3月の下旬に、とある筋から依頼されて、新大久保の反韓デモに向けたメッセージを録画した。
私は、元来、この種の社会的な活動には関与しない主義(←いや、「主義」などという言い方で正当化するのはやめて、ここは一番、「自分はめんどうくさいことが嫌いな性質だ」と、断言しておくことにする)なのだが、今回は特別に顔を出した次第だ。
メッセージ動画は、1分間と定められていた。
1分間というのは、実際にしゃべってみると、いかにも短い。
用意してきた原稿を読み上げると、どう読んでも3分以上になる。
で、当日は、話題を1点に絞って
「『出て行け』という言い方はひどいと思うよ」
という内容のみを訴えた。
ツイッターの@欄(「リプライ」と呼ばれる、名指しのメッセージが寄せられる場所)は、3月31日になって、ビデオメッセージが新大久保の路上で再生されるや、様々な意見であふれかえった。
いくつかについては、反論したり、礼を述べたりもしたが、大半の書き込みは、無視した。返事もしなかった。読んだという旨を伝えるメッセージも書きこまなかった。
今回は、それらの書き込みへの返事のつもりで、私が、昨年来繰り返されている一連の在特会による新大久保デモについて、現状で考えていることを書くつもりでいる。
私の考えは、一本の系統だった論考としてまとめ上げるには、錯綜し過ぎている。
こんな断片的な思いつきは、ツイッターに吐き出すぐらいがせいぜいで、かりそめにも(←皮肉ではありません)原稿料をいただいている媒体に掲載するべきではないのかもしれない。
が、私は、断片は断片として、書きとめておく価値があると考えている。
なぜなら、この問題がこじれているのは、人々が曖昧な意見や矛盾した見解を述べているからではなくて、逆に、多くの人々が沈黙しているところに原因が隠れていると思っているからだ。
曖昧でも不徹底でも、多様な意見が集まれば、事態はそんなに極端な方向には流れない。
ところが、現状は違う。
東アジアをめぐる民族問題は、賢い人たちがだんまりを決め込んでしまっている結果、直情的な人間だけが発言する、末期プロレス的な状況に陥っている。
自分が「賢い人」だと言うつもりはないが、少なくとも私は、曖昧な意見を述べることのできる人間だ。
いま、この問題とって必要なのは、旗幟鮮明だったり論旨明快だったりする意見ではなくて、曖昧な意見である以上、私の言葉は、それなりの価値を持つはずなのである。
民族問題は、ただでさえ、多様な切り口と不定形なとっかかりを持った、きわめて扱いづらい論題だ。その意味では、考えがまとまっていることの方が、むしろ不自然なのだと思っている。
つまり、この種のタームについて語る以上、大上段の構えから、理路整然と進行し、きれいに着地する論文は、かえって信用できないということだ。なぜなら、明快で切れ味の良い論理は、執筆段階で書き手の内部にわだかまっていたはずの「迷い」や「疑問」のような要素を、すっぱりと切り落としてかからないと(まあ、論理の力で曖昧さを排除するてなこともあるのでしょうが)構築できないものだからだ。
というわけで、以下、未整理のまま、箇条書きのつもりで書き進めることにする。
最初にはっきりさせておきたいのは、私が、韓国ならびに北朝鮮の政府や人民を擁護する目的でこのテキストを書くのではないということだ。朝鮮半島の人間が聖人君子ぞろいだとか、韓半島由来の文化が日本のそれより断然優れているとか、両政府の対日政策が戦後一貫して理性的かつ適切であったとか、「無慈悲に」「容赦ない」という強調表現のセンスがすばらしいとか、私は、そういうことを言おうとしているのではない。
どこの国にでも卑劣な人間はいる。それは日本でも朝鮮でも同じことだ。どんな場所にでも、考えの浅い国民は常に一定数居住している。
ただ、大部分の人間は、どこの国の国民であっても、穏当な考えを持った普通の人々だ。
……と、こういうことを書いても、きれいごとだと思う人はそういうふうにしか思わない。
「オレの知っている韓国人は息を吐くようにウソをつく」
「あなたは本当の朝鮮人を知らない。あいつらは人をだますことばかり考えている」
「私はハングルをしゃべる(←この言い方は間違い。ハングルは文字なのでしゃべれない)ことができるし、大勢の韓国人とつきあいがあるが、彼らはウソつきばかりだ」
という感じの声が、事実、私のツイッターには、多数寄せられている。
で、私は、以下のようなツイートを配信した。
《誠実な韓国人もいれば下劣な韓国人もいる。当たり前の話です。仮にAなる男が直接に交流した韓国人がそろいもそろって下劣だったのだとすると、それは、A氏の側の問題だろうね。つまり、A氏が、相手からみて、誠実に付き合う気持ちになれない人間であった、と。》(リンクはこちら)
もちろん、このツイートにも山ほど反論が来ている。
「そりゃ、まともな韓国人だっているだろうさ。ただ、大多数派が嘘つきだというDNAの話だよ」
再反論はしない。
無駄だと思うからだ。
私がこの問題に関与しようと考えたのは、どちらかといえば、国内的な理由だ。
どういうことなのかというと、私は、日本の社会の風儀の荒れ方に懸念を抱いたからこそ、カメラ目線で演説するという、苦手分野のお話にあえて乗ったのであって、もう少し踏み込んだ言い方をするなら、新大久保で展開されている一連のデモが、「反日的」だと思うから、それに対して反対の意思を表明するべく、面倒な仕事を引き受けたのである。
「反韓デモ」の映像は、ほどなく、韓国で反日デモを展開している人々の目に入るだろう。
と、新大久保の路上で連呼されていた言葉は、韓国内の反日分子の行動を正当化する絶好の理由になるはずだ。
「ほら、見て見ろよ。オレたちの言ってた通り、日本人っていうのは、こういうどうしようもないヤツらなんだから」
というわけで、反日デモが過激化すると、今度は、その韓国内の反日デモの様相が、日本国内の嫌韓に燃料を与えることになる。
合わせ鏡みたいなものだ。
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