親の介護や子供の世話で、働きたくても働けない――。企業の人手不足が加速する中でも、働くことに苦労する人は少なくない。日経ビジネス3月25日号「凄い人材確保」では、そんな働き手を活用して人手不足に打ち勝つ妙手を研究した。
働き手の近くにオフィスをつくる
「もともと、(京都市の)付近で2人の技術者が働いていました」。名刺管理サービス大手のSansanの広報はそう話す。同社が2018年10月にAI(人工知能)の技術者の拠点「Sansan Innovation Lab」を京都市に設立したのは、現地で働く技術者がいたのがきっかけだ。
人材がいる場所に拠点を構え、人を確保する――。Sansanはこうした姿勢を続けてきた。京都市の他にも、徳島県神山町、新潟県長岡市、札幌市にも遠隔の開発拠点を設置している。
もちろん、こうした遠隔の拠点を構えることにデメリットがないわけではない。ITツールを使ってコミュニケーションを取っているが、Sansan内でも「実際に顔を合わせて、同じオフィスに集まったほうが効率的に働ける」と考えている人は少なくない。それでも遠隔地に拠点を用意するのは、そうしなければ人材を集められない時代が来ているからだ。
実際に京都市で働くSansanの技術者には、家庭の事情で勤務地を移せない事情があったという。そうした背景に加えて、近くに有名大学や製造業の研究・開発拠点が多く、共同研究や技術イベント、インターンシップなどを実施するのに有利だったのも、拠点設立を後押しした。AIの開発者やその卵が多く、東京に比べると企業数が少ないため、優秀な人材との接点を持ちやすいと考えたのだ。
「そうは言っても、遠隔のオフィスが持てるのはITサービスの企業だからできること」。そんなふうに考える人もいるかもしれない。だが、今の時代にITを使わない企業があるだろうか。あらゆる企業がデータを集めて分析し、事業に生かしている。インターネットを使って事業を効率化したり、ネットを使った新事業を生み出したりしている事例はいくつもある。
IoT(モノのインターネット)が本格的に普及すれば、あらゆる業務がインターネット経由でできるようになる。全員が同じ場所に集まらなければならない仕事は、業務のIT化に合わせて次第に消えていくはずだ。そうなれば、あらゆる企業がSansanのように、各地で人材が活躍できるように変わっていくことだろう。
企業が変われば、小さい子供がいて出勤が難しい人や、親の介護などで遠方の職場に勤められない人といった、働きたくても働けない人が活躍しやすくなる。年間10万人いるという介護離職者は減り、共働き世帯でも子供が育てやすくなって出生率も回復するかもしれない。
だが、こうした企業の努力が実を結び、人々が介護や子育てをしながらでも働けるようになるには、それを助ける介護業界や保育業界が十分に機能していなければ難しい。そしてこれらの業界は、特に人手不足が深刻だ。立て直すには、国を挙げた見直しが求められている。
先行きが見えない介護市場
「全然眠れていなくて……」。首都圏で介護施設を運営する男性は昨年、目を真っ赤にしてコンサルティング事業者に駆け込んだ。介護スタッフの離職が相次ぎ、人員を別途確保しようにもなかなか来てくれない。日中・夜間ともに人員減の分の仕事を自分でこなしていたが、いよいよ限界を感じ始めた。
まもなく制度創設から20年がたつ公的介護保険。介護が必要な人は、いわゆる団塊の世代がみな75歳以上になる2025年度には250万人に上るが、担い手は40万人近く足りない。介護事業者の利益率は3%ほどで、5%を超える全産業平均と比べて低い。「本来、民間企業の知恵と工夫を借りながら成長産業になるはずだった介護が、このような末路をたどっている状況は残念でしかたない」。昭和女子大学の八代尚宏特命教授はこう語る。
介護事業者が単独で、一般的な民間企業でいうところの「稼げない」「稼ぎにくい」状況を打破するのは難しい。国はこれまで税金を投入して介護スタッフなどの給与水準を上げてきたが、財政上の制約から限界も透ける。
「人が集まらないなら料金を上げて、その分賃金を上げればいい」。たしかにそんな意見はある。だが、現実的には厳しい。「あと10年と思って資産から介護費を計算して、実際には20年生きることになったらどうするのか」。神戸市でデイサービスを受ける81歳の男性はそう話す。介護費に個人が支払える金額は、実際の余力よりも少なくならざるを得ない。
八方ふさがりのように見えるが、八代氏は制度設計や制度運用面でも「手直しの余地は多く残っている」と話す。例えば混合介護の扱い。介護保険と保険外のサービスを上手に組み合わせる仕組みだ。今は自治体によって基準があいまいだが、もっと使いやすくして、料金とサービスの自由度を高め、利用者の選択肢を増やす必要があると強調する。
東京都豊島区は、国の特区を使って混合介護に取り組み始めた。保険適用の訪問介護に、電球の交換、ウェブカメラを使った見守りなど保険外のサービスを加えたメニューを用意している。「それでも追随しようとする自治体より、二の足を踏む自治体のほうが多い」(八代氏)。国も自治体も小手先の人手不足対策ではなく、産業としてどう稼ぐか、どう生産性を上げるのか、という根本の課題に向き合う時期に来ている。
有志から消えていく保育業界
同じく保育業界も人手不足が深刻化している。「立地がいいばかりに、東京に人材が流れていた」と話すのは、千葉県松戸市幼児保育課の山内将課長補佐だ。松戸市では共働き世帯の増加に伴い、0~2歳の乳幼児保育や、預かり時間を延長する延長保育の需要が急増。市の試算では、2023年には現状より600人の保育士が追加で必要になるという。「すぐ目の前の課題だ」(山内課長補佐)
全国で待機児童が問題になるなど、保育士が不足している。厚生労働省によれば、17年10月時点での待機児童は全国で約5万5000人だ。国の定める児童福祉施設の基準をもとに計算すると、この児童を預かるのに最低限不足している保育士は約1万4000人。実際にはより多くの保育士で子供を預かる施設が多く、数万人の保育士が求められている。
だが、理論的にはこの保育士不足は問題にならないはずだった。全国には保育士になれる資格保有者が十分に多く存在するからだ。15年に厚労省が発表した保育士等に関する関係資料によれば、同年の保育士登録者数約119万人に対して、実際に勤務しているのは約43万人だった。70万人以上の資格を持つ潜在保育士がいるのだ。
有資格者は多くいるのに、なぜ保育士は不足するのか。答えは単純だ。当初は志を持って資格を取った人たちが、保育士としては就職をしなかったり復職しなかったりしているからだ。
幼児向けイベント運営などを手がける笑いの保育わくわく(神戸市)の設立者で元保育士の田中好美氏は「閉鎖的な縦社会で、なにもさせてもらえなかった」と当時を振り返る。
田中氏が最初に衝撃を受けたのは、役職の呼び方だ。副担任の辞令を受けたが、職場では「助手」と呼ばれた。仕事の割り振りや職員間の態度には明確な上下関係があり、助手と呼ばれている若手は会議に参加できず、意見するのも許されなかった。
笑いの保育わくわくの共同設立者で同じく元保育士の内ケ崎千鶴氏も、似たような経験を持つ。内ケ崎氏が就職した保育園では「原稿用紙1枚を使うのにも利用記録への書き込みが必要で、子供が遊べるイベントを企画しても1つも実施させてもらえなかった」。決して予算が捻出できなかったわけではなく、「去年と同じ」以外のことを上長が許可しなかったという。
他にも「今でも児童の家庭へのお便りなどが手書きの園は少なくない」(田中氏)。パソコンが買えないといった理由ではなく、「手書きのほうが情緒があるという理由」(内ケ崎氏)だ。付き合いのある現役保育士に聞く限りでは、保育士の環境は2人が辞めた当時とあまり変わらないようだ。
もちろん、こうした環境は保育園によって違う。だが、転職しようにも子供を放置するようで、後味が悪い。最初の職場に恵まれなければ、次第に「忙しさと何もできない環境に疲弊し、保育に熱心な人ほど職を離れていく」(内ケ崎氏)。
こうした保育士の離職に拍車をかけているのが、深刻な待遇の低さだ。田中氏は「生きていける収入レベルではなかった」と振り返る。田中氏が初めて保育士の職を探したのは約10年前。最初に目に飛び込んできたのは、学校の掲示板に貼ってあった「初任給9万円」の文字だった。「何かの冗談かと思った」(田中氏)
試用期間である最初の数カ月は非正規としての雇用条件だったが、正規雇用後でも「暮らしていけるような収入ではなく、実家で親と一緒に暮らしている人でないと働けないような求人がいくつもあった」と振り返る。
内ケ崎氏も「低収入は覚悟していたが、時給を計算したときはがく然とした」と話す。ベンチャー企業の営業から転職して就いた保育士としての初任給は、手取りで12万円。残業が多く、行事やその準備などで土日に働くことも少なくない。時給を計算すると「300円だった」
「続けられると困る」
課題の多い保育業界だが、賃金に関しては自治体が動くことで改善する事例もある。前述の松戸市は、公立保育園に比べて給料水準が低いとされている私立保育園の保育士に対して、毎月4万5000円以上を直接支給する「松戸手当」を実施。他にも、市内在住で保育士として就職する人に就職準備金として10万円の貸し付けをし、2年以上の継続勤務で返還免除をするなど、待遇改善に努めている。
その効果もあって、18年度上半期には58人もの保育士が市外から転入してきた。前年同期の2倍以上の増加数だ。他にも学生向けの返還免除条件付きの貸付金など、新規保育士育成にもテコ入れをする。「潜在保育士の再就職を促すような支援もしたい」(山内課長補佐)
だが、すべて国や自治体の支援に頼っていては税金がいくらあっても足りない。根本的な原因を解消するには、保育園が十分な報酬を保育士に払うように変わるべきだ。だが、保育士の待遇を改善する根本的な解決への道のりは遠いかもしれない。
「長期雇用が保障できないので、高い賃金を払って保育士を続けられても困ると言われた」。ある元保育士の男性は、悔しそうにこう語る。保育園の経営判断として、あえて保育士の給与水準が低く抑えられている場合があるというのだ。
その原因は、地域の子供の人数が短期間に大きく変動するからだ。日本では都市開発などで狭い地域に多くの世帯が移り住むことがある。こうした地域では突如として保育需要が立ち上がるが、しばらくすると子供は成長する。多くの世帯はその後も移動せずに生活を続けるので、新しい世帯の流入数は減少。数年後には地域の子供の人数は減り、極端に保育需要が落ち込むのだ。その需要がしぼむスピードは、日本全体の少子化などよりずっと速い。
公立の保育園であれば、自治体の管轄内の保育園間で人材を移動させ、ある程度の需給の変動を吸収できる。だが、私立保育園の場合にはそうもいかない。保育需要が急速にしぼんだら、園が雇用する保育士が過剰になるのだ。人材がいるからといって新しい園を設立するのも、不動産と設備投資が必要なので簡単ではない。ならば最低限の保育士の人数で現状を乗り越え、保育需要が少なくなる頃には自然に退職してもらったほうが、経営しやすいという。
一度就職すると、他の職種への転職が難しい――。そんな労働市場の課題が、保育士業界を苦しめている本当の原因かもしれない。
日経ビジネスの3月25日号特集「凄い人材確保」では、この他にも日本企業の人手不足の現実を研究した。
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