擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

炎上と監視社会

 9月になり、多くの学校では夏休みが終わった。

 この夏を振り返ると、なんというかブログの炎上が多かった。学生が学校に戻り、下らない写真をアップする暇もなくなれば炎上も減っていくかもしれない。

 それは措くとして、すでに数多く指摘されているように、これらの騒動は二つの観点から考えることができる。一つは「バカが増えた」という見方。そしてもう一つは「バカが可視化された」という見方だ。この二つの見方は必ずしも矛盾するものではないが、結果としては対立することが少なくない。

 対立する理由の一つは、対処法が変わってくるからだ。前者の観点からすれば、バカがこれ以上増加するのを食い止めるためには制裁が必要だということになる。バカを見つけたら、みんなで痛めつけて模倣者が出ないようにすることが重要だというわけだ。

 他方、後者の観点からすれば、制裁というよりも寛容さが必要だという結論になりがちだ。昔も今も、これからもきっとバカは存在し続ける。昔の自分も含めてバカを消滅させることはできないのだ。子どものいたずらにあんまり目くじらを立てても仕方がないという話になる。

 たとえば、佐々木俊尚さんの以下のツイートは後者の見解として位置づけることができる。

 だが、これらのツイートに対しては反論が寄せられており、こういう反社会的な行為を放置しておいては社会の秩序が維持できなくなる、社会人として許すことはできないといった趣旨の主張が展開されている。

 ここで論点をより掘り下げるために紹介したいのが、エミール・デュルケムの主張だ。デュルケムは、仮に立派な人たちだけで社会を構成したらどうなるかという思考実験をする(『社会学的方法の基準』)。高潔な人たちしかいない社会なのだから、犯罪など発生しようがないと多くの人は考えるだろう。

 しかし、そのような社会でも犯罪は発生するとデュルケムは言う。というのは、社会が成立するためには「犯罪が必要」だからだ。

 人びとが社会のルールを認識するためには、実際にそのルールから逸脱した人の存在が必要になる。たとえば、児童虐待の悲惨なニュースが流れたとしよう。世の多くの親は、そうしたニュースに接したとき、被害児童の悲惨な境遇に胸を痛めるとともに、我が子にはそうした虐待を決してすまいと決意を新たにする。この夏に相次いだ炎上事件にしても、模倣者を生んだ一方で、それよりも遥かに多くの中高生に「ああいうことをやるとヤバい」という教訓を与えたことだろう。

 したがって、たとえ立派な人たちだけで構成される集団であっても、社会が成立するためには犯罪が必要であり、実際に犯罪は起きる。ただし、そこではおそらく通常の人間からすると信じられないような些細な逸脱が「犯罪」として処罰されることになるはずだとデュルケムは主張する(と記憶している。例のごとくに本が手元にない)。普通の感覚からすればちょっとしたマナー違反に過ぎないものが厳しく断罪されるということになりかねないのだ。

 もちろん、現代社会は立派な人たちだけで構成されているわけではないので、こうした思考実験とは無縁だと思われるかもしれない。だが、ネットによる社会の可視化によって「反社会的行為」に含まれる言動の範囲がどんどん大きくなり、これまでよりも些細な逸脱が断罪されるようになる可能性は否定できないように思う。

 そもそも、どのような社会であれ法律が完全に守られることはありえない。些細な違法行為は日常的に繰り返されており、それを完全に実現しようと試みれば極端な監視社会、警察国家にならざるをえない。もちろん、そうした違法行為がどこまでも許容されるのであれば、秩序自体が失われてしまうので、要は程度の問題である。人殺しが見過ごされる社会は異常だが、他人の私有地にたまたま足が一歩入っただけで不法侵入を問われる社会も異常だ。

 以上のような観点に立つなら、些細な逸脱行為に目くじらを立てる社会は、結果として極度の監視社会化を促すことにもなり、非常に息苦しい社会を実現してしまうのではないかという危惧につながる。

 ネットによって市民がお互いに監視しあい、少しでも違法な行為や反社会的な言動があれば、炎上させ、プライバシーを丸裸にしたうえで関係機関に連絡する。連絡された側は違法であることは確かなので、何らかの対処をせざるをえない。対処しなければ、今度はその機関が攻撃の対象になるからだ。

 「違法は違法なのだから罰を与えねばならない」というのは正論であるだけに正面から反論しづらい。反論すること自体が、まるでその人物が反社会的行為を擁護しているかのような印象を与えてしまいかねないからだ。したがって、監視や制裁の強化にブレーキをかけることは容易ではない。

 このような見方に対して、「バカが増えたから制裁が必要だ」と考える人たちは「いま問題となっているのは決して些細な逸脱ではない」と反論してくるだろう。アイスクリームケースに入ったり、廃棄予定ではあってもピザの生地を顔に貼り付ける行為は、信頼を第一とする客商売からすれば決定的にマズい事態なのだと。

 あるいは、社会が秩序を保つためには、個々人による私的な糾弾も含めた社会的制裁が必要だという反論もありえよう。このあたりは価値観の相違なので、両者の溝を埋めることは容易ではない。

 ただ、内心では「些細な逸脱」だと考えるにもかかわらず、他者を陥れたい、破滅させたいという心情で、炎上をさせている人たちがいるのだとすれば、それは非常に嫌な事態だとは思う。そのような状況下では、法律やルールは、それによって社会の秩序やモラルを維持するための手段というよりも、人を陥れるためのツールになる。捜査機関が特定の人物を別件逮捕するために些細な違法行為を利用することがあると聞くが、そういうやり方が社会全体に拡大してしまう。それはやはり、まことに生きづらい社会なのではないだろうか。

(2013/9/5追記)続きはこちら。