ガッダ『メルラーナ街の恐るべき混乱』:嫌いじゃないんだが、いま読む現代的意義はあるのか、といえばないと思う。

メルラーナ街の混沌たる殺人事件 (フィクションの楽しみ)

メルラーナ街の混沌たる殺人事件 (フィクションの楽しみ)

『メルラーナ街』は長らく入手困難な小説で、ミステリー仕立てにして殺人事件を追う中で、金持ち一家とその近所、刑事とその同僚たちのあれこれをなぞる中でだんだん現代(当時の)イタリア社会が浮かび上がってくる仕掛け。シューヴァル&ヴァルーのマルティン・ベックシリーズや、中井英夫『虚無の供物』みたいな趣向に近いかな。さらに原著はイタリア語としてかなり異様だったとか方言やら変な用語を多用したとかいうんだが、これは邦訳ではわからない。

で、ぼくは昔これをわざわざスキャンしてOCRして読むくらいにはすごいと思っていたし、いまもそれなりにおもしろいとは思う。でも、その後イタリア社会も変わったし、また特にガッダがしつこくやる、ムッソリーニ批判みたいなのが、いまやもう無意味になっているので、価値がかなり下がってはいると思う。ある意味で、いま時代が一周してバカの一つ覚えみたいなムッソリーニ批判はやめようという雰囲気が出てきているので、ひょっとしたらかつての批判が復興する意味もあるのかな。でも……あまりないと思う。いまの日本の読者はまったく知らない、昔の遠い社会の状況に対する批判文学――ガッダがそれだけじゃないのは事実なんだが、でもこと『メルラーナ街』に関する限り、そういう部分が大きかったのも事実。上のOCRを校正するとき(フィリピン出張が一ヶ月以上で、すごく暇だったんだよね)、全文をかなり詳しく読んでそういう思いを強くした。

上のOCRで見てもらえばわかるように、文章の中で連想が連想を読んで果てしなく文章が長々と脱線を続ける様子とかが、ジョイス的な意識の流れを取り入れた現代文学的な成果として当時は評価されていたんだと思う。だがそれがもっていた目新しさは、いまはもうない。同じ変わった文体や技法というなら、『ラ・メカニカ』とかなら、もっと現代的意義を主張しやすかったんだけど(『悲しみの認識』、ずっと本棚で寝てるのでそろそろ読もう)。その意味でも、21世紀にやってきた『メルラーナ街』はつらい立場に置かれている。豊崎由美がこれにどんな現代的意義を見ているのかは知らない(ぼくはときどき彼女の書評は変な文学コンプレックスが入り込むと思うのだ)し、再刊されないよりはされたほうがよかったとは思う。でもルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』の再刊の意義よりはかなり小さいとしか思えない。



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