佐世保市の県立高校1年生が殺害され、同級生の少女が殺人容疑で逮捕された事件は、日々拡大しつつある。
第一報が届いた時点では曖昧模糊としていた犯行の詳細が、翌日になってから、少しずつ明らかになる。続き物のドラマみたいな展開だ。
あわせて、容疑者の少女に関する周辺情報が、様々な方向から漏れ出してくる。
画面のこちら側から見ていると、まるで、犯罪ドラマの演出に精通した人間が、事件に関する情報の出し入れを、クライマックスに向けてコントロールしているようにさえ思える。
それほど、小出しにされてくる情報のいちいちが扇情的にデザインされている。
そんなわけで、事件が起きて以来のこの数日、報道の量は、むしろ増加している。
特に地上波テレビの情報番組は、スタジオごと佐世保に移転したみたいな勢いで、関係者のプライバシーを掘り起こしにかかっている。
スタジオで画面に登場する人たちは、異口同音に
「衝撃を受けた」
「ショックだ」
「理解できない」
といったあたりの言葉を繰り返すわけなのだが、その前置きを言い終えると、容疑者の少女の内心を憶測し、被害者との関係について自分なりの推理を並べはじめる。でもって、コメントの行間に現代社会批評をにおわせつつ、最終的には自分が心を痛めている旨を申し述べて最初の前提に戻る。そういうシナリオになっている。
いや、コメンテーターの先生方が残酷だとか不誠実だとか、そういう意味のことを申し上げているのではない。
彼らは、視聴者の気分を代弁している。
優秀なコメンテーターは、自分の考えを述べない。
コメンテーターは、スタジオの中に「空気」として反射してくる視聴者の反応を、わかりやすい言葉に翻訳するタスクを担っている。そういう意味で、あの人たちは、正しい仕事をこなしている。
「ショックを受けた」こと自体もウソではない。
というよりも、視聴者やコメンテーターがショックを受けているからこそ、番組のテーブルは、興味本位に流れざるを得ないのだ。
自分一人の頭では処理しきれない出来事に直面した時、私たちは、その話題について、誰かと意見交換をしたり、嘆き合ったり、驚きを共有したりして、とにかく自分の中の感情を整理しようとする。
テレビの情報番組は、そういうことをするための場所だ。
とすれば、この事件に関する扱い方が、暴露趣味に傾きがちであることは、必ずしも、番組制作者が事件の関係者の心情を弄んでいるからではなくて、むしろ、視聴者の要求に応えようとしたからだ。
ショックを受けた人間は、あらゆる情報を貪欲に収集することで気持ちを落ち着けようとする。
結果として、被害者やその周辺の人々は、ショックを受けた視聴者のエサみたいなものになる。
無論、われわれとて、娯楽として消費するために現場を荒らしているのではない。
ただ、事件を反芻する人々は、現場を掘り返さざるを得ないのだ。
かくして、事件について語る人々は、無意識のうちに、このむごたらしい出来事を、少女を主人公としたサイコサスペンスとして再構成する語り口を獲得する。われわれは、自分たちの中で、起承転結なり序破急なりの納得できる結末を備えた物語に回収しないと落ち着かない。だから、こういう事件の話をする時、人は、どうしても下品になる。困ったことだ。
もうひとつ、この種の事件が勃発すると、「悲劇」の反対側で、「責任」の物語が展開される。
つまり、自分の責任をまっとうすることができない子供が主人公に設定されている物語では、その子供以外の誰かに責任を持っていくタイプのストーリーが考案されなければならないということだ。
今回の事件では、事件が起こるや、新聞各紙は、こぞって、「命の教育」をスケープゴートにあげた。
というのも、長崎では、2003年と2004年に少年による殺人事件が相次いで発生し、以来、県をあげて「命を大切にする教育」に取り組んでいる旨が伝えられていたからだ。
まず、読売新聞が《また悲劇、長崎県「命の教育」届かず》という見出しで、地元長崎県の教育関係者が、事件から受けた衝撃の大きさを伝える記事を書いている(こちら)。
ほかのメディアも大同小異だ。
以下に、各メディアが配信した記事の見出しとリンクを列挙する。
・日本経済新聞《命の教育10年 衝撃走る 凄惨な少年事件相次いだ長崎 》
・中日新聞(社説)《同級生殺害 「命の大切さ」何度でも》
・産経新聞《繰り返された同級生殺人に衝撃 動揺する地元や教育関係者ら》
・NHK《「命を大切する教育」検証へ》
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