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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育] https://blog.goo.ne.jp/tsuguchan4497

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

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2020/12/12

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  • [Ⅹ 324] 世は進歩しつつあるか(2) / 人間は退歩する !

    2024年12月11日オスロでのノーベル平和賞授賞式での日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の代表委員・田中照巳さん(92歳)の演説は、ノーベル賞受賞の場であっても肩をはらずに自らの少年期の被爆体験もまじえて平易に普通の言葉でわかりやすく、格調も高く好もしいものでした。演説の中で田中さんが2度繰り返された文言が強く印象に残りました。「日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けております。もう一度繰り返します、原爆で亡くなった死者に対する償いは日本政府は全くしていない」と。被爆で亡くなった人を含めた被爆者に対する保障体系の不備と核兵器禁止条約を批准できずにいる日本政府への痛烈の批判の言葉として私は聞きました。私は田中さんの演説を聞きながら私の父の事を想っていました。1954...[Ⅹ324]世は進歩しつつあるか(2)/人間は退歩する!

  • [Ⅹ 323] 世は進歩しつつあるか(1) / 鑑三翁と「進化論」

    ポリクライシス「世界が燃えている」‥12月4日国連人道問題調整室のトム・フレッチャー室長(事務次長)はジュネーブでの記者会見で、「世界が燃えている」と述べ2025年を不安とともに見据えていると語った。ウクライナ、パレスチナ自治区ガザ地区、スーダン、シリアなどで残忍な紛争が激化し、異常気象がかつてない被害をもたらす中、国連の推定によれば、来年世界で何らかの支援を必要とする人々は3億500万人に上る。フレッチャー氏は「私たちの世界は今、ポリクライシス(複合危機)に取り組んでいるが、その代償を支払わされているのは、世界で最も弱い立場にある人々だ」と指摘。格差の拡大と紛争、気候変動が相まって支援を必要とする人々にとって「最悪の状況」が生じていると述べた。来年は紛争の激化や気候変動で数億人が困窮すると警告し、重要な...[Ⅹ323]世は進歩しつつあるか(1)/鑑三翁と「進化論」

  • [Ⅸ 322] 世論は神の意に非ず(9) / 我が物顔した殺人兵器

    【また今の世界はまことに混乱擾雑(じょうざつ)の海である。社会の腐敗は底なきが如く、世界の表は紛乱を以て充たされている。世界大乱一度収まりし如くにして実は収まらず、戦の噂は噂を生みて、今や全地大洪水に溺れんとするが如く見ゆる。我らの憂慮も何らの効果なし。我らの努力を以て全地の大海を抑うることは出来ない。我らはただ熱心に祈るのみである。しかし神はこの祈を記憶し給う。混乱の海を制する力は彼にのみ在る。神は全地を呑まんとする海に対して「ここまでは来るべし、ここを超ゆべからず、汝の高浪ここに止まるべし」と言い給う。実に彼は人の御しがたき海を御し給う。彼は地の上にその支配権を持ち給う。この事を知りて、自身としては力なき我らにも大なる安心がある。】(内村鑑三:ヨブ記講演.岩波文庫、p.165、2014)明治大正昭和を...[Ⅸ322]世論は神の意に非ず(9)/我が物顔した殺人兵器

  • [Ⅸ 321] 世論は神の意に非ず(8) / ここにもspin doctorの邪悪が

    アメリカの経済学者で国連ミレニアムプロジェクトのディレクターも兼務しているJ.サックス氏(JeffreyDavidSachs、1954-)は、古き時代と現今の「世論形成」の違いを次のように記す。「かつての放送時代の政治と今日のソーシャルメディア時代の政治との大きな違いは、政治家がもはや広範な国民に向けて話してはいないということだ。政治家たちは今や、自分たちの支持基盤や「支持基盤に近い人たち」とのコミュニケーションに終始している。今日、一人ひとりは、個人の選択(どのウェブサイトを訪問するか)、デジタル「フォロワー」のネットワーク、フェイスブック、X、ティックトックなどのプラットフォームのアルゴリズム、そして諜報機関、政府の宣伝担当者、企業、政治工作員を含む隠された力によって共同で構築された、個人化された「ニ...[Ⅸ321]世論は神の意に非ず(8)/ここにもspindoctorの邪悪が

  • [Ⅸ 320] 世論は神の意に非ず(7) / SNS鵺(ヌエ)集団の不気味

    私は鑑三翁の内奥を追い続けてきたが誰にも負けないほどの典型的な”アナログ脳”をもつと”自負”している。デジタル化/IT技術が伸展しAIが人間の頭脳を飛び越すような時代の流れに抗して鈍重な精神で常に手作業を大事にしているつもりだ。この私の作業の結果が客観的で公正なのか、世の中の多くの人に受け入れられるものなのか‥そんな事に私は全く関心がない。私にインプットされる情報を私の頭脳が理解し咀嚼し誠実に整理できるようにしている。時には便宜上不詳の物事を調べるためにChatGPT/OpenAIを使うこともあるが。さて世論をめぐって日本のSNS上で鵺(ヌエ)集団による不気味な現象が見られたので新聞記事を深読みして整理してみた。今年の都知事選挙だ。※2024年7月に行われた東京都知事選挙では、都民には無名のI.S.という...[Ⅸ320]世論は神の意に非ず(7)/SNS鵺(ヌエ)集団の不気味

  • [Ⅸ 319] 世論は神の意に非ず(6) / 世代論の軽薄

    暴力を礼賛し、女性を蔑視し、人種を差別し、移民国家のくせして移民を差別し、富者と強者をほめたたえ経済格差を拡大させ弱き者は社会から消し、価値観の分断と相互の憎悪を増長させ、虚偽と偽物をまき散らし社会正義を嘲笑し法を無視し、調和した穏やかな生活を踏み潰す‥そんな無法者の”強き”トランプをアメリカ市民国民は”再び”大統領に選んだ。‥‥オレたちのアメリカは弱くなっちまった、民主党政権バイデン奴のせいだ、だからウクライナもロシアも制御できずイスラエルも言う事を聞かないんだ、中国には全ての面で太刀打ちできなくなっちまった、外交も弱腰で手前が傷つかないようにしているだけだ、これじゃだめだ。再び強いアメリカを復活させるんだ!そのためには一挙に逆転劇を演じることのできる独裁者‥身勝手でもいい傲慢でもいい精神病質(サイコパ...[Ⅸ319]世論は神の意に非ず(6)/世代論の軽薄

  • [Ⅸ 318] 世論は神の意に非ず(5) / 世論調査の”怪”

    我々が日々接する新聞TVそしてSNSから流れてくる情報は、実はこれを作成するマスコミ/ジャーナリズムの現場では、経営的経済的な観点を重視するために記事内容に制動をかけており、記者の署名記事であってもその背景にはこれにバイアスをかける力が働いている‥という認識に立って我々はこれら情報を受け取る必要がある。かつての安倍政権下で、安倍氏は定期的にNHKをはじめとする大手マスコミ報道各社の社長報道局長レベルの人間や政治評論家等々を超高級料亭などに招待し報道機関等の幹部の懐柔を図ってきたことはよく知られていた。食事会に招待された幹部の者は翌日「安倍さんに招待されてさぁ‥」云々と自慢げに話す者が多かったという。食事会の後には官房機密費から現金が各々に配布された‥という話も事実のようだ。ジャーナリスト田原総一朗氏は時の...[Ⅸ318]世論は神の意に非ず(5)/世論調査の”怪”

  • [Ⅸ 317] 世論は神の意に非ず(4) / 所詮は70番目の後進国なり !

    「日本国憲法」は宗教聖典でもなく完全無欠ではない。だが制定以来75年間平和主義/国民主権/基本的人権の理念に立ち風雪に耐え立派に機能してきた尊い憲法だ。今「改憲」を叫ぶ勢力は、日本を独裁国家とし、平和/人権/国民主権を圧殺しようとしている。自民党の起案した”憲法改正原案”なるものをよく検討して見るといい。かの邪な新興宗教団体の提示する改正案と同一線上にあり、含蓄のない稚拙で薄っぺらな日本語の羅列に眩暈がするほどだ。中味も侵略的・暴力的で国民の権利を収奪する意図をもった邪悪さに満ちている。衆議院議員選挙(241027)では自公政権勢力が崩壊し、改憲発議の議員の三分の二には届かなくなった‥とある新聞の記事にあった。しかし参議院では改憲勢力は三分の二を占めている。衆議院では野党勢力が過半数を上回ったとは言え野党...[Ⅸ317]世論は神の意に非ず(4)/所詮は70番目の後進国なり!

  • [Ⅸ 316] 世論は神の意に非ず(3) / 記者会は今様大本営か

    「東京新聞」が終戦後79回目の終戦記念日を前に「大本営発表と新聞」の特集記事を編集掲載した(20240721/日曜版)。特集の要点は太平洋戦争中に、日本軍部は戦地では劣勢にもかかわらず、「皇軍勝利」と連日報道していたと言う事実がある。これはいわゆる「大本営発表」が虚偽のニュースを流し、それをそのまま新聞が報道することで、国民に「うそ」を伝えることに加担したものだ。例えば太平洋戦争開戦の端緒となった日本軍による真珠湾攻撃では、中日新聞の前身「名古屋新聞」(1941年12月9日)は次のように記事にした。「敵戦艦二隻撃沈/八隻にも大損傷」とあり、大本営発表は正確で、これは日本軍が優勢で、うそをつく必要もなかったのだ。ところが1942年6月11日の「新愛知」(これも中日新聞の前身)ではミッドウェー海戦の戦況に関し...[Ⅸ316]世論は神の意に非ず(3)/記者会は今様大本営か

  • [Ⅸ 315] 世論は神の意に非ず(2) / toolは進歩、されど‥

    「世界に対する強烈なパンチ」被団協のノーベル平和賞を国連が祝福(241011)「ちちをかえせははをかえせとしよりをかえせこどもをかえせ/わたしをかえせわたしにつながるにんげんをかえせ/にんげんのにんげんのよのあるかぎりくずれぬへいわをへいわをかえせ」(峠三吉「原爆詩集/序にんげんをかえせ」)「ふるさとの街やかれ/身よりの骨うめし焼土(やけつち)に/今は白い花咲く/ああ許すまじ原爆を/三度(みたび)許すまじ原爆を/われらの街に」(浅田石二作詞「原爆を許すまじ」)※前項記事の鑑三翁の三本の論稿を要約すると‥‥人間やその社会は神に背いたままのなので、世論というものは、神の意思を伝えるものではない。だから我々は神の言葉を聞きたければ聖書に聴くべきである。悪しき者が多数を占める社会の世論に唯々諾々と従ってはならない...[Ⅸ315]世論は神の意に非ず(2)/toolは進歩、されど‥

  • [Ⅸ 314] 世論は神の意に非ず(1) / 世論という”まぼろし” 

    「世論/輿論」とSNSで検索してみた。《「輿論」の読み方は「よろん」で、「世間一般の意見」という意味です。現在では、「世論」の表記の方が一般的ですので、より多くの人に伝わりやすくするためには「世論」とするのが良いでしょう。ただ、本来の意味を考えると、「世論」は大衆感情、「輿論」は世間で議論された公の意見、と、2つの言葉には違いがあります。》と出できた。ほほう、とわかったような気もしたが、「循環論法」のようで何を言っているのか判然としない。では、と思って英語を引いてみた(weblio)。《「世論」はpublicopinion。「輿論」はpublicopinion、opinion、voxpopuli、popularopinion》と出てきた。なおVoxPopuli,VoxDeiとはラテン語の成句であり、日本語...[Ⅸ314]世論は神の意に非ず(1)/世論という”まぼろし” 

  • [Ⅷ313] 世の変革者(13) / 人をつくれよ、と

    2023年10月28日、パレスチナ自治区ガザを2007年以来実効支配してきたイスラム過激組織「ハマス」がイスラエル領に侵入し、奇襲テロを実行した直後、イスラエルのネタニヤフ首相は「アマレクが私たちに何をしたかを覚えなさい」と述べたという。アマレク人とは古代パレスチナの民を指す。BC15世紀モーセとイスラエルの民がエジプトから出てきた時、アマレク人はイスラエルの民を攻め撃った。これを理由に聖書記録では「あなたはアマレクの名を天の下から消し去らなければならない。」(申命記25:19)と記されている。ネタニヤフ首相はこの記録をガザ地区侵攻の根拠にあげる。しかしアマレク人は古代パレスチナの民だがとっくの昔に血族としては絶えている。こんな発言が21世紀の今日日あっていいのだろうか。ネタニヤフ首相の背後には岩盤のユダ...[Ⅷ313]世の変革者(13)/人をつくれよ、と

  • [Ⅷ312] 世の変革者(12) / 亡国に民ありて

    2022年2月24日にプーチンロシアがウクライナの首都キーウをはじめとする主要都市に侵略を始めてから2年6か月、ウクライナ軍はロシア西部クルスク州で越境攻撃を開始して数週間が経過した。ゼレンスキー大統領は掌握地域を拡大していると強調した。その上でロシア領内への攻撃に欧米が供与した射程が長い兵器を使うことを認めるよう訴えた。一方ウクライナ東部ドネツク州ではロシア軍が攻勢を強め要衝に迫っているが、この折にプーチン大統領は「核」をちらつかせ始めた。だがこれを使えばロシアという国家が消滅することはプーチンも知っている。核をちらつかせて恫喝し扇動するプーチンを一人のCIA幹部は”チンピラ(bully)”と呼び精一杯の蔑称で牽制した。他方トルコのエルドアン大統領は2024年9月13日、クリミア半島はウクライナに返還す...[Ⅷ312]世の変革者(12)/亡国に民ありて

  • [Ⅷ311] 世の変革者(11) / 欲心に満ちた民よ

    2024年初秋、自民党総裁選挙報道で突如としてメディアジャックが起きた。自民党から各メディアトップに話が通じこの国のメディアはこれで「死に体」となっていることが判明した。戦前の国威発揚大政翼賛報道/独裁国家の報道管制と同質である。政権批判の立場を崩さない日刊紙もあるが、ここまであからさまに他のTV大新聞がメディアジャックされると記事として扱わざるを得ない。その紙面は股裂きにあっているようで苦しい紙面作りが透けて見える。私は今の自民党政権を支持していない。サル山のボスを誰にするか‥自民党の長老が仕掛けた腑抜け候補者やその当て馬、その当て馬の当て馬が手を挙げて、味噌も糞も同じ壺に混ぜられて異臭を放つ。ボス争いの裏取引はかつての花街料亭でも繰り広げられ賭場の騒乱は目も当てられぬ有り様。政治資金規正法違反の犯罪を...[Ⅷ311]世の変革者(11)/欲心に満ちた民よ

  • [Ⅷ310] 世の変革者(10) / 義のために憤る           

    【人間で建設を好まない者はいない。誰でも苦さよりも甘さ(※原文「甘露」)を求めるものだ。特に日本人のごときは苦味や苦言を嫌うことは私もよく知るところだ。だから建設的な意見だと称して、実は虚言を供する者は喜んで歓迎される。一方真情を吐露する者は破壊の言だとして嫌われるのだ。これは日本(※原文「君子国」)の特徴である。だから見てください、わが国今日の社会に「建設者」がはなはだ多いことを。どこの政党も、どこの学派も、みんな処女のごとき声を発して、国家の秩序を整え治めるのだ(※原文「経綸」)と称して甘い水(※原文「甘露水」)を売っている。このようにして甘い水の好きな蟻のような連中は、競ってこれに集まるのである。南陽の菊水を汲んで延命しようと願ったように(注:「菊水」とは、中国河南省南部を流れる白河の支流の川の崖上...[Ⅷ310]世の変革者(10)/義のために憤る          

  • [Ⅷ309] 世の変革者(9) / 国家建設という浮薄を笑え

    鑑三翁は上記の「反駁」とは別に、鑑三翁の主宰する「東京独立雑誌」に読者向けに「破壊と建設」を執筆している。井上との論争からしばらく経過した時点で執筆されたもので、鑑三翁の義憤のような感情を表して秀逸の一文だ。要点を要約した(「東京独立雑誌」14号、明治31〈1898〉年11月25日)(全集6、p.219)。※【親切なる(※原文は「深切なる」)哲学者某(注:東京帝国大学哲学教授井上哲次郎のこと)という者がいた。彼が私に向かって年寄りが注意するかのように言った。「君の行為は全て破壊的なものだよ、どうして破壊を少しでも止めて建設的にならないのかね」と。私は彼に次のように答えた。‥ああそうですか。でも私のようなか弱い者の打撃で破壊されるようなものは、私がやる前に破壊されていますよ。そのようなものに対する私の打撃は...[Ⅷ309]世の変革者(9)/国家建設という浮薄を笑え

  • [Ⅷ308] 世の変革者(8) / 鑑三翁の弁明

    鑑三翁の誠実と豪胆とは、神にあって自由なキリスト者としての深い信仰に基づくものであり、井上氏の受け狙いの個人攻撃にもひるむことなく独り立ち上がった鑑三翁の姿は、かのパウロを彷彿とさせる。パウロはキリスト・イエスの昇天後に弟子たちによるキリスト信仰が拡大しつつあることを危惧して彼らを迫害する立場にあったが、ある日イエスの十字架の死の直後紀元35年(33年の説もある)、復活のイエスと出会いイエスの声を直接聞きパウロは回心した。そしてその後は翻ってキリスト・イエス信仰の宣教を行ってきたが、聖都エルサレムに帰ると、アジアのユダヤ教徒からの反感を買い彼らはパウロを捕え殺そうとした。パウロは殺される直前に千人隊長に助けられ、ローマ皇帝に助命を嘆願することになった。そこで千人隊長はパウロにユダヤ教徒に対して弁明する機会...[Ⅷ308]世の変革者(8)/鑑三翁の弁明

  • [Ⅷ307] 世の変革者(7) / 反駁を開始する !   

    以上の井上哲次郎の批難に対して鑑三翁は正面から反駁を行っている(『教育時論』第285号(明治26年3月15日発行)「文学博士井上哲次郎君に呈する公開状:内村鑑三」)(全集6、p.126掲載)。鑑三翁の反駁文の要旨を記した。【‥‥私の第一高等中学校礼拝事件に関する井上氏の報知は事実ではないことをでっち上げている(※原文「誣〈ふ〉す」)と言わざるを得ない。私が天皇の尊影に対して奉り敬礼しなかったというのは全くの虚偽に過ぎないものだ。拝戴式当日には生徒も教員も尊影に対しての礼拝を命じられた事実はなかった。ただ教頭久原氏は私に命じて一人ずつ御親筆の前に進み出させて礼拝させた。ところが貴殿の記事中には「このような偶像や文書に向て礼拝しなかった」云々というような言葉は私の発したものではない。天皇陛下は我ら臣民に対して...[Ⅷ307]世の変革者(7)/反駁を開始する!  

  • [Ⅷ306] 世の変革者(6) / 「不敬」と言わば言え!

    私はかつてこの連載で《[Ⅳ234]日本人とか日本社会とか(14)/鑑三翁の気骨「不敬事件」》と題して、鑑三翁のいわゆる「不敬事件」について次のように記した。「鑑三翁は1891(明治24)年、当時勤務していた第一高等学校教育勅語奉読式典で、天皇真筆(のはずはないのだが)に奉拝(最敬礼)を為さなかった故に、同僚教師や生徒によって密告され批難された。その後新聞紙上では既に名の知られていた鑑三翁を批判する論調を掲げ、自宅には汚物が撒かれ生徒が押しかけて暴言を続けるなどの暴力もあった。キリスト教会関係者も、ごく一部を除いて手のひらを返す如く鑑三翁と離反し政府寄りの主張を繰り返した。いずれも全ては明治政府及びこれに連なる”お上”への恭順を示す迎合だった。」この「不敬事件」当時の鑑三翁の世間・社会への”反骨と抵抗と抗議...[Ⅷ306]世の変革者(6)/「不敬」と言わば言え!

  • [Ⅷ305] 世の変革者(5) / 福澤諭吉 何するものぞ

    今でもしばしば鑑三翁を旧約聖書「ヨブ記」のヨブの再来と呼ぶ人がいる。上述の一文を読めば、私にはよく理解できる。ヨブは、全くかつ正しく神を恐れ悪に遠ざかる日々をおくっていた。東方の人々のうちで最も大いなる者と言われていた。ところがある日神のゆるしを得た上でのサタンの企みにより、家畜の羊七千、らくだ三千、牛五百、雌ろば五百、多くのしもべたちを全て殺された。さらに彼の愛する子どもたち男の子七人、女の子三人全員をも殺されてしまう。そしてヨブ自身も足の裏から頭までいやな腫物で悩まされるのだった。そんな彼を慮った信頼する妻も、神を恨みのろって死になさいと言い彼の許を去った。これを聞きつけた老若の友人たちがヨブの許を訪ね慰撫する。ところが友人たちは、ヨブの神への信仰が不足していたからだとまで言う。だがヨブはそんな愛情の...[Ⅷ305]世の変革者(5)/福澤諭吉何するものぞ

  • [Ⅷ304] 世の変革者(4) / ”大社会”に対する悲憤慷慨   

    【私に欲念があるからこそ、私は社会という化け物にとらわれでしまうのだ。私の肉は食われ血まで啜られてしまうのだ。私が野心を満たそうとするから、私は政治家の罠にかかり、地縁血縁などの門閥によってたぶらかされてしまうのだ。社会は大きく、しかも強力なものとはいえ、私を誘惑する際には名誉や利益(※原文「名利」)を求めるだけで、それ以外には何ものもない。だから私が名誉や利益を嫌悪するに至ったときには、私は社会の厄介者となって、社会が私を憎んで私を殺さない限り、社会に隷属する危険は私にはなくなるのだ。これは宗教家が言うところの「世に死して天に生きる」の途であって、社会を足下に踏みつけるためには、欲念を心の外に棄て去ることが重要である。‥‥しかしながら社会というものは大きく強大なものだ。私はこれに比していかにも小さくして...[Ⅷ304]世の変革者(4)/”大社会”に対する悲憤慷慨  

  • [Ⅷ303] 世の変革者(3) / 社会という怪物と戦え

    【怖れるべきだが愛してはいけない社会、避けることはできないが頼ってはいけない社会、私を利用することはあっても私を援けない社会、義の者を葬り去る社会、無辜の者を虐げる社会、私はこのような社会という怪物に対しては、戦うことはあっても和睦することはない。私は社会を救済する者又は社会を教導する者としての覚悟を持っており、社会から保護される者(※原文「被保者」)又は社会に服従する者としての考え方は持ってはいない。私は社会から制裁を加えられることを求めず、むしろ私から社会に制裁を加えようとする決心を持つべきだと思う。私自身が社会より強く且つ大きな存在にならなければ、社会の改革者・先導者となることはできないのは言うまでもないことだ。‥‥かの園遊会(注:明治13年に始まった天皇皇后主催の観菊会が端緒。対外的な文化・世論工...[Ⅷ303]世の変革者(3)/社会という怪物と戦え

  • [Ⅷ302] 世の変革者(2) / 盗賊に説法の愚

    私は人間の精神世界が自由に広がっていく有り様を鑑三翁に見出している。それは鑑三翁の執筆した論稿に多くみられる「改革/改良」「征服」「改善」という言葉にも表現されている。これはユング翁の言う「世俗の時代精神との対決から形成されたばかりでなく、その時代の精神的潮流との論争も続けている」真正なプロテスタント信徒の世界でもある。ユング翁であれば「社会」の生成は神の意思によるものなので矛盾や不誠実に覚醒しようが、これを放任し成り行きに任せればいいと考える。だが鑑三翁はロクでもない人間たちが支配し管理する「社会」なるものは「征服」すべきものと考える。ねじ曲がった鉄をまっすぐに矯め直すものと誠実に考えるのだ。今回はこの鑑三翁の考え方を示した論稿を紹介する。「社会の征服」と題した一文である。これは1898(明治31)年1...[Ⅷ302]世の変革者(2)/盗賊に説法の愚

  • [Ⅷ301] 世の変革者(1) / 鑑三翁の「自由」の原点

    「今の世界はまことに混乱擾雑(じょうざつ)の海である。社会の腐敗は底なきが如く、世界の表は紛乱を以て満たされている。」ウクライナへの暴力的侵略と虐殺を止めないロシアプーチンの血まみれの手、パレスチナの女性や子供への殺戮を止めないイスラエルネタニヤフの非道、安倍政権に始まる裏金蓄財に関与した数多の自民党政治家たちの腐臭‥。上記の一文は斯様な現実を眼前にして今ここに居る私が記したものではない。鑑三翁が1920(大正9)年4月から12月にわたって東京で行った「ヨブ記講演」の一節である(内村鑑三:ヨブ記講演.p.165、岩波文庫、2014)。今から百年以上も前、鑑三翁が59歳の時に記したものだ。誠に天才という人間は時代をも未来をも貫通するような言葉をもって神の預言者の如くに簡明に本質を射貫くことのできる者だとつく...[Ⅷ301]世の変革者(1)/鑑三翁の「自由」の原点

  • [Ⅷ301] 世の変革者(1) / 鑑三翁の「自由」の原点

    「今の世界はまことに混乱擾雑(じょうざつ)の海である。社会の腐敗は底なきが如く、世界の表は紛乱を以て満たされている。」ウクライナへの暴力的侵略と虐殺を止めないロシアプーチンの血まみれの手、パレスチナの女性や子供への殺戮を止めないイスラエルネタニヤフの非道、安倍政権に始まる裏金蓄財に関与した数多の自民党政治家たちの腐臭‥。上記の一文は斯様な現実を眼前にして今ここに居る私が記したものではない。鑑三翁が1920(大正9)年4月から12月にわたって東京で行った「ヨブ記講演」の一節である(内村鑑三:ヨブ記講演.p.165、岩波文庫、2014)。今から百年以上も前、鑑三翁が59歳の時に記したものだ。誠に天才という人間は時代をも未来をも貫通するような言葉をもって神の預言者の如くに簡明に本質を射貫くことのできる者だとつく...[Ⅷ301]世の変革者(1)/鑑三翁の「自由」の原点

  • [Ⅶ300] 老いの意味論(8) / 老いを尊ぶか/嫌悪し嘲笑するか‥

    「われわれのよわいは70年にすぎません。あるいは健やかであっても80年でしよう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。」この一文は『聖書』(1963)「詩編」第90篇(モーセの祈り)である。聖書の「詩編」は紀元前530年頃に編集されたという説が一般的である。とすると古のこの時代の人たちは意外と長寿であったことがわかる。70歳健やかでも80歳だから。ところが歴史が進むにつれて、戦争、交易による感染症の伝播、産業化に伴う自然環境の汚染、急激な工業化に伴う労働環境の悪化、食糧事情の変化や富栄養化、等々によって、文明はそれほど人間の寿命を長くしてきたとは言えないのだろう。そして今日、新しい自由主義経済とか称するエセ経済学者が、強欲と富の寡占と傲慢と差別と格差...[Ⅶ300]老いの意味論(8)/老いを尊ぶか/嫌悪し嘲笑するか‥

  • [Ⅶ299] 老いの意味論(7) / 鑑三翁「老い」を記す②

    鑑三翁はその後64歳の時に次のように記す。老年期を「老熟」と捉えている。前項の論稿から10年近くが経過して鑑三翁の考え方もやや深化していると言ってよいか。《老年の祝福》【老いとは老耄ではない。老熟である。そうあらねばならない。老いは長く神に導かれてきた人間の”実験”であると考えればよい。信仰をもつ者はこのような考え方で神に仕え人間にも仕えなければならない。これに勝る幸福はない。したがって老いはできるだけ長い期間でありたいものだ。老年の一年は壮年の十年、青年の二十年に相当する。「命長ければ恥多し」(注:中国の古典「荘子」に「寿ければ辱め多し」〈長生きすれば恥をかくことが多い〉とある)という言葉は、信仰無き者の言い分であり、信仰をもつ者が口にする言葉ではない。「あなたの力はあなたの年と共に続くであろう」(申命...[Ⅶ299]老いの意味論(7)/鑑三翁「老い」を記す②

  • [Ⅶ298] 老いの意味論(6) / 鑑三翁「老い」を記す①

    鑑三翁は69歳で亡くなった(1930〈昭和5〉年)。心臓の疾患だった。この頃の平均寿命は男性でおよそ50歳、女性でおよそ53歳(厚労省資料)。当時は乳児死亡率が高く(出生100件に対し12.4)、感染症の罹患率も高く医療も不十分な時代でもあり、統計の手法も現在とは異なるので単純比較はできないものの、鑑三翁は当時としては長寿であったといえるだろう。しかしこれはあくまで「平均寿命」であって、乳児死亡率の高さなどが平均寿命を引き下げていたこともあり、七十歳八十歳超の老人も数多いたことも確かなことである。鑑三翁は「老人」や「高齢者」といった事柄に関する論稿は少ない。そのうちの論稿の二つを現代語訳した。「老年の歓喜」「老年の祝福」と題する論稿。《老年の歓喜》【若いことを喜び老年を厭うことは普通の人情である。しかしな...[Ⅶ298]老いの意味論(6)/鑑三翁「老い」を記す①

  • [Ⅶ297] 老いの意味論(5) / 3千年前の”老者の慰藉”    

    先に聖書「伝道の書」について触れた。その箇所は「伝道の書(最終章)12:1-8」である。その部分を引く。『あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。その日になると、家を守る者は震え、力ある人はかがみ、ひきこなす女は少ないために休み、窓からのぞく者の目はかすみ、町の門は閉ざされる。その時ひきこなす音は低くなり、人は鳥の声によって起きあがり、歌の娘たちは皆、低くされる。彼らはまた高いものを恐れる。恐ろしいものが道にあり、あめんどうは花咲き、いなごはその身をひきずり歩き、その欲望は衰え、人が永遠の家に行こうとするので、泣く人が、ちまたを歩...[Ⅶ297]老いの意味論(5)/3千年前の”老者の慰藉”    

  • [Ⅶ296] 老いの意味論(4) / 老化の科学(2)  

    (5-4)細胞はエネルギー代謝をして活発に働けば働くほど、必然的に反応性に富んだフリーラジカル(遊離基)という反応基が生じる。これは活性酸素の類である。活性酸素は、タンパク質、核酸,脂質などの体の構成成分に強力に反応し、過酸化物を作り出す。このフリーラジカルの生成は、突然変異、DNAの障害、異常タンパク質の生成など、さまざまな老化現象に関与していると考えられている。先述のテロメアの短縮にも関与しているらしい。また脳神経系細胞のアポトーシスによる死にも関係しているかもしれないとされている。(5-5)胸腺は人間のあらゆる臓器の中で最も老化を鋭敏に映し出す臓器である。胸腺は臓器の構造は生まれる前にすでに完成している。十歳代までは胸腺は重量を増して最大三十五グラム程度に達するが、その後は年齢とともに縮小し、四十歳...[Ⅶ296]老いの意味論(4)/老化の科学(2) 

  • [Ⅶ295] 老いの意味論(3) / 老化の科学(1)  

    ところで人間にはなぜ老化が起こるのだろう。ここで免疫学の権威故多田富雄氏の著書『生命の意味論』(新潮社、1997)をのぞいてみた。以下記述内容は多田富雄氏のこの書籍からの部分的引用と要約で構成した原稿であることをお断りしておく。多田氏のこの書籍の執筆当時と比較すれば、老化に関する生命科学的知見は増大しているのだろうが、少なくとも「老化」に関する決め手となる知見は発見されてはいないと思う。※「老化がなぜおこるのか」に関する生命科学の定説は未だにないといっていい。ただし少なくとも幾つかの仮説がある。以下の五項目だ。(5-1)その一つが「老化のプログラム」説。老化はゲノムの中に遺伝的にプログラムされているはずだ。時間とともにそのプログラムが発現してゆくことで全ての細胞は老いて、個体は遺伝的にセットされた寿命内で...[Ⅶ295]老いの意味論(3)/老化の科学(1) 

  • [Ⅶ294] 老いの意味論(2) / 老いは哀しや‥

    駅や歩道橋の階段が恐ろしい。かつては一段おきにも登っていた駅の階段がアルプスの山のように思われ一段登るごとに息をつくようになった。でもまだ登りの階段はいい。下りの階段は手すりにすがりながら一段一段恐る恐る下る。一段踏み外したら奈落の地獄に転げ落ちることになることを知っている。数日前のこと。午後には日課となった周辺を散歩していた(妻はこれを徘徊と言っている)。私の数十メートル前を白い上下の運動着を身に着けた年配らしい男が歩いていた。歩きの歩幅は私の方がやや広いので、彼に追いつきそうになった。彼は街路樹の木陰の先を歩いていたのだが、突然視界から消えた。はてどこへ消えたのか‥と思っていたら彼は一段低くなった歩道の窪みにうつ伏せのまま倒れていた。彼が起きようともしないので異変を感じて声をかけた。返事もない。そこで...[Ⅶ294]老いの意味論(2)/老いは哀しや‥

  • [Ⅶ293] 老いの意味論(1) / 伸びたゴムが元に戻らない‥

    鑑三翁は1930(昭和5)年3月にこの世での仕事を終え帰天している。69歳。当時としては長寿である。私はその年齢をとっくに越したが、最近心身に「老化」の兆候が迫ってきてかなわない。目にも歯にもあそこにもどこにも不具合が来ている。ふと私を襲っている老化の兆候は鑑三翁も経験したのだろうかと思う時がある。鑑三翁は心臓の病を持っていたから、その不快な身体症状は耐え難かったのではないかとも推測できる。それらの日々については鑑三翁の日記に記されているが、それは病気の症状に関してのものであり「老い」の実感を殊更記しているのではない。しかし神から遣わされた天才預言者にも老いは確実に到来していたはずである。鑑三翁の「老い」に関する論稿は少ないが、これに関しては後日触れることにする。※妻と朝の軽食をとり寝室兼書斎でラジオ体操...[Ⅶ293]老いの意味論(1)/伸びたゴムが元に戻らない‥

  • [Ⅵ292] 安楽死/考 (15) / あなたは安楽死を望んだか‥

    私自身の体験である。ある日突然妻の若菜がスキルスの診断を受けた。若菜はおよそ4か月の闘病の末に5歳と1歳になったばかりの二人の子どもと私を残して天国に帰った。この間私は若菜には病名を告げなかった。彼女との闘病の日々のことは既に書いた《連載[Ⅲ134-184]我がメメントモリ(1)-(51)》。私は若菜の苦悶を見ているのが耐えがたかった。しかし彼女には苦悶の時間が過ぎると平安の時間が訪れることがあった。この平安の時間の中で私は若菜とあらゆることを話した。病室のソファーで寝ている私の指と若菜の指とを緑の毛糸で結んでおいて、目覚めて尿意を感じたときなどは若菜がこれを引っ張って私を起こした。私は彼女の排泄のケアをして後便器を病棟の廊下の端にある洗浄機で洗浄して病室に戻る。すると束の間静かな時間が流れ二人で話し込ん...[Ⅵ292]安楽死/考(15)/あなたは安楽死を望んだか‥

  • [Ⅵ291] 安楽死/考 (14) / 「安楽死」を弄ぶ者たち

    一人のALSの患者さんが主治医でもない二人の医師に”安楽死”を依頼して実行し亡くなった。2019年11月のことである。この患者さんはSNSで一人の医師Aと出遭い、この医師につながるもう一人の医師Bとタッグを組んで”安楽死”が実行された。二人の医師はその後逮捕・起訴され審理が続いてきたが、24年3月5日京都地裁でAには懲役18年の判決が出された。共謀に問われたB被告はこう話しているという(AERAdot.240307)。「Aは寝たきりの人や高齢者は医療費をむさぼり不要だと言い口癖のように”片づける”と言っていた」と。何とAは元厚労省医官である。Aの生命観には言葉を喪うしかない。この事案を主導した医師Aがかつてツイッターの投票機能を使って「安楽死」の”対価”を公募したところ、”三千件の応募”があり具体的には「...[Ⅵ291]安楽死/考(14)/「安楽死」を弄ぶ者たち

  • [Ⅵ290] 安楽死/考 (13) / すぐ手の届く所にある死の選択肢

    宗教思想家で音楽家の竹下節子さん(フランス在住)のブログを私はいつも読んでいる。ある日の投稿が目に止まった(230623)。ベルギーでの安楽死の事例だ。その一部を紹介させていただく。『「自殺幇助の先進国」のベルギーの例で、3人の子供を持つ49歳の男性が、事故で手足の機能をすべて失ったことを知った後、48時間後には「自殺」幇助を受けたというのがあるそうだ。はやい。素人目にもはやすぎる。もちろん今まで健康だった人が意識不明状態から目覚めて突然、両手両足を失くしたのと同じ状態を知って、これでは生きている意味もないし家族のためにもならないなどと考えることは、想像はできる。でも、同じ状態でもいろいろな過程を経て、新しい生き方や命の意味を自分も見つけて、周りの人にも伝えていく人の例も事欠かない。試練や希望について、体...[Ⅵ290]安楽死/考(13)/すぐ手の届く所にある死の選択肢

  • [Ⅵ289] 安楽死/考 (12) / 尊厳ある死を‥

    手許に新聞記事の切り抜きがある。音楽家の坂本龍一さんが2023年3月28日に亡くなったが、彼が亡くなる日までの日録等を編集して刊行される書籍の紹介記事だ(東京新聞230619)。坂本さんのある日の病床日記が紹介されている。《かつては、人が生まれると周りの人は笑い、人が死ぬと周りの人は泣いたものだ。未来にはますます命と存在が軽んじられるだろう。命はますます操作の対象となろう。そんな世界を見ずに死ぬのは幸せなことだ》(二〇二一年五月十二日)そして亡くなる数日前(二十五日)には自ら緩和ケアに移ることを決めた。そして医師には握手をして礼を述べ、《もうここまでにしていただきたいので、お願いします》と語ったと記されている。この記事で坂本さんが記し話した事柄は示唆的だ。日記では坂本さんは人間の生死の未来をこのように考え...[Ⅵ289]安楽死/考(12)/尊厳ある死を‥

  • [Ⅵ288] 安楽死/考 (11) / メルケルさんは法制化に慎重

    今まで「安楽死」については、森鴎外の『高瀬舟』論、鑑三翁の「安楽死」論、鑑三翁のターミナルステージの有り様について記し、そして「安楽死」法の論点整理をしてみた。私は何も法律の専門家でもないし、ここで大層な論文を執筆する意図などもない。ドイツの首相(在任2005-21)として活躍したアンゲラ・メルケル氏注)は熱心なキリスト者(ルター派プロテスタント)として知られている。国内政治/国際政治の場で、長きにわたりそのキリスト教的信念を保持しながら、妥協と力関係の支配する政治世界で活躍したことは我々も記憶に新しい。ここではメルケル氏の連邦議会での「安楽死」に関する発言を取り上げてみた。政治世界は言論格闘技の場でもあることもよくわかる。注):AngelaDorotheaMerkel、1954年ハンブルグ生まれ、生後間...[Ⅵ288]安楽死/考(11)/メルケルさんは法制化に慎重

  • [Ⅵ287] 安楽死/考 (10) / 法の論点整理  

    以上鑑三翁の論稿等を引き合いにして「安楽死」論を述べてきた。ここで私は法的な側面からの論点を整理する必要を痛感している。欧米諸国では近年急速に「安楽死」関連の法制化が行われるようになってきた。法律の名称や内容は、その国の宗教的/文化的な背景を踏まえていて様々のようだ。だが法制化した国々では、法律制定に至るまでには、専門家のみならず一般市民が参画して公開された議論が尽され、法制化後も慎重な運用が行われているのが一般的である。法制化へのプロセスでは浅薄な感情論や愚劣な政治的企図は排除されてきた印象も強い。ここで先述の『いのちの法と倫理[新版]』(葛生ら、法律文化社、2023)から論点を整理してみた。1.「任意的安楽死」とは法的に患者らを保護するためには患者らの同意がまず必要になる。本人の意思表示を前提として「...[Ⅵ287]安楽死/考(10)/法の論点整理 

  • [Ⅵ286] 安楽死/考 (9) / 鑑三翁は安らかな死を懇願した

    鑑三翁が天に召されるまでの最後の日々の様子は、鑑三翁が深く信頼していた主治医の藤本武平二の日録に記録されている。私の連載(Ⅱ126:さらば、鑑三翁(6)/藤本武平二氏)にも掲載した。その中でこのような場面がある。鑑三翁が亡くなる前日の藤本氏の記録である。これを再掲した。藤本氏は敬愛するキリスト者内村鑑三翁とのやりとりを、日々忘れないように克明に記録していた。※〇3月27日ご容態はよくありません。食欲は振るわず、浮腫が全身に及びました。午後8時半から私一人で枕頭にいました。次の間には高橋菊江姉(注:看護師)が控えていました。10時注射の時間となりましたが、先生は言われました。「じーっと堪えていたら悪魔が二度ほど通り過ぎた。無抵抗主義で勝った。注射なしでやってみよう。」「なかなか戦いがえらい(注:「大変だ」の...[Ⅵ286]安楽死/考(9)/鑑三翁は安らかな死を懇願した

  • [Ⅵ285] 安楽死/考 (8) / 死の「時」

    鑑三翁は人間の生命は神の造られた「像」なので尊ばなければならないとした。ではその人間が死を迎える時/神の腕に抱かれて天に召される「時」は何時なのか。鑑三翁はこれについては次のように記している(全集20、p.270)【「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり」(伝道の書3:1-2)と言う。そうであれば信仰をもつ者(原文「信者」)の死すべき時とはいかなる時であるか。信仰をもつ者はいたずらな長寿を保つべきではない。死は彼にとっては神の呪い(原文「呪詛」)ではない。彼には死すべき時がある。その時が来れば彼は感謝して死すべきである。信仰をもつ者は神の僕(しもべ)である。主人から特殊な要務(注:重要な用務のこと)を委ねられた者である。したがって彼はこの要務を果た...[Ⅵ285]安楽死/考(8)/死の「時」

  • [Ⅵ284] 安楽死/考 (7) / 人はみな神の宮殿  

    私が鑑三翁のこの一文で注目するのは「知的障がい者教育の必要性は経済的な打算で説明できるものではない、なぜならば彼らは神の子だからだ」という一点である。そして鑑三翁は続けて以下のように記す。【「この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。」(コリント人への第一の手紙8:11)これが全ての弱き人、全ての苦しむ者、全ての貧しい者を救おうとする最高で最も深い動機である。路頭に迷う家のない子ども、警官に追い立てられる乞食(こつじき)の者、経済的には社会に何の価値も見出せない知的障がいの者、歩行障がいの者、目の見えない者、耳の聴こえない者、話せない者、四肢欠損の者、これらの者は皆「キリストが代わって死なれる弱い者たち」である。しかるがゆえに貴いのである。彼らでさえもし神の御心(原文「聖旨)にかなえば信仰によっ...[Ⅵ284]安楽死/考(7)/人はみな神の宮殿 

  • [Ⅵ283] 安楽死/考 (6) / 人間には神の性質が備わる  

    さて本題に戻る。鑑三翁の「必ず全治することが可能とみなし」の表現だが、「みなし」とは「実際にはそうでないものを,そうだと思って見る」ことを言うのだから、治癒困難/治癒不能の病気であることをほとんどの場合「告知」しなかった鑑三翁の時代ゆえの表現と言う事ができる。つまり医師は実際には治癒しないと診断し確信しているが、それをそのまま患者に言ってはならない、私(医師)は治癒することが可能だと思っていますよ、と伝えることで、医師も治療看護を(放棄せず)継続すべきである、と言っている。鑑三翁はそれが人間の生命の貴重さと尊さを尊重する人間の態度であると言うのだ。今の時代の通念から言えば、それは虚偽ではないのか、誠実な姿勢ではない、事実は事実としてそのまま言うべきだ‥ということになるのかもしれない。しかし考えてみれば数十...[Ⅵ283]安楽死/考(6)/人間には神の性質が備わる 

  • [Ⅵ282] 安楽死/考 (5) / その前に「告知」の周辺

    ここで「死ぬとわかっている病気」とは、医師の科学的な診断と判断に基づくもので(鑑三翁の時代にも私の生きている今の時代でも)、あらゆる治療手段を駆使しても治癒の可能性がない病気を指している。ここでの主役は診療を行う医師である。次に「必ず全治することが可能とみなして」とは、医師が患者本人及び家族に向けたメッセージである。ここでの主役は三者即ち医師・患者/家族である。医師は彼の知識(文献、知識と経験、複数の医師によるカンファレンス)によって治療の方法はなく治癒困難であると診断した。さてここで最初に問題となるのは、診療現場での病名の「告知」である。近年でこそ患者本人に病名告知することが一般的となっているが、これをそのまま「ロボット告知機械」のように(訴訟や面倒を恐れて、あるいはがん保険のこともある)そのまま患者に...[Ⅵ282]安楽死/考(5)/その前に「告知」の周辺

  • [Ⅵ281] 安楽死/考 (4) / 鑑三翁「安楽死」論‥試論   

    さて鑑三翁である。この森鴎外の小説等に関して鑑三翁が評論を加えた記録はないのだが、普段から購読していた雑誌の事なので鑑三翁がこれを読まなかったとは考えにくい。むしろしっかりと読み込んだことだろう。その時鑑三翁の胸に去来したものはどのような思いだっただろうか。鑑三翁のキリスト教信仰は深く厳しく柔和で慈愛に富むものである。鑑三翁のこのキリスト教的信仰の堅い岩盤から「安楽死」を考えたとき、どのような論稿を執筆しただろうか‥この事に私は強い関心を抱いている。鑑三翁のキリスト教信仰では、生と死は神の手に委ねられているので、死の瞬間も神の腕(かいな)が神の国に自分を誘ってくれるのだから、死の瞬間を「人」の手に委ねることはできない‥しかし森鴎外『高瀬舟』の場合には、死の瞬間を委ねたのは心を通い合わせてきた信頼する兄だ、...[Ⅵ281]安楽死/考(4)/鑑三翁「安楽死」論‥試論  

  • [Ⅵ280] 安楽死/考 (3) / 懇願‥らくに死なせてくれ

    鴎外がこの書で指摘している主題は「経済的な貧困」と「安楽死」である。貧しくとも懸命に兄弟が支え合って生きてきた。その愛する弟は重篤な病気になる。弟は考えた、この病気は苦しいばかりで恐らく治癒の可能性もないのだろう、その上経済的にも兄に大きな負担をかけている、と。その苦悶の末に弟は自殺を決行する。未だ死を果たせないまま苦しんでいる目の前の愛する弟は、彼に死を懇願している、その時兄の動揺困惑は止まり弟の苦しみを解放してあげようと考えてカミソリを抜いた。弟を死に至らしめた行為によって罪を負わされて島送りになる際に、役人から手渡されたのは生涯もったこともない大金。鴎外は医師として軍医として、軍属や一般人の病者の多くの死に立ち会ってきた。その中で自然死のように老衰や穏やかな心不全などで亡くなる患者は幸せである。しか...[Ⅵ280]安楽死/考(3)/懇願‥らくに死なせてくれ

  • [Ⅵ279] 安楽死/考 (2) / 鴎外の問題提起

    鑑三翁の「安楽死」観に立ち入る前に、森鴎外の『高瀬舟』について考えてみる。この小説は教科書にも掲載されてきた”問題作”であり、数多の人たちがこの作品が扱う「安楽死」の問題について論じている。映画化もされた(松山善三脚本、1988)。ここでは私なりの論を起こしてみる。小説『高瀬舟』のあらましである。《徳川時代には遠島を命ぜられた京都の罪人は高瀬舟で大阪へ護送されたものである。この話は彼らを護送する京都町奉行所の同心の話の一つである。‥‥兄弟殺しを犯した男が少しも悲しそうにしていなかったので、その理由を尋ねると、彼は遠島を言い渡された時にもらった銅銭二百文が持ったこともない大金であったと話した。そして子供の頃に両親を亡くした兄弟は二人で力を合わせて生きてきたが、弟は病気になり、兄は懸命に働いて弟の看病をしてき...[Ⅵ279]安楽死/考(2)/鴎外の問題提起

  • [Ⅵ278] 安楽死/考 (1) / 「安楽死」とはなにか

    私は「安楽死」の問題を積み残しにしていた。この連載では《Ⅳ236「日本人は浅い民である」(230503)》として問題を提起したままだった。「安楽死」の問題はとても深遠な問題を抱えていてとても難しい。私はこれに関して記すのをためらっていたが意を決して書くことにした。「安楽死」とはなにか。《「安楽死」を示す英語のeuthanasiaは、ギリシャ語のeu(良い・気高い)とthanatos(死)からできていて、「良き死」(gooddeath)という言語的意味をもっていた。しかし現在では一般に、それとは逆の状態、すなわち「苦痛に満ちた侮辱的な状態から解放されるための死」、「安楽になるための死」という意味で用いられる》(葛生栄二郎、河見誠、伊佐智子:いのちの法と倫理[新版].p.179、法律文化社、2023)。まず鑑...[Ⅵ278]安楽死/考(1)/「安楽死」とはなにか

  • [Ⅴ277] 泣きべそ聖書(37) / イエスの母の涙

    ◎さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリアとが、たたずんでいた。イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母に云われた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて...[Ⅴ277]泣きべそ聖書(37)/イエスの母の涙

  • [Ⅴ276] 泣きべそ聖書(36) / 人こひ初めしはじめ 涙 (3)

    若菜が歩行も難しくなり個室に入ると、ボクは仕事を終えると病院に帰り、ベッドの脇のソファで毎晩若菜の傍で一緒に寝た。若菜は部屋のトイレに歩いて行くこともままならなくなってきたので、それを知らせるために若菜とボクは緑色の毛糸をお互いの手の指に結んでから寝ることにした。ある夜のこと、若菜が毛糸を引いてボクを起こした。ボクはベッド上で若菜の下の世話をした。ボクはいつものように、この病棟の長い廊下の果てにあるトイレに行き、洗浄器で便器を洗って部屋に戻った。そのとき、なぜかこの部屋が妙に明るく感じた。若菜が笑顔でボクを迎えた。「どうしたの?何がおかしいの?」「だって思い出していたんだもの。ユウキ!」「なんだい、いきなり、何を思い出していたの?」「いつか、ずーっと前、まだ二人だけだったとき、ユウキがこんなこといつも言っ...[Ⅴ276]泣きべそ聖書(36)/人こひ初めしはじめ 涙(3)

  • [Ⅴ275] 泣きべそ聖書(35) / 人こひ初めしはじめ 涙 (2)    

    若菜とボクが初めて会ったのは、出版社の入社が決まって初めての顔合わせの日だった。その日はボクの母が乳癌の手術後、転移性肺癌を発症して入退院を繰り返した後亡くなり、葬儀の行われた翌々日のことだった。この日は新卒者が始めて会社に呼ばれた日だったが、母親の死は、当日の朝初めての出社を躊躇させるほど大きな事件だった。しかしボクはそんな思いを振り切って出社した。ふくよかで静かで愛くるしい若菜は、この日薄茶色の上下のスーツを着て会社の応接室で静かに座っていた。ボクたち男子社員は若干名の募集のところ多くの応募者から選抜されたのだったが、女性が一人いることに驚いたものだ。若菜は会社の役員の縁故で無試験で入社をしたことがあとでわかった。その3年後ボクたちは結婚した。伊良湖岬に出かけたのは結婚した年の秋だった。そしてそれから...[Ⅴ275]泣きべそ聖書(35)/人こひ初めしはじめ 涙(2)   

  • [Ⅴ274] 泣きべそ聖書(34) / 人こひ初めしはじめ 涙 (1)

    ◎イエスは涙を流された。(ヨハネによる福音書11:35)エルサレムの東オリーブ山南東ベタニヤの町にイエスの友人マルタとマリヤ、ラザロが住んでいた。イエスはラザロの家族と親しく、しばしば訪問していた。このマリアは自分の涙でイエスの足を濡らし自分の髪の毛でぬぐい、その足に接吻して香油を塗った者で、イエスはこのマリアに「あなたの罪は許された。安心して行きなさい」と言われたことがある。イエスはラザロを愛していたが、ある時ラザロが病気になったので、姉妹は人をやってイエスにそのことを伝えた。しかイエスが到着する前にラザロは亡くなった。マリアはイエスの足もとにひれ伏して、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、ラザロは死ななかったでしょう」と言った。イエスは彼女が泣き、彼女と一緒の者たちが泣いているのを見て、激しく...[Ⅴ274]泣きべそ聖書(34)/人こひ初めしはじめ 涙(1)

  • [Ⅴ273] 泣きべそ聖書(33) / ピアノトリビュートに涙‥母よ(2)  

    母は山形市の母子寮の寮長を最後に保健師としての仕事を終えて引退した。しばらくして父が亡くなり、その後は独居生活を続けていた。母が一人暮らしとなってからも、私と妻と二人の息子たちは今まで通りお正月と春休み、夏休みなどに母を訪ねた。母はいつも楽しげに台所に立ち、「芋煮」「もってのほか(菊)」「鯨汁」「アケビ煮」「山ひじき」などのご馳走を振舞ってくれた。息子たちも母の山形料理を気に入っていた。母とは東京で一緒に生活することも考えていたが、妻にははっきりと「東京暮らしは絶対に嫌だ」と話していた。東京での同居生活はあきらめざるを得なかった。母が90歳の誕生日を迎える頃に検診で肺がんがみつかり、幸い放射線治療が奏功して肺の固型がんは安定化した。しかしこの頃から母は心身の不調を訴えることが多くなり、隣町に住む母の妹も時...[Ⅴ273]泣きべそ聖書(33)/ピアノトリビュートに涙‥母よ(2) 

  • [Ⅴ272] 泣きべそ聖書(32) / ピアノトリビュートの涙‥母よ(1)

    ◎泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。(ルカによる福音書7:38)イエスは招かれてパリサイ人の家で食事をすることになった。するとそのとき、その町で罪の女と言われていた者が、イエスの事を聞いて、高価な香油が入った壺を持ってきて上記のように「まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った」のである。これを見てイエスの第一番の弟子シモン・ペテロは不快に思った。なぜならばこの女は「醜業婦」と言われている不浄な罪の深い人間だ、なのにイエスはそのような女の為すがままにさせている、ここはこの女を咎めて追い出さなければならない、と。するとその心中を察したイエスはペテロに向かって次の...[Ⅴ272]泣きべそ聖書(32)/ピアノトリビュートの涙‥母よ(1)

  • [Ⅴ271] 泣きべそ聖書(31) / 涙は泣く人だけが理解する言葉

    ◎あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足をつまずきから助け出されました。(詩篇116:8)「ルカによる福音書24:44」にはキリスト・イエスの言葉として「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」と記録されているほど「詩篇」は重要な書である。「詩篇」はダビデの手になるもののほかにダビデ以前から彼の死後に至るまでの数百年の間の人間の信仰経験あるいは宗教体験を詩的表現として手を加えて詩人が編纂したものだ。原始キリスト教会では、キリスト・イエスの全体像を「詩篇」の中に見ていた。新約聖書中には「詩篇」を参照し引用した箇所が400以上にのぼる。詩篇は正典としての聖書66巻中でも極めて重要な位置を占めており、キリスト教信者の信仰と生活の規範ともされてい...[Ⅴ271]泣きべそ聖書(31)/涙は泣く人だけが理解する言葉

  • [Ⅴ270] 泣きべそ聖書(30) / さらば友よ愛する者たちよ!

    ◎イザヤがまだ中庭を出ないうちに主の言葉が彼に臨んだ「引き返して、わたしの民の君ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられる、わたしはあなたの祈を聞き、あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。三日目にはあなたは主の宮に上るであろう。かつ、わたしはあなたのよわいを十五年増す。わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、わたしの名のため、またわたしのしもべダビデのためにこの町を守るであろう』」。(列王紀下:20:4-6)南王国ユダの王ヒゼキヤはその敬虔のゆえに際立っており、また古い伝統と教えを愛した。ヒゼキヤは反アッシリアの立場を貫いた。アッシリアのユダ侵入の直前にヒゼキヤは重い病気になった。ヒゼキヤは預言者イザヤに預言を乞うた。イザヤは主は日影を十度進むか十度退くかの...[Ⅴ270]泣きべそ聖書(30)/さらば友よ愛する者たちよ!

  • [Ⅴ269] 泣きべそ聖書(29) / なみだの中になむあみだ佛(5)

    鑑三翁には心を通わせお互いに信頼関係を保ってきた仏教家たちがいた。数は少ない。彼らはキリスト教の数多の教会の牧師たちよりも、欧米から日本に派遣されていた数多の宣教師たちよりも、はるかに精神性や宗教的心性において優れている者も多かったと述懐している。そして宗教的心性の堅固さと精神性の高さにおいて、歴史的な仏教家を高く評価している。次の鑑三翁の一文などもその一つであろう。【疎石禅師の言に曰く「我身を忘れて衆生を利益する心を起せば、大悲内に薫し、仏心と冥合す、故に一身の為めとて修せずと雖も、無辺の善根自(おのずか)ら円満す、みづからの為めとて仏道を求めざれども、仏道速かに成就す」と、以て直に之を基督教に適用するを得べし。】(全集20、p.67)即ち夢窓疎石(注:1275-1351、鎌倉時代末から室町時代初期にか...[Ⅴ269]泣きべそ聖書(29)/なみだの中になむあみだ佛(5)

  • [Ⅴ268] 泣きべそ聖書(28) / なみだの中になむあみだ佛(4)

    柳は心に浮かんだ上人のとある一日を次のように”活写”している(p.56)。柳が上人の傍らに居り記録したかのようだ。故郷甲州丸畑村に一時立ち寄った時の”記録”である。【松材を以て小さな草庵を上人のために造ったのは、丸畑向(むかわ)にある本家、即ち彼の兄の家の裏手であったようである。今日は残っておらぬ。愈々この大業に着手したのは寛政十三(1801・84歳)年三月六日のことであった。遂に成就したのがその年の十一月晦日であるから、要した月日は九ヶ月弱である。この間に彼は八十八個の仏を刻んだ。平均すれば三日に一個の割合である。或ものは実に僅か一日の中に作られている。丈凡そ二尺二三寸の仏軀を彼はどうしてかくも迅速に作り得たか。彼は既に年老いて八十四歳である。然るに彼の努力彼の精力は驚くべきものであった。昼となく夜とな...[Ⅴ268]泣きべそ聖書(28)/なみだの中になむあみだ佛(4)

  • [Ⅴ267] 泣きべそ聖書(27) / なみだの中になむあみだ佛(3)

    【彼の大願の一つは千体仏の彫像であって、廻国の途次有縁の各地にその作を遺し又堂宇を建てた。齢九十を越え遂に満願となり、更に二千体の念願へと進んだ。彼の故郷甲州はもとより、北海道、信越、東海、近畿、山陰、山陽、四国、九州、何処にも彼の刀跡が遺る。今丹波に見出される十六羅漢を始め、釈迦、阿難、迦葉の三聖等、皆千体仏中の一部である。彼の留錫した個所で彼の仏像を有たない所とてはない。彼の長生きと彼の精勤とは、真に夥しい数を産んだ。どんな彫刻家も彼程多作ではあり得ないであろう。巡錫の途次彼は至る所で「加持を修し、衆生の病苦を救」うた。奇蹟の数々が行われたことは口碑や記録のあかしする所である。「遠くより風に趨(はし)る者或は三百或は五百‥‥當村往古より以来(このかた)、是の如き盛事未だ嘗(かつ)て傳へ聞かず」と仏海は...[Ⅴ267]泣きべそ聖書(27)/なみだの中になむあみだ佛(3)

  • [Ⅴ266] 泣きべそ聖書(26) / なみだの中になむあみだ佛(2)   

    「縁起」とは仏教用語で”他との関係が縁となって生起する”ことを意味する。柳が木喰上人の木仏との「縁起」はこのようなものだ‥‥柳は朝鮮の陶磁器を見るために甲州の旅に出かけた、ある日焼き物を拝見するために知人を訪ねる、焼き物を見るために二躰の仏像の前を通り過ぎた、この仏像は暗い庫の前に置かれてあった、その時彼の視線はこの仏像に触れ即座に心を奪われた、それは地蔵菩薩と無量寿如来、「その口許に漂う微笑は私を限りなく引きつけました。尋常な作者ではない。異数な宗教的体験がなくば、かかるものは刻み得ないー私の直覚はそう断定せざるを得ませんでした。」(前掲書、p.16)大正12(1923)年1月のことだった。柳は知人からこの内の一躰を贈られ、その日から柳はその仏と一緒に暮らすことになる。知人を通したやりとりの中で、この木...[Ⅴ266]泣きべそ聖書(26)/なみだの中になむあみだ佛(2)  

  • [Ⅴ265] 泣きべそ聖書(25) / なみだの中になむあみだ佛(1)

    ◎涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。(詩篇125:5-6)ダビデの「都もうでの歌」の一節。ダビデはユダ族でベツレヘムに住むエッサイの子で羊飼いだった。ダビデは血色が良く目が美しく体格も良く、琴が上手で戦士であり勇士だった。初代イスラエル王国の王サウルはダビデを重用した。ある時イスラエルを侵略しようとしていたペリシテの巨人ゴリアテを石投げの一発で倒し、サウル軍の最高位の位階を得た。ところがサウル王は次第に評価の高まるダビデをねたむようになり、ダビデが王位を奪うのではないかと心配し始めた。ダビデはサウル軍に追われ一旦は荒野に逃げ放浪したが、サウル王の子ヨナタンはダビデを愛し彼を助けた。ダビデのもとには次第に兵士が集ま...[Ⅴ265]泣きべそ聖書(25)/なみだの中になむあみだ佛(1)

  • [Ⅴ264] 泣きべそ聖書(24) / 私の中のあなたへの涙

    ◎わたしは、あなたの涙をおぼえており、あなたに会って喜びで満たされたいと、切に願っている。(テモテヘの第二の手紙1:4)テモテは20歳頃からパウロの伝道旅行に同行し伝道に当たった。パウロが宣教の場を去った後にもその場に居残り宣教を続けたり、パウロの代理または使者としてマケドニアやその他各地に派遣され、重要な任務と役割を果たした人物である。またパウロの手紙のうち6つにおいてテモテは共同執筆者として名前が記されている。パウロからテモテに出された手紙には、彼がパウロの代理として小アジアの教会で責任ある働きをしていることに謝意が表されている。テモテは若かったのでそれを意識させながら成長するよう促している。パウロの殉教後もテモテは忠実に使命を果たし続け、エペソ教会の初代監督として選ばれた。ドミティアヌス帝の迫害で殉...[Ⅴ264]泣きべそ聖書(24)/私の中のあなたへの涙

  • [Ⅴ263] 泣きべそ聖書(23) / 認知症の妻がひとり流す涙

    ◎これは夜もすがらいたく泣き悲しみ、そのほおには涙が流れている。そのすべての愛する者のうちには、これを慰める者はひとりもなく、そのすべての友はこれにそむいて、その敵となった。(哀歌1:2)預言者エレミヤの嘆きはとまらない。かつての華やかな時を思い起こす。「ああ、むかしは、民の満ちみちていたこの都、国々の民のうちで大いなる者であったこの町、今は寂しいさまで坐し、やもめのようになった。もろもろの町のうちで女王であった者、今は奴隷となった。」(哀歌1:1)エレミヤの書記はユダの捕囚は70年にわたると言うエレミヤの預言を記した。エレミヤは民から迫害され受け入れられないなかで、エルサレムの滅亡を神の言葉として語り続けた。だがエレミヤも一人の人間だ。預言者の職にあってなおユダの民の人間としての苦しみと悲しみに対する深...[Ⅴ263]泣きべそ聖書(23)/認知症の妻がひとり流す涙

  • [Ⅴ262] 泣きべそ聖書(22) /  彼女はそこにいる! そこに!   

    ◎このために、わたしは泣き悲しみ、わたしの目は涙であふれる。わたしを慰める者、わたしを勇気づける者がわたしから遠く離れたからである。(哀歌1:16)聖都エルサレムは神の都であったのに、イスラエルの民の不誠実と背信のために神の裁きによりバビロンのネブカドネザルによって破壊されてしまった。そして南王国ユダは滅亡し、その民は娘たちも子どもたちも捕囚としてバビロンに引かれて行った。これを嘆き預言者エレミヤは坐して泣き「哀歌」を編纂した。「哀歌」には涙の詩に満ちている。神はエレミヤの知る勇士たちを無視し、聖会でエレミヤを責め、若い者たちを打ち滅ぼし、酒舟を踏むようにユダの娘たちを踏みつけた。バビロンの者たちはイスラエルの財宝をことごとく奪い、異邦人が入る事を許されていない公会の聖所に侵入して勝手に振舞った。イスラエ...[Ⅴ262]泣きべそ聖書(22)/ 彼女はそこにいる!そこに!   

  • [Ⅴ261] 泣きべそ聖書(21) / とらねこの初めての涙  

    ◎御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう。(ヨハネの黙示録7:17)黙示録の著者ヨハネは、世界の終わりの時の幻視を見た。「神が、すぐにも起こるべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。」(1:1)終わりの時は近づいている。その時に起こる事をヨハネは記した。「見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に」立った。神は言う‥彼らは大きな患難を通ってきた人たちで、その衣を小羊の血で洗い白くしたのだ、と。彼らはもはや飢えることもなく渇くこ...[Ⅴ261]泣きべそ聖書(21)/とらねこの初めての涙 

  • [Ⅴ260] 泣きべそ聖書(20) / 落涙のゆくえ‥  

    ◎人の子よ、見よ、わたしは、にわかにあなたの目の喜ぶ者を取り去る。嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。(エゼキエル書24:16)ユダヤ人の捕囚としてバビロンに連行されたエゼキエルは、バビロンで預言者として召された。多くの捕囚の者たちはエゼキエルのもとに集まり、神への信仰を捨てないようにエルサレムに帰還する希望を持つように、聖書中心の信仰生活の指導を受けていた。そんなさ中に神はエゼキエルの妻を天に召したのである。上記はその事を告げた神の言葉である。神の言葉はこう続いた(24章17節以後)。『「声をたてずに嘆け。死人のために嘆き悲しむな。ずきんをかぶり、足にくつをはけ。口をおおうな。嘆きのパンを食べるな」。朝のうちに、わたしは人々に語ったが、夕べには、わたしの妻は死んだ。翌朝わたしは命じ...[Ⅴ260]泣きべそ聖書(20)/落涙のゆくえ‥ 

  • [Ⅴ259] 泣きべそ聖書(19) / 梅花よ神よ、人間の愚を赦し給え

    ◎わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。(ピリピ人への手紙3:18)パウロは今は獄につながれている。熱心に布教したピリピの町は無事だろうか。パウロは第二次伝道の折にピリピに立ち寄った。この町はローマ人が多く住んでいてユダヤの民は少なかった。会堂はなかったのでパウロは安息日になると町の門を出て川岸に行き、そこで集まった女たちにキリストの話をした。ピリピの人たちは家族的で多くの女性たちによって福音活動が支えられていた。しかし一方ピリピでは、偽指導者たちがキリストへの信仰よりも知識/認識に重きを置いた教義を唱え、福音の本質から外れた教えを強調していた。それは十字架の福音に反するものだ。パウロは愛する...[Ⅴ259]泣きべそ聖書(19)/梅花よ神よ、人間の愚を赦し給え

  • [Ⅴ258] 泣きべそ聖書(18) / 爆死の子を埋む

    ◎わが目は涙のためにつぶれ、わがはらわたはわきかえり、わが肝はわが民の娘の滅びのために、地に注ぎ出される。幼な子や乳のみ子が町のちまたに息も絶えようとしているからである。(哀歌、2:11)旧約聖書「哀歌」は文字通り人間の哀しみを歌っている。「哀歌」の元の名称はヘブル語で「エーカー」で、これは「どうしてなのか」という問いかけだ。著者は諸説あるらしいが”涙の預言者”エレミヤとされている。聖都エルサレムはダビデによって神の都として定められ、ソロモン王によって神殿が完成し聖都として栄えてきた。しかしユダの民の不誠実と背信のゆえに神の裁きを受け、エレミヤの預言どおりにバビロンのネブカデネザル王によってBC605年に第一回の捕囚が始まり、586年にはエルサレムが破壊された。「哀歌」は、南王国ユダが滅亡しその民が捕囚と...[Ⅴ258]泣きべそ聖書(18)/爆死の子を埋む

  • [Ⅴ257] 泣きべそ聖書(17) / 21世紀の今も捕囚の涙は流れる‥

    ◎われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。(詩篇137:1)旧約聖書「エゼキエル書」によれば、ユダの民の捕囚民の大部分はバビロニアのケバル川沿いに移住させられた。バビロン帝国のネブカドネザル王が荒廃した都を立て直すために労働力が足りず、ユダの民の捕囚は恰好の労働力だった。その労働は過酷で、捕囚となったユダの民は殺された多くの同胞や拉致された娘たちの事を思い起こし、労働の過酷さとあいまって、砂漠の向こうの二千キロ離れた故郷エルサレムを思い日々涙を流していた。シオンはイスラエルの象徴である。「われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。われらをとりこにした者が、われらに歌を求めたからである。われらを苦しめる者が楽しみにしようと、「われらにシオンの歌を一つうたえ」と言った。われらは外...[Ⅴ257]泣きべそ聖書(17)/21世紀の今も捕囚の涙は流れる‥

  • [Ⅴ256] 泣きべそ聖書(16) / エステルの涙‥

    ◎エステルは再び王の前に奏し、その足もとにひれ伏して、アガグびとハマンの陰謀すなわち彼がユダヤ人に対して企てたその計画を除くことを涙ながらに請い求めた。(旧約聖書エステル記8:3)バビロンの捕囚から帰国したユダヤ人モルデカイは孤児となったエステルを養女として育てた。彼女はその美しさゆえペルシャ王クセルクセスの后に選ばれる。一方悪徳の奸臣ハマンはモルデカイに怨念を持っておりユダヤ人を皆殺しにする奸計をめぐらせていた。これを密告によって知ったエステルは、ユダヤ人を救うべく王に対して決死の嘆願行動に出て真実を伝えた。その思慮深い行動によってユダヤ人は救われ逆にハマンは死刑に処せられた。※戦争の理不尽は国家同士の利益収奪から始まる。市民同士の戦いは仮にあっても妥協が適時適正に行われ短期間で終了する。なぜならば相互...[Ⅴ256]泣きべそ聖書(16)/エステルの涙‥

  • [Ⅴ255] 泣きべそ聖書(15) / しえたげられる者の涙(5)   

    「涙」からいささか離れてしまった。鑑三翁も伝道者も世俗世界に真の救いはないことを繰り返し記す。呆れてモノが言えないのが世間というわけだ。であれば鑑三翁/伝道者はどうしたのか。【《官吏社会の愚(伝道の書9:11)》行政機関の官吏社会の生存競争においては、優れた者が必ずしも勝者とはならず、能力の劣った者が必ずしも敗者になるわけでもない。官吏社会にあっては、多くの場合学識はかえって昇進の妨げとなるもので、かえって無学が立身出世には好都合である。愚者が恩恵を受け、知者はかえって官位を避けて遠ざけられる(注:原文は「貶黜(へんちゅつ)」)のだ。実にこの社会というものは奇怪なものだ。知者が食物を得られるのではなく、賢者が財貨を得るわけでもなく、識者が恩恵を得られるのでもない。官吏の社会の真実を物語る言葉でこれほど(9...[Ⅴ255]泣きべそ聖書(15)/しえたげられる者の涙(5)  

  • [Ⅴ254] 泣きべそ聖書(14) / しえたげられる者の涙(4)   

    どこを見ても世間には腐敗が横行し、正しい事は行われず、頼みにしている司法世界も邪悪さに支配されている。当然のことながら政治世界はさらにひどい状況‥こう私は記しながら今の日本の政治状況を目の当たりにしている。東南アジアのある国の大統領は汚職撲滅にあらゆる手段を講じてきたが、一向に止まる気配もない有り様に「汚職は風土病だ」と歎じたという記事を読んだことがある。言い得て妙である。鑑三翁は明治政府の薩長政治に不正と邪悪を見ていたことは既に記した。鑑三翁の政治情勢への指弾は止まらない。続けて鑑三翁を読む。鑑三翁の政治観だ。【《政治は婬婦の如きもの》「貧しくて賢いわらべは、老いて愚かで、もはや、いさめを入れることを知らない王にまさる。たとい、その王が獄屋から出て、王位についた者であっても、また自分の国に貧しく生れて王...[Ⅴ254]泣きべそ聖書(14)/しえたげられる者の涙(4)  

  • [Ⅴ253] 泣きべそ聖書(13) / しえたげられる者の涙(3)

    鑑三翁も奈辺は十分に心得ていたことだろう。鑑三翁はキリスト教国がこぞって参戦した第一次世界大戦が、いかに反キリスト教的な戦いであるのかを下記のように記す。【《欧州の戦乱(※第一次世界大戦)と基督教》信仰を持たない人たちはこう考えるだろう、キリスト教信者は神の恩寵を受ける人たちであり、彼らはどんな罪を犯しても神は彼らを罰することはない、と。しかしこれは大きな誤りである。キリスト教の信者は神から愛される者であるがゆえに、神は信者が罪を犯す場合には、不信者を罰するよりも厳格に信者を罰せられるのだ。我ら信者が時に神から受ける刑罰は不信者が予想も出来ないほど厳しいものだ。そのようにキリスト教国家は非キリスト教国家よりもはるかに厳格に神に罰せられるのだ。‥国家が(国民の)全ての関心と注意を国威発揚と国力発展だけに奪わ...[Ⅴ253]泣きべそ聖書(13)/しえたげられる者の涙(3)

  • [Ⅴ252] 泣きべそ聖書(12) / しえたげられる者の涙(2)  

    この権力者による圧政について鑑三翁の記事がある。コーヘレスは圧政によって苦しめられる民衆に共感を示している。現代語訳した。【《圧制は今も》彼(コーヘレス、伝道者)は、本来自由に振る舞うべき者たちが、権力者の圧政によって苦しむのを見て泣いた。彼はあらゆる場所に行ったがいずれの場所でも行われている権力者による圧政を観察して言った。「わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。見よ、しえたげられる者の涙を。彼らを慰める者はいない。しえたげる者の手には権力がある。しかし彼らを慰める者はいない。」(4:1)と。圧政は広く世に行われている。‥自分の安寧を保つためには、一つの階級は他の階級を圧力で支配していつまでもその圧政の手を緩めないのだ。そしてたまたま博愛の精神をもった人間が出て来て、誰にでも分け隔てなく...[Ⅴ252]泣きべそ聖書(12)/しえたげられる者の涙(2) 

  • [Ⅴ251] 泣きべそ聖書(11) / しえたげられる者の涙(1)

    ◎わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。見よ、しえたげられる者の涙を。彼らを慰める者はない。しえたげる者の手には権力がある。しかし彼らを慰める者はいない。(伝道の書、4:1)涙を流して虐げられる者を慰める者はおらず、彼らを虐げる者にも慰める者はない‥虐げられる者云々は理解できるが、虐げる者にも慰める者はいない、とは一体どのような事を示しているのか。※旧約聖書「伝道の書」(新共同訳聖書では「コヘレトの言葉」)は、一読すると「聖書」全体の思想と相容れない言葉や表現に満ち、神の不在を嘆いているようにも、空海仏教に通底する思想(例えば空とか無)を表しているようにも見える。これは編纂された当時のギリシアのストア派の懐疑/厭世観、エピクロス派の快楽主義の影響を色濃く反映したものと考えられている。また伝...[Ⅴ251]泣きべそ聖書(11)/しえたげられる者の涙(1)

  • [Ⅴ250] 泣きべそ聖書(10) / ヨブの涙は神に向けて流される(2)

    ヨブは自分の死の近い事を覚悟した。友は全く相手にもならぬ。そしてここでヨブは神と対峙するが如く涙を流しながら必死に神に訴え頼むのだった。どうか〈彼〉が人間のために神と弁論して私と友との間を裁いてくれるように、と。ここで〈彼〉とは何者なのだろうか。ここは鑑三翁に聞く。原文のまま要点の部分のみ記す。【神に対して怨(うらみ)の語を放つは、勿論その人の魂の健全を語ることではない。しかしこれ冷かなる批評家よりもかえって神に近きを示すものである。‥ヨブは死の近きを知り、かつその不当の死なることを一人も知るものなきを悲みて、わが血をしてわが無罪を証明せしめんとて地に後事を托して、綿々たる怨を抱いて世を去らんとするのである。これ絶望の悲声であって理性の叫ではない。‥ヨブの無罪を証を立つる、一種の証人を要求するのである。‥...[Ⅴ250]泣きべそ聖書(10)/ヨブの涙は神に向けて流される(2)

  • [Ⅴ249] 泣きべそ聖書(9) / ヨブの涙は神に向けて流される(1)   

    ◎わたしの友はわたしをあざける。しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。(ヨブ記16:20)神に対して敬虔であり義の人ヨブに何ゆえ深刻な災いがふりかかるのか。なぜ神は沈黙を続けているのか。その神に対してヨブは”とりなし”を願い神に向かって涙を注ぐのだ。※ヨブはウズという地の人で、生活は誠に正しく神を畏れることを知り、悪を遠ざける人だった。彼の子どもは男七人女三人の家庭で、羊七千駱駝三千牛五百メスの驢馬五百、僕も多く居り、富裕で神を敬い敬虔な生活を営んでいた。エホバ神は正しく神を畏れ悪を遠ざける点においてヨブほどの人間はいないと考えていた。そこでサタンはエホバに言う。「彼の財産や家族を撃てば彼は神を呪いますよ」とエホバをそそのかした。サタンはエホバの許しを得て、天の火によって家畜を全滅させカルデア人がラクダ...[Ⅴ249]泣きべそ聖書(9)/ヨブの涙は神に向けて流される(1)  

  • [Ⅴ248] 泣きべそ聖書(8) / 涙の泉をください‥    

    内村鑑三という人は、キリスト教にとってみれば異教の国日本に神の意思で配置された”預言者”だ‥私はそう考えている。がしかし鑑三翁には人生途上の困難が幾度も襲った。このことは私のこの連載で何回も記事にした。心身共にタフな鑑三翁にも心の疲労困憊が襲うことがあった。1912(明治45)年に記された日記風の記述にそれが表れている。執筆されたのは娘ルツの死の直後の事である。「某日某時」という記事の主題が鑑三翁の心の疲労困憊を物語っている。鑑三翁の神への祈りの言葉のようだ。鑑三翁の心が泣いていることが伝わる。「某日某時(その日その時)」とは鑑三翁が神の手によって「死」へと誘われる時のことである。【◎某日某時(その日その時)「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる。...[Ⅴ248]泣きべそ聖書(8)/涙の泉をください‥   

  • [Ⅴ247] 泣きべそ聖書(7) / 涙をぬぐってくださる(2)

    鑑三翁はこれら黙示録の箇所を引用して、このような慰藉の言葉に満ちた箇所は聖書のどこにも見られない、神が彼らの涙をことごとく拭って下さるという箇所を読んで、我々の目には感謝の涙が浮かぶのである、と記す。【黙示録は戦争の最中に血をもって書かれた信仰の書である。その文体が著しく戦闘的であるのはこの為である。馬とかラッパとか神の怒りを盛った七つの金の御椀、またイエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおるのを見たと記す(20:4)。血が滴り落ちる(注:原文は「鮮血淋漓」)とはこの事である。黙示録は著述家が書斎で多くの参考書を参照しながら書いた書ではない。彼のペンを信徒たちが迫害されたときに流した血に浸して書いた書である。‥今やキリスト者に大迫害が起こり、墓は開いて彼らを吞み込もうとしていた...[Ⅴ247]泣きべそ聖書(7)/涙をぬぐってくださる(2)

  • [Ⅴ246] 泣きべそ聖書(6) / 涙をぬぐってくださる(1)    

    聖書「黙示録」は稀有な書だ。難解だ。「黙示録」は新約聖書の最後に位置して聖書の諸書を俯瞰しているかのようでもある。預言の書であることは理解するが、その示すところは難解だ。黙示録をどのように解釈するか、多くの人の説がある。古今東西数多の解説書がある。私は鑑三翁の読み方に耳を傾けてみたい。鑑三翁は「黙示録」を「慰藉(注:いしゃ、なぐさめいたわること)の書である。流るる涙を拭わんための書である」と記している(全集15、黙示録は如何なる書である乎、p.325)。鑑三翁は何ゆえ「涙を拭わんための書」と言ったのか。キリストの生誕から彼の十字架の死以後、信徒たちの裾野は広がり布教は拡大し成果をあげつつあった。しかしながらローマ皇帝が、皇帝自身を現人神の権威として崇拝することを国民に強いて国民的信仰統一を図るためには、も...[Ⅴ246]泣きべそ聖書(6)/涙をぬぐってくださる(1)   

  • [Ⅴ245] 泣きべそ聖書(5) / 天国にありて我を待つ  

    鑑三翁は1884(明治17)年、農商務省を辞職し船でアメリカに渡った。24歳だった。アメリカ到着後鑑三翁は一人のアメリカ人医師ケーリン氏(注:IsaacNewtonKerlin、アメリカの精神医学草創期の精神医学者、1834-93)との出会いにより、彼が院長をしていたペンシルバニア州エルウィンの知的障がい児養護院で看護人として働くことになった。鑑三翁には医学者への志もわずかながらあったからでもある。ここでは院長や院長夫人、婦長ら敬愛すべき人たちとの出会いがあった。しかし鑑三翁のキリスト教神学への強い希求のもとでは、養護院での勤務は満足をもたらさなかった。そして鑑三翁は当時アメリカに滞在していた新島襄注)と出会った。そして新島の勧めに従いアマースト大学(1821年創立)に入学する。この大学の総長がシーリー氏...[Ⅴ245]泣きべそ聖書(5)/天国にありて我を待つ 

  • [Ⅴ244] 泣きべそ聖書(4) / かりそめの涙にあらず  

    鑑三翁が言論人として、また教育者として、キリスト者として成熟し、旺盛な社会活動を展開していた頃の事だ。娘のルツの死という試練が待っていた。1912(明治45)年1月、鑑三翁が52歳(注:「選集」の年譜に従って数え年、以下同様)の時だった。女学校を出て間もない19歳のルツは、鑑三翁の経営する「聖書研究社」で事務の仕事を手伝っていた。ルツの死は鑑三翁に深刻な打撃を与え、鑑三翁の「来世観」にも大きな変化を与えた。親が子に先立たれることを日本では「逆縁」と言う。親がその子(特に幼い子ども)を喪うことは、人生における極めて大きな事件である。その心の打撃は計り知れず、人間としての”未来”を喪失するに等しい試練と言っていい。それは鑑三翁にとっては妻かずの死と同様の衝撃の大きさだった。鑑三翁が妻かずの死に遭遇したのは30...[Ⅴ244]泣きべそ聖書(4)/かりそめの涙にあらず 

  • [Ⅴ243] 泣きべそ聖書(3) / 快癒のきざし‥涙    

    鑑三翁の「不敬事件」では、鑑三翁が教壇に立っていた第一高等学校の生徒などが鑑三翁の自宅に連日のように押しかけ、罵声と共にゴミを投げ入れるなどの蛮行を行った。病の床にあった鑑三翁になり代わり、妻かずは外来者の矢面に立ち夫を防禦する日々だった。そしてこの事件の三か月後に鑑三翁はかずを喪うのである。鑑三翁30歳。かずも自身の病気と不敬事件の心労で病の床にあった。かずの死が心労の果てのものであったことが、鑑三翁により一層の深い悔恨をもたらした。『愛する者を喪ったとき』(原題『愛するものゝ失せし時』)は1893(明治26)年に発表された。ここには愛する妻を喪ったとても深い悲嘆の心情と、信仰を悔い祈りもやめて涙の日々に沈む日々、そしてそこから神の救いによって恢復の道をたどる鑑三翁の心の軌跡が記されている。妻かずの死は...[Ⅴ243]泣きべそ聖書(3)/快癒のきざし‥涙   

  • [Ⅴ242] 泣きべそ聖書(2) / 梅花に託した涙

    ここで「梅花」に鑑三翁が仮託しているのは神である。厳格な父なる神である。憐れみに満ちたキリスト・イエスである。そして慈母の如きマリアである。そして鑑三翁がこの時胸に抱いていたのは亡き妻かずの魂である。「君の心は涙の貯水池」こそ神、神には水源の貯水池に満々と湛えられた水の如く「涙」が湛えられている。神は憐れむべき人間に対しては「涙」を流される。人間であり神でもあるキリスト・イエスは(注:恐らく重い障がいを背負っていた身内の)ラザロの死に際して涙を流された。またご自身の死が迫ったことを知って弟子たちの前で泣かれた(涙を流された)。キリスト・イエスの母マリアは、人間の罪を一身に負って十字架に架けられ息を引き取った我が子の下で慟哭の涙を流したことだろう。また神が遣わされた預言者エレミヤは、神によって見捨てられ遠く...[Ⅴ242]泣きべそ聖書(2)/梅花に託した涙

  • [Ⅴ241] 泣きべそ聖書(1) / 鑑三翁 梅花に涙す

    鑑三翁は1901(明治34)年の『万朝報』3月10日号に署名入り記事として「梅花と別る」という一文を寄稿している。原文は硬調だが格調高く美しい。原文の方が鑑三翁の真意も伝わりやすいだろう。だが漢文調で漢字を多用していて理解しにくい部分もあるので敢えて現代語訳してみた、鑑三翁には叱られるだろうが‥。梅花に託した鑑三翁の「涙」とその心の奥底に分け入ってみたい。少し長文である。【春は未だ浅く氷が張っている頃なのだが、君が咲いてくれたおかげで、私は春が来つつあることを知ることができた。君は春ではない。春の預言者(注:原文は「予言者」。鑑三翁は「預言者」を使う事が多い)である。春は桜である。躑躅(ツツジ)である。藤である。しかし彼らが来るには未だ間があったので、天は君を送って、私たちに消えようとする春の希望を繋いで...[Ⅴ241] 泣きべそ聖書(1)/鑑三翁梅花に涙す

  • [Ⅳ240] 日本人とか日本社会とか(20) / 日本人の宗教的心性/仏教観  

    鑑三翁の「仏教観」については、キリスト者としての冷徹な見方も示している。珍しく次のような問答形式の一文を書いている。「仏教」に関するもので、問答形式で少し気楽に執筆しているのが特徴だ。《》内は質問者。【《世の中の人は一般的に世界の宗教の中で「仏教」は最も哲学的だとする考え方がありますが、あなた〈注:鑑三翁のこと〉もそのように考えていますか。》その通りです。もし「哲学的」という言葉が「形而上学的」という意味であれば、そのとおりだと考えます。私は仏教ほどその教義の中に逃げ道を備えた宗教はないと考えています。仏教は実に全ての宗教を総合した宗教のように考えられます。その中には何でもあるというのですが、それは何もないという事を証拠だてるのかもしれません。《しかしあなたは仏教というものがわが国にもたらした大きな貢献(...[Ⅳ240]日本人とか日本社会とか(20)/日本人の宗教的心性/仏教観 

  • [Ⅳ239] 日本人とか日本社会とか(19) / 尊い宗教的素養はどこへ

    鑑三翁は先述のように往時の日本人の宗教的信仰心の希薄さを指摘する一方で、下記のように実は日本人は数千年来古くから”宗教的素養”を有していたのだと記している。明治初めから”祭政一致”をスローガンとする政府の「神道国教化」政策が打ち出され、この神仏分離政策によって「仏教排斥運動」が全国各地で展開され、仏堂や仏像、経文などが毀壊された。その結果として日本人は”宗教的信仰心”への信頼を希薄化させてきたのだと鑑三翁は断言する。この歴史観は興味深いものだ。【私は多くの良き信仰をもった日本の仏教徒を友人に持っている。日本人は元々は宗教的な民族である。明治時代と大正時代の日本人からは日本人の深い宗教性を推し量ることはできない。日本人は元々はこのような宗教心のない敬虔な心を持たない民族ではなかった。宗教的には全く無関心の薩...[Ⅳ239]日本人とか日本社会とか(19)/尊い宗教的素養はどこへ

  • [Ⅳ238] 日本人とか日本社会とか(18) / 人情と世間風潮の傀儡児

    また鑑三翁は「情/理/義」の面から見た日本人の特徴的性向について次のように記している。【情は天然のものであり、理は学習で修得するものであり、義は信仰に由るものだ。情の人は生まれたままの人であり、理の人は修養を積む人であり、義の人は信仰をもつ人だ。歌人は情の人である。哲学者は理の人である。預言者は義の人である。情の民は日本人、理の民はギリシャ人、義の民はヘブライ人(ユダヤ人)に代表される。この三者の中で最も貴い民はいずれかは言うまでもない。日本人は特に情の民である。日本語は情を表すのに最も適している。日本人は義理と人情とを区別することができない。日本人の間では、不人情は不義である。忠孝道徳は情的道徳である。日本人は情に打ち勝つことがどれほど偉大な事かを知らない。多くの日本人は毎年情のために生命を捨てる。しか...[Ⅳ238]日本人とか日本社会とか(18)/人情と世間風潮の傀儡児

  • [Ⅳ237] 日本人とか日本社会とか(17) / 日本人の”癒し"と"慰め” 

    日本の「臓器移植法」の成立に関しては、人体の臓器を他人に移植すると言う現代医学の進展によってもたらされた革新的医学技術の採用の可否をめぐって、数年間にわたって議論が沸騰した。その結果1997年に法律は制定された。それ以後日本人の臓器提供者は欧米に比較すれば(移植する臓器にもよるが)、比較的少数で推移している。「臓器」の「移植」は日本人の「性分」にそぐわないのかもしれない。神から与えられた自分の身体の臓器を他の人の生命と福利のために提供することに抵抗感の比較的少ない欧米の人たちと比較すると、あるいは日本人の身体感覚は曖昧で盪(とろ)いのかもしれない。神との対峙で鍛錬されてきたキリスト教徒の国の人間との違いが「臓器移植」という医学技術の適用に如実に表れているのかもしれない。そして正月には神社に初詣、結婚式はキ...[Ⅳ237]日本人とか日本社会とか(17)/日本人の”癒し"と"慰め” 

  • [Ⅳ236] 日本人とか日本社会とか(16) / 日本人は浅い民である

    【日本人は浅い民である。日本人は喜ぶ際にも浅く喜ぶ、怒る際にも浅く怒る、日本人はただ己の我(が)を張る際に強いだけだ。いまいましいことは日本人が怒る時の主なる動機であって、日本人は深く静かに怒る事ができないのである。誠に日本人の中には、人間が永久に深遠に怒る事がいかに正しくて神らしい事であるかをさえ知らない者が多い。だから彼らの反対はこわくない。彼らが怒る時には怒らせたままにしておけばいいのである。電気鰻(うなぎ)が溜めておいた電気を放散すれば、その後は無害になってしまうように、日本人は怒るだけ怒れば、その後は平穏な人となってしまうのである。だからもし外国人が日本人のこの心裡を知ってしまえば、彼らは日本人を扱う方法を知ってしまい日本人を少しも恐れなくなるであろう。‥‥「淵々呼びこたえ」(詩篇42:7)(注...[Ⅳ236]日本人とか日本社会とか(16)/日本人は浅い民である

  • [Ⅳ235] 日本人とか日本社会とか(15) / 安っぽい”安楽死論”  

    人間の生死は自由な航海のようなものだ。停泊地は定まってはいない。にもかかわらず無理に停泊地を選択せよと強制するのが日本の「安楽死の法制化議論」だ。この議論は日本では数十年もの間極細に続いている。過去には臓器移植法議論の過程でもこの問題が出てきた。往時は国民の議論がかなり沸騰して健全な議論が展開されたと記憶している。ところが最近大阪に根拠地を持つ維新なる政治集団の幹部が、発言の前後の事情は不詳なれども「安楽死法の制定を進めよう、皆が気づいていながら議論を進めないのはおかしいではないか、何なら私が議論をリードしたい」と言明し、彼の一部の取巻きと諂者、国会の議連の一部の者が「法制化」を急ぐべきだとこれに同調した。この大阪の団体幹部の言い分は一見もっともらしい。あたかも白馬の騎士のようだ。しかし事は「安楽死」の法...[Ⅳ235]日本人とか日本社会とか(15)/安っぽい”安楽死論”  

  • [Ⅳ234] 日本人とか日本社会とか(14) / 鑑三翁の気骨「不敬事件」  

    先述の君が代最高裁判決を読みながら、私は鑑三翁の不敬事件を思い起こしていた。鑑三翁は1891(明治24)年、当時勤務していた第一高等学校教育勅語奉読式典で、天皇真筆(のはずはないのだが)に奉拝(最敬礼)を為さなかった故に、同僚教師や生徒によって密告され批難された。この間マスコミは既に名の知られていた鑑三翁を指弾した論調を掲げ、自宅には汚物が撒かれ生徒が押しかけて暴言を続けるなどの暴力もあった。基督教会関係者も、ごく一部を除いて手のひらを返す如く鑑三翁と離反し政府寄りの主張を繰り返した。いずれも全ては明治政府及びこれに連なる”お上”への恭順を示す迎合だった。こうしたこともあって鑑三翁の妻・かずは健康を崩し病いを得て同年死去した。この妻の死は、鑑三翁にとって人生最大ともいえる深刻な危機となった。このことは明治...[Ⅳ234]日本人とか日本社会とか(14)/鑑三翁の気骨「不敬事件」 

  • [Ⅳ233] 日本人とか日本社会とか(13) / ”愛国”を叫ぶ者たちの虚ろ

    新型コロナウイルス感染拡大中の20年3月、東京都立学校全ての卒業式で「君が代」が斉唱されていた。全国一斉休校となり飛沫感染を懸念する学校で、合唱歌や校歌も歌わず卒業証書を手渡す際にも生徒の名前を読み上げることもしない中で、何故「君が代」が歌われたのか。それは東京都教育委員会の指示によるものだった。誠に珍奇で居心地の悪い記憶として残っている。私はこの時に思い出した記事があった。『卒業式などで「君が代」の斉唱時に起立しなかったため、再雇用を拒まれた東京都立高校の元教職員が、都に賠償を求めた訴訟の上告審判決が(2018年7月)19日、最高裁第一小法廷であった。一、二審判決は都に約5千万円の賠償を命じたが、山口厚裁判長は「都教委が裁量権を乱用したとはいえない」としてこれを破棄し、原告側の請求をすべて棄却した。君が...[Ⅳ233]日本人とか日本社会とか(13)/”愛国”を叫ぶ者たちの虚ろ

  • [Ⅳ232] 日本人とか日本社会とか(12) / 畸形の司法社会

    ロシアがルハンスク及びドネツクにおいてジェノサイド行為が発生しているとの「虚偽」の主張を行いウクライナに対する軍事行動を行っているとして、2023年2月26日ウクライナ政府はロシアをICJ(国際司法裁判所)に提訴した。ウクライナの要請に基づき、ICJはロシアが2022年2月24日にウクライナの領域内で開始した軍事作戦を直ちに停止することを求める暫定措置命令を発出した。またウクライナで行われた戦争犯罪を捜査してきたICC(国際刑事裁判所)は3月17日、ロシアのプーチン大統領及び子どもの権利を担当する大統領全権代表に対して、戦争犯罪の疑いで逮捕状を発出した。ロシアが侵略したウクライナの地域からは多くの子どもたちがロシア側に拉致移送されているという確たる報告がある。聖書にも戦闘で敗走した国の子どもたちが占領国に...[Ⅳ232]日本人とか日本社会とか(12)/畸形の司法社会

  • [Ⅳ231] 日本人とか日本社会とか(11) / 偽善/忖度/不法に満ちた日本の司法

    ※プーチンロシア軍がウクライナへの侵略を始めてから1年が経過した。未だにプーチンロシア軍の侵略と暴虐が続いている。プーチン大統領は侵略当初にはウクライナ全土の占領は72時間で完了すると見ていたらしい。が、悪魔の奸計は失敗した。ウクライナゼレンスキー大統領及び政権幹部、何よりもウクライナ国民はプーチンロシアの侵略に反抗し抵抗を続けている。ウクライナの多くの女性や子ども、老者たちは隣国ポーランド等に避難したが街に残っている者も数多いる。女性兵士を含めたウクライナ兵士たちの士気は高い。プーチンロシア軍兵士の士気は低く未熟なためロシア兵の犠牲者は極端に多い。国連加盟国の大半はウクライナを支持している。EU及び米国等は多くの戦車や武器供与、支援物資の提供をウクライナに続けている。これに対しプーチンロシアは日々数百以...[Ⅳ231]日本人とか日本社会とか(11)/偽善/忖度/不法に満ちた日本の司法

  • [Ⅳ230] 日本人とか日本社会とか(10) / 薩長政治の残滓が今も

    鑑三翁が明治から昭和に至るまで、「聖書」を通して往時の人たちに語りかけた物事は、神に遣わされた預言者的資質を有した人間と称するにふさわしい鑑三翁の天賦の才を示す。それらは鑑三翁の心のメッセージであり精神性の深さと高さを示していて「真理」を突いている。まさに石牟礼道子氏の言う「心の寺」を常に見ていたのが鑑三翁だった。それは世俗社会に役立ち実利的で”実学”を重んじて世間を上手に渡り懐に財を成すことを重視した先述の福澤諭吉には、どう転んでも表現しえない世界観であった。今鑑三翁が生きていて今日日の日本の世情を見たとしたら、これをどのように認識し言論を展開しただろうか‥ということに私は強い関心を抱く。先述のように鑑三翁の「社会改良」の考え方は単純なものである。個人の「改良」があって初めて社会や国家の改良が果たせると...[Ⅳ230]日本人とか日本社会とか(10)/薩長政治の残滓が今も

  • [Ⅳ229] 日本人とか日本社会とか(9) / 精神滅びて亡国の民なり

    【国が滅びるということは、山が崩れるとか、川が乾上るとか、土地が落込むといったことではない。例え日本という国が滅びたところで、富士山は変わらず青空にそぴえ、利根川も木曽川も今の通りに流れ、田畑には変わらず米や麦が育つであろう。‥‥国というものは土地でもなければ官職でもない。国はその国民の精神である。この精神さえあれば、その土地が他人の手に渡ることがあっても、その国が滅びることはない。あたかも今日のユダヤ人が、土地はトルコ人の手にあるにもかかわらず、有力な国民であるように、又アメリカ人がその州知事又は市長として外国のドイツ人やアイルランド人が就任しているにもかかわらず、立派な独立した国民であるがごときである。国民の精神が失せた時にその国は既に滅びたのである。国民に相愛の心がなく、人々が互いに猜疑心を持ち、同...[Ⅳ229]日本人とか日本社会とか(9)/精神滅びて亡国の民なり

  • [Ⅳ228] 日本人とか日本社会とか(8) / 野暮天ばかり

    鑑三翁は薩長政府の中核をなす薩摩人(鹿児島)と長州人(山口)、これを支える肥後人(熊本)、福澤諭吉の佐賀人ら「九州人」を毛嫌いしている。一見これは鑑三翁の”差別意識”のようにも受け取れるが、そうではない。鑑三翁はごく普通の生活をしている九州の市井の人々を嫌ったのではない。悪政の限りを尽す明治政府とこれを取巻き利得をお互いに分かち合う権力側の政治家や経済人を嫌悪していたのである。そして鑑三翁は、オレは九州人は嫌いだと言って薩長政府を批難しながら、九州人からの反撃の言葉を誘導しているかのようだ。それも鑑三翁の狙いであった。反撃がくればそれに対して正面から堂々と反駁しながら、実は‥と言って真意を吐露するわけだ。これは言ってみれば弁論の技法の一であり、聴衆を驚かせたり反撃させたり大笑させたりすることで、弁士である...[Ⅳ228]日本人とか日本社会とか(8)/野暮天ばかり

  • [Ⅳ227] 日本人とか日本社会とか(7) / 田中正造翁の侠気やよし

    明治政府は欧米列強と肩を並べようとして、富国強兵のスローガンを掲げて様々な産業振興策を展開した。その一つに足尾銅山の開発がある。1877(明治10)年には、実業家・古河市兵衛が渋沢栄一の出資が後押しとなり足尾銅山の再開発に乗り出した。その結果足尾の産銅量は1893(明治26)年には年間5000tを超え全国一の銅山に成長した。銅は導電率に優れ世界の電気産業を牽引する必須の金属であった。ところが足尾銅山の開発と隆盛は、一方で深刻な環境被害を生み出した。木材需要の急増で周辺の山林は伐採され精錬所の煙害で酸性雨による立ち枯れを起こした。また銅の生産過程で生じる鉱滓から大量の鉱毒が発生し周辺の土壌や渡良瀬川に流出し、鉱毒による魚類の死滅や米・耕作物の立ち枯れが深刻となり、近隣住民の生活を脅かし続けたのである。これに...[Ⅳ227]日本人とか日本社会とか(7)/田中正造翁の侠気やよし

  • [Ⅳ226] 日本人とか日本社会とか(6) / 拝金宗宗祖・福澤諭吉

    明治維新直後の明治政府の財政は、歳入を不安定な年貢や御用金、紙幣発行などに頼り財政基盤はぜい弱であった。そこで維新政府は1873(明治6)年には地租改正に着手して税源を確保、引き続きそれ以外の税制改革に着手し、安定した国家財政基盤を確保するようになって行った。その際には各国の収税法等財政制度を紹介していた福澤諭吉の『西洋事情』(1866~70年にかけて刊行)が明治政府の基本資料の一つとして重用されたと言われている。福澤も財政制度改革に顧問格で関与した。福澤諭吉は今の我々日本人にとっては一万円札を飾ったりして馴染みのある人物だ。彼はどのような人物なのか。「福沢諭吉:〈1835-1901〉、幕末-明治時代の思想家。豊前中津藩(大分県)藩士。大坂の適塾で学び江戸で蘭学塾(のちの慶応義塾)を開く。英語を独学して幕...[Ⅳ226]日本人とか日本社会とか(6)/拝金宗宗祖・福澤諭吉

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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]
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