自分の死後のことさえ決められない、窮屈な存在であるのも天下人であり、かの徳川家康もその宿命からは逃れられず――。
家康は1616年(元和2年)4月に駿府城(静岡市)で亡くなるが、その直前、以下の様な遺言を残している。
1. 遺体は駿府城の近くの久能山に納めること。
2. 葬儀は江戸の増上寺(港区、将軍家の菩提寺)で行うこと。
3. 位牌は三河の大樹寺(愛知県岡崎市)に建てること。
4. 一周忌を過ぎたあとに、日光に「小さな」堂を建てて、関東の鎮守(守り神)として勧請するように。
それぞれの文言の意味を探ってみると、以下の感じであろう。
1. 遺体は久能山→ 終の棲み処として決めた駿河に体を残すため
2. 葬儀は増上寺→ 公のものなので将軍のいる江戸で行っていいよ
3. 位牌は三河→ 故郷の三河には位牌くらいは置いてちょうだい
4. 小さな堂→ きっとお前ら俺を神様にするつもりだろうけど、小さめにして。くれぐれも墓(遺体)そのものを移したり(=遷宮)せず、勧請(のれん分け)でこぢんまりとしてね
意外というかなんというか、割と慎ましやかな、そんな家康の意志がくみ取れる。
ここで問題になったのが「4」の「神様化プロジェクト」である。
人の神格化は吉田神社しかできない
豊臣秀吉にしろ徳川家康にしろなんにしろ。この時代、人間を神格化できるのは、賀茂神社系列の京都吉田神社しかいない。
あの吉田兼好らを輩出した吉田が「唯一宗源神道」を取り仕切っていたのである。
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ここにしゃしゃり出てきたのが天台宗出身の南光坊天海だった。
徳川家康のブレーンとして江戸を整備した高僧で、『実は明智光秀が生き残って名前を変えた』などの説もあるくらい謎に満ちた人物。
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その天海がしたり顔で語るのである。
「家康様は常に仏教を好み、神道が嫌いで、秀吉を神とした豊国神社をうち捨てるようにおっしゃっていた。
吉田神道は神道だけ。
でも、天台宗がやっている神道は、仏教と神道を一緒にしたものだから、すげーよくないですか」
突然出てきて何を言ってるんだ、こいつは?状態。
家康が豊国神社を壊せと言ったのは、別に神道が嫌いだからってわけではないだろう。
家康は、確かに仏教徒ではあったが、天下人としては海外への外交文書で「日本は神の国である」と表明している。
つまり「神道」、この場合は吉田系をちゃんと評価していた。
秀忠が突如方針を変更して
ところが、2代将軍の徳川秀忠は、タイ(シャム)の国王宛ての文書で方針を修正。
「日本は儒教と仏教を大切にしている国」とした。
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このことから秀忠は、家康の神格化自体は幕府存続のために必要と考えていたものの、伝統的な神道主導は不要ではないかと考えていたようだ。
そこに天海が「神仏習合」方式を主張したものだから、渡りに船とばかりに取り入れたのだろう。
結局、家康の意志は完全に無視され、一年後に遺体は久能山から日光山へ「遷宮」。
「小さな」お堂は、今や世界遺産の日光東照宮として、豪華絢爛、燦々と耀いている。
日光の観光的には、これで正解だったんだろうけど……。
天海は「怪僧」なんて呼ばれることもあり、その恐ろしいまでの実力を後世にも認められている。
一方で、秀忠は関ヶ原の合戦に遅参(遅刻)したことなどから「ダメな2代将軍」というレッテルを貼られがちだ。
が、国家観がすごいのは、むしろ秀忠のほうだったのかもしれない。
なお、徳川家康の生涯については以下のまとめ記事をご参照いただければ幸いである。
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川和二十六・記
【参考】
『日本歴史769号』野村玄「東照大権現号の創出と徳川秀忠」