守勢に回る時間が多かったことを考えれば、負け惜しみの一つでも言いたくなる気持ちは分からないでもない。
9月26日、米ニューヨークで開催された米大統領選のテレビ討論会。大統領の座を争う2人による初の直接対決は、過去に例がないほどの高い注目を集めた。米ニールセンによれば、テレビで討論会を視聴した米国人は少なくとも8400万人と過去最高。ネットでの視聴も含めれば、それ以上の人が2人のバトルに釘付けになった。
大統領候補らしさが裏目
1960年のケネディ氏とニクソン氏、1980年のレーガン氏とカーター氏の時のように、討論会のパフォーマンスが勝敗の帰趨を決めたケースは過去にはあるが、最近は討論会そのものが選挙結果に決定的な影響を与えることは減っている。それでも、今回の討論会が注目を集めたのは両候補ともに好感度が低く、判断をしかねている有権者の有力な材料になるとみなされたためだ。
政治家としての経験や判断力は評価できるが、嘘つきで不誠実だいう印象のクリントン氏と、アウトサイダーとして閉塞感の漂う現状を打破するという期待がある半面、知識や言動、振る舞いなどあらゆる面で大統領の気質に欠けると思われているトランプ氏。いわば究極の消去法を迫られている米国民にとって、90分の真剣勝負はどちらがマシなのかを見極める重要な機会である。
それでは初戦はどちらが勝ったのか。既に様々なところで指摘されているように、メディアの評価や調査会社の数字を見ると、クリントン氏が優勢だったという見方が強い。
米ハーバード大学ケネディスクール政治研究所によれば、リアルタイムで開催していたバーチャルタウンホールミーティングに参加していたミレニアル世代(1981~98年生まれの世代)の63%がクリントン氏を勝者とみなした。また、様々な予想を提供しているPredictWiseのオッズを見ても、討論会の前に69%だった民主党候補の勝利確率は討論会後に73%まで上昇した。
市場を見ても、ダウ工業株30種平均は27日に上昇、トランプ氏の保護主義的な言動に最も影響を受けると思われるメキシコペソも反発した。“トランプ大統領”の誕生に伴う不確実性を嫌忌している市場も、クリントン氏に軍配を上げた格好だ。
挨拶代わりのジャブに激情
実際、討論会ではトランプ対策を入念に練ったクリントン氏と準備不足だったトランプ氏の差が明白だった。
ツイッターなどでよく使う「いかさまヒラリー」ではなく「クリントン長官」と敬称で呼ぶなど冒頭こそ大統領候補らしい雰囲気を醸し出していた。だが、冒頭にクリントン氏が「彼は父親から1400万ドルを借りてビジネスを始めた」と軽くジャブを放つと、早速、頭に血が上ったトランプ氏は「借りたのは小さな金額だ」と反論、その説明に貴重な時間を空費した。その後もオバマ大統領の出生地を巡る過去の発言、いまだ公開していない納税申告書、イラク戦争を過去に支持したかどうか――など過去に取った自身の行動の釈明に追われた。
その間、クリントン氏は「深い威厳を持った人間だ」とオバマ大統領を持ち上げつつ、自身を支持していないオバマ支持層にアピール。私用メールサーバー問題など自身のスキャンダルについては「間違いを犯した。それについては責任を負う」というひと言で難なく切り抜けた。討論会の前に浮上した健康不安についても、昨年11月に米下院で実施された公聴会を引き合いに出し、「11時間に及ぶ公聴会の証言を経験してから言ってほしい」と鋭いカウンターを放っている(クリントン氏が国務長官だった2012年9月に起きたリビア・ベンガジ米領事館襲撃事件に関する公聴会。この事件では駐リビア大使など4人が死亡した)。
クリントン氏は「トランプ氏を苛立たせて大統領に向かないという印象を与える」という作戦を遂行しつつ、的確にジャブを放ってポイントを獲得した印象だ。「トランプ氏を苛立たせるというクリントン氏の戦略の前に、トランプ氏は大半で守勢だった。第2戦ではもっとアグレッシブに出ようとするかもしれない。どれだけ効果があるかは分からないが…」。ワシントンのシンクタンク、センター・フォー・ア・ニュー・アメリカン・セキュリティのリチャード・フォンテーヌ会長は振り返る。
討論会の後、トランプ氏はFOXニュースで「誰も傷つけたくなかったので手加減した」と釈明。CNNのインタビューでも、ビル・クリントン元大統領の不適切な関係について問いただそうと思ったが、(クリントン夫妻の)娘のチェルシーが聴衆にいたのでやめたという趣旨のことを話している。実際、トランプ氏に対する司会者の質問がクリントン氏の追い風になっていたのは間違いないが、リビア・ベンガジ事件やクリントン財団の寄付金問題など、クリントン氏のアキレス腱を攻められなかった点を考えれば完敗といわれても仕方がない。
黒人支持率の不気味な下落
もっとも、大統領選の流れが決まったと考えられるほどの結果か、と問われればそこまでの差はないだろう。挑発に乗りやすく、政策に具体性がないトランプ氏の弱点が改めて浮き彫りになった一方で、クリントン氏自身が抱えている問題が解消されたわけではないからだ。
今回の結果を受けて、トランプ氏は次の討論会で私用メールサーバー問題やリビア・ベンガジ事件、クリントン財団などクリントン氏を巡るスキャンダルを容赦なく叩くに違いない(2回目をボイコットしなければ)。クリントン氏とトランプ氏は同様に嫌われているが、「不誠実」「嘘つき」「エスタブリッシュメントの代弁者」といった不信感は、クリントン氏の長年にわたる政治活動の中で培われているだけに、残り6週間で消えるようなものではない。
また、クリントン氏は民主党サポーターの支持を得ているが、オバマ大統領が2008年と2012年に得た支持率にはおよばない。既存の支持基盤のクリントン離れも進んでおり、女性やヒスパニック、黒人の支持率が夏場以降、低下している。若者層における不人気も深刻で、コロラド州やニューハンプシャー州では、サンダース氏を支持した若い有権者がクリントン氏ではなく、リバタリアン党のゲーリー・ジョンソン氏のような第3極に投票する可能性も指摘されている。少なくとも、オバマ大統領を支えた黒人や若者の熱狂は存在しない。
「クリントン氏は『私に対して話していない』という意識が有権者にはある。そこが彼女の試練だろう」。政治分析に定評のあるクック・ポリティカルレポートのナショナル・エディターを務めるエイミー・ウォルター氏はこう語る。
クリントン氏は職業政治家として高い能力を持っているが、理性的、理知的でありすぎるがゆえに、コンサルタントのような印象を国民に与えている。米国人が直面しているイシューに心の底から対峙しているのか、彼女自身がどういう人間で、何に心を振るわせるのか。そういう生身の姿が見えないために、有権者の共感を得られていない、という指摘である。
トランプ大統領のナローパス
もちろん、選挙人の過半数、すなわち270人を獲得すれば勝利という大統領選のルールを考えれば、クリントン氏の有利は変わらない。
クック・ポリティカルレポートによれば、トランプ氏が勝つ唯一の道は2012年の大統領選で共和党の候補だったミット・ロムニー氏が勝利した州のすべてを獲得した上で(激戦のノースカロライナを含め)、激戦州の多くを押さえる必要がある。
現時点でトランプ氏に勝機がある激戦州はフロリダ、オハイオ、アイオワ、ネバダといった州だが、これらをすべて取ったとしても過半数にわずかに届かない。残りをペンシルベニアかニューハンプシャーで補う必要があるが、今のところクリントン氏がリードしている。フロリダかペンシルベニアを押さえれば勝利に近づくクリントン氏に比べれば、かなりのナローパスだ(関連情報)。
嫌われ者同士の戦いと冒頭で書いたが、比較論で言えばトランプ氏の方が有権者に嫌われている。健康不安が取りざたされたが、それでも多くの専門家はクリントン氏が勝つとみている。ただ、ブレグジット(英国によるEU離脱)の例を引くまでもなく、直接選挙は直前まで何が起きるか分からない。そして、実のところクリントン氏がどれだけのマージンを持っているのか、確証を持って語れる専門家も恐らくいない。
今回の大統領選は究極の消去法だが、一方で現状維持か変化かという二択でもある。クリントン氏が大統領になれば米国は大きくは変わらない。トランプ氏がなれば、何が出てくるかは分からないが、何かが変わる可能性があるかもしれない。同盟国を含め各国は基本的に米国が変わらないことを望んでいるが、変化を望む国民が多ければ、そういった期待が裏切られる可能性は十分にある。個人的にはトランプ氏が大統領になる可能性は低いと思っているが、「プランB」は準備しておいた方がいい。
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