目で見ているものが「実際」とは違って見えてしまうことを指す「錯視」。この錯視を含め、見たり聞いたり考えたりしているときの脳の活動を測定して、「時間の知覚」「多感覚統合」「脳の性差」など、人間の内なる活動のメカニズムを探る四本裕子先生の研究室に行ってみた!(文=川端裕人、写真=内海裕之)
「時間の知覚」「感覚統合」「脳の性差」といったことを研究する四本さんは、「地味」「細かい」と自分では言いつつも、とても興味深い研究を推し進めている。
すでに「時間の知覚」だけでも、興味津々ではちきれそうなほどの研究の最先端のお話を伺った。お腹いっぱいに近い。
このあたりで趣向を変えて、四本さんがどんなふうにしてこの研究にたどり着いたのか聞いておこう。
「今思えばですけど、やっぱり自分の知覚、内的な体験というのについて、思いをはせるような子どもでした。幼稚園だか小学校の低学年ぐらいのときに、私が見ている赤い色が、他の人が見ている赤い色じゃなかったとしても、それはどうやったら証明できるんだろう、みたいなことをちょくちょく考えてたんです。それって、まさに自分の中での知覚というものをどう定量的にはかって、他の人と比べることができるのかってことなんです」
いきなりすごい話だ。
自分が見ている赤が、他の人が見ている赤と同じかどうか、わりと小さい頃に疑問に思った人は多いと思う。でも、ほとんどの人は、そういうものを一過性の疑問として忘れてしまう。四本さんは、そこで踏みとどまり「どうやったら証明できるんだろう」という課題として考え続けた。
素敵な細胞
「そんな背景もありつつ、大学に入って網膜に並んでいる細胞の働きを学んだときに、神経節細胞という、素敵な細胞があるのを知ったんです。これがとっても賢いんです。網膜で一番最初に光を受容してから、本当に1、2、3ステップ目ぐらいのところにあるんですけど、周りの細胞と洗練された接続をしていて、まだ脳にもいかない網膜にある細胞なのに、例えば丸い形をすでに認識するんです」
目は脳の一部、というふうなことを聞いたことがあるけれど、実際に網膜上で、かなり高度な情報処理、画像処理が始まっているというのである。そして、網膜で巧妙に前処理された情報が脳の視覚皮質に届くと、さらに高度、かつ巧妙に、視覚という知覚をつくりあげていく。
一連の仕組みを理解した時、四本さんは「鳥肌がたつほど感動したんです」と強調した。自分にとっての赤と、他人にとっての赤を、どう比べて証明すればいいか考え続けてきた人にしてみれば、こういった機序の理解は、輝かしいものだと想像できる。
「というわけで、やっぱり視覚に興味を持って、大学3年生の時から研究するようになりました。他にもちょこちょこ縁があって、大学4年生の時、東大医学部でやっていた実験の被験者として呼ばれて行ったときに撮ったMRIの画像があれです」
四本さんはデスクの上に掲げられた写真を指差した。
なにか脳をスライスした断面写真があるなとは思っていたのだが、それが大学4年生の時の本人のものだったとは!
「MRIはすごい! って感動したんですが、当時、なかなか気軽に使える機械じゃなくて、これを撮ってくださった先生のラボに押しかけて、ちょっとお手伝いさせてくださいって、しばらくアシスタントをしたんです。そこからもっと興味が膨らんで大学院に進学して、MRIで研究していこうかなっていうことになりました」
一直線の先の共鳴
その後、四本さんは、東京大学で修士号を取得、アメリカ・マサチューセッツ州のブランダイス大学で心理学の博士号を取った。博士課程からの留学というのは、実はかなり勇気がいることだ。異国の教育システムに適応できなければ、学位も取れずに戻ってこなければならなくなる。学位を取った後のポスドク研究員として海外ポストを得るのと根本的に違う。しかし、四本さんはその時の決断も「そっちの方が面白そうだから」というふうに気軽に選んでいる。知的好奇心の赴くままだ。
さらに、ボストン大学・マサチューセッツジェネラルホスピタルとハーバードメディカルスクールでポスドク研究員として5年程働いてから帰国。慶應義塾大学の特任准教授を2年間務めた後に、東京大学大学院総合文化研究科の准教授に就任している。
一直線な研究者人生だ。もちろん、後から見ればそう見えるのは当然としても、幼いころの疑問から、すーっと一本の線が引かれているかのようなこのストーリーは印象的だ。
「私、就職活動したことないんですよ。目の前にある、自分にとっておもしろいものしか見てこなかった結果、こうなったといいますか」
そして、今では自分の研究室を構え、優秀な学生を擁し、自分がラストオーサーとして論文の質を保証するような形になりつつも、非常に生産的なラボを維持している。ぼくが錯視について意見交換した大学院生たちは、修士課程の頃からトップレベルの学術誌に論文を発表している一線の研究者でもあった。
これが、もし学生の数が少ないとか、頼りないラボだと、主宰者が孤軍奮闘しなければならなくなり、研究室全体としての生産性も落ちてしまう。四本さんは、今では「目の前にある、自分にとっておもしろいもの」に共鳴してくれる仲間(共同研究者やポスドク研究員や学生)をつぎつぎと引き寄せて、チームとして最大のパフォーマンスを発揮できるように心を砕く立場だ。
すでに「時間の知覚」についての研究は紹介した。
さらにそこから進んだ話題にも触れておこう。
ひとつは、「多感覚統合」について。ぼくたちはいろいろな感覚を通して、この世界を認知したり、それをもとに行動したりしている。その際、ひとつだけの感覚に頼っていることは、実はあまりない。様々な知覚が、脳の中でどんなふうに並列処理され、統合されるのかというのは、とても重要なテーマだ。実は、前回の時間の知覚の研究も、視覚と聴覚がせめぎ合うという意味では、すでに多感覚統合の研究だったともいえる。
深く突っ込めば、どんどん専門的になってしまうが、ここではできるだけ分かりやすい例を挙げてもらおう。
スプリット・ブレイン
「ちょっと変わり種の共同研究なんですが、臨床研究をやろうとしたら、基礎研究になってしまったみたいなプロジェクトがあるんです。脳の左の脳と右の脳が生まれつきつながっていない患者さんがいらっしゃって、分離脳と呼ばれています。さっきお見せした川端さんのMRIでは、左右の脳の間に太いコネクションが白く見えていたと思うんですが、分離脳の人は、それがないんです」
分離脳、英語ではスプリット・ブレインという。右脳と左脳をつなぐ脳梁がないために、研究対象としてよく取り上げられてきた。もともと脳梁を欠く疾患の人もいれば、重たいてんかんを患い片側の脳で起きた発作が隣の脳にまで波及するのを防ぐために脳梁を切断した人もいる。本来あるはずの情報伝達経路がない人たちを見ることで、分かってくることがあるという。
「人の視覚って右の視野に何かを見せると、その情報は左の脳にいくんですね。一方、左の視野に見せると、その情報は全部右の脳にいく。我々の脳は、視覚情報を左右別々に処理して、脳梁を介して情報をやりとりする仕組みになっている。なので、分離脳の人の右視野にだけ何かを出すと、その情報は左の脳しか知らないわけです。一方で、右の脳は左手を、左の脳は右手をコントロールしています。なので、右視野に何かを出すと、左の脳はそれを知っているけれど、右の脳は知らず、右脳がコントロールする左手でそれをつかむことができない。ただ知らないから」
実は、ここまではよく知られている実験で、四本さんたちが発見したのは、「その先」だ。
「やっぱり時間についての研究です。右視野と左視野に時々いろんなものを出しつつ、片方の視野に見えているものの時間を知覚してもらうんです。その時に、時間を知覚してもらうメインのオブジェクトと反対側の視野に妨害刺激みたいなものを出すと、ものすごく成績が悪くなるんです。見事に邪魔されてしまう。で、ここから何が言えるかっていうと、脳梁がない分離脳でも、下の部分でつながってるんですよね。サブコーティカル、皮質の下と書いて、皮質下と言われる部分です」
手でものを掴むような運動については、大脳皮質が大いに関わっているので、ものをつかめなかったのだが、時間については脳梁とは別のところでつながっていたと! なお皮質下というのは、大脳(大脳皮質)の一部ではなく、生き物としてもっと古くからある部分だ。
「この結果にはすごく驚きました。でも、考えてみると、時間を処理する脳内メカニズムは、幅広くすべての動物が持っているわけで、そういう意味では、どんな動物でも共通した部分が、情報の伝達に使われているというのは、とても納得のいく結果だったんです」
ナチュラル・ボーン
四本さんは、地味、地味というのだけれど、本当に地味だろうか。
ふとしたところから、一気に、時間の情報処理をめぐる生命進化の歴史にまで視野が広がるのは、なにか本質的な研究を成し遂げた時の醍醐味だろう。
とはいえ、やっぱり、脳のディテールや機能に関わる話は、ふだんからこの分野に関心がない人でなければ、理解するまでの負荷が重い。
四本さんが最近かかわっている研究の中で、ひとつ表題レベルからして一般の関心が非常に高そうなものがある。
「脳の性差」だ。
ナチュラル・ボーン研究者であり、“Born to be”研究者な雰囲気をまとう四本さんは、どんな手つきと語り口で、この「神話」に満ち満ちたテーマにアプローチするのだろう。
つづく
(このコラムは、ナショナル ジオグラフィック日本版公式サイトに掲載した記事を再掲載したものです)
1976年、宮崎県生まれ。東京大学 大学院総合文化研究科 准教授。Ph.D.(Psychology)。1998年、東京大学卒業。2001年から米国マサチューセッツ州ブランダイス大学大学院に留学し、2005年、Ph.D.を取得。ボストン大学およびハーバード大学医学部付属マサチューセッツ総合病院リサーチフェロー、慶應義塾大学特任准教授を経て2012年より現職。専門は認知神経科学、知覚心理学。
1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、少年たちの川をめぐる物語『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、天気を「よむ」不思議な能力をもつ一族をめぐる壮大な“気象科学エンタメ”小説『雲の王』(集英社文庫)『天空の約束』、NHKでアニメ化された「銀河へキックオフ」の原作『銀河のワールドカップ』『風のダンデライオン 銀河のワールドカップ ガールズ』(ともに集英社文庫)など。近著は、知っているようで知らない声優たちの世界に光をあてたリアルな青春お仕事小説『声のお仕事』(文藝春秋)と、ロケット発射場のある島で一年を過ごす小学校6年生の少年が、島の豊かな自然を体験しつつ、夏休みのロケット競技会に参加する模様を描いた成長物語『青い海の宇宙港 春夏篇』『青い海の宇宙港 秋冬篇』(早川書房)。
本連載からは、「睡眠学」の回に書き下ろしと修正を加えてまとめたノンフィクション『8時間睡眠のウソ。 ――日本人の眠り、8つの新常識』(日経BP)、「昆虫学」「ロボット」「宇宙開発」などの研究室訪問を加筆修正した『「研究室」に行ってみた。』(ちくまプリマー新書)、宇宙論研究の最前線で活躍する天文学者小松英一郎氏との共著『宇宙の始まり、そして終わり』(日経プレミアシリーズ)がスピンアウトしている。
ブログ「カワバタヒロトのブログ」。ツイッターアカウント@Rsider。有料メルマガ「秘密基地からハッシン!」を配信中。
登録会員記事(月150本程度)が閲覧できるほか、会員限定の機能・サービスを利用できます。
※こちらのページで日経ビジネス電子版の「有料会員」と「登録会員(無料)」の違いも紹介しています。
この記事はシリーズ「研究室に行ってみた」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。