光陰矢の如し──。
 あの敗戦を転機に思いがけず企業経営を専攻する学者の道を歩むことになった私は、一貫して創業型経営者に興味を抱いて“実学的”な研究をつづけ、昨年、米寿を迎えた。
 ソフトバンクグループの孫正義社長とエイチ・アイ・エスの澤田秀雄会長には、一代で日本を代表する大企業を育て上げたという以外にも共通点がある。二人がなぜ、経営者として大成できたのか。長く、親しく交誼を重ねてきた私には独自の所見がある。それをまとめて、広く世に伝えたいという思いが自然と高まり、「日経ビジネス」の誌面をお借りして披瀝させていただく次第である。

野田 一夫(のだ・かずお)氏
日本総合研究所会長。1927年生まれ、88歳。東京大学社会学科卒、同大学大学院特別研究生(企業経営論専攻)を経て55年立教大学赴任(後に教授)。米マサチューセッツ工科大学(MIT)やハーバード大学にも在勤。70年に日本総合研究所初代所長、85年にニュービジネス協議会初代理事長に就任。立教大学退任後、多摩大学や県立宮城大学で初代学長も務めた。

 今から40年以上昔の1973年夏、無名の日本の青年が二人、大志を抱いて海外へ旅立った。一人は米国へ向かうジェット機で東京から東へ、一人はシベリア鉄道でロシア・ナホトカから西へ。ほぼ満16歳の孫正義と22歳の澤田秀雄だった。

 九州の一高校生の身で既に米国の大学への留学を強く希望していた孫は、夏休みを利用する語学研修のために米国を目指した。他方、少年時代から海外旅行を夢見てきた澤田は、高校卒業後も大学に進学せずにアルバイトに励み、その収入で貯めた資金を元に、4年後、欧州を目指したのだ。

 それから40余年の時が流れた現在、二人は共に、日本経営史上に確実にその名を残す大起業家に育った。

 さて、二人より遥かに年長の私だが、相知り合って以来約30年、年齢・職業の違いの故に長らく“先生”と“君”で呼び合う仲だが、以下本稿では慣例に反し、その敬称を省略させていただく。

安易に大卒の肩書を求めず

 先ず「二人の共通点は?」との問いには、即座に「高校生として、日本の大学への進学を目指さなかった決断だ」と私は答える。思いつきからではない。60年代前半の2年間、米国の大学での仕事を終えて帰国した私の目には、日本の大学はその時すでに、教育と経営の両面で明らかに病んでいた。そしてやがて、経済の急成長と政治の保守化という複雑な時勢が、「大学崩壊」という異常事態をもたらした。

 それでも、当時の高校生の多くは少しでも社会的評価の高い大学を目指して受験勉強に励んだ。語弊のそしりを怖れずに言えば、「教育そのものはどうでもいいが、“大学卒”の肩書だけは…」という思いからだったのだろう。

 従って、経営能力と教育意欲の両面の低下に伴う大学の劣化を傍目に、彼ら彼女らの多くは“部活”や“就活”などでの苦楽の思い出を胸に抱いて大学を卒業した。その後は、終身雇用と年功序列に象徴される“日本的組織”の一員となり、経済面でも精神面でも大体は無難な人生を送ってきたことだろう。

 その点、孫と澤田の二人は共に、社会人としての門出以前に、同世代の日本人の常識とはおよそ異なった人生を選択したのだ。

 さて、二人のうち先ず孫だが、米国での語学研修を満喫したことで彼の大学留学熱は更に高まり、せっかく入学した九州の名門高校(久留米大学附設高等学校)二年への進学を断念するや、翌年再び渡米し、サンフランシスコの高校二年に転入を果たした。更にそれ以降もその非凡な知性と実行力は遺憾なく発揮され、彼はその高校を卒業することなく現地の有名カレッジに入学し、またそのカレッジも卒業することなく中退して、憧れの名門カリフォルニア大学バークレー校の経済学部に最優秀の成績で入学するという偉業を果たした。日本では制度上不可能だが、それが可能な米国でも極めて達成困難なことを、彼は若くして見事にやってのけたのだ。

1793年
無名の青年2人が大志を抱いて海外へ
1793年<br />無名の青年2人が大志を抱いて海外へ
孫正義氏(左)は高校を休学して米国に留学。澤田秀雄氏は自ら稼いだ金でドイツへ

 たどった道は孫とは全く違ったが、「同世代では全く異色な…」という点では、澤田も同じだった。「人皆がアメリカ留学なら、俺は…」という気概を抱いて彼は、その留学先をドイツの、しかも日本人にほとんど知られていない古都マインツの大学にしぼった。その目的も、「努力して学位を…」といった堅苦しくかつ平凡なものではなく、外国生活に慣れてカネも稼ぎ、あわよくば「帰国前にでき得る限り世界各地を旅して…」という“野望”とも言うべきものだった。しかもその野望を見事に達成したことが結局、帰国後の創業にとって「金額では到底表示できない資本」となったことに、実に、澤田らしさがあった。

 マインツの大学で経済学部の入学手続きを済ませ、学生寮の一室を拠点に“留学戦”が始まるや、澤田は教授たちの講ずる抽象的専門知識の習得より、学生間の日常会話の習熟に力点を置くようになった。それがある程度自分で納得できるようになるや彼は、日本人旅行者をターゲットにした通訳の機会を求めて、しばしばフランクフルトへも行き、経験を重ねるにつれ意外に短期間に、実用ドイツ語を武器にしてそれなりの収入を得られる身となった。

 実家からの仕送りなどを期待できない彼の、いかにも彼らしい留学戦緒戦の成果だったと言えるだろう。こうした非凡な留学生活の最終的戦果ともいうべきものが、「ナイトツアー」だった。

ナイトツアーと自動翻訳機

 ナイトツアーとは、名物のドイツビールを供するレストラン、ライブ演奏のあるバーなどを10~20人の日本人が一晩で堪能できるもの。しがない学生アルバイトに過ぎなかった澤田は、自らの経験を土台にし、仲間の日本人留学生と地元のホテルを関わらせる空前のビジネスにまで育て上げたのだ。

 結果として安定的収入と時間的余裕を得る身となった彼は、生まれて初めての株の売買まで成功させて資金を増やしつつ、格安切符を巧みに多用して旅行圏を拡大していった。欧州を越えて中近東からアジア、アフリカからアメリカ大陸まで、なんと50カ国の旅を経験して4年後に帰国した彼の手元には、なお起業のための1000万円まで残った。その意味でナイトツアーこそは、恵まれぬ就学環境の中で澤田の商才の見事な“早咲き”だったのだ。

 他方、パーソナルコンピューター生誕の地シリコンバレーで受験勉強に励み、PCの華やかな開発期にバークレー校で学んだ孫の商才が開花した過程は、澤田とは対照的だった。

 入学前のある日、孫はある雑誌に掲載されていたICチップの拡大写真の美しさに見とれ、涙まで流したという。その瞬間、彼がコンピューターによって創られる未来社会の無限の可能性を予感したとすれば、それが、彼の商才の胎動だったと言うべきだろうか…。

 そのためか、彼は文系の学生でありながら、シリコンバレーでの技術開発の成果に格別強い関心を払いつづけるうちに、何としても自分で手がけたいと念願する商品開発の対象に思い至った。「音声付き自動翻訳機」がそれだ。

 常識的に言えば、技術開発は理系の仕事なのだが、孫はすでに、自学自習で幾つかの小さい発明を目指し、実際に試みさえしてきたのだ。したがって、音声付き自動翻訳機の開発を究極の目標とするや、彼は新たに必要と感じた各種工学の基礎知識を自ら修得した。

 また、滞米中に旧知となっていた佐々木正博士(液晶の権威。後にシャープ副社長)はもとより、スピーチ・シンセサイザー(音声合成装置)の権威として知られていたフォレスト・モーザー博士(当時、バークレー校教授)に直接面会を求めて教えを請うなど、あらゆる努力の成果を結集させ、遂に音声付き自動翻訳機を完成させた。孫の商才の最初のつぼみが花開いた瞬間だった。

共に業界王者へ挑戦

1979年
自動翻訳機で資金獲得、起業へ
1979年<br />自動翻訳機で資金獲得、起業へ
シャープに自動翻訳機を売り込んで得た資金を元手に米国でソフト開発会社を起業
1996年
マードック氏と組み テレビ朝日株を取得
1996年<br />マードック氏と組み テレビ朝日株を取得
豪ニューズ・コーポレーション(当時)と組んでテレビ朝日の株式を取得、後に朝日新聞に売却(写真=AFP=時事)
2006年
携帯電話事業に参入 約2兆円の大買収劇
2006年<br />携帯電話事業に参入 約2兆円の大買収劇
英ボーダフォン日本法人を1兆7500億円で買収(写真=ロイター/アフロ)

 そのつぼみは、あでやかに開花して広く人々から愛でられることはなかったが、その出来を殊更高く評価した佐々木正氏は、孫が後年創業資金1億円を銀行から借り入れるに当たり、自らの退職金のみか自宅までも担保に提供した。あのつぼみは「それ無かりせば、果たしてその後の孫の…」と言えるほど価値あるつぼみだったのだ。

 要するに、澤田と孫の対照的とも言えるほど相異なる商才は、一方はドイツのマインツ、他方は米国のバークレーという異郷の経済環境の中で共に見事に育ち、その開花の過程で彼らがそれぞれに身につけた経験と知恵は、帰国後の二人の起業とその成長のための決定的推進力となった、と言っていい。

 帰国後澤田は、毛皮輸入・販売業で失敗した後に興した旅行業で、体験に基づく独特の戦略を成功させて自社を一転成長軌道に乗せたが、最近は、その経営実績の故に懇請されて受諾したハウステンボスの再生まで短期間に成功させ、観光業界での自社の地位をも急上昇させた。

 孫も、帰国後起業するに当たり、いち早く“情報革命”という理想を掲げ、前代未聞の破天荒な経営戦略により企業規模を爆発的に拡大しつづけてきた。但し以下本稿では、売り上げ・利益の実績から判断し、その広範な事業内容のうち、携帯電話事業についてのみの言及に留めたい。

 日本の携帯電話業界は目下、NTTドコモ・KDDI(au)・ソフトバンクの3社寡占状態が定着した。孫のソフトバンクはauに僅差の3位だが、将来、孫が打ち出す画期的戦略が現状を激変させる可能性は小さくない。

1980年
留学中に貯めた資金 で旅行会社設立
1980年<br />留学中に貯めた資金 で旅行会社設立
格安航空券を中心に個人旅行商品を販売
1996年
35年ぶりの 新規参入航空会社
1996年<br />35年ぶりの 新規参入航空会社
航空業界の規制緩和を受けスカイマークエアラインズ(現スカイマーク)の設立に参画(写真=読売)
2010年
経営難に陥っていたハウステンボス再生
2010年<br />経営難に陥っていたハウステンボス再生
澤田氏自らが社長に就任。集客イベントを次々と成功させ、ハウステンボスを再生(写真=読売)

 澤田が取り組む旅行業は正規登録業者数が1万社(1~3種合計)もあり、市場規模は自動車産業に匹敵するほどの大産業だが、最近は(観光業を含め)エイチ・アイ・エス(HIS)の年商が急速にJTBに迫りつつある。NTTとJTB両社は共に政府系企業として創業以来何かと“無形の利”も享受しつつ業界トップの座を保ち続けてきた“王者”だとすれば、ソフトバンクとHISは今や、果敢に“王者”の座を狙う若き“挑戦者”だ。

青少年にとって最高の教材

 現在わが国では、ソフトバンクとHISは日本のベンチャー企業の典型的な成功例とされている。そのことに対して、「インテル、アップル、グーグルなどの米国企業のように、革新的な技術とか画期的な新商品を生み出したわけではないのに…」と異議を唱える人もいる。

 だが、「venture」とは本来の意味が“冒険”であり、危険度の高いことを、第三者の助けを借りずに果敢に行うことだとすれば、すでに述べたように、「ソフトバンクとHISは共に、その創業者である孫と澤田が、他者のカネにもコネにも頼らず、自らが選択した事業を自らの知恵と努力を傾けて驚異的成功に導いたという点で、やはり、少なくとも近年の日本における代表的なベンチャーの成功例と言える。

 米国では伝統的に「成功を求め、リスクに敢えて挑戦する積極的精神」がパイオニアスピリットとして高く評価されてきた。対照的にわが国では、「出る杭は打たれる」といったことわざが教える生き様が、幼い頃から親や先輩により自然に身につけさせられてしまう慣習が未だに健在だ。だが「グローバリゼーション」と称せられる時代的風潮が世界的に拡がりつつある今こそ、わが国は官民を挙げて旧来の慣習を断固変革すべきだ。その意味で、孫と澤田の時代を先駆けた痛快極まる人生劇と結果としてのその驚異的成功談は、とくに日本の未来を担う青少年にとっては無類に刺激的、かつ最高に教訓的な教材だと、私は確信している。

(日経ビジネス2016年3月14日号より転載)

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