国産旅客機、三菱航空機のMRJの開発はなぜ難航しているのかを、日本の航空産業史から探るインタビュー。独立系航空機メーカー、オリンポスの四戸哲(しのへ・さとる)社長の話は、機体の開発に重要な役割を果たす、国の新型機審査体制に辿り着く(四戸社長については、第1回を参照→こちら)。
(前回から読む)

松浦:ここまでをまとめましょう。1952年にサンフランシスコ講和条約が発効して、航空解禁となりました。ところがほどなく高度経済成長が始まって、有能な人材は航空から離れて自動車産業などに散っていってしまったわけですね。
そして、航空産業では自衛隊の設立で国から仕事が来るようになり、ソ連と冷戦で対峙する米国からは無制限に新しい技術情報が入るようになった。その結果、「米国から最新技術を学びたい」、かつ「国から安定した仕事が来る」という魅力に逆らえず、「自分たちでゼロから航空機開発を行う」という気運が薄れてしまった。
さらに、ドイツがグライダーを通じて子ども達が十代のうちに本物の航空機に触れる機会を作って、次世代の有能な人材をどんどん育成していったのに対して、日本はそのような教育の仕組みを作らなかった。かえって、「専門の勉強をすれば、それで専門家」というような硬直化した“幻想のキャリアパス”を構築してしまい、航空機に関わる人を特殊な存在にしてしまった――こんなまとめでよろしいでしょうか。
四戸:はい、そして次に、そういう環境への適応が起きました。
米国からの新技術情報がどんどん来るものですから、自分で考えるより、文献から「学ぶ」ことが好きな人が採用され、どんどん組織の中で偉くなっていったんです。そうすると、オリジナリティがあって、自分で何かをしようという意欲のある人が、なかなか組織に入れなくなるし、入っても偉くなれなくなってしまう。この選別は、日本の航空産業にかなりのダメージを与えたと思います。
松浦:「もう道は見えている」という環境では、オリジナリティの発揮は遠回りになっちゃいますからね。
四戸:そうなんです。それでも独創性のある人間を入れる度量というのは、組織のリーダーが持つべき能力なんでしょうね。残念ながら日本のトップは、米国とかドイツのようには振る舞えなかったんでしょう。
ただ、「これだから日本人は……それに引き替え欧米では」という話ではないんです。たとえば日本でも鉄道技術の分野では、すべてでとは言えませんが、独創性を重んじる人材育成をしていたと思います。
Y:学ぶ一辺倒ではなかった。なぜでしょうか。
「学び」の重視が航空法制度と行政に大きく影響した
四戸:なぜかというと、鉄道の分野ではすでに世界第一線の水準まで達していて、世界から学ぶものがなかったからですよね。そうなるとさらに前に進むためにはオリジナリティが必須になります。
松浦:ああ、なるほど。
四戸:対して航空産業はと言えば……
松浦:学ばねばならないことが多く、そういうことに向いた人材ばかりを集めてしまった、と。
四戸:そういうことです。そして学ぶ系の人材が集まってくる中で、今度は航空を巡る法制度が整備され、航空行政が行われるようになっていったわけです。
松浦:ああ、やっと私の問題意識にあった航空の法制度と行政にたどり着きました。
ここからの話題である、航空機開発の現状を理解するには、まず日本において航空機の開発はどのような制度になっているかを知っておく必要がある。
基本となるのは航空法という法律だ。航空法は、「国土交通大臣は、申請により、航空機について耐空証明を行う。」と定めている(航空法第三章第十条)。
耐空証明とは、つまりは自動車における車検だ。国土交通省令で定める航空機の運用限界について、当該機種が満たしていることを検査し、証明するものである。耐空証明を取得すると、期限1年の耐空証明書と機体ナンバーが交付される。
耐空証明がない航空機は、合法的に日本の空を飛ぶことができない。ただし自衛隊機については自衛隊法により、在日米軍機は日米地位協定により、耐空証明が免除されている。
航空法第10条は、申請があった場合に、国土交通大臣は耐空証明をしなくてはならないと明記している。耐空証明に関する業務は国の「義務」なのだ。
耐空証明に関する業務は、国土交通省の航空局という部局が担当している。
自動車でも、ゼロから新車を開発する場合と、市販の自動車を購入する場合とでは車検の取得に至るまでのプロセスが異なる。同様に、耐空証明もゼロから機体を開発した場合と、メーカーが量産する機体、さらには海外で商品として流通している機体などによって取得のプロセスが異なる。

上図には耐空証明を受ける場合の5種類のプロセスが記載されている。
1は、新たにゼロから機体を開発する場合だ。
2から4は、すでに開発を終えてすでに製品となっている機体の耐空証明を取得する場合。自動車でいえば、ディーラーで新車を購入して車検を取る場合と思えばいいだろう。製品としての航空機は、自動車と同様に「型式証明」という証明を別途取得する必要がある。型式証明のある機種ならば、個々の機体は、2~4のプロセスで耐空証明を取得できる。
商品としての新型機を開発する場合は、まず試作機で耐空証明を取得し、次にその試作機を飛ばして試験を行うことで型式証明を取得する必要があるわけだ。
4のプロセスは、クルマで言えば外車を購入することに相当する。航空会社が海外のメーカーの新型旅客機を導入する場合がこれだ。この場合は、「我が国と同等以上の検査を行う外国による輸出耐空証明」が必要になる。日本と米国は、お互いの国家機関が出した証明を認め合うという協定を結んでいる。
5は、海外で耐空証明を取った機体が日本の空を飛ぶ場合にあたる。クルマなら海外でナンバープレートを取得した車体を日本に持ち込んで走るようなものか。
日本における航空産業の育成発展には、1のプロセスが大変重要である。試作機の耐空証明は、製品に必須の型式証明にも関係してくるからだ。ここがしっかりしており、スピーディな検査による耐空証明取得ができないと、新機種の開発が非常に困難になる。
このようなことを頭に入れた上で、以下、四戸氏のインタビューを読んでもらいたい。
自国の新型機がなければ、ゼロからの審査経験も得られない
四戸:航空行政は、エアラインのような運航側に関しては比較的早期に整備されました。というのは、エアライン運航の手順は万国共通なんですよ。どの航空会社も初期は、米国の軍人上がりのパイロットをものすごい高給で雇って旅客機を飛ばしていたでしょ。
松浦:そうですね。
四戸:当時は航空会社のパイロットと言えば、ほぼ100%米国人でしたからね、その状態で、当然ながら今のかなり不平等なエアラインの条約も結ぶことにもなりました。とはいいながら、そういうことができたからこそ、比較的短期間で運航に関する法律が整備できたのだと思います。機材は海外から入ってきて、パイロットは米国人。それで各地に定期便を実地に運行しつつ、迷うことがあれば米国をお手本にしていくことで、短期間で運航に関する規則が整備されたんです。
それに対して航空機の開発はというと、まず当時の運輸省が耐空性審査要領という基準を作ったんです。これは米国の連邦航空局(FAA)が定める「FAR Airworthiness Standards」という耐空性基準をそのまま翻訳したものでした。滑空機に関しては、欧州の「OSTIV Airworthiness standard」を原文としています。建前としては省の定めたオリジナルの審査要領なのですけれども。
ところで、もとがStandardsなら「審査基準」と訳さねばなりません。それがなぜ「審査要領」となっているかと言いますと、役所の側に「基準を満たせば許可をする」と言い切ることが可能なだけの、航空機を実際に審査する技量がないからです。
Y:日本には航空機を審査する明確な「基準」が現在も無いってことですか。なぜ。
四戸:現実にそれにのっとって新型航空機を審査する機会がなかったからです。
Y:新型航空機が出てこないから、実際に審査をする機会がない……でも、自衛隊用の機材は日本でも開発していますよね。
四戸:大戦後日本で造った飛行機の大半は米国の軍用機のライセンスです。F-86、F-104、F-4、F-15、みなそうです。しかも軍用機ですから自衛隊法によって耐空性証明が免除になっています。ということで、日本の航空産業は民間機としての耐空証明を取るノウハウを得る機会がなかったんです。
YS-11は最終的には米国が審査していた
Y:……あ、でも、YS-11がありましたよ。
四戸:はい。日本の航空産業はYS-11を開発した時に初めて、今のMRJの開発当初と同じようにオールジャパンという掛け声で、耐空性審査の体制を整備し始めたんですね。なおかつ、米国と日本の間では相互認証協定があります。「お互いの国で審査し合格した飛行機は、自分の国の審査も通過したものとして認め合いましょう」という協定です。
YS-11の時には、日本は米国の耐空審査基準を翻訳した耐空性審査要領にのっとって審査をしようとしたんですが、やりきれませんでした。
松浦:ええっ、YS-11の時点でできなかったんですか。
四戸:できませんでした。YS-11の時点でも結局日本人パイロットによる飛行試験だけでは、検査しきれなかったんです。
YS-11は、離陸直後、二基のエンジンのうち一発が停止してもリカバリー可能に、という、双発機にとってみるとものすごくつらい最新の規格を世界で最初に通った機体なんです。当初設計では、試験飛行で一発停めると、機体が横滑りするのを止めることができずに、乗っていた人は相当怖い思いをしたそうです。
Y:それでどうなったんですか?
四戸:その後、米国からFAAの検査官がやってきて操縦して、ダメ出しをしました。これによってYS-11には大規模な改修が行われます。
改修後の最終審査では、米国から来たFAAの検査官が、事前のレクチャーもなしにすぐに機体を操縦し、離陸直後にいきなりすとんと片側のエンジンを止め、横滑りする機体をうまく操ってピタリと止めたそうです。
YS-11の開発史を紐解くと、試験1号機は安定性の不足に悩まされ、小改修を繰り返した。1963年3月20日、FAAからマイヤスバーグ国際部長、ローゼンバウム構造関係担当官が来日。一週間後の3月27日の第39回試験飛行で実際に機体を操縦し、「YS-11の安定性はマージナル(良いか悪いかギリギリのところにあるという意味)であり、ノーだ」と指摘した。それまで日本側は小改修で大丈夫と思っていたので、FAAからの「ノー」の指摘で大騒ぎとなり、機体の大規模改修を行うまでに至った。つまり、日本側の審査体制は「機体を小改修で済ませるか、それとも大規模改修すべきか」の判断ができなかったのである。
ここから機体の審査にFAAが積極的に入ってくるようになる。機体開発関係者のひとりは「(運輸省の)航空局にいくら質問しても明確な回答がないので、FAAの検査官に直接聞こうとしたら、航空局から“我々を通して質問するように”と言われた」と回想している。
1964年5月28日に、FAAによるYS-11最終審査が行われる。この時、FAAのピーターソン検査官は、事前に操縦関連のレクチャーを受けていなかったにもかかわらず、機体の操縦を希望。操縦席に座った彼は離陸直後に「エンジン、カット」と叫び片方のエンジンをいきなり停止し、YS-11が離陸直後のエンジン1基停止でも安全性を保てることを確認した。ピーターソンの突然の行動に、同乗した日本側関係者は大きなショックを受けたという。エンジン停止のような危険な試験は、十分機体の操縦に慣れてから行うものと考えていたからである。それだけ、ピーターソンの操縦技能は高かったのであった。
参考文献:前間孝則著「YS-11 国産旅客機を創った男たち」(1994年 講談社)
Y:FAAの検査官は自分で操縦して、意図的に異常事態をつくりだしてテストする。その技量があるから、テストに信頼性が生まれるし、自信を持って「基準」と言い切れると。
四戸:そうです。審査に至るまでに、メーカー所属のパイロットが事前に試験を行って、最後に検査官の操縦で確認するんです。それが普通の流れなんです。ところが米国の検査官は、いきなり、マニュアルを読んでちょっと操縦しただけでそこまで機体を振り回せるんですから、もう何というんですかね、すさまじいばかりのキャリアの差ですよね。
松浦:でもYS-11の開発時点ではまだ日本でも、旧軍のエース級のパイロットがまだ何人も現役で飛んでいましたよね。
四戸:いっぱいいました。
松浦:そういう人材を使うという発想はなかったんですか。
四戸:当時の日本に、新型航空機の耐空証明の審査ができるパイロットを養成しようという意識があれば、旧軍のパイロットを米国に送り込んで、緊急時の操縦の訓練を受けさせて審査に備えるべきだったんです。ところがそこまでやる余裕がなかったといいますか、やっぱり準備不足ですね。
もう1つ、日本のパイロットは圧倒的に操縦経験が少ないんです。
松浦:操縦時間ですか?
四戸:いいえ。時間ではなく乗りこなした機種です、操縦した機種が少ないんです。日本の場合には、例えば戦争中に一式陸上攻撃機に1000時間乗ったというような人はいても、あの機にもこの機にもと、様々な機体に乗ったことがあるという人材がほとんどいなかった。
Y:それはどういう違いになりますか。
四戸:多種多様な飛行機を操縦した経験がないと、「この機種にはこういう性能が必要だが、実際にはこの性能が足りない」というような判断ができません。
また残酷なことに、旧軍で生き残ったパイロットは年配者が多かったんです、戦争がせっぱ詰まってくると、若いパイロットを促成して前線に投入しましたからね。若いパイロットほど経験不足で戦死してしまった。そんな状況でしたから、検査官の人材不足は否めなかったと思います。
当時の手記で読んだのですが、YS-11の開発では4名のテストパイロットが機体を操縦しました。そのうちのお一人は、厳密にはパイロット適性がなかったそうです。目の病気で片目の水晶体を手術していたんですね。本当はその状態で操縦してはいけない規定なのですけれど、内緒で操縦したということです。それぐらい試験飛行のできるパイロットが逼迫していたんでしょうね。
あからさまな誤訳がそのまま残っていた
四戸:まだ旧軍の人材が元気だったYS-11の開発時にしてそんな状態でした。日本の飛行機の検査の要領、審査基準は「米国の翻訳」という状態をいまだに引きずっています。
Y:先ほど、翻訳内容は惨憺たるものだとおっしゃいましたが、実際どんな内容なんでしょうか。
四戸:国土交通省が発行している耐空性審査要領を手元に取り寄せてご覧になると分かるんですけど、誤訳が多い。米国の原文と比較すると、意味が逆になっているところもあります。
Y:実例はありますか。
四戸:例えばですね、今手元にあるのは2013年に改訳する前の古い版なんですが、この「3-2-4-2設計フラップ下げ速度Vf」の「…より小さくなくてはならない」というのは誤訳です。ここは「より小さくてはならない」です。この審査要領に従ったら、危険な飛行機となってしまいます。これは航空力学を理解していたらすぐに気が付く初歩的な誤訳ですが、長年このまま流通してきました。
この間違いは、2013年の審査要領の大改訂で解消しました。というのも、2003年に米国と欧州が審査基準を統一し、「JAR CS-22」という基準を作ったからです。日本は2013年になってMRJの審査があるということで、JAR CS-22を新たに翻訳して審査要領としたんですよ。これでやっとひとつ間違いが直ったわけですが、間違いはそれだけではありません。
四戸:それにですね、審査要領には0.78とか0.466とか、訳の分からない数字がたくさん出て来ます。計測した数値にそれを掛けろと書いてあるんです。
松浦:なんでそんな変な数字が出てくるんでしょうか。
四戸:元の米国の文書は、フィート・ポンド法で記述してあるからです。フィート・ポンド法だときちんと意味の分かる数式が記載されているわけですね。それを無理矢理メートル法に変換してあるんです。だから、数式を見てもその物理的な意味がすぐには理解できない。「審査のために何をしなくてはいけないか」を知るのに重要な、数式の意味が非常に分かりにくくなってしまった。おそらく、翻訳者が数式の意味を理解できないままに、形式的に翻訳した結果ではないかと思います。
松浦:今だったらSI単位系にするべきでしょうね。
四戸:今はSIですね。米国が長いこと単位系の変更に抵抗しましたので、航空分野では今でもフィート・ポンド法が優勢です。ここのところようやく米国も軍門に下ってSIになりつつありますが。欧州はもとよりメートル法で、するっとSI単位系に移行しています。
Y:ううむ。
四戸:ひどい翻訳でも、一度正式な規定になってしまえば効力を持ちます。そうなると、その翻訳文書が金科玉条になってしまう。申請する側は、どうしたって皆さん検査を無事通過したいですから、それを尊重するしかないんですよ。ほかに手がないんです。
私は学生だった1980年ぐらいから航空局に通っていますけれども、学生時代はまだ戦中派の、自分で飛行機を設計して作った経験のある方がいらっしゃいました。たとえば頓所好勝さんという方です。戦前に頓所式グライダーを設計して自作し、自分で飛んだ方です。頓所さんは、独学で勉強されて航空局の検査官になりました。
そういう方は我々が審査に行くと「若造が分かった気になるんじゃないよ。お前、ここ全然駄目じゃないか」というような感じできちんと見てくれるんです。足りないところを教え、導いてくれる。我々も言われたら悔しいからがっちり考えていく。私の恩師の木村先生は「どこ突かれてもいいようにしっかり計算していけよ」とよく言っていました。「真剣勝負」という雰囲気が残っていたんです。
松浦:1980年代前半ぐらいまでは、そんな感じだったんでしょうか。
四戸:それぐらいまでですね。皆さんもう定年延長を何度も重ねたような方達で、当然YS-11の審査にも参加した経験がありました。ところが1980年代半ばになると、その方たちが一斉に退職されてしまいました。
すると後任は飛行機を自分で設計・製造した経験はおろか、検査経験すらない人が担当せざるを得なくなる。どういうことになるかと言えば、よく私はシェフに例えるんですが、「料理評論家は評論できるかもしれない。けれども……」
松浦:「料理を作ることはできない」と。
四戸:そうです。調理のやり方が、どうやればおいしくなるかが分かってない人ばかりになるんです。そのうちに、同じたとえでいうと、食べたことがない料理評論家のような人まで審査する側に回るようになりました。権限を持ち、しかし実際を知らないわけですから、結局、先輩の形だけを真似するしかなくなりますよね。
Y:「決まりを守っているか否か」だけを見るしかない。
四戸:そしてその決まりの元は、いささかお粗末な翻訳文書なのです。
そんなところに、海外からの新型機が入ると、向こうから審査関連の書類が来るわけです。ボーイングから来る、ロッキードから来る、エアバスからも来ます。
松浦:どうやって審査していたんでしょう。
「これに全部、判子つかなきゃいけないんだよ」
四戸:思い出話になっちゃいますが、たとえば1980年代の後半、エアバスのA300-600旅客機が日本に導入された時期に会った審査官の方は、「マニュアル類に判子をつくのが大変なんだよ」と言っていました。航空局の机の後ろに棚があるんです。で、エアバス関連の書類がだーっと並んでいるんですよ。で、「これに全部判子つかなきゃならないんだ」というわけですよ。「日本の航空局が安全性を確認しました」という体裁を整えねばいけないですから。
Y:ちょっと待ってください。判子をつく、って、具体的には?
四戸:日本側が提出した書類の内容が、ボーイングやエアバスが出した仕様書と同じであるかというマッチングです。正確に言うと、だと思います。こんなことを覚えているのは、そのとき私は航空局の方に「あんたらのところの小さな機体を検査している暇はないんだ」と、はっきり言われましたので(笑)。
松浦:判子を押すのに忙しい。お前の機体など審査している場合じゃない、と。
四戸:「ああ、そうですか」という感じでした。
Y:実機の検査で忙しい、操縦するのが大変だ、という苦労話ではなくて、判子つくのが大変だ、と……。
四戸:航空法は申請があった場合に国は耐空証明の検査をするのが義務だと明記しています。そして耐空証明を取得していない機体を飛ばすことは禁じられています。つまり申請のあった機種は検査しなくてはいけないのです。
ですので、航空局の人が、ボーイングやエアバスなどの機体を飛ばしたことがない、とまでは言いません。しかし、それらの機体のテストフライトを通して、FAAの検査官が見逃していた不備や、将来的に予測できるトラブルを発見する、といった、実効的な検査をする能力を持つ人材が航空局にいたのかどうか、それは大いに疑問です。
SI単位系:国際単位系(SIはフランス後のSystéme International d'unitésの略)のこと。メートル法を発展させた単位系として、国際度量衡委員会が策定した。メートル、キログラム 秒、アンペアなどの7つの基本単位から全ての単位を定義していく。合理的で複数単位の関係する物理計算が簡単になるという特徴を持ち、近年、伝統的な単位系に変わって広い分野で使われるようになっている。
頓所好勝(とんどころ・よしかつ、1915~1999):長野県出身。中学卒業後、農業の傍ら模型グライダーの設計制作を始め、やがて実機の開発を志向するようになる。ドイツ語の原書を読んで航空機設計を独学。1935年、独力で設計・制作した「頓所式1型グライダー」で飛行することに成功した。同機は逓信省・航空局から「国産懸垂式グライダー1号耐航証明書1号」を取得した。日本のハンググライダーの始祖である。その後霧ヶ峰高原を拠点にグライダーの開発を進め、戦後は航空検査官を務めた。
MRJは審査技術底上げの大チャンスでもあるはず
Y:そういえば、八谷和彦さんの「メーヴェ」こと「M-02J」は、操縦方法が普通の飛行機と全然違いますよね。あの機体の審査をした航空局の方は、どうされたんですか。

四戸:これはもうはっきり言いますけど、M-02Jのときは航空局の人は実機を一切見に来ませんでした。オーナーの八谷さんに納品した後もそうだと思います。
あくまでも「高度3m以下のジャンプ飛行を何十回やったか」とか、「滑走試験を何回やったか」という、その回数とか距離の数字を見るだけなんです。これはM-02Jに限らず、私が開発した機体ほぼすべてでそうです。
ですから、私は、航空局にとってMRJの審査はもう、災難以外の何ものでもなかったのではないかと思います。さっきの料理のたとえで言えば「食べたことはある。出来上がった、完成した料理に対する衛生基準とか、あるいは味覚とかに関する判定はできる」と。米国のFAAなり欧州のEASAなりが用意した「正解」があるわけですから。
MRJの場合は、ゼロベースから開発した、新しい料理なわけです。料理、すなわち航空機の開発経験のある人はいませんから、その料理そのものに対して「許可をくれ」と言われても判断できない、と思いませんか。今、開発の中心と審査が米国に移っていますが、ほっとしているのではないでしょうか。
松浦:いやいや、でも、久々の国産旅客機の開発である以上、航空局は当然、それだけの準備をしていたのではないでしょうか。何より、審査技術を底上げする大チャンスでしょう。
四戸:ええ、MRJの審査のために航空局は岐阜に出張所をつくりました。人材も募集した。そして、FAAの検査官を講師として連れてきて、検査官を岐阜に缶詰にして審査の講習会をやったと聞いています。
Y:なるほど。
四戸:しかし、英語の壁と経験のギャップを缶詰学習で乗り越えるのは難しかったようです。機上で必要になる機敏な英会話や、英語で書いてある飛行で使う書類の流し読みなど、航空機の試験飛行で必要なレベルまで英語が普通に使える人ってそんなにいないんですよ。
なにより、飛行機の設計や、実機に直接触れる検査の経験が圧倒的に不足している。ベテランの米国人講師に連日審査のノウハウを英語で叩き込まれて、めちゃくちゃ頑張ったとしても限界はありますよね。
松浦:当然のことができていないように思えますね。仮にも旅客機の審査ができ、メーカーを導ける人間を、缶詰教育で作れるわけがないです。少なくとも若手の選抜から始めて、10年単位で育成していくものではないですか。促成に頼ったこと自体が、「本気で」自主開発を促進するつもりだったのか疑わしいとすら思わせます。
四戸:ええ、YS-11時代の経験にもかかわらず、審査体制構築への取り組みが甘かったのは否めないと思います。国交省も三菱も、「オールジャパンで開発・審査」と、当初は考えていたのではと思いますが、結局、現場を米国に移動することになっています。
松浦:分かってきました。新型機を開発しやすい環境がないから、新型機の開発がない。新型機が出てこないから、耐空証明を審査する人材も育たず、書類の上での煩雑かつ実効性がない審査になり、ますます新型機を開発しにくくなる。すると新型機の開発は米国に逃げていき、それによって審査体制の改善は行われなくなり、根本的な環境の改善に至らない……という悪循環なんですね。
審査には書類ではなく「物理法則に遡る」思考が必須のはず
四戸:大変きついことを言ってしまいました。私は現在の航空局の方々にはもちろん個人的な恨みはありません。多分に、よく事情が分からないままに、「書類の整合性」が本当に安全の確保に役に立つのだと信じ込まされた世代なんです。既に海外で承認を受けた機体を対象に、規則通りの運用を行っているか、という観点で安全を考える。これをずっと行ってきた世代にとっては「完全に新作の機体そのものが安全にできているかを、航空機が空を飛ぶ物理的原則まで遡って調べることこそが、耐空証明の検査である」という観点は本当に新鮮なのではないかと思います。
Y:えっ。それは皮肉ですか。
四戸:違います。たとえば、先ほどお話ししたM-02J。あれは、普通に考えたらとてつもなく危険な機体に見えるはずなんです。無尾翼機でしかもパイロットが翼の上に乗って操縦します。こういう機体は生半可な知識ではとても設計できません。素人が自作して飛んだら、まず間違いなく死人が出ます。M-02Jは私なりに、自分の経験と能力の限りを尽くして安全に飛ぶように設計した機体なんです。
こんな異形の機体が、審査に持ち込まれたらどうするか。私が検査官ならまず設計者の実力を測ります。実際の機体をつぶさに観察して、設計者が「勘所を分かっているかどうか」を見積もるでしょう。ああいう機体は、通常形式の機体のように「滑走を何回以上やったら、ジャンプ飛行許可」といった許可制度では事故を防げません。
松浦:確かに、これまでのセオリーから離れている以上、同じ検査基準だと漏れるところがありそうですよね。航空力学を理解した検査官が、その知識の上に立って実機を隅々まで観察し、書類を審査し、「これは本当に飛べるのか」ということを判断しないといけない。
四戸:しかし今の耐空証明の取得のステップ上に存在しているのは「一定の段階を踏んで行けば徐々に飛行許可範囲を拡大する」という制度だけです。飛行許可までの間に機体検査も工学的議論もありません。求められるのは書式の完備です。
MRJだって、M-02Jと同じく新作の飛行機に違いはありません。M-02Jを審査できなければ、MRJも審査できるはずがないんです。
自分で設計製造して自分で飛ばないと、一人前扱いされない
松浦:完全新作の航空機を自らの見識で審査できなければ、国の審査制度が機能しているとは言えませんね。そういえばバート・ルータン率いる航空機・宇宙機メーカー、スケールド・コンポジッツは、「自分でゼロから設計製造した飛行機に乗って自分が飛ばないと、社員として一人前扱いされない」という話がありますが。
四戸:ルータンの会社の“社是”は、プロの航空機設計者がどうあるべきかを示しているんです。「プロの航空機設計者ならば、自作飛行機の設計が楽々できる技量が必要。でなければ、なぜ実用的な飛行機が設計できるというのか」という本質的な問いなんです。欧米で自作飛行機が普通に交通手段として利用できているのは、設計の本職が自作飛行機にも携わっているからです。単に工作が好きで手が動くアマチュアだけでは、設計には手が出せません。
バート・ルータン(1943~):米国の航空機設計者。炭素系複合材料を駆使して奇抜な形状の航空機を設計することで知られる。2004年には彼の設計した機体「スペースシップ・ワン」が高度100kmに到達し、民間が開発した航空機では初めて宇宙空間に到達した機体となった。
スケールド・コンポジッツ:1982年にルータンが設立した航空機メーカー。現在は、米ノースロップ・グラマン社の子会社となっている。
(次回に続く)
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