はじめまして。私は、精神療法を専門に日々臨床を行なっている精神科医です。
この精神療法という言葉は、あまり一般的にはなじみがないものかもしれませんが、これはカウンセリングや心理療法と同じように、主に言葉のやり取りによって行われる治療法のことです。いわゆるカウンセラーによってではなく精神科医によって行われる場合に、日本ではこういう言い方になります(英語では、精神療法も心理療法も区別なく「Psychotherapy[サイコセラピー]」と呼ばれます)。
時々、「医者なのにどうして薬を使わないのか」と質問されることがあります。もちろん私も、かつては一般的な精神科医と同様、薬物療法も行っていたのでしたが、それだけではどうにも対症療法の枠を出ないことに、ある種のもどかしさを感じていました。
「薬を飲み続けていれば少しは楽になる」といった状態がゴールになりがちな臨床現場の実状に、私はどうにも納得がいきませんでした。やはり「治療」と言うからには、薬も要らず、再発を恐れなくてもよいような状態に抜けることが目標でなければならないのではないか。次第に私は、そんな思いを強く感じるようになりました。
そして、言葉を用いた精神療法こそ人間の精神に根本的に働きかけることのできるアプローチではないかと思い、これを専門にしようと考えるに至ったわけです。

人間は言葉でできている
───はじめに言葉ありき。
これは、新約聖書「ヨハネ福音書」の冒頭にある有名な書き出しです。これに続いて、「言葉は神であった」「すべてのものはこれによってできた」といったことが書かれてあります。
私はクリスチャンではありませんが、万物創生の出発点として「言葉」を据えて、それを「神である」とまで言い切っているこの文章には、とても大切な視点があると感じます。少なくとも、ここには人間という存在についての真理があると思うのです。それをあえて私流に言い換えれば、「人間は言葉でできている」という表現になります。
私たち人間は、「言葉」というツールを持っている点において、他の動物と決定的に異なります。そしてこのツールは、仲間同士の情報伝達の役割にとどまらず、自分自身の内界そのものを形作っている基本でもある。つまり、私たちが何かを感じたり、何かを考えたりするのも、それを一々声に出したり文字に起こしたりせずとも、常に内的な言葉で行っているのですし、過去のさまざまな出来事も内的な言葉で記憶されている。そして、さまざまな物事についての判断や受け取り方は、すべて「言葉」によって書き込まれている基本公式のような価値観によって決定されている。ですから、私たちは「言葉」による一種の膨大な構造物のような部分を備えた存在であると言って良いかもしれません。
そのような特徴を持つ人間に生じたさまざまな問題について、基本原理である「言葉」を用いずに、薬物のような化学物質だけで解決できると考えることには、やはりどうしても無理があるのではないかと思います。薬物には、心の歴史や価値観までも変えるような力はないのです。
人間は「頭」と「心=身体」のハイブリッドである
このように、「言葉」によって複雑に構成されているのが人間の大きな特徴なのですが、しかし一方で、人間は動物の一種でもあります。さまざまな本能や欲求を備え、感覚や感情によって衝動的に突き動かされる側面も否定できません。理性など存在していないかのように、動物的なところもある。では果たして、私たち人間とはいったい何者なのでしょうか。
古くから、人間がどんな存在なのかという問いについて、さまざまな議論が繰り返されてきました。例えば、人間の本性について「性善説」もあれば「性悪説」もありましたし、近年でも「人間は本能の壊れた動物である」といった論を唱える人もあります。20世紀初頭には、精神分析の創始者フロイトが「超自我・自我・イド(エス)」という構造で人間を捉えたことも、よく知られているものでしょう。
しかし私は、人々のさまざまな葛藤や苦悩と数多く向き合っているうちに、普段私たちが何気なく使っている「頭」「心」「身体」という言葉を用いて、もっと分かりやすくいろいろな現象を統一的に説明できるのではないかと考えるようになったのです。それは、次の図式のように人間を理解する見方です。

この図に示したように、「心」は「身体」と“一心同体”につながっていて、そこは自然(野性)原理でできています。つまり、この部分は他の動物とさして変わりありません。しかし、その上に進化のプロセスであとから形成された「頭」が乗っかっています。この図では「頭」のところだけ白くなっていますが、それは、この「頭」だけは自然原理では動いていないという意味です。
そもそも「頭」という場所は、身体的には決して巨大でも強靭でもない人類が、他の猛獣などを制して生き抜くために発達させた部分で、いわば「(柳の下の)二匹目のドジョウ」を狙うような考えを生み出す部分です。つまりこの「頭」とは、コンピューター的な情報処理を行う部分であり、さまざまな計算や比較、計画や予測などのシミュレーションをするわけです。
私たちが用いている実際のコンピューターは、その複雑な情報処理を電子的なon/off(1/0)に基づいた集積回路で行っているのですが、それはつまり、すべてを二進法の演算に置き換えた処理をしているわけです。
われわれの「頭」もコンピューターと同じように、物事を二進法的に数量化し、これを演算することによって情報処理をしています。二進法と言ってもピンとこないかもしれませんが、これはむしろ二元論と言い換えた方が、より実感が得られるかもしれません。二元論とはつまり、物事を善/悪や、正/誤、損/得などのように二元的に物事を捉える考え方のことで、私たちが普段さんざん行なっている情報処理のことです。
「心」のフタとは?
さて、先ほどの図で「頭」と「心」の間にフタのようなものがあることに気付かれたのではないかと思いますが、これが本コラムのタイトルにもなっている「心」のフタです。
このフタは、「頭」によって一方的に閉められてしまうことがよくあります。近代以降の人間はとくに、「頭」の理性を過大に評価するようになったので、その分「心=身体」の方を劣等なものと見なす傾向が強まりました。そういうこともあって、現代人はこのフタを閉めてしまっていることがとても多いのです。
フタが閉まっていると、私たち人間は、非自然原理の「頭」と自然原理の「心=身体」とに二分されて、そこにある種の対立が生じてしまいます。
「頭」は、「~すべき」「~すべきでない」といったmust、should系列の言葉を用いますが、一方の「心」は、「~したい」「~したくない」といったwant to系列の言葉を発します。この両者がぶつかり合うことを心理学的には「葛藤」と呼びますが、フタが閉まってしまって「心」の声が封じ込められた状態の方は「抑圧」と言われます。
「葛藤」は、「~しなければならないけれど、したくはない」といった感じで悩みとして本人に意識されますが、「抑圧」の場合は「心」の声がすっかり封じ込められているので、悩みとして自覚されるようなことはありません。自覚されないのならそれで良いじゃないか、と思う方もあるかも知れませんが、これは実のところ、むしろかなり危険な状態なのです。
フタを閉められ、「頭」の意識に主張を受け取ってもらえない「心」は、あるところまでは我慢もしてくれますが、しかしその我慢も限度を超えてしまいますと、ストライキや反発を起こしたり、同志である「身体」のチャンネルから体調不良という形でシグナルを発してきたりします。ちなみに、ストライキが起こってしまった状態とは、近年とても増加してきているあの「うつ状態」のことです。
「心」は「頭」より劣等なのか?
私たちは、幼い時のしつけに始まり、学校時代や社会に出てからも一貫して、「頭」の理性を強化することを求められて進んできました。それは、暗黙のうちに、「頭」の方が「心=身体」よりも優れたものであるという価値観をすり込まれてきたようなものだと言えるでしょう。
しかし、うつ病をはじめとするメンタルトラブルの激増や、多少件数が減ったとはいえ依然として頻発する自殺の問題など、現代人の精神の問題は決して楽観できない状況にあります。私が日々の診療で痛感していることは、これらの問題の本質が、いずれも、「頭」が独裁的に「心=身体」を支配してしまっていることへの、「心=身体」側からの反発や悲鳴であるということです。

「頭」のコンピューターは、何をするにつけ、損得を計算したり、効率や意義を追い求めようとします。そしてこの「頭」の性質は、そのまま現代社会の価値観に反映し、多くの人々もその価値観で動くようになってしまっているのです。そんな中で、どうしても置き去りにされ踏みにじられがちなのが、人間の「生き物」としての側面です。
ここで、人間という存在が、自然原理と非自然原理のハイブリッドであることをもう一度思い出す必要があります。非自然原理の「頭」が個人個人の中で優位になっているのみならず、今や社会全体が非自然原理に方向付けられてしまっている。そんな状態に対して、自然原理の方がいつまでも黙って耐えてくれるはずはないのです。
「心」は、「頭」のように分かりやすい理由づけや証拠を一々持ち出したりせずに、瞬時に、直感的に、物事の本質を見抜き、判断を下す性質があります。何事につけ理由や根拠を述べなければならない現代人にとって、理屈なしに物を言ってくる「心」の意見は、なかなか受け入れ難いかもしれません。しかし、直感や第一印象が案外本質を捉えていたものだったなあと、あとになってつくづく思い知らされた経験が、誰でも少なからずあるのではないでしょうか。
「心」のフタがすこしでも緩むように
もちろん、後天的な学習や訓練によって身につけた知識やスキルも大切ですが、だからと言って、われわれに予め備えられている自然原理の奥深い知恵を軽く見てはなりません。どんなに科学や医学が進歩したとはいえ、未だに生命体一個すら生み出せていないのが、「頭」の理性の限界であり、それが自然原理に遠く及ばない水準に過ぎないことを示しているのです。
われわれすべての人間に揺るぎなく備えられている自然原理。その叡智に対して、かなり性能の悪いコンピューターに過ぎない「頭」を上位に置いて独裁者のごとく従わせることは、どう考えてもおかしな構図です。つまり、劣等な「頭」が高等な「心=身体」を仕切ることになるわけですから、トラブルが起こってくるのは必然なのです。
私たち現代人に起こってくるさまざまな苦悩や不調、そして現代社会に見られる諸々の問題。これらの根底には、「頭」の価値観が優位なものとして過大評価されてしまっているという過ちが、共通して認められるのです。
このコラムではこれからも、さまざまな切り口で「頭」の優位性に揺さぶりをかけ、「心」のフタがすこしでも緩んでくるような、現代でつい見過ごされがちな考え方や視点をお届けできればと思っています。
(次回へ続く)
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