●一度は阿佐ヶ谷に住みたかった理由
三十数年前のことだが、四年ほど阿佐ヶ谷に住んでいた。一度は阿佐ヶ谷に住みたかったからだ。四国の港町に育った少年が最初に覚えた東京の地名が阿佐ヶ谷なのである。高校生のときから憧れていた。阿佐ヶ谷という地名は、永島慎二の「若者たち」という漫画で知った。
初めて阿佐ヶ谷にいったのは、大学に入った年だった。北口にあるらしい「ポエム」という喫茶店を探した。永島慎二の漫画にしきりに登場したからだ。それ以来、阿佐ヶ谷に友人が下宿していたこともあり、割合に通った街だった。しかし、僕自身は同じ杉並区でも方南町という街に下宿して大学時代を過ごした。就職して少し高い家賃が払えるようになってから阿佐ヶ谷のアパートに移った。
僕の手元に、今でも「永島慎二集」という漫画としては立派な函入りのハードカバーの作品集がある。双葉社の発行だ。1970年、高校三年生の冬に買った。もうすぐ受験という頃だった。その作品集の中に「若者たち」シリーズが収録されていた。1969年に週刊「漫画アクション」に断続的に掲載された連作短編である。
三十数年前のことだが、四年ほど阿佐ヶ谷に住んでいた。一度は阿佐ヶ谷に住みたかったからだ。四国の港町に育った少年が最初に覚えた東京の地名が阿佐ヶ谷なのである。高校生のときから憧れていた。阿佐ヶ谷という地名は、永島慎二の「若者たち」という漫画で知った。
初めて阿佐ヶ谷にいったのは、大学に入った年だった。北口にあるらしい「ポエム」という喫茶店を探した。永島慎二の漫画にしきりに登場したからだ。それ以来、阿佐ヶ谷に友人が下宿していたこともあり、割合に通った街だった。しかし、僕自身は同じ杉並区でも方南町という街に下宿して大学時代を過ごした。就職して少し高い家賃が払えるようになってから阿佐ヶ谷のアパートに移った。
僕の手元に、今でも「永島慎二集」という漫画としては立派な函入りのハードカバーの作品集がある。双葉社の発行だ。1970年、高校三年生の冬に買った。もうすぐ受験という頃だった。その作品集の中に「若者たち」シリーズが収録されていた。1969年に週刊「漫画アクション」に断続的に掲載された連作短編である。
漫画家の村岡栄が街で詩人を自称する青年と歌手をめざす青年を拾う。村岡栄はふたりを自分のアパートに連れて帰る。そこには、既に文学を志す青年と油絵を描いている青年がいる。狭いアパートで五人の若者たちの生活が始まる。彼らが住んでいたのが、阿佐ヶ谷の安アパートだった。
漫画家になる夢、画家になる夢、歌手になる夢、小説家になる夢、詩人になる夢、これに演劇青年が加われば若者たちが見る夢のほとんどがカバーできる。それらが夢の代表のように思われるのは、誰でもがなれる職業ではないからだ。才能を認められ、それを職業として生きていけるのはほんのわずかな人々に過ぎない。たとえば、ひとりの作家の周囲には数え切れない人々の夢が潰えている。死屍累々である。
「若者たち」を読んでいた頃、僕の夢は文章を書いて生活していくことだった。それは大学の四年間を過ぎても変わらず、出版社を中心に就職試験を受け続けた。オイルショックの年でひどい不況だった。コピーライターでもいいかと思って広告代理店なども受験した。そのうち何でもいいやと自棄になって、総会屋まがいの業界紙にまで範囲を広げた。
少し恥ずかしいが正直に言うと、僕は小説を書きたかったのだ。大学時代に仲間たちと同人誌を出し、就職してからもセッセと書いていた。一応の満足がいくものが書けたのは、三十を過ぎてからだった。どれくらいの水準か知りたくて、「文学界新人賞」に応募したら一次選考を通り七十編ほどの中に残った。題名と名前だけが掲載された。
そのときは嬉しくなって、友人たちに電話をしまくった。「文学界」は文藝春秋社が発行する純文学系月刊誌だから、新人賞を取ると必ず芥川賞候補になる。僕は「芥川賞候補まで七十分の一だったんだ」とつまらぬ自慢をしたが、そんなことは何の意味もないのだと気付いてはいた。1983年の秋のことだった。
その後、エンタテインメントの小説を三編仕上げて「小説現代」と「オール読物」の新人賞に応募した。「小説現代」に送った二編は完敗だったが、「オール読物」の方は一次選考を通過して題名と名前だけは掲載された。1988年5月号だった。しかし、もう一次選考を通過したくらいでは、ガッカリするようになっていた。
「文学界」1992年11月号にも新人賞の一次選考通過作品として六十六編の中に残り、題名と名前が載っている。しかし、新人賞は四百字で八十枚以内という制約があり、好きなものを好きなように書くことにして応募はやめてしまった。ちょうど三十代の十年間、僕はそんな風に自分の夢に向かって情熱を燃やしていた…
●ジャニーズの若者たちが演じた昭和の「若者たち」
永島慎二の漫画に共感するのは、僕自身がそんな夢を抱えてしまったからだと思う。「漫画家残酷物語」でも「黄色い涙シリーズ」の「フーテン」や「若者たち」でも、永島慎二は夢を抱え込んでしまった人間の苦しさを描き続けた漫画家である。
彼自身は梶原一騎原作の「柔道一直線」で売れて儲かるようになると、そのことによって堕落したのではないかと自問する私漫画を描く。実際に、彼はテレビドラマ化されて人気の出た「柔道一直線」を降りてしまうのだ。
今年の春に公開された「嵐」の面々が出演する「黄色い涙」の原作が「若者たち」だと知ったとき、何をおいても見にいかねばと僕は思った。脚本は市川森一。世代的には、永島慎二の漫画に過剰な想いを抱いて脚色したに違いない。監督は犬童一心。「ジョゼと虎と魚たち」(2003年)「メゾン・ド・ヒミコ」(2005年)など、このところ快調にとばしている。
映画は永島慎二への献辞で始まる。2005年6月の永島慎二の死を知って、この映画は企画されたのではあるまいか。主人公の村岡栄介(二宮和也)には永島慎二が投影されている。昭和38年(1963年)、東京オリンピックの前年、まだ戦後の風俗が色濃く残っていた頃の話だ。その時代を再現するために町並みが組まれ、木造の阿佐ヶ谷駅が作られ、懐かしい歌が流れる。
新宿駅では傷痍軍人がアコーディオンを弾いているし、ロバのパン屋が蒸かしパンを売っている。米屋のご用聞き(松本潤)が食堂の娘(香椎由宇)に借りていた「映画の友一月号」の表紙はキム・ノヴァックである。食堂の娘が歌手志望の青年(相葉雅紀)に振られて入る映画館では、小林旭の「南国土佐を後にして」(1959年)が上映されている。
しかし、この映画は過ぎ去った昭和を再現し、観客のノスタルジーにのみ訴えるような作品ではない。「人が夢を見るとは、どういうことなのか」という普遍的なテーマがある。昭和38年であっても、21世紀であっても人は夢を見る。
この映画の中で村岡栄介がひと夏をかけて描く作品として使われたのは「かかしがきいたかえるのはなし」という永島慎二の代表的な短編だ。それは「夢を持った悲しみ、夢を追い続ける苦しみ」を描いた珠玉の名作である。(2000年7月22日号「案山子の存在理由」参照)
< https://bn.dgcr.com/archives/20000722000000.html
>
人は夢を見る。逆に言えば、夢を見るから人間なのだ。そして、誰にも夢を見るだけで生きていられた時代があった。漫画家になる夢、歌手になる夢、小説家になる夢、画家になる夢…、「黄色い涙」の四人の若者たちは阿佐ヶ谷のぼろアパートの一室で共同生活をしながら、それぞれの夢に向かって生きている。彼らは恋をし、挫折し、妥協し、やがて大人になる。
しかし、栄介はかたくなに己の夢にこだわる。漫画家の夢を棄てない。ひと夏かかって描き上げた作品を編集者に一蹴された夜、彼は母親の危篤の電報を受け取り急いで帰郷する。その夜汽車の中で、栄介を見つめる隣のボックスの少年に描き上げた作品を渡すシーンは切ない。少年は栄介の作品に熱中する。それを栄介が嬉しそうに見守るのだ。
彼は、単に漫画で金が稼げるようになりたいのではない。自分が理想とする漫画が描ける漫画家になりたいのである。貧乏しようが、飢えようが、彼は妥協しない。そんなかたくなさを秘めながら、心優しいまじめな普通の青年を演じた二宮和也がとてもいい。この人を初めて見たのは倉本聰脚本のテレビドラマ「優しい時間」だったが、イーストウッドさえ気に入ったという個性は期待できる。
●夢は実現するより持続することの方が難しいか
四十代になって、僕は文芸誌の新人賞への応募はやめてしまったが、小説は書き続けていた。若いときに書いたものを何度も書き直し、二百五十枚ほどになった。青春小説をめざしたが、情けない負け犬小説になった。次に、ロス・マクドナルドばりの人捜しハードボイルドものを三百枚近くまで描いて中断した。十年前には、広告業界を背景にした恋愛小説を三百枚まで書いて中断している。
もちろん週末だけで書いているわけだから、なかなかはかどらない。そのうち柴田さんに依頼されてメールマガジンに毎週原稿を書くことになり、他のものを書いている時間がなくなった。この八年間は、ほとんど映画コラムしか書いていない。しかし、皮肉なもので、このコラムを書き続けたために僕は初めて自分の本が出せたのだ。
限定版「映画がなければ生きていけない」が出たときの読者の感想に「まるで小説を読んでいるようだ」とあったのだけれど、あの四十一編のセレクトは特にそれを意識している。僕は、小説のように書いた。2000年から2002年くらいのものには、その傾向が強い。僕は自分の夢を忘れてはいなかった。
限定版「映画がなければ生きていけない」を出したおかげで水曜社から声をかけてもらい、完全版二冊を出版できたのだが、それが日本冒険小説協会の特別賞を受賞したのは、リーチして上がったら裏ドラがついてバイマンになったという感じである。
おまけに受賞の縁で大賞受賞の大沢在昌さんと話ができたのは、バイマンが役マンになった感じだった。大沢さんは「新宿鮫」が大ヒットするまで「永久初版作家」を自称していた人だが、今や推理作家協会の理事長をつとめるほどの作家である。大沢オフィスは、宮部みゆき、京極夏彦という流行作家を抱えている。
大沢さんに会ったとき、僕は夢を実現した人のオーラを感じた。二十三歳で作家としてデビューし、十年ほどはあまり売れなかったが、「新宿鮫」を書いてからもう十七年になる。その間、直木賞を始め数々の賞を獲得し、出す本は書店店頭で山積みになる。その実績が大沢さんを輝かせていた。
──デビューするまでの夢は、デビューしてからの不安にあっさりととってかわられた。作家とは、なることよりもありつづけることのほうがはるかに大変であると、たっぷり学ばされた。それはこれからもつづいていく。(「まっすぐなまわり道」より/角川文庫「かくカク遊ブ、書く遊ぶ」所収)
そのように、大沢さんのエッセイには「作家になることより、作家であり続けることの方が大変」と頻繁に書かれている。しかし、上記のエッセイが書かれたのは十三年も前のこと。今の大沢さんは二十七年間、作家であり続けたのだ。その自信が自ずと人を輝かせるのだろう。
「若者たち」の漫画に登場する「村岡栄」「向後つぐを」といった人物の名は、実際の永島慎二のアシスタントたちの名前をもじったものである。僕は、「若者たち」を初めて読んだ数年後に、村岡栄一、向後某という漫画家の作品を雑誌で読んだことがある。それから数年、村岡栄一という漫画家の名はまったく見なくなった。
十年ほど前のことだろうか。長距離列車の中に置き去りにされた漫画誌の目次をパラパラとめくっていたら、向後某という漫画家の作品が載っていた。その漫画誌には、いわゆるエロ漫画ばかり載っていたが、彼が描いていたものもかなり露骨な性描写を含んだ夜の蝶(完全に死後だね)がヒロインの物語だった。
僕はエロ漫画に偏見はないが、彼がもし永島慎二の弟子だったとしたら、ずいぶん師匠の作風から遠ざかってしまったなあ、と思う。正直に言うと、そのとき僕の胸に去来したのは哀しみだった。「若者たち」の中の人物の見たくなかったその後を見せられた気がした。結局は、才能なのだ。
夢を実現するのは難しい。しかし、実現した夢を持続することはもっと難しい。確かにそう思う。そして、僕自身は三十数年に及ぶ会社員生活を持続しながら、趣味のように文章を書き続けることで自分の夢の落ち着き場所を見付けた。
【そごう・すすむ】[email protected]
腫らした左肘が治らない。酒場で整形外科のお医者さんがいたので聞いてみたら、警察病院の整形外科医の処置は「完全です」とのことだった。しかし、抗生物質を飲みながら酒を呑むと酔いが回るのかなあ。いつもより酔った気がする。お医者さんには迷惑だったかもしれないと、反省しきり…
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
>
角川文庫から発売になった大沢在昌さんの「天使の爪」上下巻に解説を書かせていただきました。四百字で11枚ほども書いたのに、もう少し書きたいことがあります。もっとも読者は、くどい解説は迷惑でしょう。「天使の牙」「天使の爪」と続くシリーズは、読み始めたらやめられないことは保証します。
小説宝石」7月号に大沢在昌さんとの対談が載りました。「ハードボイルドがなければ生きていけない」というタイトルです。大沢さんの話の間に僕が「そうですね」と言っているだけのような対談ですが、大沢さんの映画やミステリへの愛がうかがえて面白いですよ。
漫画家になる夢、画家になる夢、歌手になる夢、小説家になる夢、詩人になる夢、これに演劇青年が加われば若者たちが見る夢のほとんどがカバーできる。それらが夢の代表のように思われるのは、誰でもがなれる職業ではないからだ。才能を認められ、それを職業として生きていけるのはほんのわずかな人々に過ぎない。たとえば、ひとりの作家の周囲には数え切れない人々の夢が潰えている。死屍累々である。
「若者たち」を読んでいた頃、僕の夢は文章を書いて生活していくことだった。それは大学の四年間を過ぎても変わらず、出版社を中心に就職試験を受け続けた。オイルショックの年でひどい不況だった。コピーライターでもいいかと思って広告代理店なども受験した。そのうち何でもいいやと自棄になって、総会屋まがいの業界紙にまで範囲を広げた。
少し恥ずかしいが正直に言うと、僕は小説を書きたかったのだ。大学時代に仲間たちと同人誌を出し、就職してからもセッセと書いていた。一応の満足がいくものが書けたのは、三十を過ぎてからだった。どれくらいの水準か知りたくて、「文学界新人賞」に応募したら一次選考を通り七十編ほどの中に残った。題名と名前だけが掲載された。
そのときは嬉しくなって、友人たちに電話をしまくった。「文学界」は文藝春秋社が発行する純文学系月刊誌だから、新人賞を取ると必ず芥川賞候補になる。僕は「芥川賞候補まで七十分の一だったんだ」とつまらぬ自慢をしたが、そんなことは何の意味もないのだと気付いてはいた。1983年の秋のことだった。
その後、エンタテインメントの小説を三編仕上げて「小説現代」と「オール読物」の新人賞に応募した。「小説現代」に送った二編は完敗だったが、「オール読物」の方は一次選考を通過して題名と名前だけは掲載された。1988年5月号だった。しかし、もう一次選考を通過したくらいでは、ガッカリするようになっていた。
「文学界」1992年11月号にも新人賞の一次選考通過作品として六十六編の中に残り、題名と名前が載っている。しかし、新人賞は四百字で八十枚以内という制約があり、好きなものを好きなように書くことにして応募はやめてしまった。ちょうど三十代の十年間、僕はそんな風に自分の夢に向かって情熱を燃やしていた…
●ジャニーズの若者たちが演じた昭和の「若者たち」
永島慎二の漫画に共感するのは、僕自身がそんな夢を抱えてしまったからだと思う。「漫画家残酷物語」でも「黄色い涙シリーズ」の「フーテン」や「若者たち」でも、永島慎二は夢を抱え込んでしまった人間の苦しさを描き続けた漫画家である。
彼自身は梶原一騎原作の「柔道一直線」で売れて儲かるようになると、そのことによって堕落したのではないかと自問する私漫画を描く。実際に、彼はテレビドラマ化されて人気の出た「柔道一直線」を降りてしまうのだ。
今年の春に公開された「嵐」の面々が出演する「黄色い涙」の原作が「若者たち」だと知ったとき、何をおいても見にいかねばと僕は思った。脚本は市川森一。世代的には、永島慎二の漫画に過剰な想いを抱いて脚色したに違いない。監督は犬童一心。「ジョゼと虎と魚たち」(2003年)「メゾン・ド・ヒミコ」(2005年)など、このところ快調にとばしている。
映画は永島慎二への献辞で始まる。2005年6月の永島慎二の死を知って、この映画は企画されたのではあるまいか。主人公の村岡栄介(二宮和也)には永島慎二が投影されている。昭和38年(1963年)、東京オリンピックの前年、まだ戦後の風俗が色濃く残っていた頃の話だ。その時代を再現するために町並みが組まれ、木造の阿佐ヶ谷駅が作られ、懐かしい歌が流れる。
新宿駅では傷痍軍人がアコーディオンを弾いているし、ロバのパン屋が蒸かしパンを売っている。米屋のご用聞き(松本潤)が食堂の娘(香椎由宇)に借りていた「映画の友一月号」の表紙はキム・ノヴァックである。食堂の娘が歌手志望の青年(相葉雅紀)に振られて入る映画館では、小林旭の「南国土佐を後にして」(1959年)が上映されている。
しかし、この映画は過ぎ去った昭和を再現し、観客のノスタルジーにのみ訴えるような作品ではない。「人が夢を見るとは、どういうことなのか」という普遍的なテーマがある。昭和38年であっても、21世紀であっても人は夢を見る。
この映画の中で村岡栄介がひと夏をかけて描く作品として使われたのは「かかしがきいたかえるのはなし」という永島慎二の代表的な短編だ。それは「夢を持った悲しみ、夢を追い続ける苦しみ」を描いた珠玉の名作である。(2000年7月22日号「案山子の存在理由」参照)
< https://bn.dgcr.com/archives/20000722000000.html
>
人は夢を見る。逆に言えば、夢を見るから人間なのだ。そして、誰にも夢を見るだけで生きていられた時代があった。漫画家になる夢、歌手になる夢、小説家になる夢、画家になる夢…、「黄色い涙」の四人の若者たちは阿佐ヶ谷のぼろアパートの一室で共同生活をしながら、それぞれの夢に向かって生きている。彼らは恋をし、挫折し、妥協し、やがて大人になる。
しかし、栄介はかたくなに己の夢にこだわる。漫画家の夢を棄てない。ひと夏かかって描き上げた作品を編集者に一蹴された夜、彼は母親の危篤の電報を受け取り急いで帰郷する。その夜汽車の中で、栄介を見つめる隣のボックスの少年に描き上げた作品を渡すシーンは切ない。少年は栄介の作品に熱中する。それを栄介が嬉しそうに見守るのだ。
彼は、単に漫画で金が稼げるようになりたいのではない。自分が理想とする漫画が描ける漫画家になりたいのである。貧乏しようが、飢えようが、彼は妥協しない。そんなかたくなさを秘めながら、心優しいまじめな普通の青年を演じた二宮和也がとてもいい。この人を初めて見たのは倉本聰脚本のテレビドラマ「優しい時間」だったが、イーストウッドさえ気に入ったという個性は期待できる。
●夢は実現するより持続することの方が難しいか
四十代になって、僕は文芸誌の新人賞への応募はやめてしまったが、小説は書き続けていた。若いときに書いたものを何度も書き直し、二百五十枚ほどになった。青春小説をめざしたが、情けない負け犬小説になった。次に、ロス・マクドナルドばりの人捜しハードボイルドものを三百枚近くまで描いて中断した。十年前には、広告業界を背景にした恋愛小説を三百枚まで書いて中断している。
もちろん週末だけで書いているわけだから、なかなかはかどらない。そのうち柴田さんに依頼されてメールマガジンに毎週原稿を書くことになり、他のものを書いている時間がなくなった。この八年間は、ほとんど映画コラムしか書いていない。しかし、皮肉なもので、このコラムを書き続けたために僕は初めて自分の本が出せたのだ。
限定版「映画がなければ生きていけない」が出たときの読者の感想に「まるで小説を読んでいるようだ」とあったのだけれど、あの四十一編のセレクトは特にそれを意識している。僕は、小説のように書いた。2000年から2002年くらいのものには、その傾向が強い。僕は自分の夢を忘れてはいなかった。
限定版「映画がなければ生きていけない」を出したおかげで水曜社から声をかけてもらい、完全版二冊を出版できたのだが、それが日本冒険小説協会の特別賞を受賞したのは、リーチして上がったら裏ドラがついてバイマンになったという感じである。
おまけに受賞の縁で大賞受賞の大沢在昌さんと話ができたのは、バイマンが役マンになった感じだった。大沢さんは「新宿鮫」が大ヒットするまで「永久初版作家」を自称していた人だが、今や推理作家協会の理事長をつとめるほどの作家である。大沢オフィスは、宮部みゆき、京極夏彦という流行作家を抱えている。
大沢さんに会ったとき、僕は夢を実現した人のオーラを感じた。二十三歳で作家としてデビューし、十年ほどはあまり売れなかったが、「新宿鮫」を書いてからもう十七年になる。その間、直木賞を始め数々の賞を獲得し、出す本は書店店頭で山積みになる。その実績が大沢さんを輝かせていた。
──デビューするまでの夢は、デビューしてからの不安にあっさりととってかわられた。作家とは、なることよりもありつづけることのほうがはるかに大変であると、たっぷり学ばされた。それはこれからもつづいていく。(「まっすぐなまわり道」より/角川文庫「かくカク遊ブ、書く遊ぶ」所収)
そのように、大沢さんのエッセイには「作家になることより、作家であり続けることの方が大変」と頻繁に書かれている。しかし、上記のエッセイが書かれたのは十三年も前のこと。今の大沢さんは二十七年間、作家であり続けたのだ。その自信が自ずと人を輝かせるのだろう。
「若者たち」の漫画に登場する「村岡栄」「向後つぐを」といった人物の名は、実際の永島慎二のアシスタントたちの名前をもじったものである。僕は、「若者たち」を初めて読んだ数年後に、村岡栄一、向後某という漫画家の作品を雑誌で読んだことがある。それから数年、村岡栄一という漫画家の名はまったく見なくなった。
十年ほど前のことだろうか。長距離列車の中に置き去りにされた漫画誌の目次をパラパラとめくっていたら、向後某という漫画家の作品が載っていた。その漫画誌には、いわゆるエロ漫画ばかり載っていたが、彼が描いていたものもかなり露骨な性描写を含んだ夜の蝶(完全に死後だね)がヒロインの物語だった。
僕はエロ漫画に偏見はないが、彼がもし永島慎二の弟子だったとしたら、ずいぶん師匠の作風から遠ざかってしまったなあ、と思う。正直に言うと、そのとき僕の胸に去来したのは哀しみだった。「若者たち」の中の人物の見たくなかったその後を見せられた気がした。結局は、才能なのだ。
夢を実現するのは難しい。しかし、実現した夢を持続することはもっと難しい。確かにそう思う。そして、僕自身は三十数年に及ぶ会社員生活を持続しながら、趣味のように文章を書き続けることで自分の夢の落ち着き場所を見付けた。
【そごう・すすむ】[email protected]
腫らした左肘が治らない。酒場で整形外科のお医者さんがいたので聞いてみたら、警察病院の整形外科医の処置は「完全です」とのことだった。しかし、抗生物質を飲みながら酒を呑むと酔いが回るのかなあ。いつもより酔った気がする。お医者さんには迷惑だったかもしれないと、反省しきり…
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 十河 進
- 水曜社 2006-12
- おすすめ平均
- 「ぼやき」という名の愛
- 第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
- すばらしい本です。
- ものすごい読み応え!!
- 天使の爪 上 (1) (角川文庫 お 13-25)
- 大沢 在昌
- 角川書店 2007-07
- 小説宝石 2007年 07月号 [雑誌]
- 光文社 2007-06-22
- 黄色い涙
- 永島 慎二
- マガジンハウス 2006-11-22
- おすすめ平均
- まじめに青春している若者たち
- 昭和の青春がわかりました。
- 自分が生まれる前に描かれた漫画なのに、どうして懐かしさを感じるのだろう??
- 昭和の青春マンガ。