表現の自由によって守られているところではあるので、それこそ何を主張しようと自由ですけども。しかしそのような主張を小説家が口にするというのは、民衆が民主主義選挙によって独裁者を選出しようとするのに似た恐ろしさを感じます。

*1:私個人としては、当該ゲームの内容は全くもって好ましくないと思うところ。しかしこれに規制を求める根拠が「女性への差別を強化・助長するから;ただし科学的裏付けは無い」などという薄弱なものであるなら、そのような規制を認めるわけにはいきません。単にどこに線を引くかだけの問題であって、私自身が好ましいと感じる表現も、あるいはより多くの人々にとって普通に享受されているような表現も、そのような曖昧な根拠で同様に攻撃されうるからです。

*2:よく引き合いに出されますが、ニーメラー牧師の言葉はやはり重いと思います。ref. wikipedia:彼らが最初共産主義者を攻撃したとき

*3:あるいは暴走した国家権力は日陰者に限らず多くの民衆を貪り食い散らかしたりする、という実例を我々は少なからず知っています。