映画と夜と音楽と...[470]拝啓、若き理想に燃えたエリア・カザン様
── 十河 進 ──

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〈紳士協定/ブルックリン横丁/ピンキー/白いカラス〉

●自己弁護さえもきちんとなされていない中途半端な自伝

どこで眠るっているのかは知りませんが、墓の下のエリア・カザン様。以前に「友を売る」というタイトルのコラム(「映画がなければ生きていけない」第2巻73頁参照)であなたのことを書きました。1999年3月、アカデミー賞名誉賞を受賞したあなたに対し、客席の多くの人はブーイングで迎えました。いつもの名誉賞なら全員が立ち上がり、スタンディング・オベイションで迎えるところです。

ウォーレン・ベイテイ夫妻は立ち上がって拍手していました。当たり前です。彼は「草原の輝き」(1961年)というあなたの作品でスターになった人ですから。僕はエド・ハリスとエイミー・マディガン夫妻が立ち上がらず、抗議の姿勢を見せたことに共感しました。彼らの姿勢に好感を持ったのです。そのシーンを見ながら、あなたの不幸な(あなたが、そう思っていたかどうかはわかりません)人生を、僕の拙い文章で振り返ってみたくなったのです。

そう、僕もあなたが1952年にとった行動を認めていません。しかし、アカデミー賞名誉賞受賞後、4年経ってあなたは亡くなりました。1909年生まれのあなたは、94年の人生をまっとうしたわけです。そう言えば、アカデミー賞の舞台に登場したとき、あなたは足下もおぼつかない感じでしたね。そんなあなたに、僕を含めた世界中の人間の半分は冷たい視線を向けたのです。



僕は、朝日新聞社から出た長大な「エリア・カザン自伝」上下巻を読みました。それは、あなたが1952年に行った行為をどう書いているか、知りたかったからです。しかし、あなたはそのことについて、ほとんど何も書いていないという印象でした。結局、わかる人にはわかってもらえるという態度なんでしょうか。あなたは「私は、今、自分の人生に満足している」という、何だか負け惜しみのような言葉で自伝を閉じました。

僕は、別にあなたの下半身遍歴を知りたくて自伝を読んだわけではありません。あなたがマリリン・モンローと寝ていようが、エヴァ・ガードナーと寝ていようが、そんなことはどうでもよかったのです。あなたが、なぜあんなことをしたのか、そのことの本当の理由を知りたかった。その興味だけで、あの400字詰め原稿用紙で何千枚もある自伝を読んだのです。

あなたは舞台の演出家で名をあげ、ハリウッドに招かれました。「アレンジメント」(1969年)が僕が初めて見たあなたの映画でしたが、それより以前に僕は早川書房から出たハードカバーの小説版を読んでいたのです。だから、僕はあなたを小説家として認識していました。その割には、あなたは自伝において充分に、正直に、書いてはいない。自己弁護さえもきちんとなされていない、中途半端な自伝でした。どんなに愚かで卑劣な行為をしたにしても、そのことを真摯に書いていれば、僕は感動したはずです。

もちろん、ジェームス・ディーンの魅力にあふれた、あなたの代表作「エデンの東」(1954年)は好きです。その他にもマーロン・ブランドを有名にした「波止場」(1954年)は、評価の高い作品です。しかし、「波止場」は僕にはあんなことをした後のあなたの言い訳にしか見えませんでした。港湾労働者を救うはずのユニオンの腐敗を糾弾する映画の中で、あなたは露骨に己の行為を正当化しようとしていました。

あなたの裏切りによって、あなたが権力者たちに友を売ることによって、あなたの友人たちは職を奪われ、生活を破壊され、人生を狂わされました。あなたは積極的に「赤」と呼ばれる友人たちの名を明らかにし、自分だけが逃げたのです。あなたは新聞に「私は共産主義者ではない」という広告まで出したそうじゃありませんか。いくら「反共」という集団ヒステリーにかかっていた頃のアメリカではあっても、そこまで卑怯な振る舞いをした人はいたのでしょうか。

●あれほど繊細でやさしい作品を作れる人間が...なぜ?

先日、WOWOWで「エリア・カザン」特集が放映されました。日本未公開の作品も含まれていました。僕は、あなたのやった行為は好きにはなれませんが、あなたの作品まで見ないという偏狭な人間ではありません。それどころか、あんなに繊細でやさしい作品を作れる人間が、なぜ、あれほど恥知らずなことができたのか、そのことが不思議でなりません。

だから、僕はWOWOWで放映された作品をすべて録画しました。そして、改めて思ったのです。なぜ、これほど志の高い作品群を作った監督に、あんなことができたのだろうかと...。もちろん、あなたは苦悩した果てに、友人たちを権力に売り渡したのでしょう。裏切らざるを得なかった。そうしなければ、あなたの名声は剥奪され、仕事はなくなり、社会から葬り去られる。同情的に想像すると、僕もそう思います。

僕は、あなたがあんな行為をする以前の作品としては、「紳士協定」(1947年)しか見ていませんでした。素晴らしい映画でした。僕の大好きなグレゴリー・ペック主演です。敏腕ジャーナリストが自分をユダヤ人と偽って生活し、そのためにホテルで宿泊を断られたり、高級レストランでの食事を断られたり、子供がいじめられたりします。そのことを記事に仕上げるのですが、その取材中に彼は何かに目覚めるのです。

偏見を持つ人間の心の醜さ...、そのことを明確にあの映画は伝えてきます。立派な映画であり、充実したエンタテインメントでした。「仔鹿物語」(1947年)「ローマの休日」(1953年)「大いなる西部」(1958年)「アラバマ物語」(1962年)と共に、僕はグレゴリー・ペック映画のベストの5本に入れています。後世に伝えるべき映画であることは、間違いありません。

先日、WOWOWで放映された5本のうち、3本は40年代の作品でした。「ブルックリン横丁」(1945年)、「影なき殺人」(1947年)、それに名高い「ピンキー」(1949年)です。これらの作品を監督したあなたは、30代でした。「紳士協定」でアカデミー監督賞・作品賞を受賞したとき、あなたはまだ37歳か38歳だったはずです。あなたは、それから半世紀以上を生きなければなりませんでした。

30代で栄光の頂点を極めたあなたは、僕から見れば若き天才監督です。僕は還暦近くになった現在でも、未だに下積みの気分で生きています。あなたは、自分が手にした栄光、それに伴う富や名声を失うことを怖れたのでしょうか。自分が共産主義者であると糾弾され、映画界・演劇界から追放される恐怖におののいたのでしょうか。

でも、あなたとは異なる道を選んだ人たちもいました。たとえば、ジュールス・ダッシンやジョゼフ・ロージーといった人たちは、赤狩りに荒れるハリウッドを逃れてヨーロッパに渡り、その後も数々の名作を作りました。あなただって、ギリシャ系移民の子です。父祖の地に戻り、そこで自分の信念に基づく作品を作る道を選ぶことができたかもしれません。

●ブロードウェイの演出家がハリウッドに迎えられて作った注目作

あなたの最初の作品「ブルックリン横丁」を見ながら、僕は何度も頬を濡らしました。少女の視点で描かれる家族の話。少女のナレーションが耳に悲しく響きました。これは、「アラバマ物語」のように、女性作家が書いた少女時代の回想の物語なのでしょう。ブルックリンに住む貧しい一家の生活が、僕の子供時代を思い起こさせました。貧しさに関しては、僕はちょっとうるさいのです。貧しさが人を鍛え、自尊心について深く考えさせる、と僕は信じています。

愛し合って結婚した貧しい夫婦がいて、ふたりの子供がいる。子供たちはくず鉄を拾ってわずかなお金を稼ぐ。くず鉄屋のおじいさんが女の子に甘いのを知っているから、拾ったくず鉄は姉が売りにいく。そんな世慣れた知恵を持たざるを得ない環境で生きている姉弟が、それでも素直に育っているのは口やかましくも彼らに愛情を注ぐ母親がいるから...。あなたが描くニューヨーク下町の人情が、まるで僕の子供時代を描いているように見えてきました。

少女は「唄う給仕」の父親が大好きなのに、夢見がちで酒飲みの父親に対して、母親は生活力のなさを嘆きます。アパートも家賃の安い上階に移らなくてはならない。そんな中、少女は憧れの学校に通いたいと口にする。母親は少女に働きに出てもらいたいのに、父親は少女の夢を叶えてやろうとする。そんな食い違いも、彼らの愛情の発露なのだと描く、あなたの視線は本当にやさしいものでした。

少女は貧しさに負けず、立派な人間になるだろう、と僕は確信しました。実際、その原作は劇作家のベティ・スミスの自伝的な小説だそうですね。映画の中でも描かれる少女の文学的才能は、その後花開いたのだと、そのことを知って何だか誇らしい気分になりました。見終わってこんなに心が穏やかになる作品には、なかなか出会えません。

「ブルックリン横丁」は、ブロードウェイの演出家がハリウッドに招かれて作った注目作でした。30半ば、ニューヨークの演劇界で成功したあなたは、様々な思いを抱いてハリウッドに乗り込んだことでしょう。成功して当たり前、というプレッシャーにもめげず、素晴らしい作品を作ったものだと僕は感心しました。「赤狩り」以前のあなたには、こんなにも心やさしい作品が作れたのです。僕は、若きエリア・カザンに敬意を表します。

社会的な地位、金銭を稼ぐ能力...、そんなことより「夢」や「希望」という言葉に象徴されるものを大切にしたいというあなたのメッセージは、「ブルックリン横丁」の全編を通して伝わってきます。もちろん、現実はそんな風にはいかないし、実際の貧乏は悲しくなるほど人を苛みます。心を貧しくします。そこに打ち勝つのは、本当に大変です。しかし、人は貧しさにまけてしまうことはない、と僕は信じています。

もちろん、現実の社会は悪意に充ちて、ひどく人を追い込みます。そのことは数年後にあなたは身にしみてわかったはずです。しかし、やはり「ブルックリン横丁」を作った人には、「赤狩り」とは戦ってほしかった。そう思います。ダシール・ハメットは「コミュニストと思われる仲間の名前を言え」と迫られ、証言を拒否して入獄しました。その後の彼の生活は悲惨だったとも言われますが、半世紀以上経った今でも彼の名は敬意を持って語られます。

●理想主義を抱いていた青年を卑劣な男にした国家権力

「ピンキー」と言えば、僕の世代では「ピンキーとキラーズ」を連想しますが、僕が最初にピンキーという呼び名を知ったのは、ロバート・キャパの「ちょっとピンボケ」でした。その中に、キャパが「ピンキー」と呼ぶ恋人が登場するのです。それは、スペイン戦争時代の話なので、あなたの「ピンキー」という映画より早いのですが、黒人差別をテーマにした映画が紹介されるときには、必ずあなたの「ピンキー」があがります。

貧しい南部の田舎町。黒人たちが住む地域に、若く美しい白人の女が大きな旅行鞄を提げて歩いてくるシーンから「ピンキー」は始まりました。小屋のような家の庭で、黒人の老女が洗濯物を干しています。「レイ」(2004年)でレイ・チャールズの母親もやっていましたが、老女は洗濯女なのでしょう。それは、黒人女が金を稼ぐための一般的な手段だったのかもしれません。若い女は、老女が働く姿を懐かしそうに見つめます。

振り返った老女は、「ピンキーなの?」と声を挙げます。若い女は、意外にも「おばあちゃん」と返事をし、その瞬間、この映画のテーマが僕にはわかりました。白人にしか見えない肌の色、そのうえ若く美しいのですから、彼女が黒人だとわかったときの人々の(特に白人男たちの)衝撃は大きいはずです。そんな女性の生き方を通して、黒人差別の問題を取り上げたのでしょう。

1949年の段階で、そんなテーマを取り上げたことに僕は驚きました。日本未公開で、評判だけ高かった「ピンキー」です。僕は何の予備知識もなく見始めて、引き込まれました。たたみかけるような物語の運びの見事さ、人々の繊細な演技、予想外の展開を見せる物語...それらが結実し、見事な完成を見せてくれます。「紳士協定」でアカデミー監督賞・作品賞を獲得したばかりのあなたは、「紳士協定」以上の作品を作ろうとし、成功しました。

「ピンキー」を見ながら、僕は数年前に見た「白いカラス」(2003年)を思い出しました。肌の白い黒人の男が家族との縁を絶ち、白人として生きて大学教授にまでなりますが、ある日、たまたま口にした言葉が黒人生徒に対する人種差別的発言だと告発され、大学を放逐されます。ハンニバル・レクターで有名なアンソニー・ホプキンスが初老の教授を演じました。彼の愛人になる美しい清掃員を、ニコール・キッドマンが演じて印象的でした。彼女のベストの演技かもしれません。

フィリップ・ロスの原作小説はあるものの、「白いカラス」は「ピンキー」が存在しなければ作られなかった映画ではないのか、僕はそんなことを考えました。そして、ジョン・カサヴェテス監督の「アメリカの夜」も「ピンキー」に触発されたのではないかと連想しました。白人だと思って好きになった相手が黒人だとわかったとき、人はどう反応するのだろうか。手のひらを返すのか。人は肌の色で人を好きになるのか。そんなことを考えさせられます。

さて、ピンキーは南部を出て北部の看護学校に入り、白人の看護師として働いていましたが、ある医師と恋仲になり彼の求婚を受け入れられず、故郷に帰ってきたというのが、物語の進行と共にわかってきます。生まれ故郷では彼女は黒人として扱われ、屈辱的な目に遭い続けます。そんなピンキーに無学な祖母は、身をもって「黒人としての誇り」を教えます。「出自を偽って白人だと人に思わせておくこと」は、彼女にとっては神の意志に背くことであり、罪なのです。

ピンキーは、難しい選択を迫られます。しかし、あなたはやはり理想主義的なハッピーエンドを描きました。ピンキーは、自分が黒人であることを誇り高く宣言する生き方を選んだのです。それも社会に奉仕する崇高な生き方を...。そのラストシーンは確かに甘いし、理想主義かもしれない。しかし、希望に満ちたラストシーンでした。「夢」と「希望」、若き理想に燃えるあなたが描き続けたのは、そんな大切な事柄でした。

そんな理想主義を抱いていたあなたを、友を売る卑劣な男にしてしまった国家という権力に、今、僕は強い怒りを感じています。赤狩りを率先した権力者のひとりだったニクソンを、後に大統領にしてしまうアメリカという国にも僕はなじめません。しかし、「ピンキー」という映画を作ったのもアメリカであり、ハリウッドでした。そのことに、改めて「希望」を感じます。あなたは汚名を雪げないまま墓の下に眠っていますが、あなたの作品は60年以上の時間を経て東洋の果ての還暦間近の男に涙を流させるのです。映画の持つ力を感じました。冥福を祈ります。

【そごう・すすむ】[email protected] < http://twitter.com/sogo1951
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日本写真家協会60周年パーティに参加したとき、20数年前に一緒にカメラ記者クラブに出ていた人たちと再会した。「日本カメラ」編集長をリタイアしたKさんは髪が真っ白。最近、NHK-BSで伊集院光などと写真番組に出ているIさんは、すっかり有名人。懐かしい顔ばかりで、こちらの年齢も思い知らされる。年月は過ぎ、人は老いる。

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