反知性主義3 Part 1: 内田編『日本の反知性主義』は編者のオレ様節が痛々しく浮いた、よじれた本。

しばらく間が空いた。で、反知性主義についての簡単なお勉強を経て、ぼくが手に取ったのは『日本の反知性主義』だった。

この本の題名は、明らかに『アメリカの反知性主義』を意識しているようだ。その一方で、この面子を見ると、ぼくが冒頭に挙げた『現代思想』の執筆者と重なるようであり、「反知性主義」を「バーカ」の意味で使う連中の集団のようにも思える。で、どうなのよ? それがぼくの興味だった。が、その前に……

「反知性主義」をちがう意味で使ってはいけないの?

まず、そもそも「反知性主義」を「バーカ」の意味で使ってはいかんのか? ぼくはそうは思っていない。ぜんぜん構わないと思う。ただ、その場合にはホフスタッターとかを引き合いに出してはいけない。まるで意味がちがうからだ。

なぜか? ホフスタッターの本は、名著とはいえ決してだれでも知っているメジャーな本ではない。ぼくはたまたま、漠然とホフスタッター的な意味合いでの用法を知っていたけれど、それを知らないからといってこうした分野に関係していない人が責められるべきだとは思わない。

さらに言葉は変わるし、だれかが単語の用法に独占権を持っているわけではない。ホフスタッターがそういう用法をしたから、他の人は一切その用語を別の意味で使ってはいけない、なんてことはない。反知性という言葉を見て、「知性に反対するんだから、これって『バカ』ってことだね」と思ってその意味で使うのは、ぼくは全然オッケーだと思う。

そういう人は「反知性主義はホフスタッターが~~」と言われても、単に「あ、反知性主義ってそういう意味もあるんだね、でも自分はそういう意味では使ってない」と胸を張って返せばいい話だと思う。人はあらゆることを知るわけにはいかないんだから。ついでに「ホフスタッターなんてまじめに受け取る価値はないよ、そんなのに準拠するつもりも用語をしばられるつもりもないね」とはねつけるのもあり。これまた小気味よい。池内恵によれば、佐藤優は日本ではすでに「反知性主義」が「バカ」の同義語として使われるようになっているから、ホフスタッターや森本を持ち出すのはダメ、と言っているそうな。なんでダメなのかはわからない。きちんとちがいや自分の用法における意味を明記すればすむだけの話だ。広い世界で、ちがう意味が併存していて悪いことは何もない。

でも、『アメリカの反知性主義』を読んで、それを援用しつつ「反知性主義」をバカの意味で使うのは、これはダメでしょう。読解力がないか、歪曲か、その両方がないと、そういう用法は出てこない。ホフスタッターをまったく無視するか、あるいは引き合いに出しても「これとは意味がちがうからね」と説明する必要がある。さて、その点でこの本はどうだったろうか?

内田編『日本の反知性主義』:総論として、かなり変な本。

ということで手に取ったのが内田編『日本の反知性主義』だった。そして……なんだか珍妙な本だと言わざるを得ない。編者のまとめ文が異様なほどの悪質さを露呈している一方で、そこにあらわれた意図と、実際の寄稿者たちの文が完全に乖離しているからだ。寄稿者たちの文の多くは、きわめて落ち着かない様子を見せたり、人によっては編集意図を、おそらくは故意に黙殺・迂回している。それはこの寄稿者たちが決して単細胞なお調子者たちではなく、本当に与えられたテーマをきちんと考えている誠実さを持っていることを示している。そしてその結果として出てきた文が、図らずも編集意図のおかしな部分や妥当でない部分を浮き彫りにしてしまったという面すら見える。その意味でのおもしろさはある。だが、そのために本全体としては、編者が意図したであろう統一的な、反安倍政権的なメッセージの本にはまったくならず、非常にインパクトの薄い本に成りはてている。

さて「反知性主義」に関する前節最後の疑問に対する答えとしては、本書の首謀者と思われる二人――内田樹と白井総――の文は、この読解力のなさand/or歪曲を見事に露呈している。

内田の文は冒頭からホフスタッターを引用しておきながら、その主張を完全に読み違え/歪曲し、自分にとって都合のいい下りだけをつまみ食いして並べ立て、ホフスタッターに依拠したふりをしつつ、ホフスタッターの用法と正反対の意味で知性/反知性主義を定義して平気だ。それ以外の点でも、全般に非常に不誠実で悪質な文章だと思う。

続く白井の文は、ホフスタッターを採りあげつつ、まるでトンチンカンで一般的な妥当性がまったくあるとは思えない思想史っぽい話を並べ立て、ホフスタッターとは全然関係ないところに話を持っていく。同じく非常に不誠実で悪質な文章になっている。

そしてこの二つの文は、明らかに煽ろうとしている。いま日本には反知性主義がはびこっている、特に安倍政権のやってるいろんなことは反知性主義のあらわれだ、やばい、このままじゃ日本はアレだ、という一種の檄文だ。その内容はかなりトンチンカンだ(これについては後述)。そして編者の文は、声をかけた人々がその煽りに共感してくれることを期待している。

ところが……声をかけられた内田樹のお仲間たちは、そういうふうには動かなかった。むしろ戸惑いを見せている。ちなみに、いま「お仲間」と書いたのは、ここで声がかかっているのが本当にある種のイデオロギー的な偏りを見せている人だけだからだ。つまり、安倍政権大嫌い、という人々。公平なポーズをするために、多少はちがう立場の人々を入れる、というバランスも考慮されていない。ほんとなら、アンチ安倍政権大合唱になりかねなかった本だ。

でも、そういったストレートなアンチ安倍政権を書いた論者は、2人ほどに限られる。その他の人の文章はむしろこのテーマに困惑し、「反知性主義」という言葉そのものに違和感を表明して、ある意味であたりさわりのない記述に終始した文章となっている。それは別に、この人たちがホフスタッターを読んでいるとか、あるいはホフスタッター的な意味での反知性主義を理解しているから、ではない。かれらは、安倍政権やそれを支持する人々が決してバカではないし、それなりの考えや計算をもって「知的に」行動していることは理解できているので、安倍政権批判を展開した文ですら、安倍政権やその支持者を単純にバカ=反知性と決めつけるようなことはしていない。

その意味で、本書は「笛吹けど踊らず」。編者の文で意図されているらしき、力強い政治的なメッセージを持った本にはならず、内田と白井の文だけが騒ぎ立てて、他の人の文はそれを遠巻きにして戸惑い、あたりさわりのないおつきあいでお茶を濁そうとしている。そしてみんながそれをやったがために、冒頭の内田と白井の文だけが全体の中で孤立し浮いた、すごくすわりの悪い変な本になってしまっている。ただしたぶん、本書に寄稿した多くの論者にとっては、これはよいことだろう。また、日本の思想状況の縮図として見ると、非常に興味深いとはいえる。

では、収録された文を個別に見ていこう。

内田樹「まえがき」「反知性主義者たちの肖像」:歪曲と浅はかさに満ちたきわめて悪質な文。

概要

冒頭には内田樹のまえがきがあり、この雑文集の成り立ちと意図を解説している。そこには寄稿者への依頼文も収録されていて……そこにホフスタッターもしっかり引用されている。続いて、内田樹による反知性主義に関する考察が展開される。この文章は本アンソロジーの中で最も長い。この二編で、全300ページ強の本のうち60ページを占める。10人が寄稿している本なので、シェア的にはみんなの倍くらいをがめていることになる。

そして、これはとにかくひどい文章となっている。そのひどさのポイントは以下の通り:

  • ホフスタッターを援用しつつ、ホフスタッターがまさに「反知性主義」と指摘したものを「知性」だと強弁しておきながら、それについて何ら説明がない
  • 自分の立場の絶対的な正しさについて一切の疑問がない。自分は知性の側であり、自分と意見がちがえばそれは反知性でありデマゴーグであり陰謀論という決めつけばかり。
  • 科学における「仮説」の役割をまったく誤解した上で変なロマン主義に陥っている。
  • 自分の見解を批判し否定すること自体が、それがまちがっている証拠であるという実に便利な屁理屈。
ホフスタッターを引きつつ「知性」「反知性主義」を正反対に歪曲

まずは「まえがき」から。その文章自体は、秘密法案とか集団自衛権とか安倍政権がろくでもないことをしてるのに、支持率が高いままで、これは「為政者からメディアまで、ビジネスから大学まで、社会の根幹部分に反知性主義・反教養主義が深く食い入っていることは間違いありません」(p.7)なのだという。「それはどのような歴史的要因によってもたらされたものなのか? 人々が知性の活動を停止させる疾病利得があるとすればそれは何なのか? これについてのラディカルな分析には残念ながらまだほとんど手がつけられておりません」(ibid.)

つまり、自分の気に入らない安倍政権が支持されているのは、反知性主義・反教養主義がはびこっているからであり、したがってその現状なり原因なりを考える文を書いて下さい、というわけ。

そして「反知性主義者の肖像」へと進むと、冒頭からホフスタッターが引用され、その主張に対する大賛成が表明されている。ふーん。ホフスタッターなんか絶対読んでないだろうと思ったら、ちゃんと読んでいるのか。すると、反知性主義の意味や、それをめぐるホフスタッターのアンビバレントな立場、そして現代における知識人の役割に関する悩みも、基本的には理解されているのかな?

ところが……読み進むとまったくそんな様子はない。反知性主義者とは、とにかく知性をひたすら否定する連中、というきわめて単細胞な理解に基づく文が展開される。そして挙げ句の果てに、こんなくだりに出くわす。

他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。(p.20)

あの~~。

それってまさに、ホフスタッターの指摘する反知性主義の立場ですから!

いや、それ以下といっていい。2015年4月時点の森本あんりのインタビューを見たら、こんなやりとりがあった。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150422/280276/

――このところよく目にする「反知性主義」という言葉があります。字面からは「科学や論理的思考に背を向けて、肉体感覚やプリミティブな感情に依る」ような印象を受けるのですが。

森本:もともとの「anti-intellectualism」のニュアンスは、ちょっと違います。ネガティブな意味もありますけと、それだけじゃない。すごく誤解を招きやすい文字の並びですけれどね。

森本は、反知性主義の何たるかを理解しているので、そういう単なる怠惰な「科学や論理的思考に背を向けて、肉体感覚やプリミティブな感情に依る」というだけでは不十分だというのを理解している。でも、少なくともそれが反知性主義の一部であることは指摘している。

でも内田のこの文が述べているのは、自分は肉体感覚に頼るぞ、ということだ。腑に落ちるとか気持ちがどうとか、プリミティブな感情に頼るぞ、ということだ。つまり自分たちこそが反知性の悪い部分そのものでしかないということを自ら告白しているのだ。そうでありながら、内田のこの文は、それが知性だ、したがって「肉体感覚やプリミティブな感情に依る」のが知性/知性主義とでも言うべきものだ、と述べている。

まるっきり正反対だ。

反知性主義に関する基本的な文献を読んでいながら、そこに書かれていることがまったく理解できていない。あるいは理解できているのに、それを正反対に歪曲して平気。どうよ、これって? ぼくはこの段階で、この文にまったく誠意を認められない。この文の後のほうでは、自分が学生に対して参考文献をきちんとあげろ、それをしないのは犯罪的とすら言える、という指導を実にしっかり行っているのだ、という記述が(あまり脈絡ないと思うんだけど)延々と出てくる。でも、こうした歪曲は、それ以上に犯罪的なものだとぼくは思う。

ちなみに「そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる」(強調引用者)と書いているのであって、最終的にそれだけで判断すると言っているんじゃないぞ、だからこれは内田の文の意図を歪曲しているんだ、という主張はできるかもしれない。でも、その後の文章を読んでも、この「さしあたり」の身体反応がいつの時点でどうやって本当の理非の判断に置き換わるのかについての説明は一切ない。続く記述を見ても、この肉体感覚やプリミティブな感情が最優先のままだ。こんな具合。

反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。(中略)彼らはことの理非の判断を私に委ねる気がない。(中略)「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。(p.21)

さて……通常の知性的なやりとりというのは、それぞれがデータやエビデンスや統計数値を出して自分の主張の裏付けを行い、その主張の正しさを相互に確認し合うことだ、とぼくは思っている。データの見方や解釈はいろいろある。その分析の限界もある。それを踏まえることで、何が妥当と言えるのかを考えるのが知性の働きだとぼくは思う。

だが、内田のこの文は、自分はデータやエビデンスでは納得しない、と明確に述べている。何やら自分たち(知性の側に立つ人々)の気持ちが晴れないとか、解放感を覚えることがない、というのがその根拠だ。ところがこれはむしろ、ホフスタッターが述べた反知性主義者の基本的なスタンスだ。むずかしいことを言われてもよくわからん、煙に巻かれたような気がする、いや自分がバカにされたような気がする、よってオレは納得せん、というわけ。

そしてそのデータやエビデンスに納得できないのであれば、それを持ち帰って検討する、ということもできる。そこで何が言われているのかを勉強することもできるはずだ。ぼくはそれが知性的な態度だと思う。ところが内田のこの文は、とんでもないことを言っている。聞き手がそうしたデータやエビデンスを見ない、理解しないというのは、聞き手の問題でもある。少なくとも、対等に知的な議論をするのであれば。ところが内田のこの文では、聞き手は一切何の努力もしない。オレが納得しなければ、なんとデータやエビデンスを挙げたほうが「もう一度勉強して出直してきます」と努力を強要される……ぼくは、そうやって一方的にふんぞりかえって相手にあれこれ要求するだけの態度を知性的とは思わない。

早い話が、ガリレオがカトリック教会を説得できなかったときに「それでも地球はまわる」と言ったという伝説があるけど、これは理非の判断を相手に委ねていないから、反知性的な態度だったのだろうか?ぼくはそうは思わないんだけどね。自分の分析とエビデンスに基づいて、自分の結論を明確に主張するのは、ぼくは非難されるべきことだとは思わない。が、内田の文によればそうではないらしい。

己の身体や感情のふんぞりかえりに甘んじている内田のこの文の主張は、それこそ本来のホフスタッター的な意味での反知性主義(それもその最悪の意味)だし、そしてまさにその文自身が主張したがる意味での反知性主義を自ら体現していると思う。

知的営為のプロセスに対する根本的な誤解

では、「反知性主義」という用語の不誠実な使い方を離れて、この文全体で主張されていることはどうだろうか。ぼくはそれもまったく評価できない。というのも、内田の文自身は、自分が反知性主義者たちに対して要求していることを一切できていないからだ。

内田の「まえがき」は、いまの日本のマスコミ、政治、大学、ビジネスといったすべてが反知性主義におかされている、という。だから集団自衛権とか秘密保護法とかが出てくるんだ、というわけ。そして、その反知性主義者どもは、いろいろデータやエビデンスを出して自分の主張を裏付けてくる。そしてそいつらは、それ故に自分が正しいと確信しきっている。だからよろしくない――

でも、これを読むとすぐに疑問が湧いてくるはずだ。

  • その相手は、データやエビデンス出してきて自分たちの主張を裏付けてるんでしょ? 内田の側はデータやエビデンスを出したんだろうか?
  • 相手が自分は正しいと確信しきっているからダメだ、という。でもその相手がそんなに確信しきっているとなぜわかるの?
  • 相手は相手なりに腑に落ち、納得してその立場を採っているのではないの?もしそうなら、相手だってそれなりに知的にふるまっていることになる。その可能性はどうして一切考慮されていないの?

さて内田の文を読むと、自分の側は自分なりのデータやエビデンスを出す、というプロセスはないようだ。相手がそういうものを出しても、自分が納得しなければ相手は反知性主義。こちらは自分なりのデータやエビデンスは出さない(らしい)。相手が確信しきっているというのも、こちらが勝手にそう思っているだけ。それって、データやエビデンスを揃える努力をしたからそれなりに主張に自信があるというだけじゃないの?それも検討なし。

気持ちはどうあれ、まずはデータやエビデンスは理解しようぜ。少なくともそのための努力はしようぜ。相手の言うことを聞くべきだ、というのはその通り。そして、たぶん自分の意見と正反対の主張が出てきて、しかもそれがきっちりデータやエビデンスで裏付けられていて、反論の余地がなければ、自分が否定されたような気になってとりあえずはむかつくのはわかる。人間というのはそういうものだ。そして相手に負けたような気がして、反発が起こるのもわかる。

でも、そこで自分の感情だの「腑に落ちる」だので判断をつけてはいけないのは当然じゃないか。別にその場で判断を下す必要はない。腑に落ちないまま、保留して持って帰っておけばいい。気になるなら、もっと相手の言ったことをチェックすればいい。だれかが、相手のデータやエビデンスに対する反論を出していたら「おおやっぱりあいつの言ってたことはウソだったか!」と小躍りし、それが否定されればまたがっかりし……その繰り返しが知性の働きでしょう。

そうした知的プロセスを、内田の文は一切否定する。ある主張の妥当性は、データやエビデンスとは関係なしに、その人の「腑に落ちる」とかなんとかで決まる。自分が納得しなければ、それは相手の勉強不足。自分は何らデータも証拠も提示せず、何も理解の努力せず、自分の存在を否定されたとかなんとかいじけるだけ。

そして、身体性がどうしたという話。ひょっとして、内田の文で「反知性主義」と断じられている人々だって、自分なりに身体的に腑に落ちたり、得心したりしてその主張を唱えているかもしれない、という可能性はないんだろうか? 逆に、内田の文で言う身体的なナントカというのが、実は全然身体的でない可能性というのはないんだろうか?あらゆる人の身体的な知性というのは、まったく同じでなければならないのか?

ぼくは、そんなはずはないと思っている。すばらしい成果はしばしば、実験したりモデルを組んだり作ったりしたら、思っていたのと正反対の結果が出てしまうことから生じる(クルーグマンのIts Baaackリフレ論文とか、卑近ながらぼくのたかがバロウズ本とか)。そのとき最初の直感や身体反応は「そんなバカな」というものだ。そういう脊髄反射的な肉体反応に委ねず、本当に何かおかしいところがないのかあれこれ考え、逃げ道を全部閉ざされて途方にくれ――そしてやっとそれまでの自分の考えの不十分さがジワジワわかってくる。それがある意味で自分の身体に取り込まれ、かつての安定状態から新しい安定状態へと遷移する。ぼくはそれが最も知的な態度であり、本当の学習だと思ってる。それをすべて否定するのは、ぼくは知的営為そのものを否定しているに等しいと思っている。そしてそういう主張をしている文が己を「知性」の側に立つと思い込んでいるのは、ぼくはこっけいだと思う。

科学や数学の「予想」は別に永遠の真理などではない。

さてこの内田の文には、実に面妖な部分がある。

数学にはさまざまな「予想」が存在する。フェルマー予想をフェルマーは「証明した」と書き残したが、久しく誰も証明も反証もできなかった。予想が証明されたのは360年後のことである。リーマン予想は予想が示されてから150年たった現在でも証明されていないが、多くの数学者はいずれ証明されると信じている。数学における「予想」の存在が示すのは、平たくいえば、人間には「まだわからないはずのことが先駆的にわかる」能力が備わっているということである。(p.31)

えーと。

内田のこの文は、数学(でも物理でも社会科学でも)、いやそれこをその他あらゆる日常生活でも人が行っている予想、つまり仮説をたててそれを証明/棄却する、という知的営為の基礎となる活動に関する、徹底的な無理解を露呈している。

そもそも内田はフェルマー予想やリーマン予想って何なのか知っているのか、というのは追求しないでおこう(このぼくも、リーマンゼータ仮説よくわからん)。でも、別にこうした予想からわかるのは、「わからないはずのことが先駆的にわかる」なんてことではない。わからないことはわからない。それだけのことでしかない。だからそれは予想のままなのだ。ただ、そのわからない状態が長く続いているというだけだ。

人はみんな、常に予想/仮説をたて、それを証明/棄却しつつ人生を送っている。太陽が地球のまわりを回っているんだろうと思ったり、今日の宴会ではたぶん肉料理が出るだろうと思ったり、あるいはこのプロジェクトは少し工法を工夫すればコストが下がって採算ラインに乗るだろうと思ったり、気になっている女の子を映画に誘えばデートしてくれるかも、とか。そしてそれに基づき各種の行動を行う。さて、そうした予想の存在は、「わからないはずのことが先駆的にわかる」ことを示すのか? そんなバカな。というのも、その多くはまちがっているからだ。わからないことはわからない。それをわかろうとして、人は実際にそれが起こるまで待ってみたり、シミュレーションをしてみたり、モデルを組んだりする。 予想とか仮説はそのためのものだ。そして、それが大半は失敗する。なんか地球のほうが動いていると思ったほうがよさそうだったり、宴会は刺身だったり、頑張ってもプロジェクトは採算性がないままだったり、デートは断られたり。でも、それにより人はその分、賢くなる。それが人間の知的な営みのほぼすべてと言っていい。

内田のこの文はどうも、どこかに不思議な、肉体感覚でアクセスできる叡智の総体があるという変な信念に基づいている。だから人は、まだ証明されていなくても正しいことを直感的に知っている、と思っているらしい。そして、その叡智の総体は一つだから、自分が自分の身体感覚を持ってそれを理解しているなら、それと一致しないものはすべてまちがいでデマだ、と断言できる、というのが内田の発想だ。

でもそんなことがあるわけがない。短命な予想、長命な予想、いろいろある。その確認作業が知的な営為だ。肉体感覚で実はわかんないこともあらかじめわかってる、なんていう堕落した怠惰な発想は、知性と本質的に逆行するものだ。だからそれに時間がかかったことも、意味のある話じゃない。明日、ひょっとしたらリーマン予想が否定的に解決されるかもしれない。結局リーマン予想はまちがっていることが示されるかもしれない。そうしたら内田のこの文の議論はどうなるだろう。やっぱり先駆的にわかったりはしない、人間の能力ダメー、ということになるのか?そんなことはない。その予想の棄却もまた、偉大な知的成果とされる。

ぼくはこうした根本的な誤解が、この文を読むに耐えないものにしていると思う。

議論や主張について

なぜ内田の文は、こんなフェルマー予想だのリーマン予想だのの話を持ち出しているのか?その解決に長い時間がかかった/かかりつつあるからだ。そしてそこから内田の文は、知性というのは長い時間をかけた活動の一部だという自覚を持っているのだ、と主張する。ところが、反知性主義の連中は、目先の相手をその場で有無をいわせずその場で即座に論破しようとしている。それは知性的ではない。よって反知性主義の連中は反知性主義である、というわけ。

さて、すでに述べた通り、仮説や予想はいくらでもできては消えるものだし、解決に時間がかかったからその仮説や予想がえらいというものではない。が、内田の文はこの変な前提をもとに、こう述べる。

反知性主義者たちが例外なく過剰に論争的であるのは「いま、ここ、目の前にいる相手」を知識や情報や推論の鮮やかさによって「威圧すること」に彼らが熱中しているからである。彼らはそれにしか興味がない。

だから、彼らは少し時間をかけて調べれば簡単にばれる嘘をつき、根拠に乏しいデータや一義的な解釈になじまない事例を自説のために駆使することを厭わない。これは自分の仕事を他者との「協働」の一部であると考える人は決してすることのないふるまいである。(p.41)

これまた変な主張だ。彼らが本当にそれにしか興味がないか、どうしてわかるんだろう。そして彼らの主張が嘘や根拠レスなデータや不適切な事例に基づくなら、それを指摘すればすむのではないか? 協働というのは、ニコニコ仲良くやる必要はない。ケンカし、争いながらでもそれぞれの立場や立論を検証すれば、それは立派な協働だ。相手がいやがっていても、その発言をもとに協働はできる。相手の批判をうけてそれを批判する――それはケンカであっても協働なのだ

それに、ここで言ってることはさっきと全然ちがう。さっきは、データやエビデンスを出しても「オレが正しい」という態度だから反知性主義者はダメなんだ、と主張していた。でもデータやエビデンスが不適切だというなら、態度がどうしたとか言わずにふつうに反論すればいいんじゃないか?

が、内田の文はそういう整合性にはあまりとらわれない。ここでは「いま、ここ、目の前にいる相手」を「威圧すること」がよくないのだ、という主張をしたいだけで、それをさっきの、数百年かけたフェルマーやらリーマン予想やらに代表される(と内田の文が主張する)知性に対比させようというわけだ。

でも……フェルマーやらリーマン予想やらが、結果的に長年かかったとしても、それぞれの数学者はいま、ここ、目の前にいる他の学者に対してまずは自分の説を納得してもらおうとする。長時間かかるプロセスというのは、いま、ここ、目の前の積み重ねだ。

そして政治的な問題に就いての考え方はなおさらそうだ。いま目の前にいる相手を無視して、300年先にいるかもしれない人間を想定して、いつかだれかがわかってくれる、では意味は無い。いま目の前にいるこの相手を説得し、納得させて政治プロセスを動かさないと話にならない。そのために嘘をつくのはよくない、というのは規範として存在する。が、いま、ここ、目の前にいる相手を説得する、というのは別に特におかしなことではない。

内田の文の理屈が奇妙なのは、すごい長期の百年単位の学問的営為に対立させるのに、単になりふりかまわず相手を「威圧する」という道筋しか提示しないことだ。いま、目の前にいる人間を理詰めで説得する、という選択肢がなぜないの? 内田のこの文では、その選択肢がすっぽり抜け落ちている。そしてこれが内田の文に満ちあふれる、自分こそ知性の旗手でありその無謬性は疑う余地はないという話と結びつくと、出てくる議論は目を覆いたいほどのものになる。自分と意見がちがうやつは、反知性主義だ。データやエビデンスを提示されたりしても、自分が感情的に納得しなければ、それは相手の(相手の!!)勉強不足である。そしてまちがいを指摘されると、それは自分を高圧的に黙らせようとする威圧的な物言いだ、ということになってしまう。

つまり内田のこの文は、多少なりとも知的な議論をすべて拒絶し、自分の感情的反応だけを絶対として、自分の批判が自分自身にもあてはまるのではという疑念を一切持たない。それは、ぼくから見れば極度に反知性主義的な態度、それも最悪の意味での反知性主義でしかない。

これまでの内田樹の著作こそ反知性主義を体現している。

これは内田樹のこれまでの著作にも見られる態度ではある。内田樹のこれまでの一般向け著作は、街場のナントカ、おじさんのなんとか、という具合に、扱いのむずかしそうな問題に対し、常識的な素人の印象論に基づく議論を提出して見せた。これらはまさに、きわめて反知性的な身ぶりだ。そしてそれが必ずしも悪い結果を出すわけではない。たとえば初期の『ためらいの倫理学』などでは、一部のドグマ化しタコツボ化した思想に対して、非常にすっきりした見通しを出せていた。それが内田樹の著作のおもしろさだった。

だが、世の中には素人の印象批評では扱いきれない問題もたくさんある。そういうものに対して、内田樹の著作は完全に無力だった。たとえばかれの『街場の中国論』は、無知な素人の戯れ言に堕していた。

http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20070609/p1 (2019年に消えた。webciteの記録がこちら)

それでも、当初は内田樹の一般向け文章は、それなりのユーモアを維持することには成功していた。さらに、初期の『ためらいの倫理学』は、まさにその題名にある「ためらい」が、ときには浅はかな論調を救っていた。でも本書の文章では、そのユーモアやためらいさえない。己を相対化する視点も失い、ピントはずれの主張を生真面目に、何のためらいもなく断言するばかり。そして自分が知性であり、それに逆らう連中は反知性主義者であり、自分を威圧しようとしているのであり、デマゴーグであり陰謀論者であり、かれらの言うことなど自分の賦に落ちなければ一切耳を貸す必要すらないと言わんばかりの主張をはじめるに至っては、もはや何というべきか。

さて、次が白井聡の文だ。

(つづく)