仙台市に住む丹野智文さんは2013年、39歳のときに若年性アルツハイマー型認知症と診断された。当時、大手系列の自動車販売会社の営業職で、成績はトップクラスだった。「これでクビになるのではないか」。そんな不安が襲ったが、会社の理解のもと、事務職に移り、今も勤務を続けている。

認知症になって会社を辞めざるを得ない人がたくさんいる。会社を辞めれば生きがいがなくなってしまう。危機感を募らせる丹野さんは現在、休日を利用して、自らの経験を語る活動に力を入れる。

認知症という病の実態、仕事や会社のこと、そして現在抱える様々な思いを語ってもらった。

(聞き手は庄子育子)

若年性アルツハイマー型認知症と診断されるまでの経緯を教えていただけますか

<b>丹野 智文(たんの・ともふみ)</b>氏<br />宮城県仙台市在住。ネッツトヨタ仙台在職中。2013年、39歳のときにアルツハイマー型認知症と診断される。診断後、会社の理解のもと、営業職から事務職に異動し、勤務を続けている。認知症の本人中心の団体「日本認知症ワーキンググループ」のメンバー。2015年5月、仙台市で、認知症患者の悩みに認知症当事者が応じる相談窓口「おれんじドア」を開設。
丹野 智文(たんの・ともふみ)
宮城県仙台市在住。ネッツトヨタ仙台在職中。2013年、39歳のときにアルツハイマー型認知症と診断される。診断後、会社の理解のもと、営業職から事務職に異動し、勤務を続けている。認知症の本人中心の団体「日本認知症ワーキンググループ」のメンバー。2015年5月、仙台市で、認知症患者の悩みに認知症当事者が応じる相談窓口「おれんじドア」を開設。

丹野:一度お医者さんに診てもらおうと近くの脳神経外科クリニックに行ったのは、3年前のクリスマス、2012年12月25日のことでした。実は、その3年ぐらい前から、仕事をしていて人よりも物覚えが悪いなと感じ始めていました。

そのころはフォルクスワーゲンを販売されていたんですよね。

丹野:ええ。大学卒業後、ネッツトヨタ仙台に就職して、3年目から系列のフォルクスワーゲンの販売店に異動になっていました。

トップ営業マンだったと伺っています。

丹野:そうですね。店内トップの販売成績を挙げ続け、東北で一番にもなりました。

 でも、2009年ごろから記憶力が低下しているなと感じ、メモを取って仕事をするようにしていました。最初のうちは、「佐藤さんにTEL」と書いていれば、どこの佐藤さんにどんな用件で電話するのかわかっていた。けれど、次第にそれがわからなくなったんです。あれ、どこの佐藤さんだったかな、何の用事で電話しなければいけないのかな、って。

 それで、メモには、仙台市青葉区のどこの佐藤さんにタイヤ交換の件で電話するなどと内容を細かく書くようにしました。そうやって仕事はできていたんですが、今度はお客さんの顔が分からなくなってきて、若い後輩に「お客さんのところに行きなさい」と指示すると、「あの方は丹野さんのお客さんですよ」ときょとんとされて……。

 自分のお客さんが分からないなんておかしいなとは感じながらも、疲れているからとか、ストレスのせいだろうとずっと思っていました。

 ところがある日、一緒に働いていたスタッフの顔と名前がわからなくなり、席に戻って組織図を見てこの人かなと思ってしゃべったことがあったんです。それで異変を自分でもはっきり認識して、クリニックを受診しました。

 そこでは「精密検査が必要」と、専門病院の物忘れ外来を紹介されました。年明けに病院に行くと、すぐに検査入院となり、2週間後、「若年性認知症だと思うけどこの年齢で見たことがないから大学病院へ行ってくれ」と言われました。不安が募りましたが、まだ確定したわけではないと気を取り直して、大学病院に行ったところ、また1カ月入院することになりました。その間、あらゆる検査を受け、「若年性アルツハイマー型認知症に間違いありません」と診断されました。2013年4月、39歳のときです。

診断結果を社長に告げると思わぬ返答が

医師から確定診断を聞いたのはお一人で?

丹野:いや、入院中、同い年の妻と二人で話を聞きました。認知症の確定診断を受けて、私は「あ、そうなのかな、やっぱり人とは違う物忘れだったんだな」と感じました。

 専門病院を退院して大学病院に入院するまで、ベッドの空きを待っていたので、少し間がありました。その間、職場に一時復帰し、「アルツハイマーかもしれない」と、会社のいろんな人に相談したんですね。すると皆、「俺も物忘れするし、人の顔忘れるよ」、「気にしなくていい、俺も変わらないから」などと口々に言うんですけども、私は明らかに皆と違うと思っていたんですよ。私の物忘れのレベルなら病院に行くはずですから。だから、全然相談にならないなと正直感じていました。

 大学病院で先生からアルツハイマーと言われて、隣を見たら妻がもう泣いていたので、私は普通に話を聞いて、「あ、そうですか」と淡々と応じました。その後、一人になってからはやはり泣いてしまったんですけどね。

認知症に関する知識というのは?

丹野:どういう病気か全然わからなかったです。年配の方がかかるものというイメージしかなくて。ですから、先生にいろんなことを聞きました。この先、寝たきりになるのかとか、会社にはどのように言ったらいいのかなどと。

 自分でも携帯電話を使って調べました。とにかく夜、眠れないんですよ。怖くて不安だったので。だから消灯後に布団を頭までかぶり、携帯をいじってインターネットで「30代 アルツハイマー」「若年性認知症」などと検索を繰り返しました。すると、画面に出てくるのは、2年後に寝たきりになって、10年後には死ぬといった悪い情報ばかり。まだ子供も小さいのにどうしようとひどく落ち込みました。

その後、退院されました

丹野:ええ。当時、2人の娘は中学生と小学生。まだまだ子育てにお金が必要で、住宅ローンもあるので、絶対に働かなければならないと思いました。けれど、大学病院入院前の職場に一時復帰していたときに、会社からは私のお客さんを全部後輩に渡してほしいと言われ、引き継いでいました。

 営業マンがお客さんを渡すということは仕事に戻れないと思うわけじゃないですか。だから、クビになるものと覚悟し、それでも社長にとにかく頼み込んで「洗車作業でいいからぜひやらせてくださいとお願いしよう」と妻と話していたんです。

 その後、妻と二人で社長の下へ行き、病気のことを伝えたら、真っ先に返ってきたのは「戻ってきなさい。体は動くんだろう? 仕事は何でもあるから」との言葉でした。思わぬ返答で、本当に嬉しかったですね。それで本社の総務・人事グループに異動になり、5月の連休明けから事務職として復職しました。

総務・人事グループでは具体的にどんなお仕事を担当されることになったのですか。

丹野:社員の出勤簿の確認や退職金の計算、ガソリン集計、確定拠出年金の処理など、普通の人と同じ業務です。私が異動するまでそれらを担当していた女性社員が妊娠されて数か月後に職場を離れることが決まっていたので、彼女の仕事をそのまま引き継いだ形です。

丹野さんがそれまで一切やって来なかった仕事ですよね

丹野:ええ。初めての仕事なので大丈夫かなと多少戸惑いもありましたが、認知症だから特別扱いされるというのは自分でもあまり好きではないので、周囲に認めてもらえるようきちんと仕事をすることを心がけました。

 営業の時もノートにメモを取りながら仕事をしていたので、ここでも教えてもらった業務内容や手順をノートに書き込むことにしました。仕事のやり方をすべて書き、それを見ながら実践して、足りない部分が出てきたら、その都度、必要な情報をどんどん付け足していきました。

 今では中味はかなり細かくなっていて、例えば、固定資産税の支払いに関して、必要書類のボックスの位置がわからなくなるので、「どこそこの左の3番目の棚にボックスがあって、そこから書類を取り出して…」というところから、記載しています。このノートを見れば誰でも仕事できるようになっていて、実際に同僚から「ちょっと見せて」と言われ、貸すこともあります。

新しいことをやるのは大丈夫なんですね

丹野:はい。ノートに書いてあることは今のところ何でもできます。ただ、私の場合、仕事を済ませたかどうかを忘れてしまうことがあるので、やるべきことが終わったら別のノートにチェックを入れるようにしています。そのノートには、私の業務一覧のリストがあって、終わったら○印をつけています。

職場で使っている2冊のノート。上は、やるべき仕事の業務内容と手順を自ら細かく記載したノート。下は、済ませた仕事を書きこむノートで、表紙裏には終了した業務内容に○印を記入するチェックシートを張り付けている
職場で使っている2冊のノート。上は、やるべき仕事の業務内容と手順を自ら細かく記載したノート。下は、済ませた仕事を書きこむノートで、表紙裏には終了した業務内容に○印を記入するチェックシートを張り付けている

 仕事を進める際はちゃんとできているか不安なので、何度も見直します。ですから、時間はかかりますが、ミスは少ないはずです。

自作の業務手順ノートは丁寧な文字で整然とまとめられていますね。

丹野:認知症になっても、初期のころはこういう風に書けるんですよね。今、認知症というとすぐに重度になってこういうこともできないと思われがちですが、そうじゃないんですよね。病院で告知されたころって、普通の人にちょっと困っていることがあるぐらいで、そんなにそんなにひどい状態ではありません。もちろん、認知症と診断されたからって急に働けなくなるわけでもありません。

業務をする上で会社は様々な配慮

これまで仕事で困ったことは?

丹野:わからないことや忘れてしまったことはすぐに周囲の人たちに聞くようにしているから、仕事の上で困ったことはないですね。人の顔を忘れるようになっているので、この前も上司の顔がわからなくて、「あの人偉い人だと思うけど誰?」と聞いたら、「重役だよ」と教えてもらいました。ありゃりゃと思いましたが、そんな感じです(笑)。

 それから、会社にはかなり配慮してもらっていて、1日働くと脳が疲れるので、今は1時間の時短勤務と、昼食後20分から30分の仮眠を取ることが認められています。勤務時間は現在9時から16時半までです。これは大変助かっています。

 9時から働き始めて11時ぐらいまでは集中できる時間帯なので大事な仕事をこなし、あとは昼食までコピーや仕分け作業などそんなに難しくない仕事をする。そして昼食後に一回寝させてもらって、脳をリフレッシュしてから、またある程度重めの仕事に取り掛かり、脳が疲れる15時ぐらいから再び簡単な仕事をする。自分の中でペースを決めて、そんなサイクルで回しています。

昼食後にはどこで仮眠を取られているのですか。

丹野:本社のもともと使っていない部屋にソファーを持ち込んで寝させてもらっています。誰も来ないですし、鍵も閉められるので自由に寝られるんですよね。初めは皆がいる居室にソファーを置いて寝ていてもいいよとの話でしたが、やっぱり人目につかない方がいいだろうと会社が配慮してくれ、寝る場所をちゃんと確保してくれました。

薬の副作用はいかがですか

丹野:飲み始めたころに比べれば良くなってきてはいますが、まだありますよ。とにかく始終頭が重いんですね。仕事をするために記憶力を保たなければいけないので、薬は結構多めに飲んでいます。すると、夜も脳が活性化していて、寝ていても夢ばかりみてしまう。それで夢の中でも一生懸命考えているからどっと疲れ、さらに夜中に何度も目を覚ます。でも、目覚めたら、自ら意図的に何も考えないようにすれば、頭を休ませることができるんですね。だから、寝て起きての繰り返し。そんな事情も会社に伝えたら、理解を示してくれ、昼寝の確保などにつながったわけです。

なるほど、そういう風に発信されるとことは非常に重要ですね。

丹野:そうだと思います。

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