Otaku ワールドへようこそ![295]統合情報理論―意識は、見た目の機能より、中身の仕組みに宿る(前編)
── GrowHair ──

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『シンギュラリティサロン #31』聴講レポート

名称: シンギュラリティサロン #31
日時: 2018年9月15日(土)1:30pm ~ 4:00pm
場所: グランフロント大阪・ナレッジサロン・プレゼンラウンジ
主催: シンギュラリティサロン
共催: 株式会社ブロードバンドタワー 一般社団法人ナレッジキャピタル
講師:大泉匡史氏(株式会社アラヤ マネージャー)
演題:『意識の統合情報理論から意識の理論の創り方を考える』

講演概要:

意識の統合情報理論(IIT)とは、意識の量(意識レベル)と意識の質(クオリア)を、ネットワークの中の情報と統合という観点から、数学的に定量化しようとする試みである。

IITは、深い睡眠時に意識が失われるのはなぜか、視覚と聴覚のクオリアの違いは何によって決まるのか、複数の意識(例えば二人の人間の脳)の間の境界はどのように決まるのか、脳の中の意識の座はどこかといった問題に関して、統一的な説明と予測を与える。

IITはまだ発展途上の理論であり、実験的な検証が十分に成されているわけではない。しかしながら、IITを意識の理論の一つの雛形として考えることで、意識の理論とはどのように創るべきかを考えることができる。

本講演ではIITを通して、意識の数理的な理論はどう創るべきか、そしてそれをどのように検証していくべきかを議論する。また、IITが人間の意識だけでなく、他の生物の意識、そして人工知能の意識を理解する上で、どのように役に立ち得るかを議論したい。

定員:100名
入場料:無料
聴講者:小林秀章(記)
https://ss31.peatix.com/


【タイムテーブル】

13:30~15:00 大泉匡史氏(株式会社アラヤ マネージャー)講演
       『意識の統合情報理論から意識の理論の創り方を考える』
15:00~15:30 自由討論

【ケバヤシが聴講する狙い】──後編に送ります。





【内容】

□松田氏よりイントロ

ここ何回か、シンギュラリティサロンでは、意識の研究をされている方々をお呼びした。前野隆司氏(慶応義塾大学)、金井良太氏(株式会社アラヤ)、津田一郎氏(中部大学)、渡辺正峰氏(東京大学)と来て、今回、大泉匡史氏(株式会社アラヤ)にお越しいただいた。

津田氏、渡辺氏のお二方と金井氏、大泉氏のお二方との間でひとつの対立軸があるようにみえ、それが、今回のテーマになっている「意識の統合情報理論」をめぐってである。

別の回にあらためて渡辺氏と大泉氏をお呼びし、「意識をめぐる大冒険」と称して議論していただくことを計画している。

統合情報理論について、名前はよく聞くけれども、奥深い数学についてはまだ十分理解が及んではなく、今日の話を楽しみにしています。

□まるでトンデモ系のように批判されがちだけど……

大泉氏、登壇。統合情報理論(※)を研究してきているが、この理論はあまり理解されてなく、しかし、理解されないまま批判だけされるという、おもしろい(意訳:おもしろくない)状況になっている。

※ 統合情報理論(Integrated Information Theory)はジュリオ・トノーニ(Giulio Tononi)氏が2004年に提唱した意識に関する仮説。以下、IITと略記。

あたかも突拍子もないことを言っているかのように、よく怒りを込めて批判されるが、よくよく解きほぐしてみれば、変なことは言っていないと思っている。

もちろん、不十分な点や改善すべき点は多々あり、そこについて批判を受けるのはいいのだけれど、たいていの場合は印象だけで「それはけしからん」みたいな話になる。気持ちを穏やかにして聞いていただければ、そんなに変なことを言っていないと納得していただけるのではないか。

IITの理論構築の拠りどころは、自分自身の意識にある。他人の意識は分からない(※)。

※(筆者注)われわれが生活する日常の場面においては、お茶を飲みながら世間話をしている相手にも、意識が宿っていることは自明のことのように仮定されている。しかし、もし仮に、その相手がほんとうは意識を宿してなく、組み込まれたプログラムにしたがって機械的に応答しているだけであって、プログラムの出来がよいために意識を宿しているフリが上手いだけだった場合、それを見破る手段がないという問題がある。つまり、いわゆる「哲学的ゾンビ」は見破れないという問題。

ましてや、人工知能の意識はますます分からない。確かなのは自分自身の意識だけ。なので、IITは基本的に人間の意識に関する理論である。しかし、一般性があるので、その理論が正しいとする仮定の上でなら、例えば動物はどうなっているかとか、人工知能の意識はどうか、といった方向へ敷衍して考えることが可能である。

スライド資料の表題として『意識の統合情報理論から意識の理論の創り方を考える ~人工知能の意識編~』を掲げている。

シンギュラリティサロンを聴講する方々は、人工知能に興味をお持ちであろうから、IITが一般的な作りになっていることを利用して、人工知能の意識を評価することについて考えてみる、というのをサブテーマとして掲げている。

メインテーマとしては、意識の理論とはどういうものであるべきか、というのを考えていきたい。つまり、IITは、物理学における相対性理論などとは異なり、まだ確立されたものではなく、今後どんどん改善していくべきものである。なので、これを叩き台に、じゃあ、いったいどういうふうにすればいいのか、ということを考えていきたい。

理論としてはまだ赤ん坊なので、赤ん坊を狙撃するようなことは、ぜひやめていただきたい。発展させることのほうが重要です。

□自己紹介

ここで意識の話をすると言うと、すごく意識大好きな人なんだという印象を受けられるかもしれないが、もともとはそうでもなかった。

物理学をやっていこうと思って、大学は物理学科にいた。しかし、限界を感じ、大学院では脳科学・神経科学の領域に行った。興味の指向は実験よりも理論に向いていて、数理に基づいて脳を解き明かしたいというのが第一の目標。その道具が統計物理だった。それと、情報理論。

大学院を卒業してポスドクになって初めて、意識の研究に触れるようになった。ジュリオ・トノーニ氏(ウィスコンシン大学)と土谷尚嗣氏(モナシュ大学)から影響を受けた。

トノーニ氏はIITを作った人。土谷氏は、クリストフ・コッホ氏(カリフォルニア工科大学)のところの大学院生だった。『意識の探求』を和訳した。

 クリストフ・コッホ(著)、土谷尚嗣(翻訳)、金井良太(翻訳)
 『意識の探求─神経科学からのアプローチ』
 岩波書店(2006/6/28)
 https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000050532/dgcrcom-22/


IITの数理的なところがおもしろいな、と思ったのが意識研究に入門したきっかけ。どうしても意識をやりたいわけではなかった。

ウィスコンシン大学に2年間留学し、数理だけでなく、意識そのものについて考えざるを得ない状況に置かれた。もともとは数理のおもしろさに惹かれていたけれど、後から、意識もおもしろいと思うようになった。

今は、金井氏の設立した株式会社アラヤで、意識の基礎研究をやっている。IITの理論を実験的に検証するというのが、重要なテーマになっている。

□人工知能に「意識」はあるか

まず、テーマとして人工知能を取り上げ、話の軸にしたい。

Apple Siriがしゃべったり、IBM Watsonがクイズに答えたり、Google Alpha Goが囲碁で人間のチャンピオンを負かしたりするようになって、人工知能の能力は、部分的には人間を凌駕するようになってきた。

今現在の人工知能が、すでに意識を宿していると思う人はあまりいないかもしれないが、この調子で今後もどんどん機能を足していけば、その延長線上で、いつか意識が芽生えてくるかもしれないと考えるのは、一見もっともなようにみえる。

じゃあ、何を足していけばいいのか? 自己認識か? 感情か? 身体か?機能を足していって、最終的にドラえもんみたいなロボットが出来てきたら、さすがに意識が宿っていると思っていいのではないか。

しかし、IITの示唆するところによれば、そういうことではない。意識とは、システムが外部に提供する機能が高度化することによって宿るものではない。機能をいくら足していっても、そこに意識が芽生えるかどうかはまったく別問題である。

睡眠中に夢をみている人には意識があるけれども、そのときその人は外部に対して何か高度な機能を果たしているわけではない。意識は機能の積み上げの末に立ち現れてくるものではない。

人工知能は人間が使う道具なので、人間にとって役に立てばよいという観点で評価される。会話ができるとか。クイズが解けるとか。機能が大事で、中身はどうなっていてもよい。

しかし、意識を考えるとき、何ができるかは関係なく、どうやって実現しているかが大事になってくる。仮にふたつのシステムがあり、外部に提供する機能が同一だったとしても、その機能をどうやって実現しているか、その中身の仕組みが異なっていれば、意識のあり方としても、異なったものになりうる。

外から見える機能ではなく、中身が大事なので、それを解き明かすべし。
これが、今日の結論。最初に言っておく。

□たぶん、発想の転換が必要

ここから、意識の定義、意識のハードプロブレム、IITの中身、と話が続いていくが、この手の話は難解すぎてまったく理解できなかったという嘆きをよく聞く。

IITの中身まで立ち入って、数式がわらわら出てくれば、たしかにそれなりに難解ではあるけれど、そこは別として、意識のハードプロブレムとは何かを概念的に理解するのは、筆者の感覚では、ぜんぜん難しくない。ただ、ちょっとした発想の転換が必要なのだと考える。そこについて話を差し挟んでおきたいと思う。

野球の外野手が、バッターが高々と打ち上げたフライを捕球せんと、落下点まで走っていって、グラブを構えているとしよう。外野手は自分に向かって弧を描いて落下してくるボールを見ているわけだが、ここでふと疑問が湧く。

いま、自分の目にはボールが自分に向かって落下してきているように見えているが、そのボールは見えているとおりにほんとうに実在しているだろうか。野球の試合の真っ最中に、そんな哲学的瞑想に耽っていたら、おそらく落球するであろう。

我々は、見た目と実体とを瞬時に直結して捉えるよう、トレーニングされすぎている。ものがそこにあるのがまさに見えているし、なんなら触ってみればたしかに感触がするのだから、そこにあるに決まっているじゃないか、と。

身に染みついたこの思考の癖をいったんほどき、見た目と実体とを切り離して考える発想に至りさえすれば、見通しが急に明るくなるのだと思う。

そこにものがあるように見えるているのは、自分の内部で起きている現象であり、そこにほんとうに実体が存在するのは、自分の外部がそうなっているという状態である。前者が主観で、後者が客観である。で、この主観こそが、まさに意識そのものである。

我々が見たり触れたりすることによって感じ取ったとおりに、外部にものが実在していると直結的に信じる態度を哲学では「素朴実在論(naive realism)」と呼ぶ。素朴実在論はとっくの昔に否定されており、いまだにこれを自明なことのように信じている人は、そうとう馬鹿にされる。

ここを分けて考えることができるようになることが、ほぼ出発点みたいなものなのだ。しかし、主観的認識と客観的実在との分離をいちいち疑い始めると、実生活上の思考や行動が著しくもたつく。

生物学的な生存確率最大化の原則からすると、このもたつきは、あまりいいことではないのかもしれない。お薦めしないほうがいいのか。野球は下手になるかもしれないが、しかし、意識の問題は理解しやすくなると思う。

□意識とは何か

これが意識だとする学術的な定義はまだなく、そこが弱点と言えば弱点だ。直感的な表現で言えば、意識とは「主観的体験」のことである。

体感的に理解するには、主観的認識と客観的実在とが一致しない例を持ち出してくるのが手っ取り早い。錯視がその一例である。渡辺正峰氏は「両眼視野闘争」を取り上げていた。

大泉氏が取り上げたのは、2001年の「Nature」誌に掲載されたBoneeh氏らによるものだ。黄色く塗りつぶされた小さな円が3つ、正三角形状に配置されている。背景には、青色の細かいドットがランダムに配置されている。人は、正三角形の真ん中を注視する。

背景の青いランダムドットをゆっくりした一定速度で回転させると、黄色い粒が時おり消滅する。実際には、常に表示されている。この錯視は、片目でも起きる。

どの粒がどのタイミングで消滅するかは、見ている人によって異なる。今現在どういうふうに見えているかは、その人その人の個人的な主観体験なのである。主観体験は脳内の電気信号にすぎない。

ものがこういうふうに見えているというのが視覚のクオリアであり、同様に聴覚のクオリアや触覚のクオリアがある。クオリアがあることをもって、意識があるという。夢をみている状態において、実体は何も存在しないけど、クオリアはあり、意識があると言える。

意識には質的側面と量的側面とがある。赤の赤らしさ、納豆のにおい、ヴァイオリンの音など、クオリアがまさに質である。覚醒時は意識レベルが高く、睡眠時は低いというのが、量である。

□意識のハードプロブレム

脳がどのようにして異なる色を異なる色として区別できるのか、そのメカニズムを物理的に説明することは可能である。色の違いは電磁波(つまりは光)の波長の違いである。網膜の少し奥にある錐体細胞には3種類あって、それぞれ異なる波長に反応して電気信号に変換し、うんぬん。

そのように説明づけたとしても、しかし、われわれが、赤い色をこのような赤として脳内でありありと再生している現象については、何ら説明づけられていない。ここに、説明のギャップがある。

つまり、クオリアがいかなるメカニズムによって生じるのか、そこが説明できないのである。これを「意識のハードプロブレム」という。

大泉氏によれば、「ハードプロブレム」は「むずかしい問題」ではなく「解けない問題」、つまり、原理的に解くことが不可能な問題なので、さっさとあきらめるのがいいらしい。

しかし、意識を科学の研究対象とすることを丸ごとあきらめる必要はなく、科学の側からやれることは多々ある。

□外から意識を定量化することはできるか

意識は、中からと外からとの二つの捉え方がある。
(1)第一人称の意識:当人の主観的な観点から意識があるかどうか
(2)第三人称の意識:第三者から見て意識があるかどうか

後者の観点から意識があるか否かを評価しようとすると、人間らしい知性・振る舞い・見た目があるかどうかに頼らざるを得ない。しかし、この評価方法には限界がある。意識がないようにみえて実はあるケースとその逆とがある。

前者の例として、植物状態の人間のうちの一部は、外部からの呼びかけに応じて脳が健常者と同様な発火パターンを示すため、意識があるらしいことが分かってきた。

後者は、思考実験だが「中国語の部屋」がある。内部では辞書を引いて答えを返しているだけだが、外からみると質問をちゃんと理解しているようにみえる。

意識は外からの見た目では判定できないという反省に基づいて、脳そのものを見ないと、という動きになり、1990年ごろから、意識と関係する脳活動の同定が始まった。

渡辺氏の講演に出てきた「意識に相関した脳活動(neural correlates of consciousness)」である。渡辺氏がよくドイツへ会いに行っているニコス・ロゴセシス氏の得意分野である。

しかし、脳のはたらきをどんなにつぶさに調べてみても、そこで起きていることは計算でしかなく、何が意識の生成に本質的なのかがちっともみえてこなかった。新しい発想が必要だ。理論のガイドをもって実験を解釈するほうがいい。

□意識の理論の創り方

意識の理論をつくろうとするならば、次のようなステップを踏むことが必要だろう。

Step 0:解こうとする対象としての問題を明記する = 理論の守備範囲
Step 1:現象論から意識の性質を明記する = 意識の定義
Step 2:意識の性質から導かれる仮説を数学で記述する= 仮説を検証可能なものにする
Step 3:実験によって仮説を検証する
Step 4:人間以外の意識の評価にも展開できる可能性がある

Step 0では、まず、何を解こうとしているのかを明記する。これが非常に大事で、これによって、理論の守備範囲を明確化している。

理論を提示する側とされる側との間の、期待の齟齬を事前回避している。もしこのステップを省略すると、IITはメイドロボットの創り方について、何らかの方法論を提示してくれるのではなかろうかと、期待して読んだ人が仮にいたとすれば、最後まで読んだ末に答えがどこにも書いていなかったと知って、がっかりするであろう。そんなミスコミュニケーションによってIITが批判を受けたのでは、たまらない。

Step 1は、自分の意識を観察することによって、意識に本質的な性質を同定しようとする作業である。このステップがなぜ大事かというと、理論からみた意識の定義に相当するから。

意識とは何かというと、いろんな人がいろんなことを言うもんだから、何について話しているのかの認識に食い違いが生じ、議論が噛み合わなくなる。それではマズい。

この理論が考える意識とはこれこれです、と定義づけしているのが Step 1である。

Step 2では、Step 1の結果として得られた意識の性質を満たすためには、物理系がどんな条件を満たすべきかを導き出し、それを仮説として列挙する。

仮説は、数学的に記述する。言葉で書いてあるだけだと、意味が多義的になるため、よくない。数学で書いて、一義に定めることが重要。これによって初めて、仮説が、検証可能なものになる。

Step 3では、仮説を実験的に検証する。仮説がある程度確からしいとなってきたら、Step 4では、仮説に基づいて、動物や人工知能など、人間以外の意識を確かめることに展開できる。

□統合情報理論(IIT)の概要

IIT は、トノーニ氏(ウィスコンシン大学)によって提唱された、意識に関する仮説。2004年に最初の論文が出た。以降、発展していて、今も途上にある。理論の本質はあまり変わっていないが、中身が変わっている。

2014年に発表した論文で、最新バージョンであるIIT 3.0を提唱しており、大泉氏が関わっている。日本語でも解説を書いている。

IITを一言で言うと、意識を情報という観点から数学的に定量化しようとする試みである。前段で述べた「意識の理論の創り方」に沿ってIITを見ていくと、以下のようになる。

Step 0:解こうとする対象としての問題を明記

IIT におけるStep 0:
(1)意識の量的側面(意識レベル)
(2)意識の質的側面
(3)意識の境界

これを解こうとしている。逆に言えば、これ以外は解こうとしていない。これ以外のことを気にしている人は、この理論は役に立たない。

IITは、「意識のハードプロブレム」を解こうとする理論ではない。意識のハードプロブレムは、脳の電気信号の物理作用からどうやって主観世界が立ち現れるのかを問い、そのメカニズムの説明を要求している。しかし、それはできないと割り切り、IITはそれをやろうとしていない。

IITは逆をやっている。逆とは何かというと、主観世界としての意識がそこにあることをまず認めましょうというほうを出発点にする。なぜかは分からないけど、とにかく、あるのだとする。哲学で言うところの、フッサールの現象学をまじめに取扱いましょうということだ。

意識の存在を先に認めた上で、それをよくよく観察しましょう。そこから、意識の性質を抽出しましょう。その性質が生じるためには、物理的実体として、どういう条件が必要になってくるかを導き出しましょう。この順番になっています。

つまり、意識のハードプロブレムは、物理的実体から、主観的体験がいかにして生じるのかを問うのに対して、IITは主観的体験はすでに存在するものと認めた上で、そのためには物理的実体がどうあるべきかを問うので、方向が逆というわけである。

Step 1:現象論から意識の性質を明記する

IITにおけるStep 1:
(1)情報
(2)統合
(3)排他
(4)構造

(1)情報

一瞬一瞬の意識は非常に多くの情報を含んでいる。ある特定の意識が生じたときに、実は他の可能性もあったかもしれない。我々は、いろんな意識を体験する可能性がある中で、多くの可能性からひとつを選んでいる。

(2)意識は常に統合されている

視覚クオリアを例にとると、左視野だけを意識してください、と言われても、できない。統合された全体としてしか対象を意識できない。りんごを見たとき、形と色を切り離して見ることはできない。

(3)排他

大きな意識の中に小さな意識が、入れ子になって存在することはできない。可能性としては入れ子になっていてもおかしくはないけれど、実際にはそういうことは起きない。

右脳と左脳それぞれに独立して意識が宿り、なおかつ、脳全体でひとつに統合された意識も宿るということが、可能性としてはありうるけれども、実際には起きない。ひとつになっているときは、部分部分が排他されている。

一方、あなたと私は、それぞれ独立した意識をもつけれども、その上で、二人が統合されてひとつの意識が生じているということが、可能性としてはありうる。しかし、実際には起きない。バラになっているときは、全体が排他されている。

(4)構造

意識には構造がある。

Step 2:意識の性質から導かれる仮説を数学で記述する

IITにおけるStep 2:

Step 1で提示した性質を満たす条件としての仮説は、意識を宿す物理的基盤に
おいて、
(1)意識を生み出すためには、情報を生み出すことが必要
(2)意識を生み出すためには、情報の統合が必要
(3)統合情報量(Φ)が局所的に最大になる部分系(コンプレックス)のみが意識を生み出しうる
(4)ネットワーク構造が意識の質に対応する

(1)意識を生み出すためには、情報を生み出すことが必要

明るいか暗いかに応じて、電気信号を出したり出さなかったりするフォトダイオードは確かに情報を生じさせている。しかし、生み出す情報は、きわめて小さい。

(2)意識を生み出すためには、情報の統合が必要

フォトダイオードを縦横に配列したデジタルカメラは、すごい量の情報を生成するので、いろんなものを弁別できそう。じゃあ、デジカメは自分が見ているものを意識できているか。できてないだろう。なぜかと言うと、デジカメの中ではそれぞれのフォトダイオードが独立に情報を出力しているだけであって、情報を統合する仕組みが実装されていないので。

(3)統合情報量(Φ)が局所的に最大になる部分系(コンプレックス)のみが意識を生み出しうる

実際には、いろんな領域で統合情報量が発生している。脳内でも、局所的には視覚野だけでも統合情報量が正の値をもつ。脳全体でも然り。しかし、実際には、NCCと呼ばれる部分領域に意識は宿る。

二人の脳を包含する領域にも統合情報量が発生している。しかし、実際には、二人を合わせたひとつの意識というのは生じない。

あらゆる局所領域の中でも、Φの値がいちばん大きいところにのみ、意識が宿っているらしい。

「分離脳」と呼ばれる症例がある。てんかんの治療として、脳梁を切断し、左脳と右脳との間の情報の連絡を遮断すると、とんでもない副作用が起きる。左脳と右脳それぞれに別個の意識が宿り、一人が二人になってしまう。左手が服のボタンをかけていく端から、右手がはずしていくとか。

逆に言えば、左脳と右脳、片方ずつでもそれぞれ意識を宿しうるのに、それらを脳梁で接続したとたんに、意識はひとつに統合され、それぞれの意識は消滅してしまう。このこと自体が非常に不思議である。

二人の脳間を太い電線でつなぐことによって、一人一人のΦよりも全体のΦのほうが大きくなれば、二人の意識が統合されて、一人になっちゃう可能性がある。実際になりましたという報告はまだないけど。

(4)ネットワーク構造が意識の質に対応する

視覚クオリアか聴覚クオリアかといった、意識の種類の差異に対応する、情報の構造の差異がなくてはならない。情報の構造をどう定量化するか、ここでは割愛する。

Step 3:実験によって仮説を検証する

Step 4に進む前に確立しておかなくてはならない、重要なステップである。仮説自体を実験的に検証しておいて、ある程度確からしいということになっていないと、そこを飛ばして先へ進んでも、批判に耐えきれない。これをいちばん重視している。いろいろやってはいる。

Step 4:人間以外の意識の評価にも展開できる可能性がある

重要なのは、仮説に情報しか出て来ない点にある。つまり、情報が本質なのであって、情報を媒介するネットワークが何でできているかについては、何も規定していない。言い換えれば、脳に限った話だとは言っていない。その意味で一般性がある。IITを人工知能についても適用して、同じように議論することができる。

ただし、Step 3が確立していない現時点において、Step 4のことを言うのは性急に過ぎると言える。

IITまとめ。IITでは、自分自身の意識への観察から、まず意識に本質的な性質を同定した(Step 1)。これが、IITの考える意識の定義に相当する。その性質は、情報、統合、排他、構造。

そこから仮説を導き出す。IITの言う意識の本質的な性質を満たすために、物理系が満たすべき条件を仮説として提唱。その仮説は、
(1)意識を生み出すためには、情報を生み出すことが必要
(2)意識を生み出すためには、情報の統合が必要
(3)統合情報量(Φ)が局所的に最大になる部分系(コンプレックス)のみが意識を生み出しうる
(4)ネットワーク構造が意識の質に対応する

IITでは意識の本質は情報にあると言っていて、情報を媒介するネットワークの媒質については、何も規定していないので、人工知能の意識を議論することにも適用可能である。ただし、その前に、理論を実験的に検証しておく必要がある。

IITでは、どのステップもまだちゃんとできていない。理論として、まだ赤ん坊だけど、しかし、指針になるとは思っている。

□AIの意識を論じる上で重要なのは中身

AIにおいて、それがどんな機能を提供するかはもちろん大事だが、たいていの場合、そっちばかりが重視され、中身の話が置き去りにされる。しかし、AIに意識が宿りうるかどうかを議論する上で重要なのは、機能よりも中身である。

機能はまったく一緒だけど、構造が違う2種類のネットワークを例にとる。外から見る限りにおいては、中身はブラックボックスで、入力と出力だけが観察しうる対象となる。

左と右とは、入力と出力との関係が、まったく同一である。その意味おいて、外に提供する機能としては、同一であると言える。外から眺める限りにおいて、区別がつかない。

しかし、ブラックボックスのふたを開けてみれば、中のネットワークの構造が異なる。右側の例では、情報の流れが入力から出力へ向かう「フィードフォワード」の一方向しかなく、統合情報量Φの値はゼロである。一方、左側の例では、フィードバックがあり、Φの値は0.39である。

これが示唆するのは、外からの見た目の機能は同一でも、中身の構造が異なれば、一方には意識があって、他方にはないということがありうるということである。哲学的ゾンビは見破れない、ということに相当する。

「中国語の部屋」において、辞書引いてるだけの機構には情報の流れにフィードフォワード方向しかなく、情報の統合も構造もない。つまり、IITによれば、意識が宿っていないことになる。

ブラックボックスのふたを開けて、中身がどうなっているか、情報の構造を見ることが、意識の理解に重要。

IITは意識を宿す媒質を規定しない、一般性のある理論なので、これを適用して、情報という観点から、人間の意識、寝ている人の意識、赤ん坊の意識、猫の意識、ロボットの意識を同じように評価することができるようになる可能性がある。

【所感】後編に送ります。

【GrowHair】[email protected]
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この欄にもいろいろ書いたけど、長くなったので、やはり後編に送ります。