儲け損なった話をたくさん持っている中国大連出身の老人がいた。
1990年代には香港の老人福祉施設に住むようになっていた彼の収入の大半は香港政府からの雀の涙程度の生活保護。週に1、2回は太極拳の個人レッスンをしていたようだが、これも小遣い程度にしかならない。だから彼はいつも素寒貧で、冷凍餃子とバナナばかり食べるような生活を送っていたのだが、10年に一度ぐらいの割合で日本円で数百万から1000万円単位のカネが転がり込んでくるというような運を持っていた。
ただ、例えば借金をしても、小金が貯まると全額返済するにはまだ足らないからと、現金を握りしめてホバークラフトで海を渡ってマカオに行き、帰りの船代だけを残して全額賭け、当然のように一文無しになって香港に戻ってくるというような人だった。仕事もその調子だったようで、金が入ると儲け話に全額張り込み、やはりこれも当然のように失敗する。
ところが、それを特に悔やむでもなく飄々とまたバナナと水餃子の生活に戻る彼の執着のなさから来るある種の清潔さに惹かれ、そして何より、波乱に満ちた人生を生き抜いてきた老人の人生に敬意を抱き、儲け損なった話を肴に飲もうと彼を食事や酒に誘う友人が大勢いて、私もその1人だった。
追われた「ネズミ」と「農民工」の行く先
さて、儲け損なった話の中で彼のお気に入りは、日本のある新興宗教の教祖から事業資金としてもらった1000万円で、ネズミ退治機の日本を除く全世界における独占販売権を買い、それを香港植民地支配の象徴である英国系の財閥ジャーディン・マセソンに売りに行ったという話だった。何でもそれは画期的な発明で、ネズミの嫌がる超音波を発し、建物に住み着くネズミを根こそぎ追い出し、しかも外のネズミも寄りつかないのだという。
不動産開発と物流業を営み、香港中に管理すべき住宅、店舗、倉庫を抱えていたジャーディンは、自分たち自身がネズミに悩まされることもなくなるし、香港中の建物に仕掛ければ大儲けできると、一時は彼から販売代理権を買い取ってもいいという話になった。
ただ、最終的にこの商談は破談になる。
「追い出すってことは、ネズミは死なないわけですよね? 最終的にネズミの大群はどこに行くんですか?」
相手にこう尋ねられ、ネズミを追い払いさえすればそれでおしまいとしか考えていなかった彼は、とっさに香港島の地図を思い浮かべた上で、
「海ですね」
と答えた。
「そこで話は終わりよ。1000万円がパーね」と老人は話した。「だって、ジャーディンのせいで香港の海岸線がネズミだらけになったら、大変なことになるじゃない。追い出すだけではダメなんだ。行き先まで考えてやらないと」
この連載「中国生活「モノ」がたり~速写中国制造」が『3億人の中国農民工 食いつめものブルース』として単行本になりました。各界の著名人からレビューをいただきました。
●私はこの例外的に「間合いの近い」取材方法を成り立たせるために著者が費やした時間と労力を多とする。長い時間をかけて、息づかいが感じられるほど取材対象の間近に迫るというスタイルは現代ジャーナリズムが失いかけているものである。
(哲学者 内田樹氏によるレビュー「感情の出費を節約する中国貧困層のリアリズム」より)
●「ブルース」という単語に何とも(やや古びた)哀愁があり、そしてカバーの写真の農民工の写真には、記念写真では決して撮れない、私自身が感情移入して泣いてしまいそうなリアリティがある。
(中国問題の研究家 遠藤誉氏によるレビュー「執念の定点観測で切り取った、中国農民工の心?」より)
●だが、最近の日本のソーシャルメディアでは、「親の時代はラッキーだった」、「親の世代より、子の世代のほうが悪くなる」といった悲観的な意見が目立つ。中国においても、農民工の楽観性や忍耐がそろそろ尽きようとしているようだ。
(米国在住のエッセイスト 渡辺由佳里氏によるレビュー「繁栄に取り残される中国の『ヒルビリー』とは?」より)
●同書で描かれるのは、時代と国家に翻弄される個人たちだ。歴史的背景や、共産党政権の独自性うんぬんといった衒学的な解説はさておき、目の前で苦悶している、もっと距離の近い苦痛の言葉だ。
(調達・購買コンサルタント/講演家 坂口孝則氏によるレビュー「年収3万の農民に未婚の母、中国貧民の向かう先」より)
eコマースの配送員で吸収しきれずあぶれる貧困層
最近、私はしきりにこの話を思い出す。上海、北京など中国の大都市で働く農村からの出稼ぎ労働者「農民工」のここ2、3年の境遇と重なる部分があるからだ。人間をネズミの話に例えるのは申し訳ないが、経済成長の鈍化、インフラ整備の一服、製造業の中国離れが並行して進む中国では、これまで低賃金で農民工に任せてきた単純労働の数が減ったことで、農民工を抱えておくだけの余裕がなくなった都市から彼らを追い出す動きが目立ち始めているのだが、ネズミ退治機で海辺に追い込まれたネズミ同様、都会を追われ行き場をなくした農民工たちが立ちすくむ姿を見る機会が確実に増えている。
この話をすると、「eコマースの爆発的な成長で宅配便やケータリングの配送員の需要が増えていると聞くよ? それで建築現場の肉体労働が減っている分は吸収できるんじゃないのか」とよく尋ねられる。
確かにそうなのだが、配送員にはまずスマートフォン(スマホ)が必須。伝票、決済、配送先までのルートを示す地図、不在の客との電話と、スマホがなければ配送員はできない。いまどきの中国では、どんなに貧乏でもスマホはほぼ持っているが、「持っている」のと「使いこなせる」のとでは話が別。早ければ40台前半で老眼が入り始めるから、画面も見づらくなる。画面をいちいち遠目に見ていてはノルマがこなせないし、歩合を稼げなければ基本給で生活はできない。
文字通り体一つあれば何かしらの作業ができる肉体労働なら、健康であればがれきや砂を運んだりと何かしらの作業はできるので50代まで働くことができる。しかし電動バイクを乗りこなしスマホを駆使して時間にも追われる配送員は、建築作業員ほど間口が広くない。上海や北京などの大都市で当局による農民工を主体とする貧困層の追い出しが進んでいるのは、配送員の増加が土方作業の減少を相殺し切れていないことの証明だと見なして間違いない。
非情な言い方をすれば、高度成長時代が過ぎ、そこまで大量の人手が必要なくなった現在、さしたる税金も払わない低所得の農民工を大勢住まわせておくより、不動産開発をした方が、利権を持つ権力者やその周辺にいる人びと、さらに再開発で立ち退き料が入る都会生まれの住民たちにとってはずっといい。
しがみつく手を引き剥がす
だから昨年11月、北京郊外の大興区にある農民工が主体の低所得者層の住む新建村という地区で、違法建築の簡易宿泊施設で子供8人を含む19人が死亡する火災が起き、これをきっかけに北京市当局が、違法建築の摘発と一掃を名目に、住民に短期間での立ち退きを突きつけ、まだ人が住んでいるのに強制的にガスや水道を止め炙り出すかのように町ごと住民たちを退去させたという報道を見たときにも、北京で特別なことが起きているという印象を持たなかった。
北京の農民工追い出しに注目が集まったのは、19人という大勢の犠牲者を出した大きな火災があったことと、北京当局が立ち退かせる農民工たちを「低端人口」、すなわち「下層の人間」呼ばわりしている文書が明るみに出たことで、海外メディアがこぞってこれを大きく取り上げたからだ。「大火」「死者」「下層の人間」という関心を刺激するキャッチーなキーワードが揃ったためである。
しかし、大きな流れで言えば今回の北京と同じようなことが上海でも既に3年ほど前から始まり、知人の農民工たちが右往左往しているのを目の当たりにしていた私には、何をいまさら、という感が否めなかった。
高度成長が終わり、単純労働をする農民工の賃金が頭打ちになる中、上海では2015年ごろ、不動産の高騰で郊外であっても農民工が家賃を払えるような物件がなくなった。そしてこの年、上海での生活に窮して、故郷に帰ったり他の大都市に向かったりする農民工が続出した。しかし1年もすると、農民工たちの多くは上海に戻ってきた。農村地帯にある彼らの故郷に相変わらず現金を稼げるような仕事がないためにほかならない。
ただ上海に戻ってきても、離れる前と状況はいささかも変わっていない。相変わらず賃金は頭打ちで、家賃はさらに上がった。農民工たちは、生活の困窮の度合いがさらに増したが、しかしほかに行くところなどないことは、過去1年故郷に帰ってみて骨身に染みた。苦しかろうが、彼らは上海にしがみつくしかないのである。
そして2017年。春節(旧正月)が明けると同時に、上海市内の広い範囲で同時多発的に違法建築の取り壊しが猛烈な勢いで始まった。取り壊された住宅や店舗の多くは違法で建てられた分、家賃が割安だったので、農民工たちが借りて小さな店を開き寝泊まりしているというケースがほとんどだった。構図は今回、北京で起きたことと同じ。違法建築の一掃に名を借りて、上海は一足先に、貧困層の主体を成す農民工の追い出しにかかったのである。
ただ上海の動きは、国内的にも海外でもほとんど注目されていない。上海当局が細心の注意を払ったからなのかどうかは知る由もないが、取り壊しにあたって「下層の人間」というような差別的で好奇心をあおる言葉が漏れ出さなかったため、表向きの「違法取り締まり」に目を奪われ、その裏に潜む、中国の都会人と農村出身者との間に横たわる「格差」「差別」「分断」の問題が浮き彫りにならなかったからだろう。
ともあれ、これまで書いてきたような理由で、私は北京の問題に関心を持ちはしたものの、上海で起きている以上のことがあるとも思えないでいた。
ただ、冒頭で書いた、香港のネズミ退治機の老人の言葉は再び思い出した。「追い出すだけではダメなんだ。行き先まで考えてやらないと」。いったん故郷に戻ったものの再び舞い戻ってきた上海の農民工たち同様、北京を追い出された農民工たちも行き場に窮するのは目に見えている。中国当局は、追い出した農民工たちがいったい、どこへ行くと想定しているのだろうか。それとも、とにもかくにも追い出さねばならぬほど、北京や上海といった中国の大都市は、余裕がなくなってきているということなのだろうか。
再び漂い始めた上海の農民工
そんなことを考えていた昨年末のこと。
私は上海の自宅で猫を飼っていて、留守をするときには、何人かの農民工の友人にバイト代を払って世話を頼んでいる。例年、春節(旧正月)休暇にはほとんどが帰省するが、それでも休日に働けば平日の3倍の時給を得られるという規定があるため、帰省せず上海に残って頑張って働くという人もいる。私の友人たちも同じで、これまでは友人の農民工ネットワークの中で必ず春節中に面倒を見てくれる人を見つけることができた。
ところがである。そろそろ春節の猫の世話の手配をしなければと友人の農民工たちに、次の春節もあなたの知人にまたお願いしたいと連絡すると、「今年は帰省して、春節明けに上海に戻るかどうかも分からないんだって」という答えが相次いだのだ。そして、それは彼らの知人にとどまらず、友人の農民工たち自身も同じで、「先のことは帰省してみないと分からない」という人が、1人や2人ではなかったのである。2015年あたりにいったん故郷に帰り、その後上海に舞い戻ってきた農民工たちが、上海の生活が二進も三進もいかなくなった上に、当局の追い出し圧力も相まって、再びさまよい始めようとしていた。
そして私は、北京の農民工追い出しのことに思いを巡らせた。賃金や家賃の水準、働き口等、農民工の置かれている環境は、北京と上海でそう大きな差はない。農民工を取り巻く状況がここに来てさらに一段、厳しくなってきているのは間違いないのに、強引に物事を進めようとすれば、社会の不安定要素を増やすだけではないのか。実際、大火が起きた新建村とは別の北京のいくつかの地区で昨年12月、やはり追い出されそうになったことに抗議する農民工と警官の衝突が起きたという報道もあった。
言行不一致のなぜ
習近平国家主席は2017年12月31日、毎年恒例となっている新年を迎える挨拶で、18年も引き続き貧困対策を強化するとした上で、2020年には「小康社会」(ゆとりのある社会)を実現し、中国数千年の歴史上初めて極度の貧困のない社会を打ち立てると国民に語りかけている。
私はこれを、美辞麗句を並べただけだとは思わない。中華人民共和国自体、農民を味方に付けて成立した農民革命の国。農民を敵に回したりないがしろにし過ぎたときの恐ろしさは、私ごときに言われるまでもなく分かっている。
では、習主席の言っていることと、北京や上海で起きていることが違うのはなぜなのか。なぜ正反対のことをするのか。単純に、その点が不思議でならない。北京を歩けばその疑問を解く糸口がいささかなりとも見つかるだろうか。
そこで私は1月末、北京を歩いてみることにした。ただこれまで、上海で強引な取り壊しを散々見てきた経験から、大火のあった新建村は騒動から2カ月後のいまのこのこ訪れたところで、既に取り壊され見渡す限りのがれきの山だろうことが容易に想像がつく。そこでまずは、やはり農民工の立ち退きを巡り騒動があったという北京北部の朝陽区のある町を訪ねた。
バスを降り、人通りの少ない村の目抜き通りを歩き始めてすぐに目に入った張り紙を見て、この村の住人たちの置かれている環境がたちどころに想像できた。それには「有償献血」「互助献血」と書かれていた。売血である。そして、その張り紙のあった建物には、細いガラス窓がはまるドアの向こうに女性が1人で座っているオランダの飾り窓に似た家が3軒ほど並んでいた。男も女も売るものがもはやなく、肉体を切り刻むしか術がない人びとが暮らす町であるのは間違いがないようだった。(「中国の出稼ぎ青年を無差別殺傷に追い込んだもの」に続く)
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