全国各地で熱戦の火ぶたが切られた夏の高校野球。そんな中、勝敗に関係なく話題になっているのが全国有数の激戦区、東京大会(東東京、西東京)の開会式で行われた選手宣誓だ。
7月8日、神宮球場で行われた東・西合同の開会式。選手宣誓を行ったのは、早稲田実業高校の清宮幸太郎主将だ。
都議選に圧勝した小池知事の人気を上回る選手宣誓
開会にあたりまず挨拶に立ったのは、小池百合子東京都知事。先の都議会議員選挙では知事が率いる「都民ファーストの会」が圧勝を収めたこともあり、小池知事が祝辞を述べるとスタンドの熱気と盛り上がりは一気に高まった。
しかし、そんな小池知事の人気をさらに上回る宣誓をやってのけたのが清宮選手だった。
宣誓。
私たちは野球を愛しています。
私たちは野球に出会い、
野球に魅せられ、
野球によってさまざまな経験を重ねて、
この場所に立っています。
(中略)
青春のすべてをかけて戦うことができる幸せと喜びを、
支えてくれるすべての皆様に感謝しながら、
野球の素晴らしさが伝わるよう、
野球の神様に愛されるように、
全力で戦うことをここに誓います。
この宣誓のどこに関心を寄せるかは人それぞれだろう。また、そもそも高校球児の宣誓としてはあまりにも「大人びている?」「文学的過ぎる?」「ドラマっぽい?」と否定的な意見もあるのかもしれない。
私個人としては、素晴らしい宣誓だったと素直に感動しているが…。
「野球が好きっていうよりかは、愛している」
しかし、ここで考えたいのはこの宣誓の是非ではなく、清宮主将が使った「野球を愛しています」というフレーズについてだ。
現在59歳の筆者だが、かつては高校球児(埼玉県立春日部高校)だった。それはほぼ40年前のことになってしまうが、果たしてその時の私が「愛しています」という言葉を使えたかどうか?
もちろん意味としては理解していただろうが、日常の中で「愛しています」という言葉を使ったことはまずなかったと思う。
清宮選手本人は、どんな感覚でこの言葉を選んだのだろうか。
「好きっていうよりかは、愛しているので。より思いが伝わるかなと」
素直に驚いたのは、高校生である彼がもうすでに「愛している」という言葉を実感として獲得していることだった。
好きっていうよりかは、愛している…。
それはドラマの中の台詞(せりふ)ではなく、自分の日常においてその思いを自覚している。それがすごいと思った。
「好き」よりも、野球がもっと自分自身にコミットしている。その感覚が「愛している」なのだろう。
自分の仕事を「愛している」と言えるかどうか?
それは具体的に宣誓の冒頭でも語られている。
私たちは野球に出会い、
野球に魅せられ、
野球によってさまざまな経験を重ねて、
この場所に立っています。
野球のおかげでさまざまな経験を重ねることができる。そのことはありがたいことだ。だから感謝しているし、野球を愛している…。そうした環境と恩恵を彼はしっかりと理解しているのだ。だからこそ、その思いを表現する言葉として「愛している」という言葉が必要だったし、それを使うことができる。
「好き」と「愛している」では何が違うのか?
ここまできてそんな言葉遊びをしても仕方がないと思う。考えたいのはレトリックではなく現実としての「思い」だ。自分のやっていることを「愛している」と言えるかどうかは、その対象との関わり方に大いに関係があるのだと思う。
私たちも自分の仕事を「愛している」と言えるかどうか? 言えないこともあるかもしれないが、そう言える関係性の方が良い仕事ができそうな気がする。
清宮選手が「野球の神様に愛されるように…」と言うならば、私たちは「その仕事の神様に愛されるように…」となるだろう。
綺麗ごとかもしれないが、でき得るならばそんな気持ちで自分の仕事と向き合いたいものだ。
高校野球は残酷だ。優勝する1校を除いてすべてのチームが負けを経験する。しかし、その高校野球を「愛している」という思いで終えられる選手は幸せだ。それは試合に勝った負けたの話ではなく、最後に「愛している」と思えたことで、3年間の高校野球に見事に「勝った」と言えるのだろう。
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