こんにちわん、コロこと川合です。新年あけましておめでとうございますっ!って、もう18日ですけどね。まあ今年もよろしくお願いします。
新年と言えば、ついに大河『真田丸』が始まりましたね! 年末のまにころで、正直ちょっと不安と書いたのですが、1話2話を見た感じでは、超面白いです!
真田昌幸役の草刈正雄がいい味出してますね〜。素晴らしい。堺雅人もなんかちゃんと「青年」に見えます。15歳なんですけどね、42歳が頑張ってる。(笑)大泉洋も真面目な兄・信幸をしっかり演じてる。16歳を42歳が。実際知らずに見ていれば、なんの違和感もありません。若者二人です。
早速滅びてしまいましたが、平岳大の武田勝頼も良かった!
今回は江戸時代から離れ、改めてまた真田について書こうと思います。
◎──『真田丸』開始時点の時代(月日は基本、旧暦です)
真田氏は昌幸を当主に、武田家に仕えています。重臣ですが、比較的、新参。
天正10年(1582年)初頭、武田勢が織田勢に攻められているあたりから物語は始まります。武田の当主は勝頼です。前年に本拠を新府城(山梨県韮崎市)へ移したてほやほやですが、未完で守り切れずに新府城を捨てる話が1話です。
武田は天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れてボロボロ。隣接する上杉(越後)、後北条(相模)とは外交で関係改善を図るもなかなか上手くいかず。織田とも関係改善を図るものの、やはり上手くいかず。織田の調略をうけて身内さえも寝返る始末。
天正10年(1582年)2月、落ち込む平岳大・勝頼に、草刈正雄・昌幸が「富士や浅間の山が火でも吹かん限り、武田の家は安泰にございます」てなことを言うものの、直後、織田が侵攻を開始した日に浅間山が噴火……3月、新府城をあきらめて、火を放ち、逃亡することに。
真田昌幸が甲斐国を捨てて真田の岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻)へ逃げようと進言し、迎える準備をしたのに、譜代家老の小山田信茂の横やりで一転、勝頼は信茂の居城である岩殿城(山梨県大月市)へ。ところが小山田信茂は既に織田へ寝返る心づもりで、勝頼を道中で追い返し、落ち行く先で勝頼は自刃。
武田の滅亡をうけて、真田は身の振り方を考える必要に迫られます。真田単体ではとてもじゃないですが織田には対抗できませんので、上杉につくか、北条につくか。悩んだ末、昌幸は織田につこうと決心します。このあたりが2話。
繰り返しますが、天正10年(1582年)3月の話です。
同年6月2日、大事件が起こりますね。本能寺の変です。織田につくなり、信長が消えます。
◎──ちょっと先取り
本能寺の変を受け、甲斐・信濃の旧武田領も大混乱に陥ります。一帯を預かっていた信長の家臣は続々と離脱し各地へ。旧武田領は空白地帯のようになったんですね。そこを徳川家康、上杉景勝、北条氏直、武田遺臣たちが狙いました。
河尻秀隆は甲斐に留まったのですが、家康は他所へ行かせようと画策します。秀隆は使者を切ってそれを突っぱねました。しかし秀隆は結局、武田遺臣たち甲斐国人衆の一揆勢に惨殺されます。
これらのゴタゴタの中、真田昌幸は武田遺臣の取り込みに動きます。取り込みつつ、各勢力の間を上手に渡り歩きます。
一応、織田方であった昌幸は、北条氏直の侵攻を受けて落ち延びる滝川一益を逃がし、その結果空いた地域を切り取りにかかります。一方で、進軍してきた上杉景勝に臣従しますが、7月には北条氏直に降ります。そして、北条勢として上杉を退けますが、9月、北条を捨てて徳川家康につきます。
ところが10月、家康が北条と同盟を結ぶことを選び、昌幸が切り取った沼田を北条に譲ると言いだしました。自力で得た領地を勝手に譲ると言われて、昌幸はブチ切れました。
天正11年(1583年)、昌幸は上田城(長野県上田市)の築城に着手しつつ沼田(群馬県沼田市)を巡って北条氏と対立。天正13年(1585年)には家康が甲斐へ着陣し、沼田を北条に渡せと迫るも、昌幸は拒否。昌幸は徳川・北条連合と決別して、敵対していた上杉景勝につくことにします。その際、次男の信繁を上杉に人質として送りました。
離反を知った家康は、8月、真田討伐の兵を興します。これが、以前にもご紹介した第一次上田合戦です。押し寄せる徳川7000人の軍勢を、1200〜2000人で撃退します。この時、徳川の被害は1200〜1300、真田は40〜70。真田は声望を高め、名実共に独立を果たしました。
出来事が同時進行で起こっているのでややこしいのですが、上田合戦の前年、天正12年(1584年)3月には、小牧・長久手の戦いが起こっています。織田信雄についた家康と秀吉の戦いです。詳細は割愛しますが、講和を経て、秀吉の世へと移っていきます。戦い自体は家康が圧倒していたんですけどね。
上杉も秀吉の傘下に入ったので、天正13年(1585年)冬、信繁は秀吉の元へ。真田も秀吉傘下に。天正14年(1586年)8月、秀吉の調停で家康は真田から手を引き、天正17年(1589年)には和睦、真田は秀吉の命で徳川の与力大名に。
上田合戦を通じて、真田昌幸の長男・信幸を高く評価した家康は、重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女として、信幸に嫁がせました。時期は分かりませんが、信繁は秀吉家臣の大谷吉継の娘(姪とも)を正室に迎えています。
後々に、関ヶ原や大坂の陣で兄弟が敵味方に分かれる布石は、既にこの頃には打たれていたんですね。敵味方に分かれたと言っても、兄弟仲に問題があったわけではなく、それぞれが義理を果たした結果です。
◎──源三郎と源次郎
『真田丸』で、兄・信幸は源三郎、信繁は源次郎と呼ばれています。なぜ兄が「三」で弟が「二」なのかということについて作中では、真田家は長男が早逝するから長男らしくない名前ということで「源三郎」とつけたと語られます。弟が源次郎なのは、特に理由なく、と。
名前の話には諸説あって、実際は信繁が兄だが二人は異母兄弟で、信幸の母のほうが身分が高く、入れ替えられたというような説もあります。
ただ、父・昌幸は、真田幸隆の三男なのに源五郎、四男の真田信尹は源次郎。長男の信綱は源太、次男の昌輝は徳次郎。当の幸隆は次郎三郎、さらに通称は源太左衛門というので、もうなにが何やら。当時の命名感覚は不明です。
◎──すごいのは父・昌幸?
だーっと真田にまつわる話を書いてきましたが、活躍の中心は信繁の父・昌幸です。信繁はまだまだ若い時代の話ですが、この期間の昌幸の活躍っぷりは、神がかっています。
武田家に仕えて、真田の礎を築いた真田幸隆が亡くなり、二人の兄を長篠の戦いで失って家督を継いだ昌幸は、武田家滅亡の難局を乗り越え、真田を独り立ちさせました。
関ヶ原の戦い直前、第二次上田合戦で徳川の主力を上田に釘付けにしたのも、昌幸です。信繁も父の元で奮戦していますけれど。
大河の主役であり、現代最も名高い「真田幸村」こと信繁がメインで活躍するのは、昌幸没後の大坂の陣くらいなんですよね。
大坂の陣に際し「真田が蟄居先の九度山を抜けて大阪城に入った」と聞いた家康が、「昌幸やっぱり死んでなかったの!?」と震えたって逸話が残ってるほど、昌幸はすごかった。後で「なんだ、息子の信繁かー」って安堵したそうで。
まあその信繁が、大坂冬の陣では真田丸を築いて、押し寄せる徳川勢を散々に蹴散らし、大坂夏の陣では本陣に切り込んで、家康が死を覚悟するほどまでに追い詰めたと言われているので、親子共々すごかったんでしょうけど、昌幸はもっともっと評価されてもいいんじゃないかと思います。
今回の大河できっと、昌幸の認知度も高まるはずと期待しています。草刈正雄、かっこいいし!
きっちり「真田家」を守り抜いた信幸(信之)もえらいですけどね。
◎──さて、次回は
時代がいったりきたりですいません。『真田丸』が面白くて、今後への期待を込めて、つい。次回はまた江戸時代に戻ります。幕末までまだしばらくかかるのに、『花燃ゆ』終わっちゃった。(笑)
【川合和史@コロ。】[email protected]
合同会社かぷっと代表
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・イベント紹介(大阪)
もう今週ですけど、21日(木)、大阪デジタルコンテンツビジネス創出協議会の10周年記念イベントとして、講演会と交流会を開催します。
https://www.facebook.com/events/1171486156199326/
日時:2016年1月21日(木)16:30〜20:30
会場:ホテル プリムローズ大阪
会費:4,000円(領収書発行)※交流会費込み
講演:神尾寿氏(ITジャーナリスト/コンサルタント)
「ITビジネス最前線。『スマートフォン普及後』の成長分野・注目市場はどこか?
谷直樹氏(株式会社NTTドコモ IoTビジネス部 部長)
「IoTの拡大による新たなビジネス協創と今後の期待」
申込:https://dcc-net.biz/form/fms/a8b5389a64