時代にはその時の雰囲気を象徴する言葉が登場する。2002年の小泉内閣の登場は「構造改革」「改革なくして成長なし」がキャッチフレーズになった。

 米国発の金融危機と世界不況を経験した今日では「金融資本主義批判」「市場原理主義の修正」が枕詞になった感がある。鳩山由紀夫首相も、首相になる前にこう言っている。「この危機は、冷戦終焉後米国が推し進めてきた市場原理主義、金融資本主義の破綻によってもたらされたものです」(同氏ホームページ

 しかし、そのはやり言葉が何を意味するのかをどうとらえるかは十人十色で、意味不明のまま言葉だけが出回っている場合も多い。社会主義経済を志向する方々は今では極少数派になったので、ほとんどの論者はみな資本主義の中身に関する“程度”の違いを論じているに過ぎない。「金融」についてもその機能を否定する人はいない。あり方の問題を議論しているわけだ。

ジキル博士 VS とハイド氏

 ところが、「資本主義」に「金融」の名を冠すると、なにかとても悪性のものにイメージが変異するようだ。なぜだろう? 「強欲な金融業者」を叩いてやりたい気持ちが、そういうイメージを生むのかもしれない。しかし「金融」の何を生かし、何を削がなくてはならないのかを考えてみよう。

 金融・投資活動は実際のところ、「ジキル博士とハイド氏」的な2面性を内在している。

 金融の1つの顔は、「規律、効率性、合理性、機会」を象徴している。金融のおかげで、住宅を購入する、あるいは事業を立ち上げるなど多くの機会が実現する。同時に破産することなく返済するには合理性、効率性、規律が必要だ。金融はそうしたものを要求する論理を内在している。

 もう一方の顔は、「バブルと崩壊、強欲、搾取」を象徴している。今回の金融危機でもっぱら叩かれているのはこちらの面である。

 どうして金融は全く対照的な2つの顔を持っているのだろうか。あるいはどういう条件下で金融はジキル博士になったり、ハイド氏になったりするのだろうか。それを理解するために、まず世の中には2種類の異なった儲け方(所得の源泉)があることを理解しよう。

草食系ビジネス VS 肉食系ビジネス

 パン屋が小麦粉を仕入れてパンを焼き、一月に200万円販売したとしよう。原料の小麦粉や水、光熱費などの経費は100万円かかった。そうすると差し引き100万円がパン屋の生み出した付加価値で、経済全体が生み出す付加価値の1年間の総額がGDP(国内総生産)である。

 パン屋の生んだ付加価値100万円は、様々な所得として分配される。従業員を使用していれば給与を支払い(給与所得)、銀行から金を借りていれば利息を払い(利子所得)、店舗を借りていれば家賃を払う(賃貸所得)。残りがパン屋の純所得(事業者所得)だ。金を貸した銀行が利息を伴って資金を回収できるかどうかは、ひとえにパン屋が十分な付加価値の生産に持続的に成功するかどうかにかかっている点を強調しておこう。

 もう1つ別の儲け方がある。例えば株式トレーダー(投資家)がA社の株を100万円で買い、1カ月後値上がりしたので200万円で売ったとしよう。トレーダーくんの儲け(所得)は100万円である。しかし、同じ所得でもこの所得は付加価値ではない。彼が安く買った反対側には安く売った人がおり、高く売った反対には高く買った人がいる。つまり市場全体ではゼロサム(損得合計でゼロ)だから、付加価値としてGDPには含まれない。これを「ゼロサム所得」と呼ぶことにしよう。

 今流の言い方をすれば、パン屋を「草食系ビジネス」、トレーダーを「肉食系ビジネス」と呼ぶこともできようか。ただし、トレーダーは無用の長物というわけではない。現代の金融・資本市場が機能するために不可欠な「市場の流動性」(いつでも金融資産が売買できる条件)のためには、広い意味でトレーダーが提供する機能が欠かせないからだ。肉食動物も生態系を構成する不可欠な環であるのと同じだ。

最終消費市場 VS 資産市場

 こうした2つの異なった儲け方と対を成す形で、経済も2つの異なった層から成る。資産市場と最終消費市場では別々の行動原理が支配している。

 最終消費市場とは、財やサービスの供給と消費から成る実体経済の市場である。この市場では財やサービスの使用価値と価格の関係が問題になる。資産市場は、不動産、株式、債券などの金融資産を含む資産の取り引きからなる。この市場では際限のない金銭的価値の蓄積を目的とする行動原理が支配し、各種の資産の価格(=相場)が形成される。

 最終消費市場では、経済の参加者がある程度は独立した選好を持ち、自分の利得・満足の実現のために多少不完全ながらも概ね合理的に行動することを前提すれば、自由な消費、生産、投資が自己調和的な秩序を形成すると考えることに根拠があるように思える。

 ある消費財やサービスへの需要が増加すると、その価格が上昇する。すると価格の上昇に対応して生産・供給が増加し、価格の上昇が抑えられる。ある変化に対応して、それを抑制する作用が働くことを、「ネガティブ・フィードバック」が働いているという。ネガティブ・フィードバックが優勢である仕組みでは、調和的・安定的なバランス回復力が働く。

 もちろん、現実には選好はそれほど独立しておらず、他者の行動に依存した選択と行動も頻繁に見られるのだが、限度がある。薄型テレビがブームだからと言って、テレビ価格の高騰と購入の増加が同時に起こることはない。

「強欲」を責めても何の解決にもならない

 しかしながら、資産市場では、最終消費市場のような安定的な秩序は必ずしも生まれず、相場はブームとその崩壊、そしてまた新たなブームへと不安定な変移を繰り返す。その理由は、ケインズの美人投票の喩えに象徴されるように、多くの参加者が独立した選好を持たず、多数者が形成する他者の選択に追随して、売買を繰り返すことで相場を形成するからだろう。つまり、多数の他者が買うから相場が上がり、相場が上がるから自分も買うという動きに支配されてしまう。

 こうした状態を「ポジティブ・フィードバック」が働いているという。つまり、相場の上昇でも下落でも一方向の変化が起こると、さらにそれを助長する動きが生じる仕組みである。もちろん、資産価格の世界でも、「割高だから売る(供給増加)」「割安だから買う(需要増加)」というネガティブ・フィードバックの力も存在している。

 ところが、市場参加者の多数が何か強い期待、あるいは失望に取りつかれると、ポジティブ・フィードバックが優勢になって、相場は上昇、あるいは下落の方向に極めて大きな変動を起こしてしまうのだ。「強い期待」とは例えば「IT(情報技術)企業の成長性はものすごく大きい」とか「住宅はまだまだ値上がりを続ける」というようなものだ。こうして大きな相場の上昇と下降が繰り返される不安定な波を生み出す。

 なぜ金融資産の市場では経済主体の選好が極度に他者同調的・依存型になるのだろうか。それは具体的な財やサービスの使用価値が問題にならず、貨幣価値のみが問題になる結果、富の際限のない蓄積を追求する衝動に支配されているからだと思う。どうやら、金融のハイド氏の顔が登場するのは、ゼロサム所得とその獲得を目指す資産市場に金融が結びつく場合のようだ。

 この場合、市場参加者は富の無限の蓄積衝動に駆られ、借入と資産運用リターンに利鞘があれば借入を増やし、自己資金の数十倍までレバレッジをかけてしまう。そうやって資産市場に投資されるマネーが膨張を続ける間は、みなが増加する資産評価益に酔うことができる。しかし実体経済から乖離した資産価格の高騰はいずれ限界に達する。

 何かの出来事を契機に市場参加者に不安が生じて、「もう限界かな」と思えば売って利益を確定しようと思う。しかし皆がそう思うので、売りが殺到し、雪崩式に相場は崩壊する。これがバブルの崩壊だ。

 こうしたハイド氏が引き起こすバブルとその破裂のリスクを除去するにはどうしたら良いのか? 困ったことにハイド氏とジキル博士は同一人物なので、ハイドを殺すとジキルも死んでしまう。従ってハイドの出番を抑制することで金融危機という大過に至らぬ工夫をするしかない。一番有効なのは、金融・投資機関に上手にレバレッジ規制(自己資金に対する借入資金比率の上限規制)を課すことだ。

巷に溢れる「米国凋落論」は本当なのか?

 実際、1998年に巨大ヘッジファンドLTCM(ロングタームキャピタルマネジメント)の破綻で冷や汗をかいた米国の金融監督諸官庁は、翌年4月に財務省、FRB(米連邦準備制度理事会)、SEC(米証券取引委員会)、商品先物取引委員会の合同調査グループの規制改革の提言書を大統領に提出した。この報告書は金融危機予防のためにヘッジファンドを含む非銀行金融投資機関にもレバレッジ規制を課すことを強く提言していた。

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