最近、日本が息苦しい、「一億総クレーマー社会」
テレビが普及しはじめた1960年代、「テレビは人間の知性を低下させる」と、評論家の大宅壮一による「一億総白痴化」という言葉が流行したことがありました。1970年代や1980年代になると、中産階級が増え始めたことを背景として「一億総中流」という言葉が浸透します。
そして現在は、安倍内閣が「一億総活躍」という“お題目”を掲げていますが、筆者の眼には、「一億総監視社会」「一億総クレーマー」「一億総評論家気取り」が相応(ふさわ)しいように感じます。
たとえば、つい最近の事例を挙げても
・駅員が勤務中に水を飲んだだけで苦情。
・ボランティアの消防団員が消防車でうどん屋に寄っただけで苦情殺到。
・自分の子供に花の蜜を吸わせただけで炎上。
つねに誰かにインネンをつけるチャンスを窺い、揚げ足を取って悦ぶ者が跋扈(ばっこ)するギスギスした社会。まるで戦前の日本のようです。

ネチネチと批判ばかりする社会は、崩壊に向かっている
戦前の日本では、国民同士がお互いに監視し合い、わずかでも全体行動から外れる言動をした者には、ただちに「非国民!」のレッテルを貼り、寄って集って個人攻撃をしかけたものでしたが、これとよく似た構図です。
ただし、戦前の場合は政府がこれを煽っていた背景がありますが、今は一般の人々が率先してやっているのですからもっと始末が悪い。所詮人間のすることですから、生きていればかならず過ちは犯すし、やることなすことどこかしら落ち度はあるに決まっています。
水清くして魚棲まず
社会を円滑に回すためには、明らかな「犯罪」でもないかぎり、ある程度の“おイタ”や失敗、不行状(ふぎょうじょう)は大目に見る“おおらかさ”が必要です。それを「どんな小さな不品行もいっさい許さない」とばかり、重箱の隅をつついて小さな不行状をほじくり出し、小姑のようにネチネチと批判する社会は、たいへん殆(あや)うい。
「プロレタリア文化大革命」の悲惨
その例をひとつ歴史から紐解くならば、たとえば1966~1976年の中国。
中国は1958~1959年にかけて、毛沢東の大号令の下、「大躍進」と銘打った経済政策を打ち出しましたが、莫大な餓死者(一説に5000万人)を出して大失敗しました。毛沢東は1959年、その責任を取っていったん国家主席の座を退きました(劉少奇に国家主席の座を譲り渡す)が、すぐさま奪権するべく陰謀を巡らせます。それが「プロレタリア文化大革命」(1966年~1976年)です。
いつの世も若者というものは、まだまだ人生経験も浅く、世の中の仕組もわかっていないのにまるでその自覚がなく、理想に燃えるもの。そうした学生らを煽って「紅衛兵」となし、どんな小さな“悪”にも徹底的に批判を加えさせたのです。その結果、子供にありがちなことですが後盾(毛沢東)を得て有頂天となった学生たちはたちまち暴走し、日常の気に入らないすべてのものに対して「反革命分子」と決めつけ、徹底的な破壊活動をはじめてしまいます。

異質なものにはどんな小さなことにも批判を加える
学校では気に入らない教師を「反党黒幇分子(悪徳分子)」と罵り、これを縛りあげて髪を刈り、半殺しにして学校をすべて休校にしてしまう。工場に出向いては機械を破壊し、寺院を襲っては仏像を破壊し、各地に祀られた孔子像を破壊する。さらに、街に繰り出しては、化粧をしてスカート姿で歩いているだけの女性に「反革命的だ!」「反省しろ!」と暴行を加える。果ては、「自分たちこそが正義で、今の政治家たちはすべて悪だ!」と、昨日今日生まれたような子供が、これまで中国の建国に尽力した政府中枢の元勲たちを寄って集って縛りあげ、拷問にかける有様。
10年にもおよぶこうした兇行の末、まともな良心を持った人物は片端から殺され(紅衛兵には殺人すら認められていました)、その犠牲者の数たるや、中国共産党発表の少なく見積もった数字ですら40万、実際には1000万近いとも言われています。
古き佳き中国文化の担い手であった知識人階級がほとんど殺されてしまったことで、「数千年にわたって連綿とつづいてきた伝統中国はこのときに絶滅した」とすら言われるほどです。
「自分が正しいと信じ、異質なものにはどんな小さなことにも批判を加える」。
こうした行為の行きついた先がこれです。
現在、日本で他人の小さなアラを見つけてはネットで叩いている人たちと、このときの紅衛兵、本質的にどこが違うでしょう。こうした者が跋扈する「心に余裕のない社会」は、中国のようにすでに破滅に向っていると言えます。
黄海海戦に勝利した坪井少将を批判した秋山真之
「一億総批評家気取り」には他にも問題があります。その点について、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公ともなり、日露戦争を勝利に導いた立役者のひとりとしてよく知られた人物、秋山真之(さねゆき)を例に挙げてみましょう。

彼は、日露戦争で前線に立つすこし前(1899年)のこと、日清戦争での黄海海戦(1894年9月17日に清国との間で戦われた海戦)について、第一遊撃艦隊を率いていた坪井航三少将(階級は当時)を批判したことがありました。
坪井少将といえば、当時まだ艦隊陣形において「単縦陣(艦隊の各艦が縦一列に並ぶ陣形のこと)」と「単横陣(艦隊の各艦が横一列に並ぶ陣形のこと)」のどちらがすぐれているか、各国海軍で議論され結論が出ていなかったころから、いち早く「単縦陣の優位性」を主張し、それをこの黄海海戦で実証して見せた名将です。
黄海海戦を勝利に導いた一級功労者であると同時に、各国海軍がこの黄海海戦の戦果を見て、一斉に「単縦陣を採用」するようになったほど、後世への影響力も強い軍人です。その坪井少将の戦術に対して、戦後、秋山は批判を加えています。
一、序盤に敵艦左翼ではなく、右翼を攻撃したこと。
一、中盤に不用意に回転運動を行い、ムダな動きをしたこと。
一、終盤の追撃戦術において、勢力集合(味方4艦で敵1艦を攻撃する戦術)の一則に固執して敵艦を取り逃したこと。
しかしながら、このとき坪井中将(最終階級)はすでに故人(1843年~1898年没)で反論しようもありませんでしたので、僭越ながら彼に代わって筆者が擁護して差しあげますと──。
まず第一に、こたびの黄海海戦は日本海軍初の本格海戦であり、世界初の鉄甲艦同士の海戦でした。何事も“初体験”は想定外の出来事がつぎつぎと起こるもので、未体験の状況に対して一瞬一瞬の判断が迫られるのですから、多少の判断ミスは仕方のないことです。それが“致命的失態”でない限りは、むしろその勝利を褒めてあげて然るべきでしょう。
第二に、その場に居合わせなければけっしてわからない(後世には伝わらない)諸事情が多分にあるでしょうから、ほんとうに秋山の主張するように坪井の判断が間違いであったかどうかも微妙です。
秋山真之、坪井少将が勝利した黄海で大失態
この2点については秋山本人も認めており、最後に坪井中将をフォローしているとはいえ、では、それほど上から目線で大口を叩く秋山自身が坪井の立場だったら、坪井以上の戦果を残せたのかといえば、これははなはだ疑問です。
なんとなれば秋山は、この批判から5年後(1904年)、奇しくも坪井が戦った同じ黄海で旅順艦隊を相手に戦うことになりますが、彼はそこで坪井少将など比較にならない大失態を犯しているからです。
さきの黄海海戦における坪井の「不用意な回転運動」を批判した彼ですから、自分はさぞや華麗な艦隊運動を指揮したのかと思いきや、彼もまたクルクルとムダな回転運動を行っています。これはのちに「不可解な艦隊運動」と各方面からコキ下ろされる致命的な大失態でした。
彼もまた自ら批判した「ムダな回転運動」をやらかし、そのうえ、なぜ彼が「不可解」とまで酷評される回転運動を始めたかと言えば、自分が考案した「丁字戦法」に執着したからです。彼は、坪井少将に対し「一則に固執する愚」を論じていたはずです。その彼が、モノの見事に丁字戦法という「一則に固執する愚」を犯して大失態を演じたのでした。
敵の同じ手に引っかかって同じミス
このときはたまたま「運命の一弾」と呼ばれる“天祐(奇蹟的幸運、神の助け)”に恵まれたことでなんとか逆転できましたが、そうでもなければ、日本は彼の大失態のせいで亡びるところでした。
ここでおのれの失態を羞じた秋山は「丁字戦法」を改良してその弱点を補い、つぎの大海戦・日本海海戦に臨みます。ところが秋山は、ここでも黄海海戦のときとまったく同じ手(回頭フェイント)に引っかかり、またしても「回転運動」をやらかしてしまう始末。
人間ですから一度の過ちは仕方ないところもありますが、「敵の同じ手に引っかかって同じミスを犯す」のは戴けません。
しかも、その「過ち」は、坪井少将の“小さなミス”とは比較にならない、日本の滅亡に直結するほどの致命的な失態。
しかしこのときも、第二艦隊出雲の司令官・上村彦之丞中将が第一艦隊の動きを「判断ミス」と断じてそのまま直進してくれたため、事なきを得ました。
言うは易し、行うは難し
黄海海戦では“天祐”のおかげ、日本海海戦では上村中将の機転のおかげでたまたま勝利できただけで、秋山自身は失態つづき。万一あそこで敗れていたら、「祖国を亡ぼした愚将」として後世伝えられていたに違いありません。
智謀、湧くが如し(知恵が湧いて出る)
連合艦隊司令長官、東郷平八郎に、そう絶讃されていた秋山ですら、この有様です。それほどに「言うは易し、行うは難し」なのです。
自分ができもしないこと、実績もないことに対して外野から批判を加えることは、恥の上塗りになる好例と言えましょう。
自分の力量を過信しすぎた秋山の末路は悲惨でした。
坪井少将を批判した時点(1899年)では、自分の才のみを信じて「天祐などない!」と断言していた彼でしたが、自分が編み出した作戦はことごとく失敗し、それが“天祐”によって救われた反動から、戦後は完全に神仏にすがるようになってしまい、あやしい宗教にはまって周りから「狂人」扱いされるほどに身を持ち崩していくことになります。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』のイメージのせいか、現在ではさも秋山が日露戦争を勝利に導いた立役者かのような風潮が風靡していますが、こうした事実からも、彼の評価は実態より高すぎるように思えます。
執拗に批判を繰り返す者は、劣等感を抱えていることが多い
このように、他者に批判を加えることは多分に他者にも自分にも害を振りまくことになるため、慎重を要します。
秋山のように比較的「冷静・客観的・理性的な論評」ならまだしも、「感情的で口汚い批判」「執拗な攻撃」をする人というのは、「自分になんの才もなく劣等感が強い人」「社会の底辺で強いストレスを抱えている人」がほとんどです。他者を批判することで優位に立った気分に浸り、それにより一時的なストレス解消を図っているにすぎません。
確かに、こうした人が跋扈した戦前の日本も1960年代の中国も「ストレスが異常に高まっていた社会」でした。そうした日々の生活ストレスが「監視社会」の地盤となっていたことは否めず、現代日本は戦前に匹敵する“ストレス社会”になっているという証左かもしれません。
そうしてみると、さきほど「監視・批判が跋扈する社会は破滅に向かっている」と申しましたが、逆に「社会が崩壊に向かっているから、その中で生きる人々をこうした異常行動に走らせている」とも言えます。
いずれにせよ、日本社会は今、急速に頽廃(たいはい)へと突き進んでいるようです。
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