冷蔵庫炎上事件と現代型非行

ヤンキー文化論序説

一連の「冷蔵庫に入った写真を Twitter 上に投稿して炎上する事件(冷蔵庫炎上事件)」に関して、当初は「情報リテラシー」と言う観点から眺めていたのですが http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425 を読んでそれとは違った観点で気になった事があったので、今回はそのメモ。テーマ的には「現代型非行」あるいは「いきなり型非行」に当たるでしょうか。

不良少年少女への教育機能を果たしていたものは何か

最初に抱いた疑問は「ああ言った不良少年少女 (DQN) に対して、かつて教育・指導を行っていたのは誰だったのか?」と言うものでした。これに関しては、現代では「体罰」とも言われるような指導を行っていた所謂「熱血教師」の存在も思いつきましたが、それよりも「ヤンキー集団(不良集団)」がその機能を果たしていたのではないかと言う考えに至りました。

現代型非行に関して論じられる際には、現代では非行に走る不良少年少女に対してある種の「規律(やっていい事といけない事の境界)」を教える役割を果たしていた「ヤンキー集団(不良集団)」と言うものが消滅したため、その場の思いつき(突発的)で幼稚な非行が増加していると言う点が指摘される事があります。

高野(1998)の言うように、かつての校内暴力はかなり組織的で、学校という権威に対する抵抗を皆で団結して行っているようなところがあった。そこには、学校文化への対抗文化としての非行サブカルチャーは確かに存在していた。少なくとも昭和50 年代後半までは、学校にもれっきとした番長組織があり、非行行動と日常行動の境界もある程度は明確であったし、だからこそ、校内暴力は反学校文化の象徴たりえたのでる。ところが、現代の校内暴力は、まったく組織化されておらず、きわめて個人的な行為へと変化してきている。学校文化に対する抵抗にまではとても至らず、いわば幼稚な、気に入らないことがあったから殴るといったような質のものへと変化している。したがって、学校設備に対する破壊行為も、かつてのように啓示的に行われることは少なくなり、むしろ隠れて行われることが多くなっているという。

よって、非行グループの絆が弱まり、非行少年が孤独化するということは、伝統的な非行技術の継承が途絶え、その場の思いつきで対応するような短絡的な非行を増加させ、さらに非行を正当化させるようなパーソナリティが育たないことにより、うっぷんをいきなり爆発させるような幼稚な非行が増えることを意味する。

少年非行の現代的性格とその原因について - 齋藤俊輔(p.36)

個人的には、ヤンキーに対しては「無法者」と言うイメージを抱きがちなのですが、実際には内部規律や上下関係に厳しく、新米の未熟な不良少年少女を育てると言う一面もあるようです(取り返しのつかない方向に育ってしまう事も往々にして有り得るでしょうが……)。

「茶髪狩りのエピソードが示すように、ヤンキーはルールが嫌いといいながら、実際はルールが大好きである。集会の様式にもこだわるし、上下関係にも厳しい。先輩がいうことには絶対服従である。シンボルをとても大事にする。日の丸なんかも好きだし(日の丸が好きなのにYankeeとは)。また他人がルールを守らないことについては不寛容である。他人のことなんかどうでもいい、とはけっしていわない。」(永江朗

ヤンキー文化論序説 - 情報考学 Passion For The Future

現代の若者の心理の変化にともなってこうした集団・組織と言う「受け皿」が消滅した結果、非行に走りがちな少年少女に対して教育・指導的な役割を果たすものがほぼ皆無になってきているのも原因の一つかもしれません。

「ウチの世界」への異常な気遣いと「ソト」への無関心

このテーマについて調査している内に、「現代の若者が公共の空間で傍若無人に振る舞うのは、仲間内への気遣いに全エネルギーを使い果たしており、それ以外を気遣う余裕がないから」と言う指摘がなされている記事を見つけました。

社会学者の土井隆義は、現代の子どもたちの「自己」のあり方の変貌、裏を返せば、他者との関係の取り方が変貌しており、それは「親密圏の変容」と捉えられるという。土井は、その本の中で、現代の10代の若者たちが、友だちや家族との関係からなる親密圏では、その関係を維持するために高度に気を遣って、互いに「装った自分の表現」をしあっている一方で、公共圏にいる人間に対しては無関心で、一方的に「素の自分の表出」をしていると指摘している。
…(中略)…
そして、土井は、電車の中などの公共の空間で、自分の欲望の趣くままにふるまう、たとえば携帯電話で喚声をあげながら会話する人とか、制服から私服に着替えたり化粧したりする少女など、その同じ場所に居合わせている他者が意味ある存在ではなく、風景の一部となっているようなふるまいは、親密圏での関係を維持するのに気とエネルギーを使いはたして、それ以外では使えなくなっていることに由来するという仮説を出している。すなわち、「昨今の日本の若者たちは、私たち大人から見れば異常なほどお互いに配慮しあわないと、関係の維持が困難だと感じているようです。そのため、親密圏の人間関係のマネージメントに際してもきわめて莫大なエネルギーを注ぎ込んでいるようです。だとすれば、公共圏の第三者に対しては逆にまったくの無関心であり、意味ある他者として感受されていないというもう片方の事実は、親密圏において、彼らがもてるエネルギーのすべてを使い果たしていることの表れだといえないでしょうか。親密圏の人間関係の維持運営だけで完全に疲弊して、その外部にいる人間に対しては、もはや気を回すだけの余裕がないのです」[土井 2004:15]と述べている。

これと似たような仮説は、同じ社会学者の森真一も出している[森 2005]。森は、仲間内の「ウチの世界」の外で、マナーがないかのようにみえる行為が多くなったことをマナーが衰退したのではなく、「ウチの世界」での「マナー」に神経を遣う、マナー神経症の時代になったという。

現代社会の「個人化」と親密性の変容――個の代替不可能性と共同体の行方―― 小田亮 - garage sale

http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425 で「うちら」と言う表現が使われていましたが、上記でも似たような表現になっていたのが興味深かったです。従来の「ヤンキー集団」とこの「ウチの世界」の集団との差は、前者が厳しい上下関係など一定の規律を持つ集団であるのに対して、後者は異常に「空気」を読み合う、言わばお互いに腫れ物を扱うような希薄で不安定な集団と言う事になります。後者のような集団だと、誰かが非行(犯罪)を行おうとした場合、その場の雰囲気を白けさせるのではないか不安になって拒否、あるいは戒める事ができず、ブレーキ的な機能はほとんど期待できません。

この観点から一連の炎上事件を考えると、「冷蔵庫の写真を投稿して炎上」と言う事件を見て模倣犯的な若者がまず始めに考える事は「仲間に面白がってもらえるかどうか」になります。「ウチの世界」の関係維持に全エネルギーを注ぐ若者にとって、気にすべき事は「仲間の反応」のみとなります。仲間が良い反応を示すだろうと判断すると、それ以外の人達からの反応に関してはほとんど検討する事もなく(もはや検討するエネルギーが残っていない)、一種の「仲間へのご機嫌取り」として実行に移すのだろうと考えられます。

メディアと模倣犯

最後は蛇足的な話題。

炎上の供給者は無知な「彼ら」かもしれませんが、そんな「彼ら」を見つけだす、広める誰かがいるわけです。今回の炎上ではネット上のウォッチャーに加え、ネット系メディア、そして新聞社も報道していましたよね。

それで、そういう火付け役がなぜこれらの炎上案件を取り上げるかと言えば、連鎖炎上を狙っているというところがあります。何かがヒットすればその類似品もヒットするのでは?という発想と同じ。大体、一つ難癖付ける需要者は、それに類似しているものも難癖つけたがって炎上を喜びますから、火付け役からすれば、ここに商機あり!と、ここぞとばかりに、TwitterFacebook でキーワード検索をして燃えやすい人を発掘するわけです。

「こちら」の世界 - 元トピ職人の釣り解説

衝撃的な事件が発生するとメディアとの関係について度々取り上げられます(これに関しては、娯楽としての凶悪犯罪 - Life like a clown で「衝撃的な事件と言うものは、第 3 者にとっては、身近な人との関係を壊さずにあれこれ言える娯楽となり得る為こぞって報道される」と言う記事を書いた事がありました)。また、インターネット上の事件については、 Google Group での情報漏えい事件 後のようにいったん話題になると探偵ごっこのような感じで多くの人が似たようなの事例を探し始めるので、芋づる式に不祥事が明るみになり一大事件になってしまうと言う性質もあります。

メディアに関しては、非行を行う側にとっても影響を与える(模倣犯を生み出す)と言う指摘もよく行われます。

少年とは、その未成熟さ故に、さまざまなものの影響を過度に受けてしまうものである。その中でも、テレビを中心とするマスメディアは少年たちの生活に最も密着しているものである。その影響の強さから少年たちを犯罪に押しやったり、(あるいは非行に至るのを押しとどめたり)する力を持っている。

マスメディアの影響が、少年たちの間である価値観を生み出し、それを広げていった例としては、戦後最悪の検挙数を記録した昭和50 年代の第三の波の時期に「不良ブーム」「ヤンキーブーム」が起こったことが挙げられる。この時期は中学での校内暴力を始めとして、傷害犯の割合が高かった。(表1−3−1)こうした少年を若者の象徴として、「不良」「ヤンキー」などについてメディアが取り上げることによって、それをかっこいいと思うような若者を生み出し、どんどんその数を増やしていったのである。
…(中略)…
模倣犯というのはまさにメディアが作り出したものであり、少年自身が内部にその因子を持ち合わせていたわけではない。少年の実態が変化したわけではなく、社会が変化したことにより、少年たちは(少なくとも非行を行うような少年に限って言えば)、そのような非行の手段しか持ち合わせていなかったのではないだろうか。

少年非行の現代的性格とその原因について - 齋藤俊輔(p.33--34)

今回の一連の冷蔵庫炎上事件も模倣犯が数多く発生しているようで、この辺りとの兼ね合いも気になる点です。

おわりに

この記事を書き上げる直前に 「自分たちの世界だけで完結する」を学歴問題にしないほうがいい : ARTIFACT ―人工事実― と言う記事を読んで、ちょっとまだ調査不足だなと言う気がしているので、しばらくこのテーマは追って行こうかと思います。ただ、ブックマークコメントにも少し書いたのですが、今回の事件は多くの模倣犯が出現しており、(それまでの事例とは)「思慮の浅い若者が公開していた都合の悪い情報がたまたまバレた」と「それをやったらどうなるかが報道されていたにも関わらず同じ事をやった」と言う違いがあります。前者に関しては「情報リテラシー教育の不足」に起因すると見る事ができ、私自身もこれまでは「情報リテラシー教育が確立して行き渡れば解決していくだろう」と考えていたのですが、後者のように模倣犯が大量に出現するとなると、それだけでは解決できなさそうなのが気になるところです。

この問題は、多くの人が指摘しているように、個人的にも「問題は分かったがどうしたら解決するのか分からない」と言うのが正直なところです。ユーザ視点で言えば、http://djbudo.hatenablog.com/entry/2013/08/07/040641 で言われているように「各種 SNS の運営側が、初期公開設定を友人のみ(プライベート)にする」と言う形にするのが無難な落とし所かなぁとも思うのですが、運営側の利益(PV 稼げない等)も考慮すると恐らくそう言う風潮にはならないだろうと言う予感がします。