人間の歴史は、有害生物との戦いの歴史でもある。
マイクロソフト創業者のビル・ゲイツが率いるビル&メリンダ・ゲイツ財団は2014年、「地球上の人間は1年間に、どの動物にどれだけ殺されているか」とのレポートを公開した。
そのランキングのトップは「カ」だった。カはマラリアやデング熱などを媒介し、年間72万5000人もの人間が命を落としているという。続いてヘビは5万人、噛まれて狂犬病などを発症するイヌは2万5000人の人類の命を奪っている。ちなみにライオンに襲われて殺される人間の数はわずか100人、サメはわずか10人である。
日本ではあまり馴染みがないが、アフリカ原産の吸血性のハエ、ツェツェバエによる感染症では年間1万人が死亡している。近年では、ヒアリの脅威が国内で報道された。
意外にも、小さな昆虫が人類の脅威になっているのである。
こうした害虫から、人間社会を守っているのが、殺虫剤を手がけるメーカーである。
実はアース製薬、大日本除虫菊、フマキラーといった大手家庭用殺虫剤メーカーや、業界団体である日本家庭用殺虫剤工業会は「虫供養」を毎年実施している。害虫の殺生を生業にしている企業ではあるが、「供養せずにはいられない」という。
ここでは害虫を相手にした商売をする企業の供養の様子を紹介していく。供養のあり方から、日本的な経営のすがたが見えてくるはずだ。
アース製薬は毎年12月中旬、研究所がある兵庫県赤穂市の妙道寺で虫供養を実施している。業務時間が終了すると、社員の乗り合いで寺に向かい、およそ1時間、しっかりとお勤めに参加するという。
2017年は研究開発部員の正社員ほぼ全員にあたる約80人が参列した。本堂にはハエ、カ、ゴキブリ、マダニなどの7種の「遺影」を並べ、1人ずつ焼香をし、手を合わせる。
同社の研究所では常に100万匹のゴキブリや1億匹以上のダニなどを飼育している。製品の改良・開発では、無数の害虫の犠牲が前提になってくる。また、殺虫剤やゴキブリ捕獲器などを消費者が使用すれば、当然のことながら多数の害虫を死に至らしめることになる。同社の虫供養では人間が安全・快適な生活を送る上で犠牲になった害虫を、広く弔いの対象としている。
同社研究開発本部副本部長の永松孝之さんは、長年、虫供養に参列してきたひとりだ。永松さんは大学時代の専攻は魚類の研究で、実験で使用される魚類の供養を毎年実施してきた、と語る。永松さんはアース製薬に入社し、30年以上が経過するが、新入社員の時から虫供養は行われていたという。実験動物を使う理系の研究者にとって、供養はごく自然な行為だという。
「研究所の発足時から虫供養はやっていたのではないかと思います。参加は強制ではありません。しかし、毎年、ほぼ全ての研究員が声を掛け合って参加します。研究に関わる実験用の虫への鎮魂の気持ちを込めて供養しています。エンドユーザーによる虫の駆除にまで思いを馳せているかについては、推し量ることは難しい。しかし、それでも『いっぱい殺して、ごめんなさい』という償いの気持ち、そして『(実験用の害虫の)おかげさまで商品開発ができています。商品開発がうまくいきますように』との思いは、みんなで共有しながら参加しています」
住職による説法も
読経が終わると、住職による説法もある。以前は「六根清浄」がテーマだったこともあったという。
仏教でいう「六根」とは、眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・身(触覚)・意(意識・心の働き)のこと。人間にはもともと備わる六根によって迷いが生じている。これを「執着」とも捉えることができる。この六根の迷いを断ち切ることが、よりよい生活を送ることにつながると、仏教では説く。
六根清浄の考え方を、不快害虫に当てはめれば、こう考えることはできるだろう。例えばゴキブリを見て大多数の人は不快に思う。これは六根が作用し、視覚的に「気持ち悪い」と認識しているからである。そもそもゴキブリは、子どもたちに愛玩される対象のカブトムシやクワガタと色・形はさほど変わらない。しかし、ゴキブリは人間の意識の中では「不快」な存在として捉えられる。その結果、日々、殺処分されているのである。
人間主体の世界において、その生物が害を及ぼす、及ぼさないにかかわらず、多くの命が犠牲になっているのは確かである。
アース製薬など業界16社や関係学会らで構成する業界団体の日本家庭用殺虫剤工業会でも1973年から毎年1月上旬、新年の賀詞交歓会に先立ち、「虫慰霊祭」を実施している。
こちらは、出雲大社神殿(大阪別院)にて執り行われる。アース製薬の川端克宜社長をはじめ、大日本除虫菊やフマキラーなどのトップも例年参加する、大きな儀式である。
朝日新聞大阪版2013(平成25)年1月16日付夕刊では、第3面の4段カラーを使って虫慰霊祭の大きな特集記事を組んだ。そこには祝詞の要約と、「キンチョー」で知られる大日本除虫菊社長で同工業会の上山直英会長のコメントが掲載されているので紹介しよう。
《ここに並ぶ人たちは、人間生活の利便のために虫退治の仕事に励んできました。しかし虫にも魂があり、仕事とはいえこれを殺すことは、ものの哀れを知る人にとってやるせないことであります。ですから神様から亡くなった虫たちに、安らかに眠るようご指導を願います》──祝詞原文を朝日新聞が要約
「私たちはある意味、虫にお世話になっている。虫が棲めない世界では人間も暮らせないわけで、自然環境を壊すことなく快適な生活ができるよう殺虫剤をつくっている。その思いを、新年を迎えて改めて確認するのがこの慰霊祭です」(大日本除虫菊・上山直英社長)
殺虫剤メーカー各社は近年、東南アジアに拠点を置き、特にカを媒介とする感染症対策に乗り出している。アース製薬ではタイのバンコクに連結子会社を置いている。タイは上座部仏教国であり、在家信者にたいして不殺生戒(五戒)を厳しく定めている。また、生き物を殺さない、あるいは生き物を逃がしてやること(放生)は善行と見なされ、この功徳の大きさによっていかに幸せに生まれ変われるかが保証されるのである。
取材の折、研究開発本部の永松さんにバンコクに連絡を取ってもらい、現地法人でも虫供養をやっているかどうかを聞いてもらった。すると、事業所にはブッダ像を祀る祠を設け、社員はそこで毎日、手を合わせているという。
私は永松さんに、
「もし、虫供養がなければ、社業にどんな影響があるか」
と聞いてみた。
永松さんは少し考え、このように答えた。
「供養をしなかった年があったならば……業務上のトラブルや事故、業績の悪化、社員の家庭の問題など様々なマイナス面が起きた時に、『虫供養をやらなかったからではないか』などと因縁として、結びつけてしまうのではないでしょうか。一回、供養を始めると行かなければ心の落ち着きがなくなる。それが日本人の心の習慣というものなのでしょうね」
「小さくとも命は命」
次に害虫の駆除会社を訪ねた。駆除会社もまた、害虫の殺生ありきの事業体である。害虫駆除会社は殺虫剤メーカーのような大企業を形成するところは存在せず、多くが中小企業である。しかし、きちんと虫供養を実施している駆除会社は少なくない。
静岡県浜松市中区の鎌田白蟻も、長年熱心に害虫供養を続けてきた企業のひとつである。
鎌田白蟻の創業は1976(昭和51)年。高度成長期、続々と住宅がつくられていったのを背景に、シロアリ被害も増えていった時期である。創業者である鎌田雅嗣会長はそこに商機を見出した。
創業から半世紀近くが経過し、現在では13人の社員を抱えるまでに成長した。静岡県西部から愛知県東部までのエリアの害虫駆除・予防を手がけ、その施工数は年間約3000件にも及ぶという。
シロアリはゴキブリやトンボと並んで、数億年前の恐竜の時代からその種を維持している生物である。実はシロアリは、一般的なアリがハチ目アリ科である一方でシロアリ目シロアリ科に属する。生物分類学上はシロアリはむしろ、ゴキブリの仲間に近い。
シロアリは地球上で最も個体数の多い昆虫と言われている。倒木や落ち葉を食料にするだけでなく、プラスチックやゴム、コンクリート、金属まで食べるという。ありとあらゆるものを分解してくれるシロアリは、自然界にはなくてはならない昆虫なのである。
だが、ひとたび家屋に侵入すると厄介なことになる。近年は、高機能住宅だからシロアリにやられるなんて前時代のこと、などと考えるのはとんだ間違いである。
シロアリはコンクリートをも侵食し、発泡ウレタンなどでできた断熱材も食べ進んで蟻道だらけにしてしまう。蟻道だらけになった建材に支えられた家屋は、地震などをきっかけにして倒壊の危険にさらされるとも限らない。シロアリは人間社会にとっては、脅威になりうる昆虫なのだ。
鎌田白蟻では、施工総数の3割強が、新築時に施すシロアリ予防だという。残りが実際に薬剤などを噴射しての害虫の駆除となる。作業が混み合うのは、シロアリが活動を活発化させる毎年4月から11月ごろまで。同時期にはムカデやゴキブリ、スズメバチなどの駆除の依頼も集中する。近年は温暖化のために、様々な害虫が増えているという。
社長の鎌田信行さんは語る。
「ある施主様の家では毎日のようにムカデが出て、家主様がノイローゼ状態になられていました。その方はムカデの死骸の数をカレンダーに「正」の字を書かれていて、数を数えたら1年に100匹以上にもなっていました。家主さんは『もうこんな家いやだ、5年も住んでないけど、売ろうと思う』とおっしゃる。そんな時、我々が駆除をして、『出なくなってよかった』と言っていただけるのがやりがいです」
しかし、鎌田さんは決して、無用な駆除はしないと強調する。
例えば、過去にこんな依頼があった。
「家の周りにクロアリが一杯いて、気持ち悪い。駆除してほしい」
そんな時、鎌田さんは、
「クロアリはナメクジを追い払い、ゴキブリも食べてくれるいい虫です。殺すより、家の中に入ってこない対策をしましょう」
と虫との共存を提案する。
「我々駆除業者は、殺す行為に慣れてしまう傾向があります。しかし、小さくとも命は命です。命を奪わざるを得ない時は、慎重にならなければなりません」
鎌田白蟻では例年2月、創業家である鎌田家の菩提寺、曹洞宗仙林寺を会場にして13人の社員全員が参加する供養を実施する。その日は、駆除の予約を入れないという。中小企業にとっては1日分の売り上げが立てられないことになり、また、お寺へのお布施も発生するが、
「ここまで会社が成長できたのもシロアリのおかげ。そして、我々がやっていることは殺生であることには間違いありません。本当は1年に1度の供養だけでは足りないと思っています」
と鎌田さんは語気を強める。
先祖代々の墓にシロアリのなきがら
なんと、鎌田家の墓には先祖代々の遺骨に加え、シロアリのなきがらを納めているという。
供養では住職に「害虫有害鳥獣供養塔」と墨書きしてもらった札を祀り、読経と焼香をする。5年ほど前までは「しろあり供養」と呼んでいた。しかし、最近ではニーズがシロアリ以外にも、スズメバチやムカデ、ゴキブリ、ネズミ、ダニ、ヤスデ、チャタテムシなど多種に渡ってきたために、「しろあり・害虫獣供養」と名称を変えた。
申し訳ない。ごめんなさい。あなたたちのおかげで私たちは生かされています──。
鎌田さんは読経の最中は、胸の中でこう害虫に対する謝罪を繰り返すという。
「一寸の虫にも五分の魂という言葉がある通り、害虫にも魂は存在すると信じています。我々が殺生をしていることにたいして、純粋に謝罪をし、感謝の思いを伝えます」
2017年春は鎌田白蟻社員にとって、かけがえのない機会になった。高野山の奥の院にある「しろあり供養塔」への参拝が叶ったからだ。
高野山のしろあり供養塔は、業界団体である社団法人日本しろあり対策協会が1971年に建立したものである。
大きな庵治石に黒御影石がはめ込んであり、真っ白な字で、
「しろあり やすらかにねむれ」
と揮毫されている。
同協会は建立の趣意について、こう記している。
《(中略) 生をこの世に受けながら、人間生活と相容れないために失われゆく生命への憐憫と先覚者への感謝の象徴であり、会の進展団結を祈念するものに外ならない。(後略)》
この供養塔には、しろあり以外に、しろあり防除に携わってきた功労者(人間)も合祀されており、現在、120人以上が祀られているという。
この世界は、人間が食物連鎖の頂点にいるのは確かだ。人間が豊かな社会生活を営むためには、害虫の犠牲は致し方ないところではある。しかし、小さな命にたいしても、思いを馳せることがいかに大事なことか。
鎌田白蟻の社員たちは1泊2日のスケジュールで高野山に赴き、献花をし、手を合わせたという。
「線香をあげているとすっと心が落ち着く」
「善い行為をしていると感じる」
「供養を終えるとよし、今年も立派に供養できたとホッとする」
同社の害虫供養にたいし、社員はそんな声を漏らす。
社長の鎌田さんは最後に、こう言い添えた。
「しろありの祟りを畏れてという意識はありません。しかし、生き物の命を扱う商売をしている我々は、誰かに常に見られている、悪いことをしているときっとバチが当たるという感覚を持っています。例えば無謀な金額を請求したり、見えないところで施主を騙したりすると、きっと天罰がくだる。そんな思いを抱きながら日々、誠実に仕事をしています」
供養は、ガバナンスやコンプライアンスの強化に効果あり──。現代社会における、供養の効能が見えてきた。
※本稿は筆者の最新刊『ペットと葬式 日本人の供養心をさぐる』(朝日新書)から一部、コンテンツを抜粋し、再編集したものです。
「うちの子」であるペットは人間同様に極楽へ行けるのか? そう考えると眠れなくなる人も少なくないらしい。仏教界ではペット往生を巡って侃侃諤諤の議論が続く。この問題に真っ正面から取り組んで、現代仏教の役割とその現場を克明に解き明かしていく。筆者は全国の「人間以外の供養」を調査。殺生を生業にする殺虫剤メーカーの懺悔、人の声を聞く植物の弔い、迷子郵便の墓、ロボットの葬式にいたるまで、手あつく弔う日本人って何だ!?
朝日新聞出版刊、2018年10月12日発売
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