パソコンメーカーのVAIO(長野県安曇野市)が最上位機種「VAIO Z」を6年ぶりに刷新した。社員の念願でもあったZの開発にようやく踏み切れたのは「経営基盤が整ったから」と山本知弘社長は明かす。VAIO Zは、ソニーから切り離されて再スタートを切ったVAIOが独り立ちを果たした証しといえる。VAIOはどのように復活を果たしたのだろうか。
「速さ、スタミナ、頑丈さ、そして軽量性の均衡を破るブレークスルーを実現した」
パソコンメーカーのVAIO(長野県安曇野市)が2月18日に開いた発表会。山本知弘社長はこう述べ、新たに発売するノートパソコンの最上位機種「VAIO Z」の商品力に自信を見せた。
ソニーのパソコン事業が独立したVAIOにとって、2008年にソニーが発売した「type Z」以来、「Z」はノート型の最上位機種の象徴だった。そのZを刷新したのはなんと6年ぶり。ソニー時代からパソコンの開発に携わってきたPC事業本部長兼イノベーション本部長の林薫氏は「VAIOの技術者はみんなVAIO Zを作りたいと思い続けてきた」と振り返る。
新型Zの開発プロジェクトのコード名は「FUJI」。最も困難な開発をやり遂げるという決意から、日本一の山の名を冠した。世界で初めてノートパソコンのボディー全体の素材に炭素繊維(カーボンファイバー)を採用。デスクトップパソコン向けの高性能CPU(中央演算処理装置)や最大34時間駆動の大容量電池を搭載しながら1kgを切る軽さを実現した。
一からの出直し
VAIOブランドのパソコンを手掛けていたソニーが不振のパソコン部門を投資ファンドの日本産業パートナーズ(JIP、東京・千代田)に譲渡すると決めたのは2014年2月。JIPが95%、ソニーが5%を出資する形で同年7月に新会社のVAIOを設立した。
世界で年間500万台以上を販売していたソニーのパソコン事業は、14年3月期の売上高が4182億円で、国内だけで約1100人が関わっていた。海外から撤退し、国内だけで販売する体制で再スタートを切ったVAIOに残っていた社員は240人。売上高は初年度(15年5月期)にわずか73億円まで縮小し、20億円の営業赤字を出した。強力なブランドこそ持つものの事業自体を一から作り直さなければならないような状況だった。
独立から約半年後に発売した先代のVAIO Zは「ソニー時代から開発が進んでいたから世に送り出せた」と林氏は振り返る。それ以降、新しい技術をつぎ込まなくてはならない最上位機種は「会社の体力がなく、独力で開発するのは厳しかった」(林氏)。
そのVAIOは今や、売上高257億円、営業利益26億円(いずれも20年5月期)まで成長した。事業規模はかつての水準とは比べものにならないが、営業利益率は電機メーカーとして高水準の10%だ。15年にVAIOの社外取締役に就任し、19年から社長を務めるJIP出身の山本氏は「経営基盤が整ったことで(VAIO社員の悲願だったZの刷新に)ようやく踏み切れた」と明かす。新型のZは、不振だったソニーのパソコン事業がVAIOという一企業として独り立ちできたことの証しなのだ。
“とがった”開発目標は封印
VAIOの再生に向けてJIPが立てた戦略は、「ソニー時代に培ってきた技術とデザインという2つの資産を生かして新たな市場に出る」というものだった。新たな市場とは「法人向けパソコン」と「新規事業」。VAIOは決して特別なことをしたわけではない。企業での利用に適した製品を開発し、企業が買ってくれやすい販売体制をつくる地道な努力を、我慢強く続けてきた。
ソニー時代のパソコン事業は、目を引くような“とがった”デザインや性能を実現し、個人向け製品を拡大することに集中してきた。VAIOとしてスタートを切ったころを、林氏は「仕事の生産性を高めるパソコンとは何かという新しい開発テーマの下、ひたすら自問し続けた」と振り返る。
そこから浮かんできたのは、枯れた技術をあえて残す「逆張り作戦」だった。「パソコンは頻繁にモデルチェンジするが、会議室などに設置されたケーブル類はすぐには変わらないと気付いた」(林氏)
「世界最小」「世界最軽量」といったとがった開発目標は封印。有線LANやアナログ映像出力の端子など、仕事で使うユーザーにとって「使わないことも多いが、たまにどうしても必要なことがある」ものを残す方針に転換した。
製品の方向性を変えた一方で、ソニー時代からのデザインへのこだわりは貫いた。
「実は法人向けモデルにはユーザーが2人いる。パソコンの購買や管理をするIT(情報技術)担当者と、実際に使う社員だ」と林氏は指摘する。他のメーカーはIT担当者の意向を重視する傾向が強いが、VAIOが持つ強みを生かすには実際に使う人たちが積極的に持ちたくなるデザインにすることが得策だと考えた。それが結果的に会社全体の生産性向上につながって評価されるとの目算だった。
法人市場を見据えて開発した最初の機種だった「VAIO Pro 13 マーク2」(15年6月発売)は順調な滑り出しを見せた。4G通信モジュールを内蔵するなど持ち運びを前提とした小型機種「VAIO S11」(同年12月発売)も、一時期生産が追い付かないほどの好調ぶりだった。「収益が上がるモデルを作ってこそ自分たちの価値があるのだと社員が納得した」と林氏は話す。
ほぼゼロだった法人向けの販路
ただし、いい商品を開発するだけで経営が立ち直るわけではない。初期のVAIOに決定的に欠けていたのが法人への販売力だった。ソニーから引き継いだのは商品企画と設計、製造の部門であり、販売はソニーの販売子会社に任せっきりだったからだ。ほぼゼロだった法人向けの販路を開拓するには、自ら販売する力を付ける必要があった。
「VAIOには圧倒的なブランド力と商品力がある。これで売れないはずがない」。16年7月にVAIOに中途入社した宮本琢也氏(現在は営業統括本部副本部長)は、採用面接で「どうやったら法人向けに売れると思うか」と問われたときにこう答えたという。
東芝でパソコンの法人営業やマーケティングなどに20年以上携わった宮本氏は、VAIOの強みを身に染みて感じてきた一方で、弱みも分かっていた。「東芝時代、個人向けでは何度も辛酸をなめてきたが、法人営業でVAIOと競合したのは1回だけだった」(宮本氏)
当時のVAIOは、法人営業の部署はあるものの専任者がおらず、マーケティング部門の担当者が兼任している状態だった。商談には設計部門などの門外漢も応援に駆り出されるほど。外部に対しては「製品のことがよく分かっている開発担当者が営業に同行し、顧客の疑問に答えたり次世代製品の開発に生かしたりする」と説明していたものの、営業力の弱さは明白だった。
「とにかく1件でも多くアポを取って。全部自分が同行するから」。入社した宮本氏は営業スタッフにハッパを掛け、1日4~5社を訪ね歩く日々を重ねた。VAIOのブランド力のおかげでアポこそ入るものの、「法人向けもやっていたのですね」と毎回のように驚かれたという。少ない台数を試しに導入して使い勝手を確かめてもらうといった営業活動を繰り返しながら、未整備だった見積もり作成や受発注のシステムの整備も進めていった。
事前にソフトを組み込むなどの顧客ごとのカスタマイズ作業を安曇野工場で受け持つ体制も整えた。開発・製造・アフターサービスの部門が集結する拠点で出荷前の最終的な作業を担当し、顧客企業に安心感を与える狙いだ。
そうした取り組みが少しずつ実を結び、法人向け販売は拡大の一途をたどった。20年5月期には法人向け販売比率が75%まで達するまでになり、これがVAIOの再生を決定付けた。法人営業の部署は、今では数十人の専任スタッフが所属する規模に拡大。法人向け販売をさらに増やすことを目指している。
足元では、コロナ禍によるテレワークの浸透も追い風となっている。20年3月ごろから大型案件が前倒しで入り始めたことを受け、6月には工場の生産能力を2倍に増強した。スピーディーな意思決定は、独立で小回りの利く組織になったからこそでもある。
とはいえ、パソコン自体はこれから大きな伸びが期待できる市場ではない。企業としての成長を続けるためには、VAIO設立当初からの目標だった新規事業を伸ばすことが欠かせない。パソコンで培った技術を何に生かすべきか、模索が始まった。
(第2回につづく)
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