「自分は『プロジェクト・マネージャー』というほどの者ではなく、『プロジェクト・チームのリーダー』といった役柄です。」——顧客とのチーム・ビルディングの席上で、相手方のトップの米国人はそう語った。聞いていたTさんは、単に謙遜しているのだと思ったそうである。時は'90年代。今ではベテラン・エンジニアのTさんが、やっと担当者レベルを卒業し、小さな1セクションのサブチーフ職に片足をかけた頃のことだ。バブル崩壊で国内市場は低迷し、Tさんの会社がようやく久しぶりに欧米企業から受注できた海外向けビッグ・プロジェクトだったという。Tさん自身も高揚する気持ちをおさえつつ、顧客とのチーム・ビルディングに参加していた。
その顧客はチーム作りのセッションを大切にしていた。彼らは発注者として、かなりの数のチーム・メンバーを、設計期間中にTさんの会社に駐在員として送り込んでくる。無論、Tさんの側も精鋭を結集して、受注側プロジェクト・チームを組織した。たしかに、両者の協力が大事である。冒頭の発言は、そのチーム・ビルディングで出てきた言葉だ。「マネージャーではなく、チーム・リーダー」。そして彼のこの言葉が、実は謙遜でも何でもなく、本当に何も決めてくれない人物であることが判明するまで、たいした日数はかからなかった。 「我々がお客さんに求める最大のこと、それは設計上の問題に対して、きちんと、タイムリーに、そして一貫性を持って決めてくれることです。そうでしょう?」Tさんは語った。「相手は欧米の巨大企業です。そのプロジェクトは、すでに基本設計は子飼いの別の会社と済ませており、実現段階に関する国際入札が行われたわけです。我々も相当の覚悟を決めて応札し、なんとか受注にこぎつけたのです。」海外型プロジェクトでは、分厚い契約書に、非常に詳細な基本設計図書が添付されており、その完全な履行が求められる。一字一句、もれなく履行することが。 「顧客側チームの主な仕事は、我々がきちんと仕様書通りに仕事を進めているかをチェックし、受注者を監視することでした。しかしご承知の通り、どんな基本設計だって完全ではない。具体化していく内に、いろいろ当初は想定していなかった問題点が出てきます。さらに、外部環境の変化もある。法規制が変わったり、市場の需要が思惑をそれたり。しかしこのお客さんは、問題が生じてもちっとも決めてくれません。ただ契約書通りの遂行をもとめるばかりでした。契約書通りでは問題があるから決めてほしいのに。」 Tさんは言葉を続ける。「このときの契約というのが、また、それまで見た中で一番厳しいものでした。納期遅延のペナルティも莫大です。とくに悩みのタネだったのは、『契約書や基本設計書内に矛盾が見つかった場合は、複数ある記述の中で一番厳しい仕様が適用される』という一文でした。こんなおかしな、そして虫のいい話はない。」 しばらくプロジェクトを遂行する内に、Tさんはだんだん気がついた。それは、顧客のチーム・メンバーが実は急ごしらえの寄せ集め、それも臨時雇いの社員も多いことだった。彼らは、プロジェクトが完了し、成果物をオペレーション部門に引き渡すまでが任務だった。つまり、ユーザ部門に頭が上がらないのだ。そして、ユーザたちは、プロジェクトの途中から入ってきては設計に口を出し、契約や経緯も無視して引っかき回していく。それを、顧客側チームは、誰もおさえることができない。 「大企業病というのは、こういうものかと思いましたよ。部門間の垣根が高く、みな、自分の部門の都合しか考えない。また、本社の権限が強く、プロジェクト・チームはろくに決定権もあたえられていない。本社の考えは、単純なのでしょう。きっちりした基本設計と厳しい契約書さえ用意すれば、あとは受注企業を監督するだけでいい。そして、プロジェクト・チームのメンバーたちは、我々が出す追加や変更要求を、へたに認めるとクビになる、という状態に置いたのです。 プロジェクトは生き物です。生き物というのは、つまり環境に応じて変化していく、有機的な存在です。しかし、向こうさんは、プロジェクトを生き物として扱わなかった。誰か頭のいい人が紙の上に書いて、あとは下々の者がそれを忠実に実現するだけ、ということなんでしょう。だから、顧客側のメンバーは、決してリスクある決断をしません。もし何かを決断して、うまくない結果が出たら、指示違反として本社から責められるわけです。設計については、いつまでもいつまでもコメント権を留保しました。決して追加を認めないし、納品物もぐずぐずと文句をいうばかりで、ちっとも受け取ってくれない。」 Tさんはそのプロジェクトで、結局2年あまりも泥沼の日々をすごすことになる。 「たぶん欧米の大企業というのは、仕組みを考える人と、仕組みに使われる人の、二種類がいるんでしょうね。使われる側の人間たちは、罰則と脅しで動かすべし、と。こういう組織では、失敗は許されない訳だから、完全主義と前例主義がまかりとおります。完全主義は、やけに過剰な仕様や豪華な品質になってあらわれます。それで余計にコストがかかろうが、それは下の人間の責任範囲ではない。前例主義も当然の結果です。だって前例は必ず成功しているはずですからね、失敗が許されない以上。」 ——しかし、前例主義だとしたら、そんな企業ではイノベーションは起きなくなるでしょうね。結局、長続きはしないような気がしますが。・・やや類似した経験を持つわたしは、Tさんにたずねてみた。 「まあ、そもそもプロジェクトというもの自体、新しいものを生みだすためのチャレンジであり、イノベーションの源泉であるはずですよ。だけど、ああいう大企業病のところでは、プロジェクトみたいなリスクの大きな仕事は、結局引き受け手がいなくなるでしょうね。結果が見えないのだもの。 でも、あの会社は、昔から特殊な権益をもっているんです。軍ともつながりがあり、政治力もある。海外に資源も抱えている。だから、今でも大企業として存続していますよ。ただ、技術開発部門は手放したんじゃないかな。でも欧米では、ベンチャーを買収すれば、新技術は手に入りますからね。」Tさんは、ちょっとため息をついた。 Tさんの話を聞いて、わたしは昔読んだ『パーキンソンの成功法則』という本を思い出した。C・N・パーキンソンはかつて一世を風靡した英国の経営学者で、初期の本は機知に溢れていて面白い。「役人の人数はその仕事の量に関係なく増えていく」という有名な『パーキンソンの法則』、「金は入っただけ出る」という、財政論の第二法則に続いて、企業経営を論じた彼の第三法則は、 拡大は複雑を意味し、複雑は腐敗を意味する というものだった。企業が大きくなればなるほど、経営者も管理職も全体が見えなくなる。そこで組織階層やルールで、各部署や社員をしばり、画一化をはかっていくことになる。パーキンソンはこう書いている。 もし社員がとりかえのきくものでなければならぬとするなら、かれらは、ある標準的なパターンにあわせて、組立てられなければならない。・・(そこに)個性に関する変数を導入すれば、それは動くことができない。(p.261) かくして大企業には、標準からのブレやリスクを含む提案にはyesとは言わず、noとだけいう人々が増殖していく。彼らの最大の眼目は、自分のクビを維持し、自分の組織を維持し、現状を未来永劫維持していくことである。それ以外の行為は、罰せられるからだ。それでも、大企業というのは、Tさんの指摘のごとく、うまく権益やビジネスモデルさえ確立できていれば、歩みを続けるらしい。だが、「その歩みは活力よりも威厳を示しているだけ」(同書 p.267)なのだ。 では、大企業病を治す方法はあるのか? パーキンソンの処方は、こうだ。 「ホテルの所有者がながいこと留守にしたあと、帰ってきて、ホテルが荒れ放題だったと知った事態にくらべてみることができる。・・これを直す手段はいろいろあるが、いちばん早くて、いちばん効果的なのは、二百人のお客を招いて、カクテルパーティをひらき、三日後に宴会をやり、さらに二日後に舞踏会をやると宣言することである。(中略)他の組織も少なくとも一時的にはこれと同様の方法で甦らすことができる。三つの段階に分けた新計画を宣言するのが手だ。第一段階は社員の能力の範囲内でよい。第二段階は相当困難なこと、そして第三段階は明らかに不可能なことだ。こうした順序で、こうした内容の仕事に直面すれば、どんな組織でも元気をふるいおこすにちがいない。」(p.274) この処方箋が、ほんとうに巨大な組織にきくのだろうか? わたしには疑問も残る。だが、彼の主張はわかる。それは、企業は永遠に成長し続けることはできない。拡大には退廃が、不可避的に内在する、ということだ。 大企業病はべつに、米国だけに起こるわけではない。どこの地域の、どんな種類の組織にも発生しうる。組織にはそれぞれ個性があるのに、症状はよく似ている。管理階層が分厚くなる、書類に多数の判子やサインがいる、仕事は細分化され、秘密主義がまかりとおる、紙ばかりが増えていく・・。 それら症状の一番根底にある問題は、組織の構成員が、『なぜ』を問わなくなることだ。なぜ、その書類が必要なのか、なぜ、その手続きをするのか、自分はなぜ、この仕事をしているのか。理由が、「ルールで決まっているから」「やらないと自分がクビになるから」という、目前の壁だか枠組みだかで、思考停止するのが、特徴だ。つまり思考停止こそ、大企業病の根本的な病巣なのである。 なぜ、この仕事が会社にとって意味があるのか。いつ、どのような形で価値を生みだすのか。そうした根源的な『なぜ』、射程距離の長い『なぜ』を問うことこそ、自分個人を病巣からひきはなす最良の手段だろう。わたしは少し前に、「なぜなぜ分析」の誤った使い方を批判した。だがわたし達は、本当は品質不良問題などではなく、本来の仕事、標準の仕事についてこそ、『なぜ』を繰り返し問わねばならない。それで会社全体の病状が治るとは、言わない。それは、自分たちを少しでも正気に保つために必要なのである。 <関連エントリ> →「決めない人々」 (2009-12-06) →「なぜなぜ分析は、危険だ」 (2014-04-26)
by Tomoichi_Sato
| 2014-05-11 14:04
| ビジネス
|
Comments(1)
Commented
by
sudoku smith
at 2014-05-13 23:06
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非常に面白い話ですが、昨今よくありがちなISOやTSなどの外部ルールの適用を振りかざす顧客はどう思われますか?
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