当日はあいにくの曇り
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
というイケイケドンドンな和歌はみなさんご存知だと思う。
藤原道長がこれを詠んだとされるのが寛仁2年(1018年)の10月16日。そして旧暦の10月16日に相当するのが、今年は11月16日(土)だという。
和歌にこめられた真意については「傲慢になっていた」とか「いや、単なる冗談だった」とか「栄華の儚さを欠けていく月になぞらえた」とか諸説あるようだが、いずれにせよそんなに立派な月ならぜひ一度拝んでおきたいものだ。月を見るだけで記事が一本書けるなんてお手軽でもある。
そう思ったのに、当日は昼間から雨模様だった。
これはもう無理かしら。
そう思いつつ夜更かししていたら、午前2時頃、窓の外が次第に騒がしくなってきているのに気がついた。風が出ているのだ。
外に出て空を見上げると、風で流される雲の合間から月影がチラチラと覗いていた。が、なかなか全体を拝むことができない。
惜しい。でも、歌は「欠けたることも なしと思へば」であり、「欠けたることも なくはなかれり」ではダメなんだ。
粘ること15分ほど、願いが通じたのかあれほど次々と流れてきていた雲がだんだんまばらになり始めた。
京都御苑にある藤原道長の屋敷跡を見にいく
京都生まれの京都育ちだと、古典作品の中で知っている場所の名前に出くわすことがしょっちゅうある。
「京都で古典を勉強できるのは本当に贅沢なことなんだよ」
と高校の時の国語の先生は何度も言っていたけれど、大多数の生徒たちはありがたみをさして実感しないまま3年間を過ごした。
だいたい、高校生に「源氏物語」を読んで楽しめと言うのは、(一部の早熟な者を除いて)無理があるというものだ。そして、大人になってから再読してその味わい深さに舌を巻いた者たちはこう思うのだ。「古典の授業をもっと真剣に聞いておけばよかった!」
私もそうである。「なくてぞ人は恋しかりける」とは、このことかしら(※死んでない)
屋敷跡などと言ってみても、ぽつりぽつりと松が生えるだけのがらんとした空き地である。解説の看板が一本、申し訳程度に立っている。
欠けがなくとも沈まない月はないのだな。少ししんみりしたけれど、2025年の12月には今回よりももっと道長の望月に近い月が昇るという。来年こそはなんとか晴れていただきたい。そしてこの場所から月を見上げたら楽しかろうと思ったのだった。