中国の人たちを形容する時、日本人はしばしば「大陸的」「おおらか」といった表現を使う。良い意味の場合もあるし、ポジティブっぽい表現をしながら、その実「だからダメなんだ」との意が含まれていることもある。

 中国とあまり関わりのない人と話をしていると、

 「田中さん、あっちの人は、なんていうか、大陸的なんでしょうねえ」
 「まあ、そうですねえ」

 みたいな話で、実はなんだかわけがわからないことがままあるのだが、日常的によく聞く表現ではあるものの、実際のところ「大陸的」とは何なのか、「おおらか」とは、どんな様子を指しているのか、明確な定義を聞いたことはない。

 あまり好きな言葉ではないので自分で使うことはまずないが、「大陸的」を辞書で調べてみると

  1. 大陸に特有なさま。「 -な風土」
  2. 細かなことにこだわらず、おおらかでゆったりしているさま。
    (三省堂 大辞林 ウェブ版)

 とある。ここでは②のほうだろう。

 過去2回の連載をお読みくださった方はお気づきだと思うが、「細かなことにこだわらない」「おおらかでゆったりしている」とは、要するに「スジ」ではなく、「量」で発想する中国人の思考パターン(社会が持っているOS)のことを指している。「スジOS」の日本と「量のOS」の中国だ。

 さまざまな状況に直面した際、「スジOS」のように理屈通り、ルール通りに反応するのではなく、その場の状況に応じて、その人が最も合理的だと思うやり方をとる。その判断基準は「現実的な影響の大小」にあるので、対応は人によって幅が出る。要は大きな差し障りがなければよいわけで、「細かなことにこだわらない」「おおらかでゆったりしている」と日本人が感じるのはそこに理由がある。

 一方でこうした「量のOS」の思考方式は「詰めた話」が苦手だ。

 完璧さ、徹底的な行動を求めるような仕事、枠組みに沿ってコツコツ蓄積していくようなやり方には不向きというデメリットがある。ネガティブな意味で「大陸的」が使われるのはこういう場合だ。

 一言でまとめれば、常に規範を重視し「こうあるべき」を目指す理念追求型の日本人、現状に即した臨機応変な合理性を重視する現実主義の中国人――と言えるかと思う。

「皿に残ったエビチリ」をめぐる日中間の認識の相違について

 「量」に基づく現実的な対応について考える例を、もういくつか挙げてみる。

 中国のレストランで食事をしていると、注文した料理が皿の上に残っているのに、皿を下げられてしまうことがよくある。例えば、中華料理屋で「むきエビのチリソース炒め」を注文したとする。食事も進み、話しがはずむ中、皿の上にはエビが2つ残っている。そこに服務員がやってきて、淡々と皿を持ち去ってしまう。愛想は悪くないが、「下げていいですか?」といった類のコメントは多くの場合、ない。

 また、例えば夏の暑い日、路傍のカフェでアイスコーヒーを飲んで一休みし、さて、そろそろ時間だし、最後の一口をグッと飲み干して仕事に戻ろうか――と思った瞬間、氷が溶けて薄くなったコーヒーが2㎝ほど残ったグラスを持ち去られてしまい、気勢を削がれる、といったパターンもある。

 この手のことは日本でも発生しないわけではないが、遭遇する頻度は中国のほうが圧倒的に高い。一定期間、中国で仕事や生活をしたことのある方は同意していただけるのではないかと思う。

 なぜ中国の服務員は、客が食べ終えていない料理を持ち去ってしまうのか。その心理を考えてみると、その根底にはやはり「スジか、量か」という判断基準が存在している。

 まず日本人の「スジ論」で、この問題の構図を考えてみよう。

ケチだから怒るわけじゃない

 エビチリが2つ残った皿を下げられてしまう事態が発生した時、日本人客は程度の差はあれ、しっくり来ない感じを持つ。口に出して言わないまでも、内心は不満である。では、なぜ日本人客は不満を感じるのだろうか?

 自分が食べたかったエビが食べられなくなったからだろうか?
 残ったエビを食べないと2時間後にお腹が減ってしまうからだろうか?

 そうではない。

 食事が終盤に差しかかって、その段階でエビが2つ残っている状況は、客のお腹はほぼ満ち足りており、積極的に料理に手を出さなかったことを示唆している。食べたかったのであればさっさと食べればよいわけで、皿が持ち去られたことでエビがテーブルからなくなった(「量」がゼロになった)ことが不満なのではない。

 では何に不満なのか。

 それは、わかりやすく言えばこういうことである。

 「このエビはオレたちがカネを出して買ったものだ。エビの所有権は我々にある。それを断りもなく処分するとは何事だ。許せん」

 まあ、これはいささか極端な説明であるとしても、日本人の気分はまず間違いなくそういうところにある。これが「スジ」だからである。

 一方、中国の人々はと言えば、仮に同様の状況が発生したとしても、ほとんどの人は何とも思わない。カラになった皿を下げるのと同じで、何か特別の反応をすることはない。もし、たまたまエビをまだ食べたいと思っている人がいれば、「食べるから置いといて」と言うだろうし、そうでなければ何も言わない。

 中国の人たちはこの「残存エビチリ問題」を「量=現実的影響」の角度からとらえている。極端に収入が少ない人が、清水の舞台から飛び下りるつもりでこの料理を注文したといった特殊なケースを除けば、この2つのエビが自分たちに与える現実的影響はゼロに等しい。食べても食べなくても日常生活に何の支障もない、どうでもいい話である。持ち去られた2つのエビを巡って日本人が内心の葛藤を繰り広げているなどとは想像もつかない。

 皿を下げようとする服務員の側も、「食事も終盤、誰も食べずに残っているエビを下げても深刻な問題は発生しないに違いない。空いた皿はなるべく早く下げろと店長に言われているし、ここは皿を下げるのが合理的判断だ」と考えて皿を持っていく。

 要はお客も服務員も、考えているのは「問題の大きさ」であって、現実に影響がないことには関心を持たない。考えても意味がないからだ。「エビの所有権」などというスジ論は考える習慣を持っていないのである。

注意されたら「割り込み直す」

 「現実的判断」の観点から見ると、「割り込み」という行為に対する中国の人々の対応も興味深いものがある。

 中国社会でも、人が並んでいるのに横から割り込むのは当然、良くないことである。近年、都市部では行列に関するマナーは飛躍的に向上し、地下鉄の駅などでは整列乗車が普及し、降りる人が先、乗る人は後、といった作法が相当の程度、実行されるようになった。

 とはいえ各所で列に割り込む人はまだ少なからずいる。私が面白い現象だと思うのは、列に割り込む人が一定数存在する一方で、いわば被害者であるはずの「割り込まれる側」の人たちが、割り込みという行為に対して寛容であることだ。例えば車に乗っている時、渋滞の列に横から割り込まれてもほとんどの場合、淡々としている。怒りだす人はほとんどいない。

 この中国での「割り込む側」および「割り込まれる側」、双方の対応には、中国社会の「量」を基準にした現実的な考え方が色濃く反映している。

 先日、中国滞在歴の長い友人が教えてくれた話だが、ある時、彼が並んでいた列に1人の中国人が割り込んだ。彼が見とがめて注意すると、その人物はいったん列を離れ、私の友人の後ろに再び割り込み直したという。

 この話は「量=現実的影響」を基準にした判断の典型例だ。

 割り込みを注意されたこの中国人氏は「自分1人の割り込みは他人にさほど大きな影響を与えないだろう」という自らの判断で割り込みを実行した。しかしそこに自分とは認識の違う人間(私の友人)がいて、抗議を受けた。

 そこでこの中国人氏は「自分はこの人物(私の友人)の利益を侵害したのだ」と判断し、いったん列を離れ、私の友人の利害と無関係な位置に割り込み直した。つまりこの中国人氏は最後まで「割り込み=注意した人の利益侵害」と認識していて、「割り込み=ルール違反」という認識ではなかったことを示している。

 そして「割り込まれる側」にも同様の状況が存在する。

 例えば、駅の切符売場に並んで待っている時、自分の前に誰かが割り込んだらどうするか。   

 その瞬間、中国人の頭に自動的に湧き上がってくるのは
 「この人物が割り込むことで、自分が切符を買う時間がどれだけ遅れるか」
 ということである。

 力点はここでも「自分への影響の大小」にある。「割り込みはよくない」という世界一律の規範にあるのではない。ここがポイントである。

 その結果、誰かが列に割り込んだ行為に対して、怒る人と怒らない人が出てくる。自分が急いでいて一刻も争う事情がある人は、その割り込みに対して、その瞬間に大いに怒る。しかし一方で、あまり急いでいない人、時間に余裕のある人は、「まあ1人や2人割り込んだところで、致命的な影響は生じない。(もちろん愉快ではないが)たいしたことではない」と考えて、黙認する。

日本人の「スジ論原理主義」

 このようなことであるから、「列に割り込まれても中国人は怒らない」と一律に考えてしまうのも、実は間違っている。中国の人たちは、仮に割り込む人が1人なら、ほとんどの人は何も言わない。

 しかし、仮に割り込む人が1人から2人、3人、4人と増えていき、いつまでたっても列が前に進まない――といった状況になれば、急いでいる事情のある人から順に怒り始める。次第に怒る人が増えて、最後には全員が怒る。日本人はスジ論の人たちなので、おそらく全員が同時に例外なく怒り始めるはずだ。が、中国人は個人個人の状況に応じて怒るか怒らないかが変わる。

 渋滞の列に割り込まれた場合も理屈は同じだ。日本人は不思議なことに車を運転すると人が変わり、割り込まれた途端、パッシングしながら追いかけたりする。スジの通らない行動をした相手に私的制裁を加えようとする、一種の「スジ論原理主義」がある。「え、あの普段は冷静な人が……」と思うようなケースもあって、非常にこわい。

 中国人はこういう行動はしない。それは常に「スジ」ではなく、「量=現実的な判断」に基づいて行動する習慣がついているからだ。ここで言う「量」とは「自分の前に車が1台割り込むことで、目的地への到着時間がどれだけ遅くなるか」である。

 そう言われて考えてみると、割り込んだ車が1台であれば、それによって発生する到着時間の遅延は現実には微々たるものである。だから中国の人たちは普通の状況であれば問題にしない。割り込みという行為に対して「おおらか」なのである。

中国人の「おおらかさ」についての個人的なひとこと

 行列について書いていて気がついたのだが、列に並んでいる時、「自分は急いでいないから、先にやっていいよ」という人が中国には時々いる。もちろん先方から声をかけてくれるケースはそう頻繁にはないが、こちらが困っていれば譲ってくれる人は多い。私自身、つい先頃、地方都市の高速鉄道駅で急遽、予約を変更して駅の窓口で紙のチケットを再発行する必要に迫られ、発車時間は迫るし、大汗をかいてペコペコしながら列に割り込ませてもらったことがある。十数人の人が並んでいたと思うが、表立って文句を言う人はいなかった。

 日本だったらこの列車に私は乗れなかっただろう。もちろん予定を変えた責任は私にあり、そのシワ寄せを他人に押しつける権利は私にはない。スジ論ではそうであることは自覚しているが、そういう「細かいこと」を中国人は言わない。「まあそんなこともあるよね」と淡々と現実を受け止めているだけである。

 こうした「ゆるさ」には良い面、悪い面があるだろうし、私は日本人の緻密で厳格な姿勢が大好きだが、一方でこれまでに幾度、この種の「大陸的」「おおらか」な人たちに助けられたか知れない。スジと量、あちらを立てればこちらが立たずで、世の中はなかなかに難しい。

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この記事はシリーズ「「スジ」の日本、「量」の中国」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。