無主地・ビルタウィール
というわけで、前回の「どの国にも属していない無主地は地球上に3ヶ所存在する」に引き続き無主地の話をします。今回の無主地はビルタウィールです。
ビルタウィールは、エジプトとスーダンの間に挟まれた面積2060平方キロメートルの砂漠地帯です。
2060平方キロメートルといってもピンときませんが、東京都の面積が2194平方キロメートルですので、東京都にすっぽり入るぐらいの大きさでしょうか。
すくなくとも面積が2000平方キロメートルない香川県、大阪府よりは大きいということになります。
ちなみに、2060平方キロメートルを東京ドームに換算すると、約44059個だそうです。
しかしなぜ、エジプトもスーダンもこのビルタウィールの領有を主張しないのでしょうか? それは、両国ともビルタウィールの隣にあるハラーイブ・トライアングルの領有権を主張したいからです。
ひとまず状況を整理します。
1899年、エジプト王国とスーダンの実権を握ったイギリスは、エジプトとスーダンの境界線を北緯22度線にまっすぐ引きました。このとき、ハラーイブ地域はエジプト側の領土となり、ビルタウィールはスーダン側の領土となりました。
しかし、1902年、ビルタウィールは、エジプト側の遊牧民の放牧地であるとしてエジプト領とされ、その隣のハラーイブ地域(ハラーイブ・トライアングル)に住む遊牧民は、スーダン側に拠点があったため、スーダンに組み込まれるよう、イギリスによって境界線が引き直されました。
つまり、今エジプト側が主張している国境線は1899年の境界で、スーダンが主張している国境線は1902年の境界で、この両者の主張する国境線を重ねて引くと、ハラーイブ地域が両国がお互いに主張する領土となる一方、ビルタウィールはどちらの国のものでもなくなるわけです。
1990年代までは、このあたりの国境線は曖昧でした。ウィキペディアによると、エジプトとスーダンが「共同管理していた」となっています。ぼくが持っている地図帳を何冊か取り出して、古い方から見ていきます。
1980年ごろまでは、1899年のまっすぐな境界線が引かれた地図帳が多いものの、1981年以降は、1902年の境界線が多くなり、最近の地図帳はお互いの主張が交わる部分の境界線は点線となっているものが多いようです。
ビルタウィール、ハラーイブトライアングルの国境線の齟齬はなぜ生まれたのでしょうか。
それは1990年代にさかのぼります。当時スーダンが、ハラーイブトライアングル沖の石油探査権を、エジプトに無断でカナダの会社に勝手に売却したのが発端とされています。
怒ったエジプトはハラーイブトライアングルに軍を出動させて実効支配を行い、ハラーイブトライアングルがエジプト領内に入る1899年の国境線を主張しはじめたわけです。
というわけで、ありていにいえば、エジプトもスーダンも、ハラーイブトライアングルの領有を主張するために、ビルタウィールは要りませんという、なんとも無慈悲な話となっています。
ビルタウィールには、エジプトかスーダンからしか侵入することができず、かつ、その両国から実質的に「いらない」とされてしまっているため、第三国が勝手に領有宣言するわけにもいかず、みごとなまでの「無主地」となっているわけです。