無印良品、ファミリーマート、パルコ、西武百貨店、西友、ロフト、そして外食チェーンの吉野家――。堤清二氏が一代でつくり上げた「セゾングループ」という企業集団を構成していたこれらの企業は、今なお色あせることはない。

 日本人の生活意識や買い物スタイルが大きな転換期を迎える今、改めて堤氏とセゾングループがかつて目指していた地平や、彼らが放っていた独特のエネルギーを知ることは、未来の日本と生活のあり方を考える上で、大きなヒントとなるはずだ。そんな思いを込めて2018年9月に発売されたのが『セゾン 堤清二が見た未来』)だ。

 本連載では、堤氏と彼の生み出したセゾングループが、日本の小売業、サービス業、情報産業、さらには幅広い文化活動に与えた影響について、当時を知る歴史の「証人」たちに語ってもらう。

 

 連載第5回目に登場するのは、国際日本文化研究センター教授の大塚英志氏。堤清二氏は経営者でありながら、社会の未来を予見し、消費や生活のあり方を変えようとした。堤氏を支えたのは、どんな思想だったのか。大塚英志氏に聞いた(今回はその中編)。

国際日本文化研究センター教授の大塚英志氏(写真/的野弘路)
国際日本文化研究センター教授の大塚英志氏(写真/的野弘路)

インタビューの前編(「今の経営者はなぜ「月」の夢しか抱けないのか」)では、現代の経営者がかつてよりも創造力ある「夢」を抱けなくなっていると指摘されました。堤清二氏が存命なら、現在の日本社会をどのように評価すると思いますか。

大塚英志氏(以下、大塚):堤清二は著書の中でインターネットについて言及していて、ある種の未来を見通しています。

 ネットワーク的な社会が、悪い意味で日本の村社会みたいなものを復興させるんじゃないのか。全体主義的な方向に向かうのじゃないのか、ということを危惧していました。

 それを抑止するにはどうしたらいいんだと考えた時、彼にとっては最後に、倫理が問題になるわけです。消費者にも、企業にも、倫理を求めていた。

 例えば「公共性の概念が日本の企業には全くない」と堤清二は批判しています。「ムラ」的なものを、日本的な「公」として賛美しようとしている。「近代を清算しないままネットワーク社会に突入していったらダメだろう」とさかんに言っているのです。それもインターネットの実態がない時代に、です。

 そこは非常に先見的だし、批評的です。

 ネットの中に出来上がる社会を律する倫理感を個人の中に発生させたい。そんな感覚が、堤清二の中にはあるのでしょうね。

 だからこそ、彼にとっては「近代的な個人」がやはり重要になってくるのでしょう。近衛新体制は近代的な個人を否定する点で全体主義なのだけれども、そこが近代主義者であった堤清二と近衛新体制の違うところです。

 彼は近衛新体制が生んだ子供でもありますが、近衛新体制がファシズムに向かっていった経緯も見ているから、そこで否定された「個人」の倫理が重要だった。

 堤清二の著書『消費社会批判』を読み直してみると、今後の社会の方向性や今抱えているリスクという点で、ほぼ堤清二が予言した通りの、悪い方になってしまったな、と感じました。

 良き未来を構想する力は悪しき未来を正しく予見する力でもあるわけです。

例えば、どのような点で「悪い方になってしまった」のでしょう。

堤清二が若い世代を見て嘆いたこと

大塚:企業や組織のトップが何をやってもいいのだという「無限責任」と、責任を取るべき時に責任を取らない「無責任」が共存していて、そこから脱却しない限り日本の組織はダメになるよ、という予見などが分かりやすい例でしょう。

 この1年を振り返っても、安倍政権の周辺やスポーツ組織、大企業……堤清二が指摘したような問題が山ほど露呈していて、それがこの国全体に及んでいることは、流石に誰もが気がついているはずです。

 昔は、「まさか私たちはそこまでバカじゃない」と思っていたけれど、「ああ、本当にバカだったんだな」というのが、彼の本を読み直した時の感想です。

 最悪な状況を避けるための解決策の輪郭を、堤清二自身も今ひとつ描き得ないままでした。でも、これは彼の後の見通しを描けなかった側の責任です。僕も含めて、なぜそれを発展させられなかったのかな、と思います。

1970年代、1980年代に堤清二氏が小売業について指摘していた問題点も、今なお横たわっています。当時から何も変わっていない。

大塚:戦後の日本人は、彼の言い方だと「内的洞察」かな、つまり反省していないと言うんです。歴史に対する反省がない、と。

 ここも柳田國男に似ています。歴史を学ぶのは「内省」の手段だというのが柳田民俗学の基本です。でも、今では歴史は「日本スゴイ」論のツールで、「内省」は自虐史観と叩かれる。

 堤清二は、『消費社会批判』を書いた時点で、当時の若い世代(つまり僕たち)が、全体主義、民主主義、自由主義といった体制をまるでファッションのモードの違いぐらいにしか思ってないとも批判しています。

 彼らの世代には第二次世界大戦への反省があります。その反省が蓄積されないことに対する危惧がありました。単に戦争への反省というよりは、歴史の中から倫理の主体をつくっていく、ということです。

 反省せずに同じことを繰り返すのは、2000年頃からの大きな問題です。10年ぐらい前になりますが、「歴史は昭和初頭を繰り返している」という趣旨のことを思想家の柄谷行人が言っていました。

 僕も『更新期の文学』というの本の中で、ネット社会はおそらく近代を同じようにもう1回やり直すだろうと指摘していて、悪い意味でその通りになっています。

 アニメなどでは”ループもの”が少し前に流行しましたが、このグルグルと同じ時間をループしているという感覚を、みんなは感じないのでしょうか。

 例えば雑誌をめくっていると、「広告にはストーリーが必要だ」とあったりします。けれど「それ、昔やったよ、博報堂や電通で」と僕は思うわけです。僕は1980年代末から1990年代初頭、「物語の消費」みたいなことを盛んに広告代理店の雑誌に書きまくっていましたから。

 それがループされて、同じことを他人が言っているのを見ると、当時の自分のバカさ加減がよく分かります。

過去のループから抜け出せない

過去から変われていないのは、小売業に限ったことではないということですね。

大塚:例えば中央線沿線には若い子がやっている古本屋がたくさんあります。そこに行くと、「これは1980年代の僕たちの本棚だよな」という感じがするわけです。山口昌男があって、レヴィ=ストロースがあって、吉本隆明がいて。新しいのは東浩紀くらいなのだけれど、彼だって遅れてきたニューアカですから。

 結局、1980年代が終わった後、ニューアカ以降に新しい思想がなかったんでしょうね。あの後出てきたのは、僕とかろくな人間が出なかったのだから、それは僕たちが悪かったのかなと思います。

 団塊世代から後の世代は、ろくな思想がつくれなかった。それは僕らの大きな責任なのでしょうね。それでも、つくった気になっている人が少なからずいるので、さらに若い人は騙されてしまう。

 今の思想は、過去からサンプリングして、それでリピートしているような感覚です。過去がデータベースになっている。けれど歴史への向かい方として、サンプリングすることと「内省」は全く違います。

 今は色々なことが停滞しているようにも感じます。ループして、停滞して、躊躇(ちゅうちょ)して。本当は変化しないといけないと分かっているのに、「何で曲がらないの?」というところで、曲がれずにいます。

 政治だってそうでしょう。「加計学園の問題のように公文書が扱われていったら社会システムがおかしくなっちゃうよ」とみんなが分かっているけれど、それでも政権は変わらず、なかったことになって引き返されてしまいます。

 未来像が描けないからカタストロフを期待しているとしか思えないような、あるいは先送りできるものは全部先送りしておけ、というようにさえ感じます。

堤さんは晩年近くなって、(護憲のために作家の大江健三郎氏らが呼びかけて発足した)「九条の会」などの活動に精を出していました。それについてはどう評価しますか。

大塚:公共性は一体何なのかを考えた時、戦後、ある世代・年代の中では、憲法9条が倫理化していったわけだから、それを擁護しようというのは分かります。

 柳田國男だって、死ぬ間際の最後の講演で、「憲法の芽をどうやったら生やせるのか」とつぶやくわけです。柳田國男は憲法9条を審議した枢密院の最後の顧問の1人ですから、実は憲法の審議に形式上は関わっていた。だから責任感もあった。

 堤清二くらいの世代は、憲法9条の中の平和主義が、GHQから押し付けられた思想ではなく、むしろ第一次世界大戦後の国際的な秩序の反映だったということを知っているはずです。

 近代がかろうじてつくり出した多国籍主義や国際間の倫理を日本が踏みにじることによって悲劇に向かっていったという歴史感覚が、あの年代にはあるわけです。だから、あの年代の政治家たちは、みんなリベラルに回帰していくのでしょうね。

 彼らは社会を構想したり、設計していく時、歴史の失敗がどこにあったのかという観点から戦争を考えられました。戦争責任を誰かに押し付ける、あるいは擁護することとは別の水準です。

 だから角川文庫の創刊のとき、(角川書店の創立者である)角川源義は「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対していかに無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身をもって体験し、痛感した」と語りました。

 つまり、「俺たち若い世代がちゃんと勉強しなかったからバカな戦争をやって負けちゃった」と反省したわけです。

 「自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た」とも言っています。バカでは近代はつくれません。だから角川文庫を出す。つまり角川にも、堤清二と同じような構想力があったわけです。

反知性主義を危惧していた堤清二

時代背景以外の要因をどう分析しますか。

大塚:前回の最後に話したことの延長ですが、今は「人文知」を社会や政治がないがしろにし始めています。社会とどう関わっていくのかということを、人文知の側が頓着せず、研究のための研究を重ねて、社会への見通しを提供できなくなってしまった。

 そこにつけ込まれて、国も人文科学の予算を減らして、「予算が欲しかったら成果を出せ、社会に還元しろ」と言います。

 しかしそれは、「今年出した予算の成果を来年、還元しろ」というレベルの短期的スパンです。しかもここで言う「成果」は、経済的なリターン、投資効果の考えです。

 それに対して、人文知の側は長いスパンでの社会との関わりの見通しをつくれなくなっています。文学もそうです。だから経済効率を求められた時、そこで反論できる材料を持ち合わせていない。

 結局、これから先、つまり消費社会の次にくるネット社会というものは、人間関係をすべて経済化していくんだと、堤清二は予見していました。けれど本来は「経済」を制御する思想が必要なわけです。それがかつてはマルクス主義だったけれど、今はありません。代わりをつくるのが人文知の仕事でなくてはならないのに、それができていないのです。

 そもそも、私たちが「コンプライアンス」とか「ガバナンス」という片仮名の言葉を使っているのは企業倫理がない証拠です。だから「指針」だけが、ことあるごとにムダに細かくなる。

 「倫理」というのは決して難しいものではありません。「セクハラ」だって本来は、「それを言ったら人としてアウトでしょう」という共通感覚のはずです。それを形成するのは学問や文学、そしてジャーナリズムであり、それを伝えていくメディアです。

 堤清二は「メディアは大衆の言うことをそのまま増幅していくだけ」、そして「大衆も知的な怠惰がある」、つまり反知性主義に対する危惧を遠回しに言っていました。

 一方で堤清二は、倫理や知性を人間の行為の中でつくっていくことと、モノを消費することを結び付けようともしました。

 消費による自己実現というより、消費による人間形成ですね。それは傲慢であるとも取れますし、冷静だとも言えるでしょう。この矛盾が、堤清二の思想として面白いところだし、理解し難いところだったのでしょうね。

堤氏は倫理を追い求める一方で、やっぱり経営者だったのでしょうね。

大塚:経営者だから、倫理があって当然と思っていたと思いますよ、世代的に。だから倫理というものを、経営のカードとして切ったわけです。

 無印良品は「ブランド」という差異化のゲームの最後のカードとして、ブランドを否定しました。ノーブランドがブランドになっちゃうというロジックです。これは終着点でしょう。そのカードを切ったわけだから、堤清二はすごいですよね。

 けれど、出来上がったものはありふれたブランドになっていくから、彼はイラ立ったのでしょうね。記号社会に対する最後のジョーカーとしての無印良品の意味は、後継者に分かるはずはありません。「思想の問題だから無理だよ」と現場に同情もしますよね。

(後編に続く)

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