特集 2020年3月26日

思い出のU字ブロックは幻の水路の遺構だった

昔、何気なく見ていたU字ブロックは、時代に消えた儚い水路の遺構でした

私が中学生の頃、「あれはなんだろう」と思っていたものがある。畑の中に点々と置かれている、U字型のコンクリートブロックだ。

当時はその不思議な形状に惹かれながらも用途が分からず、イースター島のモアイ像のような、なんとも謎めいた存在に感じられたものだ。

大人になった今、改めて調べてみると、それは完成後わずか6年しか使用されなかった幻の水路の遺構であった。

1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー)

前の記事:「横浜三塔」を一度に見られる場所は三箇所だけというのは本当なのか?

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通学路から眺めたU字ブロック

私が生まれ育ったのは、神奈川県の中央部に位置する綾瀬市である。令和の世において鉄道駅がひとつも存在しない、まさに陸の孤島というべき僻地である。

とはいえ、近年はベッドタウンとして市街地化が進んでおり、来年には東名高速道路の綾瀬スマートインターチェンジが完成する予定だ(綾瀬市についてより詳しく知りたい方は、私が2011年に書いた記事「あなたは綾瀬市を知っていますか?」をご覧ください)。

私が通っていた中学校は綾瀬市の南部に広がる畑の中にあり、そこに件のU字ブロックが存在した。最近、たまたまその辺りを通り掛かったら当時のままに残っており、「そういえば、あんなのあったなぁ」と今再びその存在に気付かされたのであった。

25年前とほとんど変わっていない、畑の中を通る通学路

私の家から中学校までは約2kmもの距離がある。……にも関わらず自転車通学ができない地区にギリギリ入っていたため(隣の地区は自転車通学が可能という不条理さだ)、毎日30分歩いて登校していた。

もっとも、徒歩の分、登校中の出来事や景色をたっぷり楽しむことができたともいえ、私がU字ブロックに興味を持てたのはそのお陰かもしれない。

畑の中に点在する、このようなU字ブロックが気になっていた
かなり古い物らしく、台座から外れているものや
なかば土に埋もれかけているものもある

ブロックは目の粗い砂利を含むコンクリートでできており、経年劣化も相当進んでいる。古いモノであることは明らかだが、大事に残されているという類のものではなく、使われなくなった後、そのまま放置されている感じである。

こちらでは一直線上に並んで残っている
こうして見ると、これらの用途は明らかだ

中学生の頃には見当もつかなかったU字ブロックの正体であるが、色々な構造物を見てきた今なら分かる。これは水路の跡だ。正確には水路を支えていた台座だ。

ブロック列の先には、このような四角い枡のような構造物がある
枡形構造物は道路を挟んで対になって存在する

この枡形構造物もまたU字ブロックと並んで謎な存在であった。私が中学生だった頃はこの中に空き缶などが投げ捨てられていたこともあり、ゴミ箱とか、ゴミを燃やす焼却炉だろうかとか考えたが、結局は「よく分からない」という結論であった。

その用途は、道路の下に水路を通すための伏越の呑口と吐口である。現在、その内部は土に埋もれているが、この二つの枡形構造物は道路の下に通されたトンネルで繋がっていたのである。その入口と出口というワケだ。

呑口枡で水路の水を受けて地下のトンネルに流すと、逆サイフォンの原理で吐口枡から水が溢れる。そうして道路と水路を交差させていたのである。

土に埋もれかけているが、こちらにもU字ブロックが列で残っている
列の先にあったこの枡は、サイフォンではなく水路を分岐させるためのものだ
水路跡を辿っていくとサイフォン枡があったが、今では電柱がおっ立っている

中学生の頃には毎日見ていたはずなのに、それが何なのかはあまり深く考えてはいなかった。しかしこうして改めて見てみると、かつての様子が気になってくる。

この水路はどのように繋がっていたのか。現在はどこまで遺構が残っているか。昔の地図を頼りに水路の痕跡を探してみることにした。

今と昔の地図を比較できるwebサービス「今昔マップ」で昭和初期の道筋をたどる
どうやら道路はこっちの方向に続いていたようだが……ん?
畑の土留めとして使われているコレ、送水管じゃないか!

畑と道路の境界に置かれているコンクリート製の管、今見ると明らかに半円のヒューム管(鉄筋コンクリート管)である。それをひっくり返して土留めとして使っているのだ。

U字型の台座だけが残っていて、その上に載っていたはずのヒューム管が全く残っていないのは少し妙だと思ったが、なるほど、こうして再利用されていたのか。

コンクリートが朽ち、鉄筋が露出している部分もあった

中学生の頃の記憶をたぐってみると、確かにこのような丸みを帯びたコンクリートの管が畑の縁に存在したという覚えはある。しかし、あくまで土留めとしか認識しておらず、元は水路の送水管であったなどとは露ほどにも思っていなかった。

引き続き昔の道筋を辿っていくと……お、これは!
道路をまたぎつつ、水路の方向を90度変えるサイフォン枡である

これは当時の私も気が付いていなかった遺構である。現在の道路から外れた位置にあるので、昔の道筋や水路の経路を推測しながら歩かないと見つけられない為だろう。

この枡に続くU字ブロックは畑仕事の邪魔になるから取り除かれたようだが、撤去が容易ではないサイフォン枡は現在まで残されたのだ。しかも現在の道路から離れているからか、これまで見てきた枡よりも状態が良い。おぉ、なんだか往時の水路の姿に迫れているような気がするぞ。

興奮気味にさらに周囲の探索を進めると……もしや、あれは!
凄い!送水管と台座がセットで残っているではないか!

これにはだいぶ驚かされた。かなり部分的ではあるものの、水路であった当時に近い状態である。しかも場所は私が通っていた中学校の目の前だ。私の通学路とは逆の方向ではあるものの、灯台下暗しとはまさにこのことであろう。

台座が傾いていたり、送水管の上に野菜が置かれたりしてはいるが、かつてこの辺りに張り巡らされていたであろう水路の様子が偲ばれる、これまで見た中では最も良好な遺構である。

現在は住宅地になっている地区では、サイフォン枡がゴミ捨て場になっていたり――
ここでは送水管に土を入れて花壇のように使っているようだ

さてはて、綾瀬市南部にはこのような古い水路の遺構が現存していることは分かったが、そもそもこの水路はいつ作られ、どこから水を引いていたのだろう。

そのような何気ない疑問から調査を進めてみると、これらの遺構は完成からわずか6年で役目を終えた幻の水路「相模原畑地かんがい用水」の一部であることが分かったのだ。

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「相模原畑地かんがい用水」を取水口から辿る

神奈川県中央部の高座郡、今でいう相模原市、座間市、海老名市、綾瀬市、大和市、藤沢市の一帯にかけて「相模野台地」と呼ばれる土地が広がっている。

広大な平地であるものの、地下水位が低くて水の便が悪いことから田畑を拓くことができず、かつては原野が広がる荒れ地であった。明治時代に養蚕が盛んになると蚕の餌となる桑畑として利用されるようになったものの昭和初期に衰退。以降は養豚や養鶏が行われるようになり、特に豚肉は現在も高座豚というブランド名で知られている。

太平洋戦争後には全国的な食糧不足に陥ったことから、神奈川県は相模野台地に農業用水路を引く「相模原開発畑地灌漑事業」に着手。その建設は昭和23年(1948年)に始まり、専用隧道が開通した昭和39年(1964年)にすべてが完成した。

「畑地かんがい用水」の経路図(専用隧道と西幹線のみ)クリックで地図を拡大表示

畑地かんがい用水の経路は相模川の城山ダム近くに位置する「久保沢分水池(現在の津久井分水池)」で取水し、専用隧道(トンネル)で虹吹分水工へ水を送り、その先の東西分水工で綾瀬市方面へと続く「西幹線」および大和市方面へ続く「東幹線」に分岐。両幹線からは複数の支線が枝分かれし、相模野台地の全域をカバーしていた。

しかしながら、完成した頃には既に食糧事業が好転しており、また相模野台地の工業地化や住宅地化が進んだこともあって用水の需要が減少。完成からわずか6年後の昭和45年(1970年)に利用者組合が解散し、使われなくなったという。なんとも儚い運命の用水路であった。

先ほど見た綾瀬市南部に残る水路跡は、西幹線の末端近くの支線である。短い期間であれど我が故郷の畑を潤していた水路だ。どのような経路を辿り、どのような遺構が残っているのか、取水口から水路の跡を辿ってみることにした。

上流の沼本ダムから引いた水を発電用と水道用に分ける「津久井分水地」
その東側に三つの水道取水口が並んでいる
そのうち一番南側(奥)のものが「畑地かんがい用水」の取水口だ

津久井分水地には「川崎水道」「横浜水道」そして「畑地かんがい用水」の取水口が存在する。そのうち前者ふたつは現在も川崎市と横浜市に水道水を供給し続けているのに対し、畑地かんがい用水は役目を終えて久しい。それでもなおトンネルの上部には「畑地かんがい隧道」と刻まれた扁額が見て取れる。

現在も「畑地かんがい隧道」の扁額がしっかり確認できる

この取水口から取り込まれた水は、地下を通る専用隧道で約10km先の「虹吹分水工」へと送られていた。なお、取水口から少し進んだ先には谷津川があり、横浜水道と畑地かんがい用水は水道橋でその谷間を越える。

谷津川に架かる水道橋。これは横浜水道のもので全長40m

畑地かんがい用水もこれと同じような水道橋が架けられていたのだが、残念ながら老朽化を理由に2013年に撤去された。現在はトンネルのポータル部分のみが残っている。

かつてはここに、横浜水道のものよりも長い54mの水道橋が架かっていた
上流(取水口)側のトンネル。まさしく「ぶった切られた」という感じだ
こちらは下流側。「久保澤隧道」の扁額が掲げられている

ここから畑地かんがい用水の専用隧道は相模川の左岸に沿って進んでいく。正確なルートは分からないが、河岸段丘の縁をなぞるように続く道路があるので、おそらくその道筋と一致するのではないかと思う。

相模川の断崖に沿って続く道路。この下に専用隧道が通ってそうな感じがする
さらに進んでいくと、道路の脇に横浜市水道局の水道用地があった

この下に水道のトンネルが通っていると思わせるような感じの看板である。ただ、それが畑地かんがい用水の専用隧道だとすると、管理者が横浜市水道局なのは変な気がする。……と妙に思ったのだが、この先の虹吹分水工にてその答えらしきものが見えたので今しばらく心に留めおいてください。

さて、専用隧道は中ノ郷という集落の辺りで相模川沿いから離れて東へと向かっていく。この辺りは市街地を突っ切っているので経路を辿ることはできないが、法性寺というお寺の東側にあるY字路からは専用隧道の上を通ると思われる道筋が続いていた。

この右側の道が専用隧道が通っている道だと思われる
道幅が制限されているのは、地下に水路があるので重量のある大型車を規制する為か
緩やかに蛇行しており、実に水路らしい道筋である
水路の道は住宅街の中を一直線に通っていく
やがて鳩川に架かる橋に差し掛かった

ここで専用隧道は橋の下に築かれた水道橋で鳩川を越えていたそうだ。ただしその水道橋は現存せず、橋も立派なものに架け替えられている。護岸工事によって川の様子も一変しており、かつての様相は残っていない。

橋の下に見られる排水溝が水路の名残だろうか

鳩川を越えると専用隧道は再び市街地の中を突っ切っており、その経路を辿ることは不可能となる。次に水路の存在を体感できるのは、JR相模線の上溝駅の近くに来た時だ。

上溝駅近くの横山公園。この辺りを通っているのではないかと想像しながら歩く
テニスコートにぶつかり、その奥の上溝中学校へと続く
その南側、上溝中学校へと上がる坂道の脇にこのような構造物が
上溝駅前の切通しを伏越で越える、「上溝サイフォン」の進入口である

上溝駅の駅前は傾斜地を掘り切って造成された車道が通っている。地面の高さが専用隧道よりも低くなっているので、伏越で車道の下を通しているのだ。この進入口は伏越部分を作る為の資材や作業員の出入りの為に築かれたもので、完成後はトンネルの維持管理に使われていたとのこと。

現在はご覧の通りコンクリートと鉄板で封印されているが、目に見える畑地かんがい用水の遺構として貴重な存在である。

専用隧道はこの道路の下を通り、対岸のマンションの下へと続く

上溝サイフォンからはほぼ一直線に虹吹分水工へと続いており、やはり経路を辿ることはできない。なのでここから虹吹分水工までひとっ飛びだ。

というワケで、ここが専用隧道の出口にあたる虹吹分水工の跡である
半分土に埋もれながらも残っている水門。ちらりと見える扉は木製だ
これは計測関係の設備だろうか
ちなみに虹吹分水工の隣には、横浜市水道局が管理する分水池が

この横浜水道の虹吹分水池が築かれたのは昭和24年(1949年)と、畑地かんがい用水が着工して間もなくの時期である。畑地かんがい用水の分水工はその隣……というか、同じ敷地内に位置しており、昭和39年(1964年)に専用隧道が開通するまでは横浜水道から畑地かんがい用水へ分水していたようだ。

少々ややこしくて分りづらい話だと思うが、要するにこの虹吹分水地は畑地かんがい用水と横浜水道の合流地点にあたり、すなわち畑地かんがい用水の専用隧道は横浜水道の一部と解釈することもできる。なるほど、先ほど見た水道用地が横浜市水道局名義であった理由も何となく分かった感じである。

分水工の隣には「畑地かんがい議場の碑」が鎮座していた
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ゴルフ場の敷地内にある「東西分水工」

引き続き畑地かんがい用水を辿っていこう。虹吹分水工からは約900m東に位置する「東西分水工」へと続き、そこで綾瀬市方面へと流れる「西幹線」と大和市方面へと流れる「東幹線」に分流する。

この「東西分水工」は畑地かんがい用水の中でも特に重要な施設であるが、現在は「相模原ゴルフクラブ」の敷地内となっており、基本的に見学はできない。……が、今回は取材ということで特別に見学させて頂くことができた。

ゴルフコースの中にたたずむ「東西分水工」
虹吹分水工から暗渠でここまで続いていた
水を東幹線と西幹線に分ける水門。木製の樋扉が現存している
良い感じの古び具合で、思っていたよりも状態が良い

相模原ゴルフクラブは昭和30年(1955年)に創立された名門のゴルフ場である。畑地かんがい用水の建設中から存在しており、東西分水工はゴルフ場の敷地内である意味保護されていたといえるだろう。故に他の遺構よりもずっと状態が良く、ほぼ完全な状態でまるっと残されている。いやはや、素晴らしい。

現在の東西分水工は雨水を溜めた池となっており、美しい錦鯉が悠々と泳いでいた

相模原中央緑地に残る「大野支線」の水路

東西分水工からは、綾瀬市へと通じる西幹線を辿りたいと思うのだが、その前に相模原ゴルフクラブの東側に広がる相模原中央緑地には良好な状態の水路が残っているとのことで、それを押さえておきたい。

相模原ゴルフクラブの東側、かつてこの辺りに大野分水工があった

先ほどの東西分水工から東へ続く東幹線は、約1.2kmのところにあった「大野分水工」で大野支線と分岐していた。大野支線は相模大野付近へと続く支線で、現在その経路は相模緑道緑地として整備されている。

大野支線の大部分は暗渠化され遊歩道となっているのだが――
相模原中央緑地を通る区間だけは昔の状態で現存するのだ

相模原中央緑地は相模野の雑木林を活用した森林公園で、住宅地の中に残る貴重な自然として地域の人々に親しまれているようだ。平日にも関わらず数多くの人々が散策を楽しんでいた。

大野支線の水路はその歩道に沿って約300m続いており、当時のまま残る畑地かんがい用水の水路としては最長の区間ではないかと思う。

現在は道がない部分にサイフォンがあったりして面白い
水路はコンクリートブロックを積んで築かれているが、痛んでる部分も見られる

やはり経年劣化の影響は大きいようで、コンクリートブロックの継ぎ目から亀裂が走り、植物が生えたり土砂が流出していたりする。水路が途切れずにまとまって残る貴重な区間なだけに保全が望まれるところであるが、当分は時の過ぎゆくままなのでしょうな。

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東西分水工から西幹線を辿る

さてはて、東幹線から分岐する大野支線に寄り道したが、ここからは我らが綾瀬市へと続く経路である。東西分水工から南へ伸びる西幹線を辿るのだ。

相模原ゴルフクラブの敷地を出ると、水路跡は遊歩道として南へ下っていく
その先には、なにやら柵に覆われた緑地帯が
おぉ、水路が残っている……が、幹線にしては細くないか?

ここに残っているのは、先ほど見た大野支線よりも細い水路である。綾瀬市に残っているものと同じぐらいの細さで、幹線という感じはしない。どうやらこれは西幹線と並行して引かれていた支線らしく、西幹線はその隣の緑地帯に通っていたようである。

支線を辿っていくと、その先には見慣れない形の送水管が続いていた
上の部分に穴が開いたヒューム管である。色々なタイプがあって面白いものだ

ここで支線の水路も途切れ、西幹線の経路は再び遊歩道と化して南下していく。もう目に見える西幹線の遺構は現存しないのかと思いきや、相模市立総合体育館を越えた辺りで水路が地表に現れた。

おぉ、まさに幹線という感じの、幅の広い水路である
ちなみに、この辺りで西幹線は横浜水道の「水道みち」と交差する
その先にも水路は残っているのだが、なんだか荒れた雰囲気になっていく

水路の遺構が残っているのは嬉しいのだが、水路を構築するコンクリートブロックがずれてガタガタになっており、荒れるがままに放置されている印象だ。この辺りには人家がなくうら寂しい雰囲気なのも拍車をかけているのだろう。

さらに進んでいくとますます荒廃度が高まり、そしてその先には無情なる現実が私を待ち構えていた。

大規模な土地区画整備事業により、水路に沿った遊歩道の閉鎖である

どうやらこの辺り一帯は再開発が行われている最中のようである。その計画図には水路の道筋は記されておらず、産業用地に取り込まれることになるようだ。うーん、ここまで西幹線の経路を辿ることができただけに、道筋が失われるのは残念だ。

再開発区間を抜けると、水路跡の遊歩道は住宅地へ入っていく
花壇のようなこの構造物はサイフォン枡だろう

ここまでくると普通の遊歩道と変わりない感じであるが、かろうじてサイフォンの遺構が水路であった頃の面影を残している。とはいえそれもこの辺りまでで、ここから先はあまり変化のない区間となっていく。

こういう感じの遊歩道がひたすら続く
そして小田急小田原線にぶち当たった。踏切はないので迂回しなければならない
早咲きの桜が開花しており、散策する人も多い

まぁ、このような感じである。もはや地表には水路の遺構は見られない。もっとも、再開発に飲み込まれる区間のことを考えれば、経路を辿ることができるだけでも大変ありがたいことではあるのだが。

さらに進むと大きな県道と合流し、さらに水路が通っていた頃の面影は薄れる
そして相鉄線のさがみ野駅前に差し掛かったのだが――
その手前で水路は西へとカーブしていく

この写真の左下から中央にかけて伸びている、緑色のタイルが途切れた部分が水路の跡である。その経路は駅前の広場を避けるように右奥へと続いている。

このタイルの切れ目が水路の経路だなんて、駅を利用している人の99%が知らない事実であろう。私も西幹線の水路を辿ってここに辿り着いたからこそ知りえたことであって、普通に暮らしているだけでは気付かないに違いない。分かる人にだけ分かる、さりげなくも巧妙な水路の跡である。

線路を渡った反対側では水路の跡が遊歩道として整備されていた
その少し先で遊歩道は途切れ――
公民館へとぶち当たる

この公民館の裏側は小高い丘になっていることがお分かりだろう。水路はここで途切れているのではなく、トンネルで丘の反対側へと続いていたのだ。水路が使われなくなってトンネルが封鎖された後、その跡地に公民館を建てたのだろう。

丘の反対側、トンネルの出口は綾瀬市である。ついに綾瀬市へと入ったのだ!
だが、その経路はすぐに県道と合流し――
そして綾瀬市の動脈こと県道42号線に飲み込まれ、そのまま南下
藤沢市に入るといすゞ自動車の工場に入り、その敷地内で東に折れ――
その先の引地川に排水していたようだ。長かった水の旅の終着点である

今に残る、儚い水路の忘れ形見

身近に残る水路の遺構をきっかけに始めた「相模原畑地かんがい用水」巡りであるが、その経路を辿ることができて実に感慨深いものがあった(灌漑と掛けてるんじゃないよ)。

極めて短い期間で役目を終えた水路であるが、各所に点在する遺構から往時の様子を偲ぶことは可能だ。しかしながら、遺構の多くは現在までたまたま残っているにすぎず、土地利用の変化や再開発などによっていつ取り除かれてもおかしくない存在だ。だからこそ今の状態を確認することができて良かったし、単純に水路巡り楽しかったです。

取材協力:相模原ゴルフクラブ

今回紹介した経路とは別の支線にあった、なぜか畑に屹立する送水管
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