京都市北区紫野西御所田(ごしょでん)町に「紫式部・小野篁卿の墓所」があります。なぜこの二人の墓が隣接しているかというと好色な話が多い『源氏物語』を描いた紫式部が、人々を惑わした罪として地獄へ落とされたという噂を耳にした小野篁が、閻魔大王に彼女を地獄から救うようお願いし、助け出した後、自分の墓の隣に埋葬したのではないかといわれています。また、地獄に落ちた紫式部を哀れむ読者が、篁に彼女を助け出して欲し...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
京都市北区紫野西御所田(ごしょでん)町に「紫式部・小野篁卿の墓所」があります。なぜこの二人の墓が隣接しているかというと好色な話が多い『源氏物語』を描いた紫式部が、人々を惑わした罪として地獄へ落とされたという噂を耳にした小野篁が、閻魔大王に彼女を地獄から救うようお願いし、助け出した後、自分の墓の隣に埋葬したのではないかといわれています。また、地獄に落ちた紫式部を哀れむ読者が、篁に彼女を助け出して欲し...
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宇治市内には許波多神社(こはたじんじゃ)という名前の神社が木幡と五ヶ庄の隣接する2つの地区にあります。今回参拝したのは、木幡の許波多神社です。藤原道長が寛弘2年(1005)から2年がかりで創建した藤原家の菩提寺「浄妙寺」はこの北東の木幡小学校辺りにあったとされています。社伝では、大化元年(645年)、皇極天皇が夢で「吾れ天神故に下土に神陵なし吾が霊を祭祀し給へ」とのお告げを受け、中臣鎌足に命じ木幡荘に社殿を造...
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宇治市の木幡(こはた)は、平安京から宇治に向かう途中にあり、藤原道長をはじめ、藤原氏の埋葬の地でした。藤原氏の菩提寺や墓所・宇治陵があります。そこで、木幡の藤原氏ゆかりの地を巡ってみました。浄妙寺は、藤原道長が寛弘2年(1005)に藤原氏の菩提を弔うために建立した寺です。道長は、1005年(寛弘2年)に木幡三昧堂を、その後も多くの建物を建て、1007年に浄妙寺を完成させました。1005年10月の供養会には、道長や中関白...
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真如堂、東北院の西側には、後一條天皇の菩提樹院陵があります。後一條天皇は、一条天皇第2皇子で、母は藤原道長の藤原彰子 です。一条天皇藤原彰子後一條天皇一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。その誕生の様子は「紫式部日記」に詳しく、道長にとって待望久しい外孫皇子出生はその後の一族の栄華の初花となる。三条天皇の譲位(長和5年1月29日、1016年3月10日)により践祚、2月7日(3月18日)に数え8歳で即位。幼帝の...
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京都市左京区浄土寺にある東北院は、藤原道長の没後、道長の娘である藤原彰子(上東門院)の発願によって道長が建立した法成寺東北の一郭に常行三昧堂として建立されました。彰子は東北院を建てた後、晩年ここを在所としたため、別称を東北院ともいいます。法成寺の区域の東北にあり、上東門院の母・源倫子が建立した常行三昧堂が法成寺の区域の西北にあって「西北院」と呼ばれていたことから、こちらは「東北院」と称せられました。...
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縣神社は、永承7年(西暦1052年)、藤原頼道の平等院建立にあたり総鎮守となり、平等院の地主神として祀られています。祭神は木花開耶姫。平安時代、平等院建立以前では藤原道綱の母が、宇治に来た時、『蜻蛉日記』に「あがたの院」に詣でたことを記しています。明治維新までは、大津市の三井寺円満院の管理下にありましたが、「神仏分離令」により三井寺から独立しました。現社殿は昭和11年(1936年)造営。毎年6月5日から6日...
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東福寺の塔頭・同聚院は、1006年(寛弘3年)に藤原道長が法性寺の境内に造営した五大堂の遺跡です。かつて、この地には延長2年(924年)に藤原忠平が建立した天台宗の法性寺があった。そこに藤原道長が寛弘3年(1006年)に、仏師康尚(定朝の父)に作らせた不動明王を中心とする五大明王を祀った五大堂を建立した。しかし、後に兵火によって不動明王を残して五大堂は焼失した。その後、嘉禎2年(1236年)に九条道家は衰微した法性...
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寛仁3年(1019年)3月に藤原道長は胸病の苦しみが激しくなり、剃髪して出家しました。戒師は院源、法名は行観(後に行覚)。『栄花物語』によると、彰子が末妹・嬉子の行く末を心配して出家を制止しようとした、倫子が夫の後を追って出家しようとしたが道長が押し止めたなどの話が伝わっています。晩年は浄土信仰に傾倒、極楽往生を願い、寺の造営に力を注ぎました。1019年(寛仁3)から土御門殿の東にあたる鴨川西岸に、九体阿弥...
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宝物殿には、手習観音が祀られています。平安時代中期、小野篁作と伝えられ、『源氏物語』宇治十帖の「手習」の古跡に祀られていたといわれることから、「手習観音(てならいかんのん)」とも呼ばれます。右足の親指が少し浮いているのは、「衆生の困苦をを救うため、すぐ駆けつける」と言う意思を表しているそうです。天竺殿興聖寺は応仁の乱や兵火に遭い、衰退してしまいますが、寛永10年(1633)淀城主として入国した永井尚政(...
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本堂(法堂)慶安元年(1648年)に伏見城から移築され、改築されました。堂内には本尊釈迦牟尼仏を中心に両側に文殊菩薩、普賢菩薩を祀るほか、達磨大師、大権修理菩薩、十六羅漢が祀られています。それでは、興聖寺の内部を見学していきましょう。薬医門を潜り、庫裡の入口で拝観の受付を済ませます。庫裏庫裡には、大きな魚鼓(ぎょく)が吊るされています。魚鼓は、仏具の一種で、曹洞宗や臨済宗などの寺院などで僧堂や庫院につる...
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興聖寺(こうしょうじ)は、日本曹洞宗最初の寺院で、道元が深草に興聖宝林寺を建立したことから始まり、江戸時代初期の慶安2年(1649)淀城主永井尚政がこの地に復興しました。参道は、そばを流れる小川のせせらぎの音と坂の形が琴に似ていることから、「琴坂」と呼ばれ、紅葉の名所として人気を集めています。道幅が狭いので、両側から紅葉が迫ってくるような感じがします。山門が見えてきました。門前にいた警備員さんが、琴坂...
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宇治神社は、隣接する宇治上神社と二社一体の存在であったとされています。創建年代などの起源は明らかではありませんが、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の記載があるそうです。祭神は、菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)で、その名が宇治の地名の由来とされています。菟道稚郎子は、応神天皇の皇子であり、仁徳天皇の弟です。幼い頃から聡明だったため、父の応神天...
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平等院と宇治川の間にあるあじろぎの道は、春は桜、秋は紅葉など四季折々の景色を楽しみながら歩ける川沿いの遊歩道。ベンチも設置されており、、宇治川の景色を楽しみながら休憩できます。石碑の後ろの朱色の端は、は宇治川に浮かぶ塔の島とあじろぎの道を結ぶ喜撰橋。喜撰橋を渡って塔の島へ。橋を渡ると、塔の島にそびえ立つ大きな石塔が見えて来ます。高さ15mの浮島十三重石塔は、現存する近世以前の石塔としては、わが国最大...
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『源氏物語』第54帖のうち最後の10帖は、「宇治十帖」と呼ばれ、「橋姫(はしひめ)」「椎本(しいがもと)」「総角(あげまき)」「早蕨(さわらび)」「宿木(やどりぎ)」「東屋(あずまや)」「浮舟(うきふね)」「蜻蛉(かげろう)」「手習(てならい)」「夢浮橋(ゆめのうきはし)」の10帖の総称。主人公薫(かおる)大将と宇治の八の宮の娘、大君(おおきみ)・中君(なかのきみ)、および浮舟との人間模様が語られ、主として宇治の地が舞台となって...
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宇治駅から『源氏物語』ゆかりの宇治を散策しました。駅を出てすぐ目に入るのがこの茶壺型ポスト宇治らしさ満点ですね😄史跡を見ながら宇治橋に向かって行きます。京都銀行宇治支店前に「宇治代官所跡」の石碑があります。宇治代官所跡江戸時代には、この場所に代官所が置かれていました。宇治代官の上林家(かんばやしけ)については、本能寺の変の際に、堺から三河に逃げ帰る徳川家康を先導したと伝えられています。上林家は、将...
地域タグ:宇治市
藤原道隆の四子・藤原隆家は、996年(長徳2)権中納言の時、兄の伊周(これちか)とともに、花山法皇への暴力事件を起こし、出雲権守(いずもごんのかみ)に配流され、病のため但馬(たじま)に留まりました。997年、東三条院詮子(せんし)の病気によって伊周とともに召還。帰京後は兵部卿となり、のち従三位(じゅさんみ)へ。1002年(長保4)権中納言に再任され、04年(寛弘1)正三位、07年従二位、09年中納言となりました。長和元年(101...
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京都市伏見区の醍醐寺(だいごじ)は、平安時代初期の貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる聖宝(理源大師)が創建した真言宗醍醐派の総本山となる寺院です。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とし、薬師堂、釈迦堂(金堂)、五重塔が建立されるなど発展を遂げました。釈迦堂(金堂)五重塔弁天堂『源氏物語』第23帖「初音」では、末摘花の兄が醍醐寺の阿闍梨という設定になっています。末摘花(すえつむはな)「源氏物語」の登場...
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では、勝林院の境内を散策してみましょう。法華堂は、後鳥羽天皇ご冥福のため、梨本主尊快親王母公修明門院御計らいにて水無瀬の御所を以て仁冶元年 (1240)に建立されました。享保21年(1736)類焼し、現在の堂宇は、安永年度に再興されたものです。 法華堂は、後鳥羽天皇ご冥福のため、梨本主尊快親王母公修明門院御計らいにて水無瀬の御所を以て仁冶元年 (1240)に建立されました。享保21年(1736)類焼し、現在の堂宇は、安永年度に...
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大原の勝林院は、延暦寺の僧・円仁によって創建され、荒廃した後、寂源法師により、長和2年(1013)に復興された天台声明発祥の寺です。寂源は、俗名は源 時叙(みなもとの ときのぶ)といい、左大臣・源雅信の八男、母は藤原穆子。藤原道長の妻・倫子の兄(弟)です。永観2年(984年)、当時侍従であった時叙は、同僚の侍従・藤原斉信、蔵人・藤原宣孝(のちの紫式部の夫)とともに賀茂臨時祭に怠けて出席しなかったことから花山天皇の...
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それでは、随心院の中を見学していきます。中にも小野小町ゆかりの物が随所に飾られています。小野小町像小野小町うた屏風これは、はねず踊りの人形ですね。随心院では、3月にはねず踊りが行われています。はねず(薄紅色の古名)の梅が咲き誇る中、はねず色の衣装と菅笠の小町と深草少将に扮した少女達の童唄と踊りが披露されるそうです。これも一度見てみたい京の行事です。茶釜能の間には、華やかな障壁画とカラフルな和傘が飾...
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小町庭苑入口随心院の本堂裏には、小町文塚があります。小町文塚 深草少将や多くの貴公子から小野小町に寄せられた千束の文を埋めたと伝わります。小町文塚 百夜通いで有名な深草少将をはじめ当時の貴公子たちから小野小町に寄せられた恋文を埋めたところと伝えられています。 このように丁重に供養された理由として、当時は思いを伝えるために書かれた恋文は、思いの篭ったったものであり粗略な扱いをしては相手に恨まれたり祟...
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随心院(ずいしんいん)は、京都市山科区小野御霊町にある真言宗善通寺派の大本山の寺院。薬医門寛永年間(1624年 - 1631年)の建立。開山は小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)僧正。随心院は、そもそもは仁海僧正が創建した牛皮山曼荼羅寺(ごひざんまんだらじ)の塔頭でした。仁海は神泉苑にて雨乞の祈祷を9回行い、そのたびに雨を降らせたとされ「雨僧正」の異名がありました。曼荼羅寺は仁海が一条天皇から小野氏邸宅...
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京都市山科区勧修寺にある勧修寺(かじゅうじ)は、真言宗山階派の大本山の寺院で、皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院でもあります。門跡寺院であり、「山階門跡」とも称します。昌泰3年(900年)、醍醐天皇が、若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めとされています。胤子の父は、紫式部の先祖にあたる藤原高藤(ふじわらのたかとお)、母は宮道弥益の娘・列子(...
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古典文学にも登場する仁和寺『紫式部日記』には、仁和寺の僧都・済信(さいじん)が、また、『枕草子』には、仁和寺の僧正・寛朝(かんちょう)が登場します。中門五重塔寛永21年(1644年)再建。御室桜と共に仁和寺のシンボル的存在となっています。桃山時代建築の国宝建造物。仁和寺の本尊である阿弥陀三尊を安置する御堂。堂内は四天王像や梵天像も安置され、壁面には浄土図などが極彩色で描かれています。経蔵寛永18年(1641年)か...
地域タグ:京都市
御室仁和寺は、真言宗御室派大本山。宇多天皇が譲位後ここに住したので御室御所とも呼ばれ、その後、代々の別当は宇多天皇の子孫が務めていました。その後、三条天皇の皇子である性信入道親王が当寺の別当の上に新設された検校に任じられ、これ以降、門跡寺となって明治維新まで歴代法親王が住持となりました。寛弘7年(1010年)に藤原道長の妻である源倫子の御願によって、観音院潅頂堂が建立されましたが度々の火災で焼失。現在...
地域タグ:京都市
京都文化博物館「近衞家 王朝のみやび 陽明文庫の名宝14―御堂関白記と源氏物語」
京都文化博物館で開催されている「近衞家 王朝のみやび 陽明文庫の名宝14 御堂関白記と源氏物語」を見学して来ました。今回の陽明文庫の名宝展では、国宝『御堂関白記』より、藤原道長による自筆本のみ4巻が紹介されています。また、鎌倉時代に書写された重要文化財『源氏物語』のほか、室町時代と江戸時代の写本が展示され、各時代の源氏物語の歴史を辿っています。この中でも、特に見たかったのは、道長の自筆です。(『御堂関...
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長和5年(1016年)正月下旬に三条天皇は譲位し、東宮・敦成親王が9歳で即位、後一条天皇が誕生しました。幼帝であったため、藤原道長が摂政となりましたが、翌年になると、摂政を嫡男の頼通に譲り、従一位太政大臣に。寛仁2 (1018) 道長の三女で叔母にあたる、九つ年上の威子(いし/たけこ)を後一条天皇の中宮とし、娘の彰子、妍子、威子の立后により一家3后を実現し、藤原氏摂関政治の最盛期を築きました。藤原実資は、『小右記』...
地域タグ:京都市
三条天皇は、第六七代の天皇。冷泉天皇の第二皇子。名は居貞(おきさだ)。母は太政大臣藤原兼家の女超子。986年(寛和2)7月、従弟の一条天皇即位に際し元服、立太子。1011年(寛弘8)危篤の一条天皇の譲位を受け、36歳で即位し、皇太子には中宮藤原彰子の子、敦成親王(後一条天皇)が立ちました。しかし、その頃は藤原道長が左大臣として権勢をふるった藤原氏の全盛時代で、有力な後見を欠く三条天皇は、在位5年の間、絶えず政権...
地域タグ:京都市
紫式部の父・藤原為時は、長和5年(1016年)4月29日に園城寺(三井寺)にて出家。式部の母の兄弟である康延(こうえん)、式部の異母弟・定暹(じょうせん)は、三井寺の僧侶でした。『紫式部日記』には、中宮彰子が出産の際、園城寺の心誉阿闍梨(しんよあじゃり)がもののけの調伏に当たったとあります。園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市にある、天台寺門宗の総本山で、山号は長等山(ながらさん)。三井寺という通称を持ちます...
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京都御苑の枇杷殿(びわどの)は、藤原仲平の屋敷跡です。左京一条にある枇杷第を伝領し、邸内に枇杷が植えられていたことから、枇杷殿、枇杷左大臣などと呼ばれていました。長和3年(1014年)三条天皇は眼病を患い、藤原道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫りました。また、この年と翌年、内裏が相次いで焼失。眼病の悪化もあり、長和5年(1016年)三条天皇は、皇后娍子(せいし/すけこ)の子・敦明親王の立太子を条件に、道...
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藤原顕信(あきのぶ)は、藤原道長と明子(左大臣源高明 の娘)の子で、道長の三男に当たります。11歳で兄と共に元服、寛弘2年(1005年)侍従に任官。寛弘3年(1006年)左兵衛佐を兼ね、寛弘6年(1009年)従四位下、寛弘7年(1010年)従四位上と昇進し、寛弘8年(1011年)10月に右馬頭に。同年12月に三条天皇から道長に対して、藤原通任の参議昇進で空席となっていた蔵人頭に顕信を補任させる意志を告げられましたが、顕信は「不足職之...
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友人が比叡山延暦寺の横川に行って来たと画像を送ってくれました。横川は、延暦寺の最北端にあり、第三代座主・円仁(慈覚大師)によって開かれました。横川中堂本堂は、遣唐使船をモデルとした舞台造りの横川中堂です。延暦寺は火災で荒廃した後、10世紀に良源(元三大師)によって再興されました。元三大師と角大師(『天明改正 元三大師御鬮繪抄』1785年仙鶴堂発行より)根本如法塔 円仁が法華経を写経し納めた塔が始まりで、1925年...
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比叡山延暦寺には、多くの貴族が参詣しました。目や耳の病気に苦しんでいたという三条天皇もその一人です。三条天皇が天皇の位を退いた後、延暦寺に参詣したことが藤原実資の『小右記』書かれており、比叡山へと続く、きらら坂を輿で半日かけてのぼり、延暦寺の根本中堂で病気の回復を祈願したといいます。4年前に訪ねた時の画像です。ケーブル延暦寺から延暦寺の参道を歩いていきます。歩くこと7分で、延暦寺に到着。比叡山の山内...
地域タグ:大津市
真珠庵の寺宝として、曽我蛇足や長谷川等伯の描いた襖絵がありますが、それらが修復に入ったのを機会に、約400年ぶりに襖絵が新調されました。新しい襖絵は、「釣りバカ日誌」でお馴染みの漫画家 北見けんいち氏、映画監督の山賀(やまが)博之氏、アートディレクターの上国料(かみこくりょう)勇氏、日本画家で僧侶の濱地(はまじ)創宗(そうしゅう)氏、美術家の山口和也氏、イラストレータの伊野孝行氏など、現代作家6名によって描か...
真珠庵の境内には紫式部の産湯として使用したと伝わる井戸が現存しており、紫式部ゆかりの地としても知られています。紫式部産湯の井戸紫式部の産湯に使われたと伝わる井戸。紫式部の母が、大徳寺塔頭の雲林院の観音菩薩に安産祈願に訪れたことから、真珠庵にある井戸水を産湯にしたのではないかといわれています。梵字が刻まれているそうです。この井戸は、現在も枯れることなく地下水が湧き出ているそうです。にほんブログ村 歴...
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京都市北区紫野にある大徳寺の塔頭・真珠庵の特別公開に出かけて来ました。今回の特別公開では、本堂、現代作家が描く⽅丈襖絵書院 通僊院(つうせんいん)茶室 庭⽟軒(ていぎょくけん)⽅丈東庭「七五三の庭」、通僊院庭園『源⽒物語図屏⾵』が公開されています。真珠庵は、永享年間(1429年~1441年)に、大徳寺を復興した一休宗純を開祖として創建されました。応仁の乱により焼失し、延徳3年(1491年)に堺の豪商・尾和宗臨(...
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光明寺は、元和5年(1619)に明石城主の小笠原忠真が神戸の福中城から移した寺院です。道を挟んですぐのところに同名の「光明寺」があるため、こちらを朝顔光明寺と呼んで区別しているそうです。本堂境内には、『源氏物語』の主人公・光源氏が月見を楽しみ、「秋風に 波やこすらむ 夜もすがら あかしの浦の 月のあさがほ」と詠んだという光源氏月見の池があります。光源氏月見の池しかし、この歌は『源氏物語』には登場しないの...
観音堂の前に、芝が扇形になっている扇の芝があります。ここは、源頼政の終焉の地とされています。治承4年(1180年)5月26日、源頼政は以仁王を奉じて平家打倒に立ち上がり、平知盛・重衡軍を宇治川で迎え撃ちます。宇治川を挟んでのこの戦は、「橋合戦」と呼ばれ、以仁王軍は、橋の底板を外して敵の侵入を防ぎ、矢で応戦していました。橋の上でも激戦が繰り広げられましたが、17歳の足利忠綱が宇治川の急流の宇治川に馬を乗り入れる...
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朱色に染まった紅葉を愛でながら、鐘楼の建つ小高い丘へと進んで行きます。ちょうど紅葉の中央に見えるのが鐘楼です。平等院の鐘は、姿の美しさから日本三名鐘に数えられています。こちらには、複製の梵鐘が懸けられており、実物は鳳翔館にあります。梵鐘鳳凰堂と同じ11世紀頃の制作と推定される。全面に天人、獅子、唐草文様などの繊細な浮き彫りを施した、他に例を見ない鐘である。「音の三井寺」、「銘の神護寺」、「姿、形の平...
地域タグ:宇治市
宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていました。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる嵯峨源氏の左大臣・源融が営んだ別荘だったものが陽成天皇、宇多天皇に渡り、朱雀天皇の離宮「宇治院」となり、それが宇多天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政・藤原道長の別荘「宇治殿」となったもの。表門道長は万寿4年(1027)に亡くなったため、当...
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明石市鍛治屋町にある浄土宗の寺院・光明寺は、元和5年(1619)、明石城築城時に三木市から現在地に移築されました。山門通称「浜光明寺」と呼ばれています。本堂本堂は、明石市内の寺院で最大級の大きさなのだそう。観音堂鐘楼享保14年(1729)、藤原国次によってに作られた釣鐘は、明石市内最大級で市の指定文化財になっています。1885年(明治18年)8月9日、山陽道御巡幸中の明治天皇が宿泊した場所でもあり、 1976年(昭和51年)2...
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無量光寺も戒光院同様、『源氏物語』明石の巻に登場する明石入道が光源氏に与えた邸の「浜の館」のモデルとされています。また、明石西国第2番観霊場となっている浄土宗本派の寺で、文学にゆかりの深い寺としても知られています。山門の彫刻は、左甚五郎作といわれています。山門を入ると左手に源氏稲荷が祀られています。大正時代には、作家の倉田百三、武者小路実篤らが訪れているそうです。にほんブログ村 歴史ブログランキング...
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無量光寺の山門前には、光源氏が自分の住む「浜の館」から明石の上の住む「岡辺の館」へ通う時に通ったとされる「蔦の細道」があります。何気ない細い道ですが、ロマンを感じますね。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
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明石の『源氏物語』ゆかりの地(1)善楽寺「明石入道・浜の館」
光源氏が明石の君と出会う舞台である兵庫県の明石を訪ねました。須磨で寂しい生活を送っていた光源氏が、住吉の神の導きにより、須磨を離れることに。その予言どおり、翌朝、明石入道が迎えの船に乗って現れ、源氏一行は明石入道の邸へと移りました。そこで、明石入道の娘の明石の君と出会い、姫を授かることになります。善楽寺は、戒光院・円珠院の総称です。戒光院は『源氏物語』の第13帖「明石」で、明石入道が澄んでいた「浜の...
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須磨区多井畑には、在原行平に寵愛された松風・村雨の墓があります。松風・村雨 まつかぜ・むらさめ在原行平(ありわらの-ゆきひら)が須磨(すま)でよんだという歌をもとに生まれた説話上の姉妹。かつて行平に愛された海女の姉妹が亡霊となって旅の僧の前にあらわれ,行平形見の狩衣(かりぎぬ)を身につけて舞う。能「松風」,御伽(おとぎ)草子「松風村雨」,人形浄瑠璃(じょうるり)「松風村雨束帯鑑(そくたいかがみ)」などは松風物とい...
地域タグ:須磨区
多井畑厄除八幡宮の近くには、義経腰掛けの松があります。源平合戦の折り、源義経一行は、多井畑厄除八幡宮で先勝祈願をした後、この地の松に腰をかけ休息を取り出陣したと言い伝えられています。義経腰掛の松 1184年(寿永3年)2月7日未明源義経一行は多井畑厄除八幡宮で戦勝祈願した後、この松の木の下で休息をとり一の谷に向かったと伝えられている。それから後、村人はこの場所に社を作り「ほんがんさん」の愛称で親しみと尊敬...
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京都市西郊を流れる桂川のうち、嵯峨の嵐山の麓を流れる川は大堰川(おおいがわ)と呼ばれています。上流は亀岡盆地を流れる保津川、渡月橋から下流を桂川と呼び、淀で淀川に合流。嵐山・小倉山・渡月橋などがある平安遷都直後から著名な景勝地で、藤原道長など平安貴族が遊覧したことでも知られています。大堰川での舟遊び「三舟の遊興」が開かれたのは、寛和2年10月10日(986年11月14日)に円融上皇臨席の下、開催されたもので、道...
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多井畑厄神にある「鏡の井」の一帯は、字畑殿と呼ばれ、松風・村雨の育った館の跡だと伝わっています。須磨にわび住まいした在原行平に寵愛された松風・村雨は、多井畑の村長の娘だったといわれています。「中納言行平朝臣、須磨の浦に左遷され村雨・松風二(ふたり)の蜑(あま)に逢ひ、戯れるの図」 月岡芳年画。多井畑には、二人が水鏡として使ったといわれている泉があり、「鏡の井」と呼ばれています。鏡の井由来仁和三年(...
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神戸市須磨区に鎮座する多井畑厄除八幡宮(たいのはたやくよけはちまんぐう)は、多井畑の厄神さんの愛称で親しまれています。須磨に配流された在原行平や、一の谷の合戦の際には源義経が祈願したといわれており、日本最古の厄除けの霊地と伝えられています。 770年(神護景雲4年)6月に疫病が大流行し、それを鎮めるために五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)の国境10ヶ所に疫神を祀り、疫祓いが行われました。多井畑厄除八幡...
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須磨寺の宝物館の一角にある「須磨寺小石人形舎」では、アートデザイナーの故木島武雄氏が、須磨や各地の小石を集めて『源氏物語』や源平合戦の場面を表した小石人形が展示されています。光源氏を彩る人々光源氏、葵の上、桐壺帝、桐壺更衣、紫の上など百人一首の詠人清少納言、小野小町など在原行平と松風村雨源平合戦などの情景が、センサーで作動して動くしくみになっています。一の谷合戦平敦盛青葉の笛を吹く平敦盛平家の公達...
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※須磨寺の続きをアップし忘れていましたので、須磨寺にプレイバックします(..;)須磨寺の宝物館には、「青葉の笛」などの平敦盛と源平ゆかりの宝物や須磨寺の歴史的宝物が展示されています。宝物館の中も撮影OKですが、ガラスに反射して上手く撮れていません(..;)平敦盛像 熊谷蓮生坊作という敦盛の像青葉の笛青葉の笛(太い笛) (右)青葉の笛は、もともと弘法大師が中国(唐)へ留学していた時に、長安の青龍寺というお寺の竹(天...
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今宮神社の祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)・奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)で、正暦5年(994)に船岡の上に創立されたといわれ、平安初期に疫病を祓うために、京中の人々が疫神お祀ったのに由来するとされています。東門長保3年(1001)の疫病流行の際、一条天皇が船岡山に安置されていた疫神を当地に移し、今宮と名付けたのが始まりとされています。楼門本殿本殿は明...
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藤原道長の時代から行幸が始まり、一条天皇は即位直後から、たびたび行われた神社行幸を度々行っていました。一条天皇の神社行幸は、藤原氏の権威を示す側面もあったといいます。四条通の西端に鎮座する「松尾大社」もそのひとつです。大宝元年(701)、秦忌寸都理(はたのいみきとり)がふもとの現在地に社殿を建てて移し、同氏の氏神にしたと伝えられています。平安京の鎮護の神とされ、東の厳神といわれた賀茂社に対し西の猛霊と称...
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第66代天皇・一条天皇の父は円融(えんゆう)天皇、母は藤原兼家の娘・東三条院詮子(せんし)。984年(永観2)花山天皇の皇太子となり、986年(寛和2)7歳で即位。初め外祖父の兼家が摂政となり執政し、兼家死後はその子道隆、道兼が摂関となり、ついで藤原道長が内覧の肩書で大臣として政権を掌握しました。初め、道隆の女定子を皇后としましたが、のち道長の女彰子が立后、一帝二后の例を開きました。定子には第1皇子敦康、彰子には...
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天神さん・北野さんなどと親しまれている北野天満宮昌泰4年(901年、)菅原道真が藤原時平の讒言にあい、大宰府に左遷されるという昌泰の変が起き、延喜3年(903年)に道真は大宰府で無念の死を遂げました。その後、藤原時平が延喜9年(909年)4月に亡くなったり、落雷などの災害が相次ぐと、これが道真の怨霊による祟りだとする噂が広まり、天暦元年(947)、朝廷の命により、社殿が造営されたのが起源とされています。永延元年(...
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須磨離宮公園の日本庭園の方に進んで行きます。石灯籠傘亭(傘形四阿舎 かさがたあずまや-)傘亭は、大正3年に造営された武庫離宮内に建てられた一本柱・六角形屋根の四阿舎で、青銅製擬木の柱や竹穂葺屋根という全国的にも珍しい特徴を持った四阿舎です。昭和20年の神戸大空襲で屋根部分が焼失したといわれ、柱だけが残っていましたが、平成23年10月に復元されました。月見台と四阿舎「傘亭」在原行平月見の松跡源氏物語の主人公...
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須磨を巡る(11) 須磨離宮公園 噴水広場~王侯貴族のバラ園
須磨離宮公園は、かつての皇室の別荘「武庫離宮」の跡地に整備された都市公園です。正門離宮道の松並木を含めて離宮当時の面影をとどめています。丘陵に広がる面積82ヘクタールの広大な敷地に、西洋式庭園を中心とする本園と植物園からなっています。須磨離宮(正式名称・武庫離宮)約100年前、皇室の別荘である「須磨離宮」が建造されました。 総檜造り2階建ての御殿は、大正天皇や皇后、昭和天皇、満州国皇帝の溥儀もご利用されま...
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この首塚(五輪塔)は、寿永3年(1184)年2月7日に起きた一の谷の戦いで、熊谷直実に討たれ戦死した平敦盛の菩堤を弔う為に建立されたものです。平敦盛卿首塚 敦盛卿の御首を埋葬する。敦盛卿は首と胴とは別々に埋葬せしも胴塚は幕討死の場所たる一の谷にあり謡曲「敦盛」と敦盛首塚謡曲「敦盛」は、戦乱の巷では敵であった者同士が、極楽浄土で共に成仏する運命になった事を主軸にして作曲された修羅物である。一の谷の戦いで少...
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本堂仁和二年開創当時の本堂には、松風村雨物語で有名な在原行平が参籠して、勅勘を許されたと伝えられています。その後、火災、洪水、地震などの災害によりたびたび建て直されました。現在の本堂は、慶長七年(1602)に、片桐且元を建築奉行とし、豊臣秀頼が再建したものです。(但し内陣の宮殿は応安元年(1368)の建造)三重塔弘法大師千百五十年御遠忌、当山開創千百年、平敦盛卿八百年遠忌を記念して昭和59年に再建されました。(旧...
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山陽電車「須磨寺」駅より徒歩7分ほどのところにある須磨寺公園は、源平ゆかりの古刹「須磨寺」に隣接した公園です。春は堂谷池を中心に桜が咲き誇り、桜の名所にもなっているそうです。ここを訪ねたのは、昨年の秋でしたので、春の光景も見てみたいです。浮御堂にはベンチがあり、休憩できます。『源氏物語』の「須磨」の一節が書かれていました。ここから須磨寺を目指して坂道を登っていきます。仁王門が見えてきました。仁王門...
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松風村雨堂(まつかぜむらさめどう)は、須磨区離宮前町1丁目にある平安時代の多井畑の村長の娘「もしほ」(松風)と「こふじ」(村雨)が在原行平を慕い建てた庵の跡です。在原行平は、平安時代の歌人で、同じく光源氏のモデルの一人とされる 在原業平の兄です。 松風村雨堂(神戸市地域史跡)松風村雨堂は、謡曲「松風」を初め、多くの文学に取り上げられた松風、村雨の二人の姉妹にまつわるお堂で、次のような伝説によって広く...
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続いては、須磨の菅原道真ゆかりの「菅の井」を訪ねました。伝説によれば、901(延喜元)年、菅原道真が九州太宰府に流される途中、風波を避けて須磨に一時上陸した際、浦人たちは漁網の大綱を巻いて円座をつくり、道真に休んでいただいたといわれています。その時に西須磨の旧家である前田家の人が井戸の水をくんで差しあげたところ、道真は大いに喜び自画像を前田家に与えたそうです。前田家ではこの井戸を「菅の井」と名付け、そ...
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頼政薬師寺の正式名称は「浄福寺」ですが、西須磨の旧家前田氏が建立し、源頼政が再興したことから通称「頼政薬師寺」と呼ばれています。寺号を浄福寺(俗に頼政薬師)と言う。浄福寺はこの地、西須磨の旧家前田氏の建立と伝えられ、御本尊は、薬師如来。聖徳太子の御作で像高は、一尺ばかり。脇士は十二神将。久寿の頃(1154・1155年)源三位頼政が再興したことから、俗に頼政薬師と言われている。そしてまた、本堂と十二神将は、...
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須磨浦地域福祉センターの前には、藤原師長ゆかりの「琵琶塚」の石碑があります。藤原師長像(『天子摂関御影』より、三の丸尚蔵館蔵)藤原師長ふじわらのもろなが(1138―1192)平安後期の政治家、音楽家。左大臣頼長(よりなが)の第2子で、1156年(保元1)父に連坐(れんざ)して土佐に流されたが、のち召還され、77年(治承1)に太政(だいじょう)大臣の位まで昇るが、79年には平清盛によって追放され、尾張(おわり)で出家した。法名...
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須磨区にある村上帝社(むらかみていしゃ)は、村上天皇を祀る神社です。この神社の創建について、次のような伝承がある。平安時代末期、琵琶の名人であった藤原師長は唐に渡って琵琶の奥義を極めたいと思い、都を出て、須磨まで来た。その夜、村上天皇と梨壺女御の霊が現れ琵琶の奥義を伝えたので、師長は入唐を思いとどまり、名器「獅子丸」を埋めて都に帰った。この伝承を題材として能の「絃上」(玄象)が作られた。この伝承に...
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現光寺(げんこうじ)は、室町時代の永正11年(1514)創建とされる浄土真宗本願寺派のお寺です。京都からわずかなお供を引き連れ、須磨へ移った光源氏が住まいしていた地と伝えられ、『源氏物語』ゆかりの寺として、源氏寺とも呼ばれています。本堂 鐘楼境内には、松尾芭蕉の句碑「見渡せば 跳むれば見れば 須磨の秋」が立っています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブロ...
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神戸市須磨区にある関守稲荷神社(せきもりいなりじんじゃ)は、須磨の関の守護神、稲倉魂神を祀る神社です。名前の由来は、源兼昌が詠んだ百人一首のうちの一首に登場する須磨の関があったとされる場所に神社を建てたことから来ているそうです。須磨の関は古代、畿内と西国とを繋ぐ交通と軍事の要衝として重視されました。清少納言の『枕草子』にも、「関は、逢坂の関・須磨の関・鈴鹿の関・岫田の関・白河の関・衣川の関」と記さ...
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伏見区西桝屋町の伏見大仏で知られる欣浄寺(こんじょうじ)は、曹洞宗の開祖・道元が鎌倉時代に創建したと伝わります。当地には、小野小町の恋人であった深草少将ゆかりの邸宅があったとされ、境内には「少将の通い道」や少将と小野小町の塚、「墨染井」と呼ばれる井戸があります。深草少将は、小野小町から、「私の元へ百日間通い続けたら結婚してもいい」と言われ、九十九夜通い、いよいよ百日目という日に、雪に埋まり凍死したと...
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仁王門を潜ると、石畳の参道が続き、その先に本堂が見えてきます。本堂慶長13年(1608年)再建。入母屋造、本瓦葺き。桁行七間、梁間五間。釈迦如来像、十界曼荼羅の他、日蓮と日像の像を安置。2003年(平成15年)に解体修理が行われました。多宝塔室町時代の永享11年(1439年)以前のもので、京都で一番古い多宝塔とされています。太鼓楼仁王門から見下ろした景色にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろ...
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京都市伏見区深草宝塔寺山町にある宝塔寺は、藤原基経が嘉祥年間に発願した真言宗の極楽寺が宝塔寺の前身とされています。極楽寺は基経の没後、嫡子の藤原時平により昌泰2年(899年)に聖宝を開山として完成。『源氏物語』第33帖「藤裏葉」では、夕霧の祖母(葵上の母)大宮の一周忌が極楽寺で行われました。室町時代、日像は妙顕寺で入寂、遺言により当寺において荼毘に付されて葬られ、その後、寺名を宝塔寺に改めました。総門 室...
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野宮じゅうたん苔苔を用い嵐山を表した美しい庭園として有名な「野宮じゅうたん苔」神石(亀石)野宮大黒天のそばにある神石(亀石)を撫でながらお祈りすると、 一年以内に願い事が成就すると言われています。龍神手水鉢脇の井戸「野宮の竹美しや春しぐれ」の句碑大山弁財天前の庭には、村山古郷作「野宮の竹美しや春しぐれ」の句碑が建っています。絵馬謡曲「野宮」と野宮神社 晩秋のある日、旅僧が野々宮にやって来ると、1人の艶...
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野宮神社は、伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に由来する神社であると伝えられています。天皇が代替わりすると、未婚の皇女・女王の中より新たな斎王が卜定され、宮中の初斎院で1年間、そして嵯峨野の清らかな場所を選び造営された野宮に入り1年間潔斎した後に斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町)に向かい伊勢神宮での神事に臨んだ。その時の行列を「斎王群行」といい、1998年(平成10年)より毎年10月の...
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嵯峨野の竹林の小径を抜けて行くと、野宮神社があります。野宮神社があるところは、天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清める場所であり、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた清浄の地を選んで建てられました。その様子は源氏物語「賢木の巻」で、六条御息所の娘(後の秋好中宮)がこの地に暮らした後、斎王群行をして伊勢に向かう直前に、光源氏が六条御息所を野宮に訪ね、別れを惜しむ場面が場面が描かれています...
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東福寺の塔頭・同聚院は、1006年(寛弘3年)に藤原道長が法性寺の境内に造営した五大堂の遺跡です。本尊は定朝の父・康尚の作といわれる不動明王は「十万不動」と呼ばれ、火災除けのご利益があることで有名です。毎年2月2日「十万」の字を書いた護符が授与されます。同聚院臨済宗東福寺派に属する東福寺の塔頭の一つである。東福寺の寺地一帯は,平安時代中期に藤原忠平が法性寺を建立した所で、寛弘三年(1006)には,藤原道長が...
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京都市北区衣笠街道町にある法音寺平安時代に慈覚大師によって創建したといわれています。その後平安時代中期に花山天皇の勅願所になり、西国三十三ヶ所霊場復興所の本山でもあります。1008年(寛弘5年)には、花山天皇の葬奏が行われたともいわれています。応仁の乱の兵火によって焼失しましたが、その後再建されました。左大文字の発祥地旧大北山村の菩提寺でもあり、五山送り火が行われる8月16日の朝に施設餓思会が行なわれ、そ...
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京都市東山区鷲尾町にある天台宗の寺院雙林寺(そうりんじ)は、延暦24年(805年)に桓武天皇の勅願で左大史・尾張連定鑑(むらじさだみ)により、最澄を開山としてこの地に伽藍が創建され、日本初の護摩祈祷道場として建立されました。平安時代は、護摩祈祷が盛んで、中宮彰子が土御門殿で敦成(あつひら)親王を出産する際、大勢の僧侶を集めて護摩祈祷を行ったことが『紫式部日記』に記されています。また、『源氏物語』第53帖「手...
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京都市南区九条町にある東寺は、真言宗の寺院で、東寺派の大本山。延暦 15 (796) 年平安遷都のとき羅生門の東に創建され、西寺に対して東寺といい、また左大寺、左寺とも。弘仁 14 (823) 年嵯峨天皇から空海に賜わり、真言密教の根本道場となって教王護国寺と号しました。鎌倉時代に文覚が堂舎を修復。文明 18 (1486) 年の火災で堂塔など大部分を焼失しましたが、豊臣氏、徳川氏の助力により再建されました。『紫式部日記』には、...
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現在の京都御苑の仙洞・大宮御所の北側には、藤原道長の邸宅・土御門第がありました。土御門第跡(つちみかどていあと)平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、拡充され南北二町に及び、上東門第(じょうとうもんてい)、京極第(きょうごくてい)などとも呼ばれました。道長の長女彰子(しょうし)が一条天皇のお后となり、里内裏(さとだいり)である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子達も、誕生...
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寛弘5年(1008)、藤原道長は、娘の中宮彰子のために、金峯山で懐妊祈願を行いました。その甲斐あってか、ついに彰子の懐妊が判明。出産のために、彰子が道長の邸である土御門邸へ里下がりすると、4月から5月にかけて、彰子の安産祈願のための法華三十講が行われました。※法華三十講法華経二十八品 (ほん) に開経の無量義経と結経の観普賢経を加えた30巻を、1日に1巻ずつ、または朝夕に1巻ずつ講ずる法会。京都市左京区聖護院山王町...
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清涼寺は、秋の紅葉の名所でもあります。黄金に輝くイチョウ多宝塔と紅葉一昨年の秋、本堂と庭園を見学してきました。本堂を抜けると、渡り廊下が続き、ここから庭園を鑑賞します。弁天堂は、本堂のうしろの池に面して建っています。弁天堂弁天堂は、正面柱間三間、屋根宝形造で、正面に軒唐破風が付いており、建築年代は江戸末期ごろと推定されます。弁天堂のまわりは、池遊式庭園になっています。弁天堂西 川中島観光客の姿はほ...
地域タグ:京都市
本堂の西側には、豊臣秀頼の首塚があります。1980年(昭和55年)大阪城の京橋口三の丸跡から、地中に埋葬され、周囲にシジミやタニシの生貝が敷かれた頭蓋骨が発見されました。その頭蓋骨は、20~25歳の若武者で、首に介錯の跡があり、左耳が不自由だったこと、出土品などから、大阪夏の陣と時期が合うことがから、秀頼のものと推定され、1983年(昭和58年)、秀頼ゆかりの清涼寺に首塚を造って納骨されました。石は小豆島の自然石...
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清涼寺の仁王門を潜ると、左側にあるのが法然上人像です。法然上人像この像の奥には、聖徳太子殿があります。聖徳太子殿法隆寺の夢殿を模したものといいます。この北側には、多宝塔が建っています。多宝塔 江戸護国寺での出開帳の際に寄進され、3年後の元禄16年(1703年)に船で運ばれ再建されました。鐘楼「嵯峨十景・五台の晨鐘」と呼ばれてきたには足利義政・日野富子・足利義尚の名と文明16年(1484年)の日付が刻まれていると...
地域タグ:京都市
嵯峨野の清凉寺は、嵯峨釈迦堂の名で知られる浄土宗の寺院です。仁王門この地には平安前期、嵯峨天皇の皇子で、『源氏物語』の主人公光源氏のモデルとされる左大臣・源融(みなもとのとおる)の別荘・栖霞観(せいかかん)の跡に開かれた棲霞寺にお堂を建立し、釈迦如来を安置したと伝えられています。阿弥陀堂(栖霞観跡)阿弥陀堂は、源融が建立した棲霞観を偲ぶ唯一の建物と言われています。阿弥陀堂の木造阿弥陀三尊坐像は、源融...
地域タグ:京都市
金峯神社は、吉野山最奥の青根ヶ峰のそばにあり、吉野山の地主神を祀る神社です。二の鳥居金峯神社に伝わる経筒は、金峯山から出土したもので国宝となっています。令和6年(2024)には、金峯神社と金峯山寺が所有する藤原道長直筆の「金峯山経塚出土紺紙金字経」が国宝に指定されました。拝殿 吉野神宮の旧拝殿を移築したもの義経隠れ塔源頼朝に追われた源義経がここに隠れていたという塔。その際に追っ手に囲まれてしまい、屋根を蹴...
地域タグ:吉野町
御嶽詣(みたけもうで)とは、吉野郡金峰山(きんぶせん)に参拝すること。藤原宣孝は、正暦元年(990年)3月頃に御嶽詣を行いますが、『枕草子』によると「御嶽は『質素な服装で詣でよ』などと仰らないだろう」といって長男の隆光とともに派手な衣装で参詣したことが書かれています。帰京後の同年8月に筑前守に任ぜられたことから、「あのとき言った通りであった」と噂されたといいます。吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、...
地域タグ:吉野町
宇治駅の近くにある東屋観音に「東屋」の古蹟があります。浮船の母は今は常陸介の後妻になっていた。浮舟には左近少将という求婚者がいたが、少将は、浮舟が介の実子でないと知ると、財力めあてで浮舟の義妹と結婚してしまう。この破談に浮舟を不憫に思った母は、縁を頼って二条院にいる中君に預けることにした。ある夕暮、ふと匂宮は、西対にいる浮舟を見て、その美しさに早速言い寄った。驚いた母は、娘の行く末を案じ、三条あた...
地域タグ:宇治市
彼方神社の脇に「椎本」の古蹟があります。春、花の頃、匂宮は、初瀬詣の帰路、宇治の夕霧の山荘に中宿りし、お迎えの薫君やお供の貴族たちと音楽に興じた。楽の音は対岸の八宮の邸にもよく通い、八宮は都にいられた昔を偲ばせた。薫君から二人の姫君のことを聞き、ゆかしく思っていた匂宮は、宇治に消息を送ったが、返事はいつも妹の中君がなさるのだった。薫君は八宮を仏道の師と仰いで、宇治を訪れ、姉の大君に強く心をひかれて...
地域タグ:宇治市
京都翔英高等学校の近くに「蜻蛉」の古蹟があります。源氏物語宇治十帖(五) 宇治の山荘は、浮舟の失踪で大騒ぎとなった。事情をよく知る女房達は、入水を推察して、世間体を繕うため母を説得し、遺骸の無いまま泣く泣く葬儀を行った。薫君も匂宮も悲嘆の涙に暮れたが、思いはそれぞれ違っていた。 実情を知った薫君は、自らの志の不運を嘆きながらも、手厚く四十九日の法要を営んだ。 六条院では、明石中宮が光源氏や紫上のため...
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早蕨の古蹟からさわらびの道を進むと宇治上神社があります。さらに進んで行くと、与謝野晶子没後50年と宇治市制40周年を記念して建てられた与謝野晶子の歌碑があります。幼い頃から古典文学に親しんだ晶子は、源氏物語 にひかれ紫式部を師と仰ぎました。そして源氏物語の現代語訳に力を注ぎ、五十四首の詠歌で再構成した「源氏物語礼讃」によって歌人としての天分を発揮したといわれています。歌碑には宇治十帖の十首が晶子の真筆...
地域タグ:宇治市
宇治駅から三室戸寺からに向かう交差点の近くの歩道に「手習」の碑があります。薫27歳から28歳の夏にかけての話。匂宮と薫の板ばさみで追い詰められ、自殺を図った浮舟は宇治川沿いの大木の根元に昏睡状態で倒れていた。たまたま通りかかった横川の僧都一行に発見されて救われる。僧都の80余歳になる母尼(ははあま)が、僧都の50余歳になる妹尼(いもうとあま)との初瀬詣で(長谷寺参詣)の帰途に宇治で急病を患ったため、看護の...
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現在の京都御苑の仙洞・大宮御所の北側には、藤原道長の邸宅・土御門第がありました。藤原道長の日記『御堂関白記』には、寛弘4年(1007年)道長が、曲水の宴を土御門殿で主催したとあります。平安時代のこの辺りは、公家の屋敷や寺院が建つ土地で、東側には紫式部の邸宅跡・廬山寺、その南の鴨沂高校の辺りには、道長が創建した法成寺もありました。寛仁2(1018)年10月16日、道長の「御堂関白記」に和歌を詠んだ記載があり、その歌...
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平安時代中期、奈良の興福寺別当であった定澄(じょうちょう)。壬生氏の生まれで左京の人。延喜19年(919年)17歳で得度し、仁和寺別当・寛空、興福寺別当・空晴に学ぶ。興福寺に籍を置き、永延2年(988年)の維摩会では講師を務めた。長徳元年(995年)権律師に任じられ、西大寺別当に就任[3][4][1]。長保元年(999年)興福寺権別当となり、翌年には正任の別当に転じ、権少僧都となって龍蓋寺・龍門寺の別当職も兼任した[5][6][7...
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京都市北区紫野西御所田(ごしょでん)町に「紫式部・小野篁卿の墓所」があります。なぜこの二人の墓が隣接しているかというと好色な話が多い『源氏物語』を描いた紫式部が、人々を惑わした罪として地獄へ落とされたという噂を耳にした小野篁が、閻魔大王に彼女を地獄から救うようお願いし、助け出した後、自分の墓の隣に埋葬したのではないかといわれています。また、地獄に落ちた紫式部を哀れむ読者が、篁に彼女を助け出して欲し...
宇治市内には許波多神社(こはたじんじゃ)という名前の神社が木幡と五ヶ庄の隣接する2つの地区にあります。今回参拝したのは、木幡の許波多神社です。藤原道長が寛弘2年(1005)から2年がかりで創建した藤原家の菩提寺「浄妙寺」はこの北東の木幡小学校辺りにあったとされています。社伝では、大化元年(645年)、皇極天皇が夢で「吾れ天神故に下土に神陵なし吾が霊を祭祀し給へ」とのお告げを受け、中臣鎌足に命じ木幡荘に社殿を造...
宇治市の木幡(こはた)は、平安京から宇治に向かう途中にあり、藤原道長をはじめ、藤原氏の埋葬の地でした。藤原氏の菩提寺や墓所・宇治陵があります。そこで、木幡の藤原氏ゆかりの地を巡ってみました。浄妙寺は、藤原道長が寛弘2年(1005)に藤原氏の菩提を弔うために建立した寺です。道長は、1005年(寛弘2年)に木幡三昧堂を、その後も多くの建物を建て、1007年に浄妙寺を完成させました。1005年10月の供養会には、道長や中関白...
真如堂、東北院の西側には、後一條天皇の菩提樹院陵があります。後一條天皇は、一条天皇第2皇子で、母は藤原道長の藤原彰子 です。一条天皇藤原彰子後一條天皇一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。その誕生の様子は「紫式部日記」に詳しく、道長にとって待望久しい外孫皇子出生はその後の一族の栄華の初花となる。三条天皇の譲位(長和5年1月29日、1016年3月10日)により践祚、2月7日(3月18日)に数え8歳で即位。幼帝の...
京都市左京区浄土寺にある東北院は、藤原道長の没後、道長の娘である藤原彰子(上東門院)の発願によって道長が建立した法成寺東北の一郭に常行三昧堂として建立されました。彰子は東北院を建てた後、晩年ここを在所としたため、別称を東北院ともいいます。法成寺の区域の東北にあり、上東門院の母・源倫子が建立した常行三昧堂が法成寺の区域の西北にあって「西北院」と呼ばれていたことから、こちらは「東北院」と称せられました。...
縣神社は、永承7年(西暦1052年)、藤原頼道の平等院建立にあたり総鎮守となり、平等院の地主神として祀られています。祭神は木花開耶姫。平安時代、平等院建立以前では藤原道綱の母が、宇治に来た時、『蜻蛉日記』に「あがたの院」に詣でたことを記しています。明治維新までは、大津市の三井寺円満院の管理下にありましたが、「神仏分離令」により三井寺から独立しました。現社殿は昭和11年(1936年)造営。毎年6月5日から6日...
東福寺の塔頭・同聚院は、1006年(寛弘3年)に藤原道長が法性寺の境内に造営した五大堂の遺跡です。かつて、この地には延長2年(924年)に藤原忠平が建立した天台宗の法性寺があった。そこに藤原道長が寛弘3年(1006年)に、仏師康尚(定朝の父)に作らせた不動明王を中心とする五大明王を祀った五大堂を建立した。しかし、後に兵火によって不動明王を残して五大堂は焼失した。その後、嘉禎2年(1236年)に九条道家は衰微した法性...
寛仁3年(1019年)3月に藤原道長は胸病の苦しみが激しくなり、剃髪して出家しました。戒師は院源、法名は行観(後に行覚)。『栄花物語』によると、彰子が末妹・嬉子の行く末を心配して出家を制止しようとした、倫子が夫の後を追って出家しようとしたが道長が押し止めたなどの話が伝わっています。晩年は浄土信仰に傾倒、極楽往生を願い、寺の造営に力を注ぎました。1019年(寛仁3)から土御門殿の東にあたる鴨川西岸に、九体阿弥...
宝物殿には、手習観音が祀られています。平安時代中期、小野篁作と伝えられ、『源氏物語』宇治十帖の「手習」の古跡に祀られていたといわれることから、「手習観音(てならいかんのん)」とも呼ばれます。右足の親指が少し浮いているのは、「衆生の困苦をを救うため、すぐ駆けつける」と言う意思を表しているそうです。天竺殿興聖寺は応仁の乱や兵火に遭い、衰退してしまいますが、寛永10年(1633)淀城主として入国した永井尚政(...
本堂(法堂)慶安元年(1648年)に伏見城から移築され、改築されました。堂内には本尊釈迦牟尼仏を中心に両側に文殊菩薩、普賢菩薩を祀るほか、達磨大師、大権修理菩薩、十六羅漢が祀られています。それでは、興聖寺の内部を見学していきましょう。薬医門を潜り、庫裡の入口で拝観の受付を済ませます。庫裏庫裡には、大きな魚鼓(ぎょく)が吊るされています。魚鼓は、仏具の一種で、曹洞宗や臨済宗などの寺院などで僧堂や庫院につる...
興聖寺(こうしょうじ)は、日本曹洞宗最初の寺院で、道元が深草に興聖宝林寺を建立したことから始まり、江戸時代初期の慶安2年(1649)淀城主永井尚政がこの地に復興しました。参道は、そばを流れる小川のせせらぎの音と坂の形が琴に似ていることから、「琴坂」と呼ばれ、紅葉の名所として人気を集めています。道幅が狭いので、両側から紅葉が迫ってくるような感じがします。山門が見えてきました。門前にいた警備員さんが、琴坂...
宇治神社は、隣接する宇治上神社と二社一体の存在であったとされています。創建年代などの起源は明らかではありませんが、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の記載があるそうです。祭神は、菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)で、その名が宇治の地名の由来とされています。菟道稚郎子は、応神天皇の皇子であり、仁徳天皇の弟です。幼い頃から聡明だったため、父の応神天...
平等院と宇治川の間にあるあじろぎの道は、春は桜、秋は紅葉など四季折々の景色を楽しみながら歩ける川沿いの遊歩道。ベンチも設置されており、、宇治川の景色を楽しみながら休憩できます。石碑の後ろの朱色の端は、は宇治川に浮かぶ塔の島とあじろぎの道を結ぶ喜撰橋。喜撰橋を渡って塔の島へ。橋を渡ると、塔の島にそびえ立つ大きな石塔が見えて来ます。高さ15mの浮島十三重石塔は、現存する近世以前の石塔としては、わが国最大...
『源氏物語』第54帖のうち最後の10帖は、「宇治十帖」と呼ばれ、「橋姫(はしひめ)」「椎本(しいがもと)」「総角(あげまき)」「早蕨(さわらび)」「宿木(やどりぎ)」「東屋(あずまや)」「浮舟(うきふね)」「蜻蛉(かげろう)」「手習(てならい)」「夢浮橋(ゆめのうきはし)」の10帖の総称。主人公薫(かおる)大将と宇治の八の宮の娘、大君(おおきみ)・中君(なかのきみ)、および浮舟との人間模様が語られ、主として宇治の地が舞台となって...
宇治駅から『源氏物語』ゆかりの宇治を散策しました。駅を出てすぐ目に入るのがこの茶壺型ポスト宇治らしさ満点ですね😄史跡を見ながら宇治橋に向かって行きます。京都銀行宇治支店前に「宇治代官所跡」の石碑があります。宇治代官所跡江戸時代には、この場所に代官所が置かれていました。宇治代官の上林家(かんばやしけ)については、本能寺の変の際に、堺から三河に逃げ帰る徳川家康を先導したと伝えられています。上林家は、将...
藤原道隆の四子・藤原隆家は、996年(長徳2)権中納言の時、兄の伊周(これちか)とともに、花山法皇への暴力事件を起こし、出雲権守(いずもごんのかみ)に配流され、病のため但馬(たじま)に留まりました。997年、東三条院詮子(せんし)の病気によって伊周とともに召還。帰京後は兵部卿となり、のち従三位(じゅさんみ)へ。1002年(長保4)権中納言に再任され、04年(寛弘1)正三位、07年従二位、09年中納言となりました。長和元年(101...
京都市伏見区の醍醐寺(だいごじ)は、平安時代初期の貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる聖宝(理源大師)が創建した真言宗醍醐派の総本山となる寺院です。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とし、薬師堂、釈迦堂(金堂)、五重塔が建立されるなど発展を遂げました。釈迦堂(金堂)五重塔弁天堂『源氏物語』第23帖「初音」では、末摘花の兄が醍醐寺の阿闍梨という設定になっています。末摘花(すえつむはな)「源氏物語」の登場...
では、勝林院の境内を散策してみましょう。法華堂は、後鳥羽天皇ご冥福のため、梨本主尊快親王母公修明門院御計らいにて水無瀬の御所を以て仁冶元年 (1240)に建立されました。享保21年(1736)類焼し、現在の堂宇は、安永年度に再興されたものです。 法華堂は、後鳥羽天皇ご冥福のため、梨本主尊快親王母公修明門院御計らいにて水無瀬の御所を以て仁冶元年 (1240)に建立されました。享保21年(1736)類焼し、現在の堂宇は、安永年度に...
大原の勝林院は、延暦寺の僧・円仁によって創建され、荒廃した後、寂源法師により、長和2年(1013)に復興された天台声明発祥の寺です。寂源は、俗名は源 時叙(みなもとの ときのぶ)といい、左大臣・源雅信の八男、母は藤原穆子。藤原道長の妻・倫子の兄(弟)です。永観2年(984年)、当時侍従であった時叙は、同僚の侍従・藤原斉信、蔵人・藤原宣孝(のちの紫式部の夫)とともに賀茂臨時祭に怠けて出席しなかったことから花山天皇の...
客殿の庭園、聚碧園(しゅうへきえん)は池泉観賞式庭園で、東部は山畔を利用した上下二段式とし、南部は円形とひょうたん形の池泉をむすんだ池庭を形成しています。江戸時代の茶人・金森宗和の作庭と伝えられています。聚碧園の隅にある老木「涙の桜」は、室町時代の歌僧頓阿(とんあ)上人が詠んだ一首に由来し、その桜は西行法師のお手植えとも、頓阿上人の友、陵阿(りょうあ)上人のお手植えとも伝わっています。(三千院HPよ...
田中城は、静岡県藤枝市田中にあった輪郭式の平城で、江戸時代には田中藩の藩庁が置かれた城です。駿府城で隠居生活を送っていた徳川家康は、鷹狩りのため、度々田中城を訪れたといわれています。家康は元和2年(1616)4月巳の刻(現在の午前10時ごろ)、家康は駿府城において75歳で死去しましたが、鯛の天ぷらが原因という説があります。同年1月21日、駿河国田中で鷹狩を行った際、家康は御用商人茶屋四郎次郎清次に上方での流行を...
本丸堀 本丸堀は、駿府城の三重堀の一番内側の堀で本丸を取り囲んでいます。幅約23〜30mで深さは江戸時代には約5mありました。石垣は荒割りした石を積み上げ、隙間に小さな石を詰めていく「打ち込みはぎ」と呼ばれる積み方です。角の部分は「算木積み」という積み方で横長の石を互い違いに積んで崩れにくくしています。 発掘調査により再び姿をあらわした本丸堀は、江戸時代の雰囲気が感じられる貴重な遺構です。 銀座の柳 二...
徳川家康は、天正14年(1586年)12月4日、17年間過ごした浜松城から本拠を駿河国の駿府城へ移しました。これは、出奔した石川数正が、浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説があるそうです。駿府城は、14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川家の居館(今川館)が築かれ、今川家の居城となっていました。今川氏は隣接する甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と同盟を結び領...
嵯峨野の清凉寺は、嵯峨釈迦堂の名で知られる浄土宗の寺院です。嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の別荘・栖霞観(せいかかん)の跡に開かれた棲霞寺にお堂を建立し、釈迦如来を安置したと伝えられています。栖霞観跡本堂(釈迦堂)は、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって寄進・造営されましたが、嵯峨の大火が類焼し、本堂以下の伽藍は被災。元禄13年(1700年)より、本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始まり、また...
大阪の谷町9丁目駅から徒歩5分ほどのところにある生国魂神社(いくたまじんじゃ)生魂(イクタマ)とは、生まれたばかりの魂という意味があるそうです。社伝によれば、神武東征の際、神武天皇が、生島神・足島(たるしま)神を、現在の大阪城付近に祀ったのに始まると伝えています。戦国時代には、石山本願寺に隣接していたため石山合戦で焼失。天正11年(1583年)豊臣秀吉が、大坂城を築城する際に現在地に社地を寄進して社殿を...
1615年(慶長20年)徳川家康は浪人解雇と豊臣家の移封を要求しましたが、豊臣秀頼は父の城を捨てるわけにはいかないと拒否し、大坂夏の陣が始まりました。淀殿は、女性でありながら、甲冑に身を包み、豊臣方の総大将として徳川との戦に臨みましたが、堀を埋められた豊臣に勝ち目はなく、ついに大阪城は落城。淀殿は、秀頼の「豊臣の人間として果てたい」という言葉で、自分もともに自刃することを決めました。家臣に救出された千姫...
心眼寺の近くにある天王寺区の善福寺は、創建当初に「鏡如庵大師堂」と称し、大坂夏の陣の戦死者を弔うために建てられたと伝わるお寺です。通称はどんどろ大師。「どんどろ大師」の語源については、土井利位(どいとしつら)(生没年:1789年~1848年)(下総国・古河(茨城県)藩主)が大坂城代に在任中の期間(1834年~1837年)の屋敷が鏡如庵大師堂の近くにあり、土井利位が鏡如庵大師堂に祀られている弘法大師に深く帰依し、参...
松平忠直は、徳川家康の次男・結城秀康の嫡男で、慶長12年(1607年)、父親の遺領を継いで越前北庄(福井)68万石の当主となりました。慶長16年(1611年)には徳川秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎えます。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、二万以上の兵を率いて、真田丸の攻撃を行いましたが、進撃命令が出ないのに、無理な突撃を敢行して、真田信繁の罠に嵌り、真田勢の攻撃により大敗。軍令違反の攻撃のうえに大敗という...
大坂夏の陣、いよいよ最終決戦・天王寺・岡山の戦いです。慶長20年(1615年)5月7日未明、豊臣方は大坂城を出発し、現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃体制を布き、幕府方は、夜明け頃天王寺口と岡山口から大坂城へ向け進軍を開始。豊臣軍は、天王寺口には真田信繁、毛利勝永など14,500、岡山口には大野治房ら4,600、別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000が布陣。幕府方の配置は、大...
東大阪市の蓮城寺は、豊臣方武将・木村重成の菩提寺で、若江の戦いの際、重成はこの辺りに布陣しました。 母の宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼の乳母となり、重成は幼少から秀頼の小姓として仕えたといわれています。 慶長19年 (1614) 大坂冬の陣には玉造口を守備し奮戦。 元和1 年(1615) の大坂夏の陣で、長宗我部盛親らと出撃し、八尾・若江で井伊直孝、藤堂高虎と戦って戦死しました。 境内には重成の位牌堂があ...
大阪の平野区にある志紀長吉神社は、古事記・日本書紀に載せられている延喜式内社で、真田信繁(幸村)ゆかりの神社です。大坂夏の陣の時、信繁は道明寺の戦いから退却の途中で当社に立ち寄り、軍刀や軍旗を奉納して戦勝を祈願しました。志紀長吉神社の境内ではなく、南側の鳥居のある交差点より少し南に入ったところに、真田幸村休憩所跡があります。門を開けると石碑があります。信繁が、大坂夏の陣の時、南河内誉田において東軍伊...
道明寺合戦は、真田信繁(幸村)軍と伊達政宗軍が激突。片倉小十郎、後藤又兵衛、薄田隼人が激突しました。2014年11月、道明寺駅前に建立された道明寺合戦記念碑当時の道明寺は、現在の道明寺天満宮の階段下南側にあり、この辺りに西軍が陣を布き、真田信繁は、後藤又兵衛、毛利勝永と打倒徳川の誓いの盃を交わしたと伝えられ、道明寺の戦いの舞台になったといいます。道明寺天満宮道明寺天満宮は、土師氏の氏神として創建され、の...
大阪市城東区の白山神社の創建年月は不詳ですが、明治5年までは、白山権現と称し、応永(1394年)の頃から中浜・鴫野・森の諸村の氏神でした。 天正4年(1576年)織田信長が石山本願寺を攻撃した時、社殿を焼失しましたが、慶長8年(1603年) 豊臣秀頼により再建されました。 拝殿の見事な彫刻 同19年、大阪冬の陣による兵火で再び焼失し、元和3年(1617年)大坂城代内藤紀伊守により再建されました。 歯痛治癒に霊効があることで...
大阪市城東区今福に鎮座する三郷橋稲荷神社この辺りは、大坂冬の陣で、後藤又兵衛(基次)、木村重成、が、佐竹義宣、上杉景勝と戦った激戦地でした。神社の前に、「大坂冬の陣古戦場 今福・蒲生の戦い跡」の碑があります。側面には、木村重成・後藤基次奮戦の跡地と書かれています。慶長19年(1614年)、大坂城攻撃のため、現在の天王寺、茶白山に本陣を置いた徳川家康の命により、今福・蒲生は秋田城主佐竹義宣、鴫野には...
大阪天王寺のJR玉造駅から約5分、真田山丘陵に鎮座している三光神社反正天皇時代の創建と伝えられ、天照大神、月読尊、素戔嗚尊を祀り、日本全国で唯一の中風除の神として広く知られています。 「真田丸」が放送された年に行ったので、真田信繁を演じた堺雅人さんのポスターが飾られていました。境内には「真田の抜け穴」といわれる石室状の横穴が残されています。当社は、大坂城の出城(真田丸)のあったところで、慶長19年(1614)...
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに、徳川氏と豊臣氏の関係が悪化。豊臣家は、浪人を集める策を採り、九度山の真田信繁の元にも使者を派遣して黄金200枚、銀30貫を贈り、信繁に九度山を出るように説得します。信繁は上田にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して、子の大助幸昌と共に大坂城に入場しました。大坂で信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一していたといいます。信繁は、大坂城の最弱部であ...
大坂の天王寺公園内にある茶臼山古戦場跡を訪ねてみました。公園の入り口には、旧黒田藩屋敷長屋門があります。(碑文)現在中之島三井ビルの場所がおおむね福岡黒田藩の蔵屋敷で、これはその長屋門である。数少ない蔵屋敷遺構の一つで、昭和8年三井ビル建設に際し大阪市に寄贈された。旧黒田藩屋敷長屋門 蔵屋敷は諸大名が自国産物の保管、管理、販売のために設けた藩邸で、明治維新直後には135を数え、交通運輸(水運)に便利な堂...
1614年(慶長19)年、方広寺鐘銘事件により、豊臣方と徳川方と対立が激化すると、両家の調整役の片桐且元は、戦争を避けるために徳川家康との和平交渉に奔走しましたが、家康と交渉している間に、大野治長や淀から家康との内通を疑われるようになり、大坂城を追放されてしまいました。これが徳川方の冬の陣の宣戦理由となり、家康は総勢20万の大軍で、秀頼のいる大阪城を包囲させました。片桐且元一方、豊臣方は、旧豊臣系の大名に味...
以心崇伝(いしん すうでん)は、字は以心、法名が崇伝で、南禅寺金地院に住したため、金地院崇伝(こんちいん すうでん)とも呼ばれています。京都南禅寺金地院の慶長10年(1605)の住持となり、徳川家康に仕え、外交事務、方広寺鐘銘事件や寺社行政、寺院法度、禁中並公家諸法度などの起草、キリスト教の禁圧、紫衣事件に関与し、幕府の基礎づくりに貢献しました。黒衣(こくえ)の宰相とも称されましたが、称されましたが、家康の死...
かつて方広寺の大仏の台座があったとされているところは、「大仏殿跡緑地公園」として整備されています。中央の盛り上がったところに、大仏が安置されていたそうです。 大仏殿跡緑地 かつてこの地には、豊臣秀吉が奈良東大寺にならって創建し、その後秀頼が再建した方広寺の大仏殿が、偉容を誇って建っていました。現在の緑地はその中央部にあたり、2000年に遺構の状態を確認するための部分的な発掘調査が実施されました。調査...