ガンダム00感想
よく言われる批判としては
- キャラが多すぎてキャラ個別の事情の描写が雑になっている。
- 物語の都合を優先して戦闘の推移を描いてるためMS間の強弱関係に一貫性が無い。
- GN粒子が万能すぎる。
などなどがありますね。そしてそれらどれもが二期に入り話が進むにつれてどんどん酷くなっていったとも。
自分としてはこれらの批判はそのままそのとおりだと同意するところですが、それに加えて、水島監督がこの作品に込めようとしていたメッセージそのものにも賛同しかねます。
水島監督は最近のインタビューの中で次のように述べています。
相手に対する恐怖があるから、「この人より優位に立たなければ」と思ったりする。優位に立っていれば少なくとも害はなくなると考えるから。相手より優位に立とうとするから、対立して争いになる。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090204/184979/
(略)
人間関係でも国家間でも、あらゆる対立が同じ理屈で起きていると思います。
(略)
この「相手のことがわからない不安」が、コミュニケーションの一番の障害なのかなと僕は思ったんです。
これが、僕が今すごく気になっているテーマなので、「ダブルオー」にも盛り込みました。最初の企画会議のときに、「コミュニケーションが成立しないことが原因で戦争が終わらない」という設定はどうだろう、と提案したんですね。
登場人物それぞれが、互いに全く違う価値観を持った国で生まれ育ち、価値観が違うために思いの行き違いや対立が起こる、という物語はどうだろうと。
価値観の相違・無理解から来る他者への疑念が対立を生み争いを生む、というのは他の多くの作品でも語られてきたことですし、その理路自体は間違っていないと思います。
そして、ガンダム00の物語の中においては、その解決の道筋は、ツインドライブどいうギミックを介して何度も繰り返し描かれていたように、「相互理解」であると示そうとしていたように思います。確かに、お互いを理解できないことが疑念を呼び結果的に争いを生むのであれば、お互いに理解し合えればいい、というのは真正直な解と言えます。しかしそれは現実的な解でしょうか?
―― そういう人たちが増えれば、「こんなやつと手を繋ぎたくないよ」ということはなくなるでしょうか。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090225/187310/
なくならないんじゃないですかね(笑)。
―― なくならない?
それはだって、言っている僕自身が常に、「自分がそうなればいいのになぁ」と言いながら、ならないですからね。
監督自身が認めるとおり、個人ですら、周囲の人間との相互理解は困難です。
このことについてひぐらしと空の境界の対比を用いて語っていた人がいて感心したのですが、現実的には我々は様々なレイヤーでのディスコミュニケーションを抱えて生きているわけです。情報の伝達は完璧ではなく様々な齟齬を生じ得て、時間をかけて交流しなければその真意は伝わらず、真意が伝わりあったうえでなお最終的には決別・断絶しうる、そういう関係性の中で生きています。そんな世界の中にあって、相互理解が争いの最終解決になると信じるのはちょっと夢見がちなのではないでしょうか。
相互理解によって争わずに済むと信じてはいるが、実際に相互理解は困難であるがゆえに、相互理解は進まず、争いもなくならない。改めて言葉にするまでもなく当たり前のことで、ガンダム00の中における相互理解のほとんどもツインドライブというご都合主義製造機があってはじめて実現しているものばかりです。この物語を素直に受け取るなら、ツインドライブのような超技術が生まれてこないかぎり相互理解は訪れず、人類が争いをやめることもない、ということになるでしょう。現に、ダブルオーガンダムを失ったソレスタルビーイングは、人々が争わないための抑止力として振舞うしかない、という振り出しに戻っています。
そもそも「相互理解によって争わずに済む」という考え方は、「理解できない相手は排斥する」という意識の裏返しでしかありません*1。ひとたび「理解しあえた」と思っても、時間が経つにつれ再び「理解できない」と思ってしまったら、また争いの日々に逆戻りです。これは単に、「相手が何を考えているかわからない」という疑念による神経症が、「相手と理解しあい続けなければならない」という強迫観念による神経症へシフトしているだけで、実質的には何も前進していないように見えます。
非常に遠回りな論になってしまいましたが、つまり「相互理解の欠如ゆえに争いになるなら相互理解すればいいじゃない」ってのはぜんぜん現実的じゃないってことです。「相互理解できねーから困ってるんだろーが」っていう。
それでは何がこの状況を打開できるのか、というと、それはたぶん「寛容」なのではないかと思います。「お前のことは全く理解できないし理解したいとも思わないけど、今のところ実害は無いから居てもいいよ」という寛容さです。
争いを避けることが目的なら、互いを理解することは十分条件であって必要条件ではありません。理解できない相手とも争いを起こさないよう心がけること、もっと言うなら、理解できない相手に対する疑念は単なる疑心暗鬼に過ぎないと自覚し、その疑念を自分の行動の(特に攻撃行動の)動機にしないよう自戒すること、それだけで争いは避けることができます*2。
これを非現実的だと思いますか?しかし実際に我々は、互いにほとんど何も知らないままでも同じ電車に乗り合わせることができますし、同じ教室で授業を受けることができますし、同じ職場で仕事をすることができます。確かに痴漢だのイジメだのパワハラだのという実害を及ぼす輩は正してやる必要がありますが、互いに実害を及ぼさないかぎり、我々は相互理解など無くても共生していくことができるのです*3。
我々は常日頃からそういうことができているのに、それでも争いが絶えなかったりする。それは(単に利害の問題・パイの奪い合いというどうしても避け得ない生存競争的なものもあるのですが、それ抜きだと、)自分の寛容さの範囲を無自覚なうちに狭めてしまっているせいです。日本人どうしなら相手のことがほとんど理解できてなくても同席できるけど、相手が外国人だったりするとソワソワしたりしてしまう。日本人ならいつも周りにいるから寛容でいられるけど、そうでない外国人に対しては寛容よりも疑念が勝ってしまう。誰にでも分け隔てなく寛容であるためにはやはり難しさがあるんですね。
その難しさを克服するもののヒントは、マクロスの物語にあるように思います*4。
前述の電車・教室・職場の例と同様に、互いにほとんど何も知らないままでも、同じライブ会場に集まった者どうし、同じ歌を聴いて熱狂することができる。そこに集まった聴衆は本当に生い立ちから思想から宗教から何から何まで違うけれども、同じ歌を素晴らしいと思える、ただその一点だけで、互いに対する疑念は弱まり、互いに寛容であろうという態度を持てるのではないでしょうか。
それをバカでかい規模で描いているのがマクロスの物語なのだと思います。もともとは異なるルーツを持つ者(異星人)どうしでも、同じモノに興じ熱狂することで、互いへの疑念を払拭できるのではないかという希望。「戦争なんてくだらねぇ!俺の歌を聞けーっ!!」という熱気バサラのセリフは、そういった歌の働きというものを改めて見つめ直せば、「みんな等しく1つの歌を素晴らしいと思えるんなら、互いに疑念を抱えて争う必要なんて無いだろ」という意味が込められているように感じられます。
色々と脱線してしまいましたが、つまるところ、キャラ別の話の消化の仕方だとかいう技術的な部分以前に、ガンダム00は(少なくともリアルな戦争がどうとか宣伝してる作品な割には)元々のメッセージ性からして幼稚だったな、という感想でした*5。
*1:それを踏まえた上で、こういった言説を方便として故意に発し利用することは、戦略としてはありえます。マイノリティはマジョリティを指して「相互理解の努力に欠けている」と喧伝することでマジョリティがあたかも排斥的であるかのようにレッテル貼りしますし、マジョリティはマイノリティを指して「相互理解の努力に欠けている」と喧伝することでマイノリティがあたかも原理主義的で譲歩の余地が無いかのようにレッテル貼りします。あるいは、マジョリティに受け入れられやすい姿をマイノリティが積極的に演じることによって、マジョリティの「俺らは相互理解を求めている」という正義感につけこみ、マイノリティの生存を図るという戦略もありえます。しかしこれはマジョリティに媚びる行為としてマイノリティ内部から糾弾され新たな対立を生んだりもします。キング牧師とマルコムX的な。いずれにせよ、相互理解という言葉は政治的闘争の道具として使われ、時として対立を煽るものでしかなかったりします。ガンダム00における相互理解の描かれ方も、そうした欺瞞を無視しているかあるいは純朴に騙されてしまっているようで、余計に幼稚に見えました。
*2:相互理解は互いに課す=相手にも課すという点である種の傲慢さがありますが、寛容は自分に課すべきものである、というところもまた対照的ですね。
*3:このことを富野監督は礼儀と表現しているそうです。さすがですね
*4:歌が平和のシンボル、とだけ言うのであれば(ガンダム00におけるマリナ姫の歌の扱いと同様に)陳腐かもしれませんが、マクロスでは歌というものの持つ影響力がもっと掘り下げられて描かれています。