「ホワイトカラー・エグゼンプション」という言葉をご存じだろうか。
日本語では「自律的労働時間制度」と呼ばれるもので、今後の日本人の働き方を大きく左右するような新しい労働法制である。元々は米国で生まれた。
エグゼンプションとは“免除”という意味で、労働基準法で定められている1日8時間、週40時間の労働時間規制を適用しないということ。いつ、どのように働くかという自由度が高まり、働いた時間ではなく仕事の成果によって賃金を決められるというのが賛成派である財界の主張だ。労働組合側は、労働強化と実質的な賃下げにつながるとして反対の立場。両者は導入の是非を巡り激しい議論の真っ最中にある。
重要な問題なのに大きなニュースにならない不思議
しかし、そんな重大な議論が行われていることが、不思議なことに、さほど大きなニュースとして報じられていないのである。
ホワイトカラー・エグゼンプションを巡る議論は、来年の通常国会への法案提出を念頭に、厚生労働省の労働政策審議会(厚労相の諮問機関)の労働条件分科会で、労働組合、使用者(経営側)、公益委員(学者)の3者を交えて、議論が重ねられている。
議論が始まった当初は、「製造業の労働者は対象にしない」「年収要件は1000万円以上の管理職層」という条件付きだったが、審議会が開かれるごとに素案における適用基準は緩く、曖昧になっている。直近の11月28日の会合では、製造関係の労働者を外すとした文面はなくなり、年収要件は「400万円以上」にまで緩和すべきだという意見まで出た。
この制度が適用されると、働く者にとってはどうなるのか。一面的ではあるけれども最も分かりやすいのは、「残業」という概念がなくなり、「残業代」も支払われなくなるということである。
この制度の導入に反対の立場を取る労働運動総合研究所の試算によると、ホワイトカラー・エグゼンプションを年収400万円以上の労働者に適用すると、総額11兆6000億円、ホワイトカラー労働者1人当たり年114万円もの残業代が消え失せてしまうのだという。さらに、適用対象の労働者は、自分で労働時間を管理しなければいけないため、仮に、働き過ぎで過労死をしても会社に使用者責任を問うことはできなくなる。
思惑が交錯した末に“悪魔の取引”
働く者からすれば「無謀」とも言えるこの制度が、法制化に向けて議論されている背景には、総人件費の一段の圧縮を図りたい財界の強い要望があった。財界は、「新商品やソフトウエア開発者、アナリストなど、従来の労働時間に縛られず自由で自律的な働き方をする人材を育てるために必要な制度だ」と主張するが、これは建前に過ぎない。アジア勢の台頭で日本のモノ作りの優位性が揺らいでいるうえ、株主重視の経営で利益を極大化するために人件費をギリギリまで切り詰めたいというのが本音だろう。
不甲斐ないのは、厚労省と労働法学者である。本来なら、こうした労働時間規制の撤廃要求は全力で阻止するはずだ。「企業はこんなにひどい制度を導入しようとしている」とマスコミにリークして、世論の力を借りて粉砕してしまうのが常套手段である。
だが、そうはしていない。なぜなら、労働契約ルールを定める新法である「労働契約法」の成立という悲願を達成したいがために、財界と“悪魔の取引”をしてしまったからである。
そもそも、ホワイトカラー・エグゼンプションは今回の労働法制改正の本筋ではなかった。最大の焦点は、労働契約法の制定にあった。
バブル経済の崩壊を契機に、「麗しき従業員共同体」(明治大学法科大学院の菅野和夫教授)とまで謳われた日本型の企業システムが急速に崩れ、リストラによる解雇、労働条件の一方的な切り下げ、陰湿ないじめ・パワハラなど職場におけるトラブルが激増した。厚生労働省によると、全国の労働基準監督署、地方労働局に寄せられた労働トラブルの相談件数は2003年度に前年度比37%増の14万800件となり、2005年度は17万6000件と過去最高を更新した。
従来はこうしたトラブルは、社内労働組合が経営側と交渉し解決していた。しかし、リストラによる正社員の急減で、終戦直後には6割近くあった労働組合の組織率は、直近では2割を割り込み、その紛争解決能力を失ってしまった。そのため、司法の場(裁判所)で解決する道を探らざるを得なくなったわけである。
「労働契約法」の成立が厚労省と労組の悲願
今年4月には、裁判官と労使双方の専門家からなる合議体によって、労働トラブルの解決を図る「労働審判制度」がスタートした。ただ、ここで問題が生じる。労働トラブル解決のための器ができたのはよいが、解決のための判断基準を示す労働契約法が日本にはないのだ。
戦後、マッカーサー率いるGHQ(連合国軍総司令部)統制下で定められた日本の労働法制の骨格は、(1)労働条件の最低基準を罰則規定付きで定めた労働基準法、(2)労働組合の結成を擁護する労働組合法、(3)労働組合と経営者間のトラブル解決手続きを定めた労働関係調整法──の3法からなる。
だが、現行の労働基準法は、最低賃金の遵守や労働時間の上限などを定めているだけ。解雇や労働条件の切り下げ、有無を言わさぬ配置転換などの妥当性は、これまでに蓄積された過去の判例を基に裁判所が判断しており、判決の予測可能性が著しく低かった。そこで、日本労働組合総連合会(連合)などの労働組合と労働法学者や弁護士が要望し、民法をベースにした「労働契約法」を作ろうという動きが2004年4月からスタートしたのである。
前述のように、日本の労働トラブルの年間相談件数は17万件を超えるのに対し、労働裁判の件数はわずかに3000件。ドイツの労働裁判所の56万件、フランスの労働審判所の20万件に比べ圧倒的に少ない。それは、労働の権利関係を明示したまともな労働契約法がなく、裁判の結果を読めないことから、日本の多くの労働者が会社を訴えることなく泣き寝入りしているためだ。これは、厚労省、労働組合の悲願だった。
だが、透明性の高い労働契約法ができれば、労働審判制度の導入と相まって、従業員、元従業員からの訴訟が激増する恐れがある。当然のごとく、財界側は「新しい労働契約法制などいらない」と反対した。特に日本経済団体連合会は嫌悪感を隠さなかった。
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