井戸潔・かんぽ生命取締役兼代表執行役副社長(右)と日高信彦・ ガートナー ジャパン代表取締役社長(写真:的野 弘路、以下同)
井戸潔・かんぽ生命取締役兼代表執行役副社長(右)と日高信彦・ ガートナー ジャパン代表取締役社長(写真:的野 弘路、以下同)
保険の最重要業務である支払いに、米IBMの意思決定支援システム「Watson(ワトソン)」を使う。かんぽ生命は世界初の取り組みを始めている。なぜ一番難しい業務から適用したのか。新しいテクノロジーを使って、かんぽ生命は今後どの分野に力を入れるのか。情報システムと事務の責任者、井戸潔取締役兼代表執行役副社長に、IT(情報技術)リサーチ大手ガートナー ジャパンの日高信彦代表取締役社長が尋ねた。
(構成は谷島宣之=日経BPビジョナリー経営研究所研究員、中村建助=日経コンピュータ編集長)

日高:かんぽ生命は保険の支払い業務に米IBMの意思決定支援システムWatsonを使う取り組みを進めています。支払いという重要な業務に適用するのは世界初ではないでしょうか。狙いと業務をどう変えていくのか、その辺りからお聞きかせ下さい。

井戸:やってみようと思い立ってから、もう2年半以上経ちました。いよいよ本番で使う段階です。支払いに使うのは確かに挑戦ですが、Watsonを初めて知った時から、その発想が出てきました。

 経緯をお話したほうが分かりやすいと思います。Watsonとの出合いは2014年1月まで遡ります。当社社長の石井雅実(取締役兼代表執行役社長)と私とで、IBMのジニー・ロメッティCEO(最高経営責任者)にお会いしました。

日高:米国まで行かれたのですね。

井戸:ええ。2017年1月から動かそうとしている次期基幹系システムの開発パートナーがIBMなのです。保険に関わる事務を処理するシステムをすべて作り直す一大プロジェクトですから、IBM全体として支援して欲しいと要請に行きました。

 そのときにロメッティCEOから「今こういうことを考えている」とWatsonの話が出ました。色々な情報をコンピューターが自ら学習し、学習すればするほど賢くなっていく。石井も私も驚きました。

 情報システムの世界では、色々な会社が毎年のように新しい言葉を繰り出しますが、私からすると大半は既存技術の活用に見えるのです。クラウドコンピューティングにしても、IoT(モノのインターネット)にしても、そうです。

日高:実際に使えるようになったという点で進化していますが、コンセプトは以前からありましたし、使われている技術も今までの応用ですよね。

井戸:ところがWatsonは自分で学習するという。それができるなら新しいと思いました。社長は支払い業務の高度化に使えるのではないか、とすぐ閃いたそうです。

日高:いきなりそこに行ったわけですか。

井戸:はい。それが出発点です。私としては「社長、何を仰っているのですか」と思ったのですが。支払い業務には正確性とスピードが要求されます。保険会社にとって最重要の業務ですし。

一番難しいところから始めることにした

日高:しかも複雑で難しい。

井戸:その通りです。我々として一番人手がかかっているところです。

日高:AI(人工知能)の応用先として一般には顧客からの問い合わせに答えるコールセンターに使う例が多いですね。

<b>井戸 潔 氏</b><br />かんぽ生命 取締役兼代表執行役副社長 <br />1978年4月 安田火災海上保険入社。2002年6月 安田火災システム開発代表取締役社長。2002年7月 損保ジャパン・システムソリューション代表取締役社長。2007年4月 損害保険ジャパン執行役員。2009年4月 損保ジャパンひまわり生命取締役常務執行役員。2010年4月 同社取締役専務執行役員。2011年10月 NKSJひまわり生命保険取締役専務執行役員。2013年6月 かんぽ生命専務執行役。2013年7月 かんぽシステムソリューションズ取締役。2016年6月から現職。
井戸 潔 氏
かんぽ生命 取締役兼代表執行役副社長
1978年4月 安田火災海上保険入社。2002年6月 安田火災システム開発代表取締役社長。2002年7月 損保ジャパン・システムソリューション代表取締役社長。2007年4月 損害保険ジャパン執行役員。2009年4月 損保ジャパンひまわり生命取締役常務執行役員。2010年4月 同社取締役専務執行役員。2011年10月 NKSJひまわり生命保険取締役専務執行役員。2013年6月 かんぽ生命専務執行役。2013年7月 かんぽシステムソリューションズ取締役。2016年6月から現職。

井戸:コールセンターから始めて、さらに複雑な業務に使っていくやり方ですね。我々は全く逆なのです。

日高:真っ先に心臓部から始める。

井戸:心臓部から始めて、そこで得た知識やノウハウを例えばコールセンターへ展開しようと考えています。

日高:チャレンジですが、お客さんの信頼を左右する業務ですから、感銘を与えられるところでもありますね。

井戸:ええ。「支払いに使いたい」と言われて最初は「えっ」と思ったのですが、確かにそこに入れることによって大きな効果が得られるのではないかと。

 支払いを審査する担当者が一人前になるまで10年ぐらいかかります。支払いの業務知識は当然として、医療に関する知識、判例、そういったことまで頭に入っていないと支払いに伴う審査はできない。今までは膨大な人を抱えてやってきました。

 信頼と仰いましたが、まさにそうで、保険会社は生保も損保もいわば形のないビジネスですから、お客さまに一番アピールできるところは支払いなのです。いかに迅速に、正確に、お支払いできるか。支払いの遅れや未払いがあってはなりません。

 Watsonを活用することで、使えば使うほど精度が高まっていく、まさに学習していける世界が開けるのであれば、一大変化です。支払可否を判断する担当者を支援できるし、正解にたどり着くための時間を縮め、精度を高められる。当然のことながら支払い漏れを無くせる。例えば当社の比較的経験の浅い社員であっても、10年目のベテランと同じ業務品質で支払いの判定ができるようになれば画期的です。

途中で諦めずに粘り強くやるしかない

日高:過去の支払いデータをWatsonに学習させるのですか。

井戸:我々の会社には、膨大な支払いのデータが蓄積されています。まず、それを分析し、過去にこういう事例でこういう判断をした、と整理して、Watsonに学習してもらう。次に、ある状況の支払い要求を入力し、Watsonがベテラン社員と同様に最適の解を出せるかどうか検証する。

 実際にベテランの査定者に検証してもらい、支払いの業務に日々携わっている人たちの声を聞いて、仕組みをチューンナップしてきました。2年ぐらいかかりましたけれど、ほぼ仕組みが完成できたので、いよいよ本格的に導入する準備が整ったわけです。

日高:学習するのに結構、時間がかかりますね。

井戸:これはもう、途中で諦めずに粘り強くやるしかない。IBMと相談しつつ、何回も何回も繰り返し検証してきました。

 検証には大きく二つあって、まず、どこに使ったらよいかを見極める。我々はユースケースという呼び方をしていますが、こういうケースにはこのやり方を使おう、といったように焦点を絞ってやっています。支払い業務の全般にいきなり入れるわけではなく、うまく機能し、効果がはっきり見えてくる特定の箇所を見つけ、そこに適用する。

 もう一つ、システムというのは常にそうなのですけれども、現場の人に使ってもらわないと何の意味もないですから、保険金の支払い業務を担うサービスセンターの人たちの声を聞きながら、より使いやすいものに変えていく。ここを何度も繰り返してきました。

日高:Watsonのような新技術の使い方を会得できたのは素晴らしいですね。他の業務に使う場合でも、やり方や原理原則は基本的には同じでしょうから。

井戸:同じですね。支払い以上に難しい業務はないと思いますから、そこで成功すれば他の業務でも必ず成功すると見ています。私は情報システム部門の責任者ですから、情報システム自体の問題をWatsonに解いてもらえないかと考えています。冗長になっているシステムや仕組みはないのか。ここでこういう処理プログラムを動かしているけれど、その必要はないのでは、とか、Watsonに指摘してもらえないかと。

日高:Watsonというテクノロジーの話を聞かれてすぐ、支払いに使うと言い出した石井社長にしても、情報システムそれ自身に適用しようという井戸さんにしても、リーダー本人がテクノロジーの価値を理解して、旗を振っているところが素晴らしいですね。

 この手の取り組みは上が本気にならないと組織として動きません。お二人ともリーダーとして問題意識がずっとあったからこそ、テクノロジーについて聞いた瞬間、問題に結び付けることができたのでしょう。

井戸:やはり社長の発想が大きかったですね。支払いからやりたいと伝えたらIBMさんも驚いておられたし。これも社長の発想なのですが、今回我々が経験したことを、IBMの同意がいただければ、できる限りオープンにして、生命保険業界のデファクトスタンダードみたいな感じで皆さんに使ってもらってもいいのではないかと。

日高:いち早く支払いを高度化させて、競争力を高めようというわけではないのですか。

井戸:競争力は競争力で必要ですが、それは商品構成とか、提案のやり方とか、もっと大きな全体のサービスとか、業務全体の品質とか、そういうことも含めての話です。それはそれとして、支払い業務ということだけみたら、色々ご苦労されているところがあるでしょうし、我々の取り組みを参考にしてもらえれば、これから高齢化社会へ進んでいく中で、保険業界での支払い業務というものが、もう一段上に行くというか、違うシステムへと発展していくことができるのではないかと。

ビッグデータを解析し、本当に求められる商品を作る

<b>日高 信彦 氏</b><br />ガートナー ジャパン 代表取締役社長<br />1976年東京外語大外国語部卒業後、日本アイ・ビー・エム入社。1996年アプリケーション・システム開発部長。2001年アジア・パシフィックCRM/BIソリューション統括。2003年4月から現職。
日高 信彦 氏
ガートナー ジャパン 代表取締役社長
1976年東京外語大外国語部卒業後、日本アイ・ビー・エム入社。1996年アプリケーション・システム開発部長。2001年アジア・パシフィックCRM/BIソリューション統括。2003年4月から現職。

日高:高齢化社会という言葉が出ました。日本郵政グループは高齢者を支援する取り組みを始めています。これに関して、かんぽ生命の構想を伺いたいのですが。

井戸:高齢者を支援する取り組みは、まさに日本郵政グループとして掲げているビジョンです。その一環として日本郵便が、みまもりサービスを始めています。地方の郵便局社員がお年寄りの方にお話をして、ご不自由がないようなサービスを提供する。これはリアルの世界です。

 そこにデジタルサービスも組み合わせていけば、もっと領域を広げて、より多くの高齢者の方々によりよい生活を送ってもらえる仕組みが作れるのではないか。こちらについてもIBM、それから米アップル、そして日本郵政グループが2015年4月、実証実験について業務提携しています。

 日本郵政グループにはなんといっても、社会インフラと言える2万4000局の郵便局があります。ユニバーサルサービスの一環として、幅広いサービス提供をしてきており、みまもりサービスはその一つです。

 我々、かんぽ生命としては健康増進サービスの支援をやっていきたい。健康寿命をいかにして延ばしていくか。お客さまの数を考えますと、ご支持いただければ、本当に社会インフラになれる大きな事業になるのではないかと考えています。もともと、当社のお客さま(契約者)の層を見ると、70歳以上の方が2割5分ぐらい、いらっしゃいますので。

日高:顧客の健康情報と保険の情報を掛け合わせて、個々のお客さまに最適の保険を提案していくわけですか。

井戸:保険会社として、最終的に我々が目指しているのは、新しい商品に結び付けるということです。健康を意識され、ご自身のタブレットに健康情報を入れたり、調べたりする方がいらっしゃる。そこにこちらから色々な健康増進情報をご提供する。お客さまからご了解が得られれば、お客さまの情報がある程度、分かってきます。

 一方、我々はもともと保険契約の情報を持っていますし、先ほどのWatsonで支払いについても分析する。そこから得られた情報を加味していくことによって、リスク細分型の生命保険商品が作れるはずです。

日高:なるほど。デジタル化の進展に従って、いわゆる「見える化」が進みます。損害保険であっても、火災保険であっても、生命保険であっても今、何が起きているかがリアルタイムに見えてくる。当然、保険商品の革新につながっていきますね。

井戸:その際、我々はより最適な解を出せる、つまり最適な商品を提供できるデータを持っているし、持てる可能性があると思っています。というのも当社の場合、個人保険の保有契約件数が約3200万件、被保険者数は約2400万人近くいらっしゃる。まさにビッグデータの解析という取り組みを通じて、お客さまが本当に求める生命保険商品を提供できる。そういう日が近づいていると見ています。

日高:地方創生の話にも絡みますね。

井戸:そうですね。地方創生に日本郵政グループが果たさなければならない役割があります。社会貢献の一環とも言えます。それから医療費の高騰は日本の大問題ですから、健康増進サービスによって、医療費の削減につなげたいという思いもあります。

 先ほどご指摘の競争力の強化にもつながります。より最適な商品を提供し、競争力を高めていくということを狙っているのも事実です。

 かんぽ生命という生命保険会社をより広く知っていただくためにも、本当にお客さまのためになるサービスは何かと考えて、高齢者向けサービスを充実させていく。高齢者に優しい保険会社と言っていますので。そういった商品を提供し、サービスをお届けする。それにはやはり情報システムが必要で、全社一体になっていかないと、なかなか戦略を具体化できません。

「システムの構造上、できません」とは言わない

日高:戦略は高齢者向けサービスの一層の強化ということですか。

井戸:「高齢者だけですか」というご指摘をいただくことがあります。当社の保険契約を見てみると、被保険者の6割を女性が占め、50歳以上の中高年層が契約者の約6割を占めています。契約者が子供を被保険者にして保険を契約している例もあります。そういう実態を見ていますと、青壮年層向け、女性向けの商品開発も当然もっとやっていく必要がありますし、土壌はできていると思います。

 ただ、戦略といった場合、やはり保障、すなわち生命保険の原点に立ち返って販売していく、ここが大きいです。ややもすると、かんぽ生命は貯蓄をする会社と思われていたところがありました。

日高:安全、安心ということですね。

井戸:はい。保障を重視した販売に今こそ変えていく時期だろうと、全社で取り組んでいるところです。特に養老保険と終身保険に医療特約を付加することに力を入れています。

 そう舵を取りつつ、さらに先ほどから話に出ている高齢者向けサービスを追求していくことによって、お客さまの支持を得て、今後もしっかりとした成長を当社が成し遂げられると思っています。

 今年から経営理念も変え、「いつでもそばにいる。どこにいても支える。すべての人生を、守り続けたい。」というビジョンにしました。お客さまのための会社ということを前面に出してやっていきます。私も情報システムを担当する中で、本当に肌理細かなサービスの実現にこだわっていきたいですし、これまで以上に品質に配慮していきたいとも思っています。

日高:井戸さんの頭の中には今後のシステムのあるべき姿が時間軸とともにあって、その姿をマーケットの変化に応じて変えている。論理的に考え、着実に実行されている印象を受けます。

井戸:論理的かどうかは分かりません、単なる思い付きかもしれない(笑)。確かに情報システム全体の構造、いわゆるアーキテクチャについてはいつも考えていますが。

 経営とシステムは一体だ、とよく言われます。言葉ではそう言えるのですけれど、実際にどうするのかと考えると、今のシステムの構造を変えていかないといけないところが沢山あります。

 一例を挙げますと、保険募集の仕事自体が、土日に求められつつあります。どの業界でも「お客さまに土日だったら会えるね」となっていますよね。となると、営業が動きやすい構造のシステムにしなければならない。

 かんぽ生命として、郵便局の渉外社員の活動量を増やすことが必要で、それには土日をかなり意識したシステム作りをしないといけないと考えています。土日のオンラインサービスの提供時間をもっと長くしていく。銀行が即日決済への取り組みを始めていますから、ゆうちょ銀行をはじめとした各行との接続を考えると、今のシステムの構造では無理だよねというところがあります。

 「システムの構造上、できません」と言うのではなく、お客さまの動きを考えながら、システムの方を変えていくことをしっかりやっていく。2017年1月に新しい基幹系システムをリリース予定ですが、第一歩であって、さらに検討を進め、全体の構造の見直しを続けていきます。私の頭の時間軸に沿って言いますと、数年後、思い切ってシステムの構造を変えてしまいたい。

日高:キーワードは顧客の動きに合わせたシステム作りですか。

井戸:そうですね。もう一例挙げると、業務処理系の重たいシステムと、現場が常時利用するフロント系システムは独立的に柔軟な連携が保てるはずです。言い換えると、業務処理系のシステムの稼働・停止に依存することなく、フロント系システムが単独で稼働しうるシステム構造に変えてしまわなければなりません。

日高:高齢者向けサービスがどう発展するかによってシステムも変化しますね。

井戸:今まで社外との接続はそれほどありませんでした。ゆうちょ銀行の場合、ダイレクトバンキングをしていますが、我々の場合、インターネットに直接接続しているシステムはそれほど多くありません。しかし、これからは対外接続をもっと考えてシステムを用意していくことになります。今期は、中期経営計画の中間年度ですが、次期中計では、そうした構造の整理を大きなテーマの一つとして取り上げ、しっかりしたシステムアーキテクチャを用意したいと思っています。

日高:やることは相当ありますね。

井戸:これからの人は大変です。他人事のように言っていますが(笑)。申し上げたように、営業を本当に支援するシステムの構造と、今後の高齢者向けサービスを考えたお客さまのためになるシステムの構造、それらを合わせて考えられる人が必要です。それができる人を同時に育てていかなくてはなりません。

-「中編」に続く-

まずは会員登録(無料)

登録会員記事(月150本程度)が閲覧できるほか、会員限定の機能・サービスを利用できます。

こちらのページで日経ビジネス電子版の「有料会員」と「登録会員(無料)」の違いも紹介しています。

初割実施中