パソコンモニターの壁紙はイチローの写真

イチローは2016年8月7日、米メジャーリーグ通算3000本安打を達成した(写真:AP/アフロ)
イチローは2016年8月7日、米メジャーリーグ通算3000本安打を達成した(写真:AP/アフロ)

 Rさんは、本物のプロだ。別に本人がそう言っているわけではないが、周囲はそう認めている。

 勤務しているのは、大手電機メーカーのグループ企業で、ウェブサイトの制作を請け負っている。単にデザインするだけではなく、企業戦略に応じたプランを考えて、安全性が高く、ビジネスに貢献するサイトを作成するには相当な知識と技術力が求められる。

 波乱の続くエレクトロニクス業界で、親会社もいろいろと大変だ。しかし、インターネット草創期に設立されたこともあり、グループ内では「優等生」とされている。もちろん業界内での評価も高い。

 Rさんは、その会社の中で一頭地を抜くエンジニアだ。

 もう40代半ばになる。そして、彼が「すごい」と尊敬しているのが野球選手のイチローだ。Rさんは、イチローより少し年上だが「同世代」だと思っている。

 Rさんが会社に入り、間もなくインターネットのビジネスが本格化した。ちょうどその頃にイチローは日本球界のスターになった。

 何よりも、自分の技を磨くことに徹底的にこだわる。その姿は、Rさんが理想とする生き方そのものだった。

「もっと、取っ付きにくい人だと思ってました」

 会社の懇親会などでは、異動してきた人から必ずそう言われる。もちろん、お得意先への説明などは上手で、コミュニケーション能力も高いのだが、余計なことはあまり言わない。

 デスクで黙々と仕事をしていると、ちょっと声を掛けにくいのだという。そして、パソコンのモニターの壁紙はイチローの写真になっている。

「最近、イチロー凄いですよね」

 慣れない後輩は、とりあえずそうやって話のきっかけを作る。そうすると、Rさんは人が変わったようにニコニコするのだ。

 ところが、このRさんをめぐって経営陣はアタマを痛めていた。

マネージャー職への昇格は「イヤ」

 Rさんのキャリアからいえば、マネージャー職になる資格は十分に有している。ところが、Rさんはハッキリと嫌がっている。そのため、役員も困っていた。「専門職としてのコースもあるので、それでいい」というのが本人の考え方だ。

 しかし、彼を上回る力量の者はそうそういない。年下の上司にはちょっと扱いづらい。とはいえ、経営陣直轄の「特別扱い」というのも前例がない。

 そんな状況の中で、新たな役員が赴任してきた。親会社から送られてきたDさんだ。

 現場と人事部のそれぞれでキャリアがあり、Rさんの会社では「人事・総務」の担当役員だ。「相当の実力派みたいだ」という話はすぐに広まり、社内は期待した。

 Dさんは、引き継ぎで前任者からRさんの話を聞いていた。「凄いスキルはあるけど、頑固なんだよね」という話である。

 それとなく聞いてみると、前任者とRさんは、どこかギクシャクしていたらしい。そして、その理由としてまことしやかに語られている話が面白かった。

 昼休みなどの世間話の時に、その前任者の役員はこんなことを言ったらしい。

「もう、イチローもそろそろ限界じゃないか」

 それを耳にしたRさんは、以来、彼のことを好ましく思わないようになったのだという。

 Dさんは思わず苦笑した。もはや社内の「都市伝説」のようになっているが、それだけRさんの存在感があるということだろう。

(これは、じっくり話を聞いた方がいいな)

 そして、Dさんの思案が始まった。

イチローは、ただ長くプレーしているだけでない

 まず、Dさんはイチローに関する記事などをいろいろと読み直してみた。ネット上だけでも、本当にエピソードが多い。

 そして、そのうちあることに気づいた。

 もはや大ベテランの域に達したイチローは、出場機会こそ減ったが、若手の見本として存在感を増しているというのだ。

 それも、打撃技術を学ぶだけでない。普段からの練習や試合前の入念な準備など、自分の体を大切にする姿勢も大切だ。また道具へのこだわりや手入れなども、手本になるという。

 間もなく、人事面談の時期を迎える前に、Dさんは決めた。Rさんには専門職のままでいながら、「後進の育成」をミッションに加えることにしたのだ。

 ただ、専門職の職能要件にそうした項目はない。そこで、親会社の人事に打診したところ、あっさりOKとなった。「そうそう。そのケースはこっちだって悩みどころなんだ」というわけで、「首尾を報告してくれ」という。

 Dさんは、準備を万端整えてRさんと会った。

 これまでの実績や、現業の課題などを話しつつ、「この先なんだけど…」と切り出す。すると穏やかだったRさんが身構えるのが、すぐにわかった。

 Dさんは、遠回りしながら若手についての意見などを聞いていく。すると、Rさんは育成についての独自の考え方を持っていることが分かった。

 「単に専門的なスキルを磨けばいいというわけではないのです」とRさんは言う。「何より大切なのは、周囲の話をよく聞いて自分が抱えている課題を発見することなんですが、前のめりになってそこを飛ばし、もがいている若手が多い。その先走りを抑えれば、もっとスムーズに成果が上がるはずです」というのがRさんの持論だった。

 人事畑にいたDさんにとって、その内容は大変理に適っている上に、その道のプロフェッショナルならではの視点もある。

 頃合いを見て、Dさんは言った。

「いまの専門職のままで結構ですが、来期からは育成担当としての職務をお願いしたいと思います。職務の要件付与はこちらで整えますから」

 驚くRさんに、Dさんはイチローの話を持ち出した。若手の見本になっているエピソードなどは、もちろんRさんもよく知ってるようだ。

 話が一通り済んで、Rさんは言った。

「ありがとうございます。できる限り頑張ります」

 紛れもなく「本物のプロ」の顔だ、とDさんは感じた。

日本に根強い、「職人」へのこだわり

 Rさんのような人は、どのような会社にもいる。エンジニアや研究者だけではない。営業職などでも、プレイヤーであることにこだわり続ける人は多い。

 今は複線型キャリアを用意している会社も多いが、うまく機能しているとは限らない。「本線」から外れポストに就けない人のための「引き込み線」のようになっていることもある。

 一方で、現場にこだわる人が「職人の殻」にこもってしまうことは組織にとって損失だ。今回Dさんが考えた方策は、そうした状況を打破するための1つの方法だろう。

 Rさんに見られるような「職人」的なこだわりは、日本的な心性ではないかとも指摘されている。このことを明解に分析したのが船曳建夫氏の『「日本人論」再考』だ。

 この本では、「日本人論」の中に取り上げられる幾つかの類型を分析することで、私たちが心の中に持つ「日本人らしさ」の正体を探っていく。昔の「サムライ」や明治期の「臣民」など分析は多岐にわたるが「職人」も対象としている点が興味深い。

 それによると、職人というのは単なる「職業」ではなく「生き方」であり、「もの言わず、もの作る」的なありようは、日本人の生き方の一つのモデルであったという。

 イチローの姿も、また職人の典型であり、それが世界で通用している点において、まさにワールドスタンダードモデルに値する一つの生き方と言えよう。それだけに、他のアスリート以上に、その「日本人らしい」生き方が魅力的に感じられるのではないだろうか。

 帽子を脱いだイチローの頭には、少し白いものが目立つようになった。ただ、短く刈り込んだ白髪交じりの髪と、鋭い目つきはまさに日本の伝統的職人の姿と重なるようにも思える。

 こうした、「職人志向」が強いことが日本企業の特徴なのであれば、それを武器に変えていく方策はまだまだあるはずだ。このケースにある後進の育成などは、グローバルな視野で行っていくことも大切だろう。

 また、複数分野のプロによる、新たな分野へのチャレンジなども考えられる。

 なお、その後のRさんは、想像以上に新たなミッションでも成果を上げているという。まず、Rさん自身が若手の言うことをていねいに聞くようになった。夕方になると、困っていそうなメンバーに一声かけてヒントを与える。またRさんは、若手の超過勤務の低減のための施策メモをDさんのところに持ってくるようにもなった。

 元々口数の少ないタイプだが、だからと言ってコミュニケーション能力に難があったわけではない。新しいミッションにより若手と接する機会が増え、新しいやりがいを見出したようにも見える。

(もしかしたら、マネジメントに関心を持ち始めたのかな……?)

 そうなると、Dさんが気になるのはイチローの引退後だ。彼の選択によって、Rさんはどんな影響を受けるのだろうか。

 そして、Rさんの変化を追っているうち、気がつくとDさんもイチローのファンになっていたという。

■今回の棚卸し

 いわゆる「職人肌」の社員にとって、ミドル以降の身の振り方は大変悩ましい。自分はプロだと言い聞かせても、企業内で力を持っているのは通常、マネジメント層の人間たちだ。組織内での居場所探しは、簡単ではない。

 会社は、「いい歳のベテランなのだから、自分の身の振り方は自分で考えてほしい」という姿勢であることが多い。65歳までを見通した今後のキャリアについては、一歩引いた形での自らの“腕”の生かし方から、現在の会社に属したままでいいのか?という点まで含めて、広く考えておく必要があるだろう。

■ちょっとしたお薦め

 本文中でも紹介した『「日本人論」再考』は、普段何気なく感じている「日本らしさ」を、歴史を追って解き明かした傑作だ。グローバル化の中で足下を見直し、かつ自分たちの姿を冷静に捉える上で必読の一冊だろう。

 自分の生き方を考える上で、組織内でのポジションや賃金といった「条件」だけに思考をとらわれないためにも、同書で触れられているような文化的視点を持つことは大切だと思う。

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