イーガン『しあわせの理由』:坂村健の解説にびっくり

 イーガンは、順列都市もディアスポラもたいへん気に入って、たぶん高校か大学時代なら全作品を読みあさったところだろうけど、いまはそうならないのは、ぼくがすれっからしの読者になってしまったせいなんだろう。

 だから本書『しあわせの理由』も、刊行から十年以上たった今になってやっと読んだ始末。買ってはあったんだけどね。

 この本は(いやイーガンはすべてそうだが)、脳移植や、死や不幸に対するラッダイト的あこがれ、化学的感情コントロール、コンピュータ内の意識のありかた等々、テクノロジーと人間性との関わりをテーマにした中短編集で、どれもおもしろいんだけれど、やっぱりこの歳になると、どのテーマもまったく予想外というのはない。もちろんワームホールランナーとか、量子サッカーとか、一夫一婦制を強制するウィルスの概念設計とか、意外な仕掛けはたっぷりで見事なアイデア。でも、それを使って探求されるテーマ自体は、何らかの形でちょっとは考えたことがある。高校や大学時代なら、このテーマ自体がすごく衝撃、というのもたくさんあったはず。その意味で、もっと純真だった頃に読みたかったとは思う。でも、抜群におもしろい。そしてそのテーマをかっちり小説化するのにも成功している。ストロッツのような、妙な軽薄さもないし。


 が、イーガンがおもしろいのはむしろ当然。本書でぼくがそれよりも驚いたのは、かの坂村「TRON」健の解説。あの人、こんな楽しげでノリノリな文章が書けたのか?

 実は坂村とは、朝日新聞の書評委員を一緒にやっていた時期があったんだが、かれはかなり多忙だったらしく委員会にはほとんど出席していなかったので、話をしたことは一度もなかったはず。ぼくの出張も多かったので、すれちがいだっただけかもしれないけど。そして、当時かれの書いた書評を読んで、あんまりおもしろいと思った記憶がない。なにこれ、えらく通りいっぺんだな、という感じがして、それが忙しいせいだけなのかよくわからなかった。文才の問題というより、本をちゃんと楽しめてないんじゃないか、という印象さえ持っていた。

 が、本書の解説はすばらしい。イーガンの小説を実に楽しく読んで、それを伝えてやろうというノリと意欲がびしびし伝わってきて、最後は自分自身もまたイーガン的なちょっとした科学・数学的奇想に入り込む。まさにイーガン読みがちょっとイーガン化してしまうような、そんな味わえさえある。へえ、坂村健ってこんな文章も書けるんだ! そもそも本をまともに読めるんだ! お見それいたしました。失礼な言い方だけど、そう思って本当に感心した。こういう書評を当時もっと書いてくれてればなあ。

 正直いって、この手の解説というのがどのくらい販促につながるのかはよくわからない。ほとんどの解説は何の工夫もないひどいものだ。しかも専門書や科学書なら、だれかがそれを「解説」してまとめたり補ったりすることで付加価値は出るだろう。でも小説だとどうだろう。この本も、坂村の解説目当てに買った人っているんだろうか? 各種成人アダルトエロ小説にもいちいち「解説」がついていたりするけれど、あれって意味があるんだろうか? なんだか業界内で相互に小銭をまわしあうための仕掛けにすぎないように思う。だから通常は、中身はどうでもいいんだろう……あたりさわりさえなければ。その昔、三島由紀夫『美しい星』の解説を書いていた結構有名な文芸評論家が、『美しい星』がどういう話なのか理解できず、一家の妄想でしかない(それは作品で明確にわかるようになっている)火星人とか水星人とか言う話を完全に真に受けたピント外れの「解説」を書いていて唖然としたっけ。でもつまり、あたりさわりさえなければ、中身がデタラメですらかまわないということ。なまじ力を入れるとかえっていけない場合さえある。だから書く側も手を抜き、読者はさらにそれを読まなくなり、するとみんなあまりがんばらなくなるという悪循環。あんな解説でも、10万くらいはくれることもあるので、その分の仕事はしてほしいんだけどね。

 その意味で、本書の坂村健は立派に仕事をしているし、これを読んだ人は少しは買う気が起きたんじゃないかとは思う。祈りの海は、瀬名秀明が解説だそうで、かれは見事な書評を書けるから期待できるかな。日本に帰ったら読んでみるべ。




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