経営を続けていれば、誰しも逆境に直面する。しかし、トップの向き合い方次第で、結果は大きく変わる。経営者は逆境にどう向き合ったか――。カレー店チェーン、壱番屋の創業者、宗次徳二氏の体験談に耳を傾けてみよう。

<span class="fontBold">宗次徳二(むねつぐ・とくじ)氏 </span>1948年石川県生まれ。高校卒業後、住宅メーカー勤務などを経て74年に妻の直美氏と喫茶店「バッカス」を開業。78年に現・愛知県清須市で「カレーハウス CoCo壱番屋」1号店をオープンする。82年法人改組し、壱番屋の社長に就任。98年に妻の直美氏に社長を譲り、会長に就任。2002年、500店達成(現在、国内1303店)を機に、生え抜きの浜島俊哉氏を社長に据えて創業者特別顧問となり、経営から退く。03年、NPO法人イエロー・エンジェルを設立し、理事長に就任。07年には名古屋市内に音楽ホール「宗次ホール」を造り、代表も務める(写真:早川俊昭)
宗次徳二(むねつぐ・とくじ)氏 1948年石川県生まれ。高校卒業後、住宅メーカー勤務などを経て74年に妻の直美氏と喫茶店「バッカス」を開業。78年に現・愛知県清須市で「カレーハウス CoCo壱番屋」1号店をオープンする。82年法人改組し、壱番屋の社長に就任。98年に妻の直美氏に社長を譲り、会長に就任。2002年、500店達成(現在、国内1303店)を機に、生え抜きの浜島俊哉氏を社長に据えて創業者特別顧問となり、経営から退く。03年、NPO法人イエロー・エンジェルを設立し、理事長に就任。07年には名古屋市内に音楽ホール「宗次ホール」を造り、代表も務める(写真:早川俊昭)

 ガツ、ガツ、ガツ──。

 2001年9月25日午前6時半、私は福島県にあった直営の「カレーハウス CoCo 壱番屋福島森合店」に、たった一人でいました。カウンターの化粧鋼板を壊していたのです。ハンマーでくぎ抜きを打ちつけて。

 ハンマーを打ち下ろすたび、店内に鈍い音が響いていました。カウンターの化粧鋼板は、少したたいてひびを入れれば、後は手で表面をはがせるものだと単純に考えていました。ところが、いざ壊そうとすると、結構頑丈だったのです。それでも必死に続けていると、ようやく一部が壊れました。そこで手を止めて、このときのことを忘れないように壊れたカウンターの様子を写真に収めました。

宗次氏がたたき壊した福島森合店のカウンター
宗次氏がたたき壊した福島森合店のカウンター

 店のすぐ隣には民家がありました。店の土地を貸してくれた大家さんが住んでいたと思います。早朝からあまり大きな音を出し続けては迷惑がかかります。だから程々のところで壊すのはやめました。

 外に出た私は、CoCo 壱番屋(ココイチ)の目印である黄色い案内板の下の部分を、やはりハンマーでひびが入るまでたたいて壊しました。県道沿いの店で、通勤時間帯に差し掛かり、車や通行人の量が増えつつありましたから、不審者扱いされないように辺りをうかがいながらでしたが。

 カウンターと案内板を壊していたのは、時間にして15分ほどだったと思います。事情を知らない人が見たら、暴漢が店を襲っていると勘違いして警察に通報されていたかもしれません。そんな危険を冒してまで、なぜ“破壊行為”に及んだのか。

 前日、この福島森合店を閉店したからです。午前7時半に解体会社が店に来ることが分かっていました。その前に、壱番屋の創業経営者として私自身の気持ちにけじめをつけたかったのです。

勝率99・6%の経営者人生

 498勝2敗。これがココイチ一号店を1978年に出してから、2002年に経営から退くまでの私の戦績です。ココイチの前に喫茶店を2店出し、どちらも繁盛店にしましたから、それも含めると500勝2敗。つまり、私が経営していた間に閉めた店は2つしかない。福島森合店は、その数少ないうちの1つです。2回目の経験でした。

1974年に妻の直美氏(立っている女性)と喫茶店「バッカス」を開業。右下の後ろ姿の男性が宗次氏
1974年に妻の直美氏(立っている女性)と喫茶店「バッカス」を開業。右下の後ろ姿の男性が宗次氏

 閉店というのは、私にとって許せないこと。数は少なくても、ココイチを選んで通ってくれているお客様がいた。そのお客様がもう店に来ることができない。もっといえば、地域の皆様の期待に応えることができなかった。それが何より悔しい。

  • “繁盛”すべての原点は接客にあり
  • 私達は接客サービスにおいても地域一番店を目指します。
  • ニコニコ いつも笑顔でお客様に接します。
  • キビキビ いつも機敏な動作でお客様に接します。
  • ハキハキ いつもさわやかな態度でお客様に接します。

 これが私がつくった壱番屋の社是です。略して「ニコ、キビ、ハキ」。閉店はこの社是が守れなかったことにほかなりません。ある日突然、知らない名古屋の企業が福島にやって来て、「商売になりそうだから土地を貸してください」と大家さんに頼んだ。そうした協力があって店を開くことができたのに、やっぱり儲からないからやめますだなんて、大家さんにもお客様にも、あまりに無責任で罪なことです。

何年たっても状況は改善しない

 立地は決して悪くありませんでした。JR福島駅から車で10分ほどの片側一車線の県道沿いにありました。座席数は標準的な規模で、駐車場もあります。1996年にオープンした397番目の店でした。

 ところが、開店して1、2年たっても、売り上げが伸びない。私が率いていたときのココイチは通常、最初は認知度が低く、客数が少ないのですが、時がたつにつれて客数が増え、売り上げも伸びてきます。カレーの辛さやご飯の量、トッピングを選べる楽しさ、そしてきちんとした接客が口コミで評判を呼ぶのです。

 残念ながら福島森合店はそうならなかった。3、4年たっても状況は改善しない。当然、赤字でした。

 アンケートで目立って満足度が低いわけでもない。不振の原因を探ろうと、自ら店に定期的に出向き、北海道・東北エリアを統括するスーパーバイザーや店長と話し合い、考え得る限りの手を尽くしました。

 ニコ、キビ、ハキの接客の基本を徹底したり、店の内外をピカピカに掃除したりするのは当たり前。当初、厨房内は客席から見えませんでしたが、異例の再投資までしてオープンキッチンに改装し、臨場感を出しました。近くのホームセンターで私が花とプランターを買い、店の外に並べて華やぎを出したりもした。

 でも、結果が伴わない。しかも、開店から2年たった頃、私の立場に大きな変化が生じました。98年、二人三脚で経営してきた妻の直美に社長を譲り、会長に退いたのです。400店を超えていた時期で、日常業務は直美に任せ、私は一歩退いた会長という大局的な立場で経営しようと考えました。50歳になり、私の後任を準備する必要もありました。新体制の下、2000年には店頭(現ジャスダック)市場に株式公開しました。会社全体としては順調だったのです。

内心は不満でも社長決定に従う

 それからしばらくたった後、会社で直美から「福島森合店はもう撤退するから」と伝えられました。正直に言うと、私は納得できませんでした。「何かできることがあるはず」と考えていたからです。でも、私はもう社長ではありません。自らの意思で既に会長に退いている。今の経営陣が出した結論なら、それを覆すことはしない。そう決めていたので、妻に従いました。

1978年に開業した「カレーハウス CoCo壱番屋」1号店
1978年に開業した「カレーハウス CoCo壱番屋」1号店

 会長に退いたのに、社長以下の経営陣に平気で口を出し、社内に不満が渦巻く企業がよくありますよね。そうしたゴタゴタは絶対に避けたかった。だから、私は反対しませんでした。

 ただ、自分の内側から膨れ上がってくる悔しさだけはどうにも抑えようがなかった。だから、すぐにこう誓いました。「営業最終日の閉店間際に店に行き、最後のお客様を自らの手で送り出そう。そして、自らの手で真っ先に店を壊そう」と。

 壊す場所をカウンターにしたのは、椅子やテーブルと違って再利用できず、閉店後に破棄するものだったからです。しかも、カウンターは店の象徴。そこで接客し、カレーが提供されてお客様が食べる場所でした。だから、壊すならカウンターしかないと思った。

 冷静になってから振り返ると、閉店した原因の一つは、人材・教育不足だったと思います。株式公開すれば株主から成長を求められる。注意しているつもりでしたが、やはり出店スピードに対し、それを管理・運営する人材の育成が追いつかなかったのでしょう。

 閉店という過ちを犯したのは、これが2度目でした。1度目は忘れもしない1981年。今の愛知県一宮市に出した5号店「尾西起店」でした。オープンしてわずか半年で撤退に追い込まれました。

オープン後半年で撤退に追い込まれた尾西起店。エプロン姿の男性が宗次氏で、その左隣の男性が現社長の浜島俊哉氏
オープン後半年で撤退に追い込まれた尾西起店。エプロン姿の男性が宗次氏で、その左隣の男性が現社長の浜島俊哉氏

 完全に私の立地選択ミスです。店の後ろは川で、橋を渡ってまで来店するお客様は期待できない。住宅街でお昼を外で食べる人もあまりいない。もともと近隣に紡績工場があったのですが、既にすたれていて、勤め人が立ち寄る需要もあまり見込めなかったのです。

 実は、そのときの店長が現在、直美の後任として壱番屋社長を務めている浜島俊哉です。浜島の当時の努力は目を見張るものでした。店を立て直そうと、2階に泊まり込んで接客指導や店の掃除などを自ら先頭に立って手掛けていたのです。もちろん、私も店を訪れては一緒に厨房に入ったり、接客したりしましたが、立地の悪さにはあらがえませんでした。

 ただ、浜島の頑張りを知っていたので、私は2カ月後、岐阜で大型店をオープンした際、彼に再び店長を任せました。捲土重来を期していたのでしょう。開店直後から期待を上回る実績を上げてくれました。

 5号店を閉めた苦い経験から、私は店数を追うのではなく、お客様や大家さんをはじめ、ココイチに関係する皆様に迷惑を掛けないために失敗しない、つまり、閉店しない店づくりをすると決めたのです。

 そのはずだったのに、福島森合店で同じ失敗をした。会長に退いていたとか、当時400店近くも展開していたら失敗する店があっても仕方がないとか、いくらでも言い訳はできます。でも、閉店の責任はやっぱりトップである私にあったんですよ。だから、その責任の重さ、そしてお客様や関係者の皆様への申し訳なさと最後に向き合うため、店に行くことにしたのです。

 店を壊すためのハンマーとくぎ抜きは、ホームセンターで買いました。ハンマーとくぎ抜きが長くてね。3000円くらいした大きな黒いバッグに入れても、先がはみ出してしまうんです。仕方がないから、先端部をタオルでぐるぐる巻きにして隠しました。むき出しの状態で新幹線に乗ったら、間違いなく危険物を持ち込んだ不審者と間違われますから。

 当日は夕方5時に名古屋駅を東海道新幹線で出発し、東京駅で東北新幹線に乗り換えて福島駅に向かいました。着いたのは午後9時頃。もう15年前の話なのに、当時自分が取った行動は克明に覚えています。それだけ自分にとって強烈な出来事だった。

突き刺さるタクシー運転手の言葉

 ビジネスホテルで荷物を下ろして、午後11時半頃にタクシーで福島森合店に行きました。店は午前0時で閉まります。最後のお客様を送り出すためでした。

 「県道沿いのカレー屋さん、分かりますか。あそこまでお願いします」と私が言ったとき、タクシーの運転手さんから掛けられた言葉が忘れられなくてね。

 「かしこまりました。あそこは、これまで何軒も店が変わっているんだけど、カレー屋さんになってからは、ずっと続いて頑張っていますよね」

 その店が今日で終わりなんですとは、とても言えなかった。「地域の皆様の信頼を裏切ってしまった」という思いが、改めてこみあげてきました。

 店に着くと、まばらでしたがお客様はいらっしゃいました。接客を始めようとすると、いつもよりスタッフの数が多い気がする。理由を聞くと、何と宮城県名取市にある壱番屋の宮城営業所に勤めていたパートさん2人が、わざわざ車で閉店業務の手伝いに駆けつけてくれていたのです。お菓子の差し入れを持ってね。「私たち、この店のパートさんと知り合って友だちになったものですから」と話していました。この2人のほかにも、本来シフトでない店のパートさん3人も自主的に手伝いに来てくれました。

 最後のお客様に「ありがとうございました」と、いつも通り笑顔で送り出し、後片付けをしたり、ほかの店で使えるテーブルや椅子などを整理したりして、みんなと別れたのは午前2時だったと思います。それから一度ホテルに戻り、午前6時半に私一人で再び店に行って、カウンターと案内板を壊したのです。

自分の気持ちに一区切りついた

 帰りのタクシーの中では、すっきりした気持ちでした。自分なりに一区切りついたのでしょう。それ以降、悔しさを引きずることはありませんでした。2002年に創業者特別顧問に退くまで、当時の私の悔しさを社内外で語ることは、あまりありませんでした。

宗次徳二氏(写真:早川俊昭)
宗次徳二氏(写真:早川俊昭)

 ただ、会議で幹部の責任感が足りないのではないかと思ったとき、あえてこの出来事とそのとき私が何を感じたかを話すことはありました。会長でしたから、叱ったり、細かく指示したりはしない。ただ、創業者としての思いをくみ取ってほしかったのです。

 壱番屋の経営から離れた翌03年、私は夢を追うスポーツ選手や芸術家たちの支援などをするNPO法人、イエロー・エンジェルを立ち上げました。07年には音楽家が腕を披露する場を提供しようと、私財を投じて名古屋市内に音楽ホールの「宗次ホール」を造り、代表も務めています。

 音楽を気軽に楽しんでもらうために入場料は安くしているので、収支は赤字です。それでも、未来ある音楽家を応援したいという思いで続けています。同じ赤字でも、事業の赤字とは全く意味が違います。

 私は壱番屋の経営に一切の未練や後悔はありません。株もハウス食品グループ本社に売ってしまいました。創業者なのに、なぜこれほど会社への執着がないのかといえば、現役時代にやり切ったからです。毎日午前4時10分に起きて午前5時前には出社し、店から届く最大3万通のアンケートにくまなく目を通す。改善が必要ならすぐ指示し、昼間や夜は時間が許す限り、全国の店を視察する。それを25年ほど続けましたから。

 この話をしていたら、また福島のあの場所に行ってみたくなりましたよ。今、何があるんでしょうかね。

 (この記事は、「日経トップリーダー」2017年11月号に掲載した記事を再編集したものです)

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