輝く、未来、明日、青空、思い、希望、夢、涙、前へ、楽しい、幸せ、ポジティブ・・・歌の番組での字幕でよく目にする言葉です。マナーがよくないのですが、目が欠伸をしています。...
ますます「写真」が何を指しているのか分からなくなってきました。いずれ「写真」あるいは「photogragh」という言葉はなくなるかもしれません。それはそうとして、個人的には自分の考える写真を撮り続けるだけしかないと思っています。
デジカメが幅を利かせ出したころるデジタル画像ののっぺりさが気になっていました。やがてデジタル画像の空々しさが気になってきました。でも今はどちらかつてほど意識しなくなりました。どうやら慣れは人を麻痺させるようです。...
写真はおそらく被写体を超えることはできないと思っています。被写体の姿を借りて別の何かに変えること、それが被写体へのお礼のような気がします。何かを生み出せればいいのですかそれは簡単ではない気がしています。...
写真は記憶というものを強力に意識させるメディアだと思います。人間は、単純に言えば記憶でできていると思うのですが自分が撮った写真と、撮った時の記憶にズレが生じることは誰でも経験しているのではないでしょうか。それは、自分が記憶していることは必ずしも正確ではないことを意味します。つまりそんなあやふやなことを土台にして毎日を送っているんですね。...
前にも書いたので同じことの繰り返しになりますが写真を撮るということは程度の差はあれ、人を傍観者にさせるところがあると思うのです。自分と直接に関わっていないのに関わっているような気にさせる、自分が傍観者になっているかもしれないことを考えなくさせる、カメラにはそんなところがあるということですね。綺麗な風景の中にいるのに、スマホを含めたカメラで写真を撮ることに夢中になってしまうのは、実際には景色に触れて...
通りすがりの○△□231025・そなんやけどMINAMI 3
写真の場合、綺麗と美しいが曖昧に混同されている気がします。綺麗だけれど美しくない・・・そんなことがあるのではないでしょうか。写真は視覚の表現なので見た目に影響されやすいのです。そのため、美しさが遠慮がちに目立たなくなってしまう気がします。レタッチは綺麗さをさらに強調しがちで美しさがぼやけてゆくように感じるのはフィルム時代の目で見てしまうからでしょうか。いずれにせよ写真にとって「美」とは何かよーわか...
通りすがりの○△□230831・街、後ろ姿のHappysong 3
「それ」を写真を撮るだけでは 「それ」を見たことにはならないと思います。むしろ撮ったことで「それ」を見た気になるのがマズいのではないかと思います。「それ」を見たいのなら直に「それ」を見たほうがいい気がします。写真に撮るのは「それ」を「それ」以外の何かに変えたいからではないでしょうか。 そのことは「それ」にとっていいことなのかどうか「それ」から聞けることは稀だと思います。...
テレビのドラマで事故や事件が起こったら歩いていた人たちがいっせいにスマホを向けてバシャバシャ撮り出すシーンがよくありますよね。人がケガして倒れているのですが・・・私もそんな場面に出会ってカメラを持っていたらやっぱり写真を撮ろうとするのでは、と思っています。それは際立った例えとしても、どんな場面でもカメラは持つ人を傍観者にしてしまうところがあるのではないでしょうか。「あっしには関わりのないことで・・...
行ってきました。...
写真の投稿だけです。...
通りすがりの○△□231025・そなんやけどMINAMI 2
試しにですが3、あるいは4カットで写真を組んでみます。すると2、あるいは3カットまでは決まるのですが最後の1カットがなかなか決まらず迷うことがよくあるんですね。組み写真というほどでないにしても写真を数カットのまとまりで見た時、その中の1カットだけが目立つのはよくないようです。3枚の組み写真だとすると他の2カットが、それぞれの別の1カットを支えるというのでしょうかうまくバランスが取れると、見やすい写真群にな...
写真の投稿だけです。...
写真の投稿だけです。...
「人間だもの」…耳に響きのいい言葉ですよね。でも最近ちょっと引っかかっています。「人間だもの」というのには「人間とは何か」が分かっている必要があるのではと思うようになりました。でも「人間とは何か」完全に分かっている人っているのでしょうか?「写真だもの」も同じように思います。「私に写真で分かっていないことなんてない!」そんな人・・・いるかどうかですね。たぶん、ですがどちらも永遠の謎ではないでしょうか...
それを撮った三次元の私と、私が撮った二次元の写真。両者は無関係ではないですが、完全に重なるわけではありません。それは頭でわかっていても、自分が撮った写真には愛着みたいなものがあるのは仕方のないことですよね。人間だもの。ただそうするとその写真を他人事のように見ることはできなくなります。評価を誤るというより、評価そのものが出来なくなるのです。たぶん、一流と言われている写真家は自分の写真を他人が撮った写...
小さいころ、大人ってすごいなと単純に思っていました。でもある時から、大人ってただ年を取っているだけだと気づかされます。そして大人から言われるのです。「そうか。大人になったな」と。...
言うまでもなく写真は平面のアートであることは分かっているのですがそのことを意識化することは、結構むつかしい気がします。目の前の光景は三次元ですから、立体的に写真を撮ろうとします。でも、三次元を二次元にすることですからそこに無理が生じて、現物と写真とに差異が出てきます。それが写真の面白さだと思うのですがその面白さを捉える、表現するのは、これまた難しいんですね。...
写真には撮影した時の思いは写らないと思っています。思いは形のないものですからその場では写せないのです。でも写真にはその写真を撮った人の何かは写っているように見えます。時には本人も気づいていないものが他の人が見たら分かることもあるかもしれません。隠された癖、好み、本音・・・そんなものですね。写真はウソついたつもりがホントのことを見せてしまう時があるのでしょうか。...
通りすがりの○△□230831・街、後ろ姿のHappysong 3
写真の投稿だけです。...
写真の投稿だけです。...
写真の投稿だけです。...
写真は光のアートといわれていますが色のアートといったほうがいいような気がしています。光が物質だとしたら色は物体ではないでしょうか。モノクロ、正確には白や黒も色ですよね。WEB上の写真は光の画像ですが紙の上の写真は色の画像だと思うのです。写真において物質と物体の違いみたいなことはよく分かりません。ただ、物質である光より物体である色のほうが安心感があると言ったら変かもしれませんが、人間は視覚以前に触覚の...
御堂筋のパレードへ行ってきました。人が・・・スゴイ・・・...
写真の投稿だけです。...
通りすがりの○△□231025・そなんやけどMINAMI 1
写真は「完璧」にこだわるより「中途半端」を気にしないほうがいいのではないでしょうか。「完璧」はそこで終わってしまいますが、「中途半端」には写真の可能性があるような気がします。私の「中途半端」は放っておくとして「中途半端」の中からいかにして写真の可能性みたいなものを見つけるか・・・ということですね。まあ可能性というより写真の面白さといったほうが私の場合、救われます。「可能性」という言葉にプレッシャー...
カメラ雑誌の12月号が発売されました。読んでいると軽い隔離感に襲われます。新発売などのカメラやレンズの参考価格という数字を見た時にです。もう、これらの雑誌の読者の人たちは自分とは別の写真の世界に住んでいるのだと思えてくるのでした。まあ、自分の住んでいる写真の世界がまだ滅んでいないことを願っています。その世界には人影はまばらなようですが・・・...
当たり前に写真を撮るようになりました。未来に「今」を振り返れるように。でも未来になって振り返った時取り返しのつかない過去に気づきます。ー確かにあのころが写っている。でも何かが違う・・・私でない私が写っているように感じる。そして知るのです。過去はもうどこにも存在しないことを。...
写真の投稿だけです。...
表現というのは自分が中心になると思うのですがコミュニケーションというのは相手が中心になると思います。そのため表現は相手に届かないことも受け入れる必要がありますがコミュニケーションは相手に届かないと成立しないものなんですね。写真のSNSなどを見ているとそのことが混同されている気がします。「繋がる」という言葉が使われますが表現を意識しているのかコミュニケーションを意識しているのかあいまいな気がするのです...
この撮影から2か月余り経ちました。まだ秋の入り口で、昼間には危険が待っているとテレビなどで連呼されていたので早朝に出かけたのです。「招き猫」は今も待っているのでしょうか。手は疲れないのでしょうか。秋も終わりに向かっています。「秋」という字に「火」があるのは紅葉が燃えているように見えるからでしょうか。浄蓮の滝の山がそうだったように。...
まだスッキリしないのですが投稿できるようになりました。多分大丈夫だと思います。ものすごく便利は、便利さが機嫌を悪くするとものすごく厄介ですね。写真についてもフィルムカメラは何となく仕組みが分かったのですがデジカメに関しては「どないなってんねん!」です。どないなってんねんカメラで、どないにもなっていない写真をこれからも撮れればいいなあと思っています。自分でも意味不明のことが言える、そんな普通、平穏無...
パソコン不調につき投稿休みます。...
写真の投稿だけです。...
写真は撮るモノから作るモノになりました。写真は「撮る楽しみ」から「作る楽しみ」のメディアに変質したのです。写真表現の主人公は「光」から「人」になったのです。かつて写真家は「光」に操られる人だったと思うのですが今、写真家は「光」を操る人になったのではないでしょうか。写真家は「光の魔術師」と呼ばれていましたが写真家自ら名乗るのではありませんでした。「光」に選ばれた写真家だけが自由自在に光を操ることが可...
スマホで撮るとたいていはタテ位置で撮りますよね。ほとんどの人がそうだとすると写真のタテ位置がスタンダードになりそうです。タテ位置とヨコ位置が仲よく混じったら正方形になるのでしょうか。真四角は特異な形だと思うのですが今はそうでもないみたいです。慣れ・・・ということでしょうか。...
通りすがりの○△231005・街、後ろ姿のHappysong 2
透明過ぎても、スカッスカしていて落ち着かないし不透明過ぎても、モヤモヤしていて落ち着かない・・・どっちやねんと思います。あっ、写真の話です。...
かつては写真を撮ること自体が楽しかったと思います。カメラは魔法の箱でした。今も、そのことは続いていると思うのですがそれよりも撮った写真で何かをすることを楽しむようになったと思います。カメラは魔法の箱でなくなりました。カメラの中にいた魔法使いは追い出されカメラの中にコンピューターという超能力者が入り込んできたのです。そして今、写真は目的ではなく手段になったようです。写真は終点ではなく途中、中間地点に...
布施に用事があったのでついでに近鉄の河内小阪で降りて布施方向へ歩いて撮影してきました。撮影の終盤、コケそうになって危なかったです。「オレ、年寄りみたい、アハハハ」自分のこと、よく見えていないようでカッコ悪いです。そんなことでよく写真やっているなと思いました。よく見ることが、写真の基本なのに・・・...
光、光、光・・・写真する人は光が大好きですよね。写真は光と影とよく言われますが影は光とセットで、別のものではないと思います。光の反対は闇です。そして闇があるから光があるのであって光は一時的なモノではないでしょうか。写真はカメラという闇の中から生まれてきます。その中に一時的な光を飲み込んで出来たのが写真なのですね。...
選手に監督が「普通にプレーすればいい」と言っていたんですね。「ファインプレーは要らないのだから」とも。写真も「普通に撮ればいい」のかもしれません。でも「普通に」って何?「普通に撮って」いるとありきたり写真になって人との差別化が出来なさそうです。そうなると「ファインプレーが要るのでは?」と思ってきます。機材で?撮り方で?レタッチで?見せ方で?・・・「普通に撮ればいい」というのは普通に難しいのではない...
写真関係のSNSを見ていると使っているカメラやレンズの記事をよく見かけます。それだけ機材にこだわっているのが伝わってきますよね。写真はカメラやレンズがないと撮れないのですから不満を感じない、出来るだけ自分のお気に入りの機材で撮りたいです。ところが写真を見てくれる人は、写真撮影に興味のある人は別にしてほとんどの人はその写真に写っている被写体のほうに関心が向かいます。どんなカメラで撮ったかは、ほぼ気にし...
ふと、ですが「オレ、もっと前のほうがいい写真撮れていたのと違う?」などと、思ったりすることがあるんですよね。もちろん、錯覚のコンコンチキで今も昔も変わらないチョメチョメ写真ばかり撮っているのです。奥深い写真などは撮れるわけではないし、そういう写真を目指しているのでもないので別に成長、進歩もしなくてもいいとも思っています。ただ、「前はもっと」と思うようになるのは少しずつ、写真に興味が無くなっているこ...
写真というのは何らかの被写体を写したものですよね。その被写体は何であれ、たいていはみんなが見たことのあるものです。大阪城公園は一つですから、そこで撮った写真は誰が撮っても大阪城公園の写真になります。当たり前のことを言っているみたいですがレンズを変えたり、構図を変えたり、レタッチを凝ったりして他の人との差別化を試みるしかないのです。それでも「どこかで見たことのある写真」からは免れないのではないでしょ...
通りすがりの○△□230831・語るに値しないカタルシス 13
レタッチ即作品化ではないと思っています。写真の見映えはよくなると思うのですが見映えがよくなったためにその写真のよさみたいなものを失わせる・・・そういうこともあるのではないでしょうか。それとレタッチで写真を100%コントロールできると思わせるところがあるのですがそれも錯覚ではないでしょうか。レタッチ以前のこととして、なぜその写真なのかということが大切だと思います。...
「加工詐欺」とか言った言葉があるんですね。実際とはあまりにも違う過度なレタッチ写真が指摘されています。詐欺というのはかなり強い言い方なので、よっぽどのことだと思います。じつは写真はもともと加工しなければ写せないものだと思っています。三次元を二次元にし、時間を停止して写したものですから人為的に加工していると言えるんですね。ただ被写体に依存しているわけですから見た人は被写体にイメージで写真を見てしまい...
10月が終わります。それは11月が始まることでもあるんですね。当たり前のことを書いてしまいました。かくことがないのです。恥は年中、かいていますが。...
NHKのETV「日曜美術館」だったと思うのですが画家が何度も手直しして絵を描いているシーンがありました。描いた絵の上にまた上書きしてゆくというのでしょうか専門的なことは分かりませんが、自分の納得する絵になるまで何度も書き直してゆくのだと思いました。それは写真で何度も撮る=たくさん撮る意味に通じるのではないでしょうか。写真は多重露光とかありますが、それは上書きとは違いますよね。同じシーンを少しずつ画面をず...
理屈で言ってもたくさんバットを振ったほうが、ホームランの確率は高くなります。ホームランを打てる技術があれば正確にはホームランの本数ですね。50回打って1本ホームランを打てるなら、100回打てば2本ホームランを打てる計算です。写真は野球と違って技術的な差はそれほど気にしなくてもいいアートです。カメラという優秀な相棒の技術を使いこなせるようになれば、人との差を縮めれるからです。人間の技術よりカメラの機械の技...
通りすがりの○△□230831・語るに値しないカタルシス 12
写真はカメラの前にあるもの、つまり事実しか写せません。1カットの画像、写真が出来上がります。その1カットの画像から、その写真を見る人はそれぞれが想像したイメージ、脳内画像を作り出します。そしてそのイメージがその人にとって真実になります。そうだとすると事実は一つなのに真実は人数分もあることになります。あの名探偵の少年のセリフに「真実は一つ」がありますが写真に関しては当てはまらないように思えてくるのです...
以前はカメラ雑誌の中で書かれていたのが今はSNSで写真についての意見、考え方を知ることが出来ます。読みながら、「オレのは理屈っぽ過ぎるかも」なんて今更ながらに思っています。理屈っぽいことが好きなのです。それも自分ではかなり消化不良なのに、投稿してしまっています。後で読んで自分にツッコミ入れたりしているんですね。頭の中でモヤモヤさせているよりは、文字にしたほうが少しはスッキリすると思っています。ただ、...
半年以上ぶりの奈良公園です。ココへ出かける前にはいつも思っていることがあります。「今度こそ、鹿、あまり撮らんとこ」でも、公園に着けばまったく撮らない訳ではなくて出かける前のことはすっかり忘れて、今回も撮ることに。パチパチ撮っていると、1頭の鹿と目が合いました。思わず愛想笑いを返したのですが、アッサリと視線をそらされたのでした・・・その後は、せっかくやって来たのだからと気を取り直して撮影を続けたもの...
行ってきました。人がいっぱいで、人酔いしました。...
第一印象が大切と言われますよね。その中心になるのが「見た目」つまり視覚です。写真も印象付けるには鮮やかさを増し、コントラストを付けるのが手っ取り早いです。彩度を強調するとか、三原色、特に赤を上手く使うということですね。モノクロだけではなく、白く飛ばしたり、黒く潰してコントラストを強調できます。それはテクニックとしてもちろんありなのですが、印象だけでは、時間が経つと薄れてゆきます。やはり、グッサと突...
通りすがりの○△□230831・語るに値しないカタルシス 11
写真をやっているとどうしても言葉というものを考えてしまいます。写真も広い意味では言葉だと思うのですが一般的ではありませんよね。写真を見れば分かるという場合、言葉は要らないということなのですがその写真にすでに了解された言葉があるからなんですね。かわいい、きれい、すてき、すごい、おもしろい・・・それに付随して「かわいい猫、あるいは犬が道端にいました」というストーリーが語られるのです。ほとんどの人は子犬...
通りすがりの○△□230831・語るに値しないカタルシス 10
写真を使って自分をアピールするのではなく自分が撮った写真をアピールするのが写真家だと思っています。言葉にすると理屈っぽくなって、よく似ているように感じるのですが同じようでやっぱり違うのではないでしょうか。〇○さんが撮った写真だからという理由で目に留まらせるのではなくこの写真を撮ったのはどんな写真家さんなんだろうと注目されるのが本来のというのでしょうか、写真家としてカッコイイあり方だと思います。まあ...
SNSなどでひらがなだけのニックネームというのでしょうか、最近よく目にします。アーティストやタレントさんでもいますよね。覚えやすいから、低学年の小学生もアピール対象にしたいからなど・・・でしょうか。私も考えてみました。「きゃめじ」・・・カメラ爺をカッコよくしたつもりものです。でも、繰り返すうちにキモくなってきました。ニックネーム、考えてる暇があったら写真を撮っているほうがいいみたいです。...
通りすがりの○△□230831・語るに値しないカタルシス 9
写真に限らないと思うのですが個性的=いいことのように思われていますよね?「あの人の写真、作品は個性的でステキ」など。でも個性的がいいこととは限らないと思っています。第一に個性的とは何かがハッキリしていません。ボンヤリといいことのように思われている気配がします。他の人が自分の好ましい部分だけを見てある人の写真を個性的だと言っている気がします。そのあとで自分の好みと違った写真をある人が新たに発表すると...
カメラ雑誌の来月11月号が発売されました。ネットで見ています。前にも書いたのですが、フォトコンテストなどの作品の画面が濃すぎる印象があり、重く感じられます。重厚さというのでしょうかモニターで見ているせいかもしれません。ちょこまかカメ爺の私の場合は狡(こ)すぎるのですが・・・。...
世界は平べった化して行っているように感じます。凸凹が無くなってきたので、歩いていてつまずくことが減ってきました。凸凹は歩く時には障害とも言え、手間取らせることもありましたがその凸凹が楽しかったりすることもあったと思います。世界の平べった化は写真が得意とするところです。写真はそのことで世界を見やすくしてきました。インターネットは平べったい写真と相性が良かったのでしょうか、世界を平べったい写真で覆い尽...
雑誌ブルータスの「写真はもっと楽しい。」号を買いました。まだサラッと見ただけで内容は分かりません。「もっと」という言葉を人は好きですよね。でもその写真ですが「楽しい」というのがよく分からないです。写真の「楽しいこと」が分った上での「もっと」なのだろうかと。そう言うと「まあ、そんなこと言ってないで写真を楽しんだら」と言われそうですが、「写真=楽しい」と、ホントに感じているのか分かっている上でのタイト...
通りすがりの○△□230831・語るに値しないカタルシス 8
写真は楽しくなければ続かないという意見があります。なるほど正論ですよね。アマチュアで嫌々写真を続ける人は多分いないと思います。ただ、楽しいだけでは長続きしないと思うのです。よっぽどのことがなければ、人と言うのは飽きてくるからです。今はSNSがあるので、応援と言うのでしょうか、後押しみたいなことはしてもらえますがやはり限度があると思います。それで私は写真を楽しむというより、面白がるほうがいいと思ってい...
これらのカットを撮ったのがちょうど1カ月前でした。当時は「危険な暑さ」が道を歩く前から叫ばれていたので早朝なら危険が迫って来る前だろうということで出かけました。あれからひと月、暑さの危険は去りましたが今度は寒さの危険が待っています。まだ少しは余裕がありそうで、秋にも目立ってほしいと思います。最近は春と秋の活躍期間が短くなりましたが平等の時代ですから、やはりどちらも3か月間、いてほしいですね。...
今はネットでいろいろな人の写真を見ることが出来ます。そして、皆さん上手ですよね。「プロの人って、タイヘンなんとちゃう?」などと思ったりします。耳を悪くしてからだいぶ経つので最近のことは分からないのですがカラオケに行ったりすると、一人を除いて皆、メチャ上手かったです。「テレビで見る〇○より上手いやんか」などと思ったものです。歌と写真を一緒に出来ないかもしれませんが人との違いを見せるのは難しくなりまし...
奈良公園とその周辺を撮影してきました。県境を超えると遠出した気分が味わえますね。...
通りすがりの○△□230831・語るに値しないカタルシス 7
以前のカメラ雑誌のフォトコンテストではそのような失敗写真も選ばれていたのがよかったです。当時の私は「こんな写真がどーして選ばれるんや!?」と悩ましかったのが懐かしいです。今でも理由はよく分からず言葉にしにくいのですが意味不明、モヤモヤさせる写真もあってもいいのにと思っています。最近のフォトコンテストでは雑誌が減ったからでしょうかそのような作品はあまり見かけなくなりました。現行のフォトコンテストは皆...
タイトルがスナップの動画だというので見てみるのですが最初のほうは延々とこれから使うカメラやレンズの説明が続きます。写真は機材が大切なので、分からなくもないのですが個人的には撮影風景や撮影カットの紹介に時間を掛けてほしいなあと思って、機材の説明の部分は飛ばして見ています。まあ、以前は写真仲間以外の人たちの撮影現場を見ることはほとんどできなかったのですから、いい時代になったなと思うことにしています。た...
通りすがりの○△□230831・語るに値しないカタルシス 6
人は元気を必要とする生き物ですよね。だから「元気をもらう」という言い方をよくします。自分とはまったく関係のない芸能人やスポースマン、チームを応援するのも元気を貰えるからなんですね。テレビドラマなどもフィクション、つまり作りごと、ウソですがやはり元気を貰えるから話題になるのだと思います。そう考えるとウソかホントかはどうでもいいとまでは言わなくてもどちらでもいいのではないでしょうか。要は元気さえ貰えれ...
「失礼な言い方」という記事を読みました。「えっ?それ、アカンのん?」と言う言葉がいっぱいありました。カメ爺には、もう別の世界にいる気分です。もともと、人の気持ちに疎かったのですが今はもうほぼコミュニケーション不可人間になりました。写真もコミュニケーションの手段として使えますが私の場合は、ボソボソ独り言みたいなものなんですね。...
通りすがりの○△□230831・語るに値しないカタルシス 5
一般のテストには正解があります。ゆえに誰が採点しても同じ結果になりますよね。一方、フォトコンテストには正解はありません。それでは結果が出なくて困るのでプロの先生が選ばれます。作品を選ぶための審査員の人が選ばれるのです。その審査員の先生が選んだ作品が正解といえば言えます。フォトコンテストはある日突然、正解が作られる場なんですね。...
写真は被写体があるので簡単に撮れます。絵画との大きな違いです。そのことは写真は被写体しだいだともいえるんですね。被写体のお陰と言い換えれます。私に限って言えば、仮にそれなりのカットが撮れたとしてもセンスがいいとか、フレーミングの妙だとか、美意識が高いとかシャッターチャンスに強いとかなどの証しなどでは全然ないのです。「ソンナノカンケーネエ!」です。ただ、よく考えもせずに何気にシャッターを切っただけで...
昨日、梅田の撮影中は気にならなかったのですが帰宅後、虫歯が痛み出しました。むし歯だからといって、むし!するわけにもいきません。起きている間は何とかしのぎ切り、浅い眠りについたのですがま夜中に痛みで目が覚めました。ヤバい!血圧が高く、不整脈が・・・「ああ、せっかくの梅田で撮影した傑作の数々をオレはこの目でもう見ることが出来ないのでは・・・」と布団の中で悶々としていたのですが・・・朝、スッキリと目が覚...
撮影してきました。風が強かったです。...
街なかで写真を撮っているといたるところに人物などのポスターや看板やパネルがありますよね。その人物などの視線が至るところから向けられているのを感じます。上から、下から、大きかったり、小さかったり・・・それで街なかを歩くと気疲れするのでしょうか。それとも、私の自意識過剰、あるいは対人恐怖症のせいなのでしょうか。街なかは「視線の宝庫」なので、注目されたい人にはピッタリの場所なのかもしれませんが。...
〇○と言う実在した人物をモデルにしたテレビドラマがありますよね。モデル、つまりヒントにしたということで、その生涯を忠実に描いたものではないのです。時々、視聴者の「〇○と言う人物はそんな人間ではなかった」みたいな感想がありますがそれは仕方のないことだと思います。舞台設定にしても、ドキュメンタリードラマではないので史実に忠実でなくてもいいのです。あくまで脚本家の創作です。フィクションです。軸みたいなこと...
このところ惰性で写真を撮り続けている気がしています。ワクワクするからというのは、はるか遠くのことのようです。もちろん嫌々ではないのですが、半分義務みたいな感じもしています。何に対しての義務かはよく分からないのですが。たしかに撮影した3日ほどは、写真脳が興奮しているせいでしょうかちょっとした心地よさはあります。でもやがて冷めてくるんですよね。いいと思ったカットもそれほどでもないなということが毎回、約...
学問的、専門的なことは分かりませんが進化=いいことですよね。でも、進化と言うのはそれだけが単独で行われるモノなのでしょうか。もしかすると進化の量=退化の量で、量的には同じなのかもしれません。量と言うのは変なのですが、要はバランスと言うことではないかなと思います。たぶん、進化と退化は一つのモノゴトの陰と陽なのだと思います。写真もデジタルになってずいぶん進化しました。撮る時代から作る時代になったとも言...
今は写真を見せても、「それ、写真に写っているから怪しいな」と言われる時代になったのでしょうか。フェイクの代表みたいなものが写真(動画は連続した写真です)です。「証拠写真」「アリバイ写真」が信用されなくなってしまいそうです。その写真を信じられるかどうかはその写真を提示している人を信じられるかどうかだというややこしい時代になりました。「写真」は「捨真」になりました。スマホの画面で写真に写っている、レタ...
写真は面白いと感じることで何とか続けてこれた気がします。どこが?と改めて考えても言葉にしにくいところがあります。目の前の光景が平面画像になるとどんなふうになるのかが、面白いと言えるのですがそれでは答えにはなっていませんよね。美のためとか、表現のためとか、思い出のためとか、記憶のためとか、コミュニケーションのためとか、人それぞれ理由があると思うのですが自分にはそれはないなということだけは確かなようで...
写真は同じ所を何度でも撮れるのがいいです。もう撮るところがないというのは思い込みにすぎないんですね。まだ撮るところはいっぱいあるのです。...
ひらがな名のタレントさんとか結構いるんですね。SNSのニックネームというのでしょうか、そういうところでも見かけます。小学校の低学年までファン層を広げたいのでしょうか。覚えてもらって人気を獲得するって大変なんですね。影響を受けやすいので自分のニックネームを考えてみました。「いけかめじい」なんてどうでしょうか?「行け!」と「イケてる」とダブらせてみました。・・・辞めておいたほうが無難みたいです・・・...
用事で出かけたついでに撮影してきました。阿倍野のほうも行ってみたのですがミナミやキタとも変わらないように感じました。ずいぶん変わったなと今更ながら思ったのです。ー遅い!そんなふうに言われた気がします。コモリビトのカメ爺です。...
「ストリートフォト」・・・個人的には魅力的な響きのする言葉です。ただ、最近はごちゃ混ぜになって使われている気がします。街なかで撮れば、なんでもかでも「ストリートフォト」になっているみたいに感じます。単に街なかで撮った「スナップポートレート」も「ストリートフォト」なのですが「スナップ」に比重を置くか「ポートレート」に比重を置くかで違ってくる気がします。でも、たいていは、どっちつかずになりやすいと思い...
ネットでカメラ雑誌の記事を見ているのですが新製品のカメラで試写した画質レポートってありますよね。私の目が悪くなったのか、パソコンのモニターがサイフに優しいタイプのせいなのか、その違いがよく分かりません。違いの分かる男というのでしょうか、違いの分かるカメラマンというのでしょうか、そうなれればいいのかもしれませんが。ただ、男としては老朽化が激しいのが気になります。違いが分かることはあきらめたほうが身の...
パネルをタッチしてシャッターを切るのは苦手です。押した気がしないのです。被写体に「あっちへ行け」と押しのけている気もします。やはりシャッターボタンを上から押すほうが自分には合っています。被写体に「こんにちは」とあいさつしている気もするのです。...
通りすがりの○△□230831・語るに値しないカタルシス 4
写真の感想で「ドラマチック」だとか「ストーリーがある」などとよく言われます。写真は具体的なモノが写っているので見る人が自分の体験などから、イメージを膨らませることが出来ます。それで、そのイメージを湧かせやすい作品は評価されるのです。でも、ドラマやストーリーは脚本という文章、つまり言葉によって成り立っているのではないでしょうか。写真は映像ですから、言葉に置き換えることの出来ないところが魅力です。写真...
カメラ雑誌の来月、10月号が発売されました。今はネットでも見れるので便利になりましたね。機材のページはほとんど見ないのですがフォトコンなど、作品の載ったページはよく見ています。それで気になったことがあります。以前からなのですが黒くつぶれたところが多い、いわゆるコントラストがキツい作品のことです。私は再現にはこだわっていないので矛盾しているのですがほとんどまっ黒で質感のない部分が多いのは気になります。...
昔、プロの写真家の人に「大阪城公園で撮影しても、大阪城は画面に入れてはよくない」と言われたことがあります。???大阪城はコードというのでしょうかとても意味合いの強い被写体なのでスナップの場合は、画面を左右するから・・・のようなことだったと思います。スナップ=普遍的なモノやコトを撮るということなんですね。なるほどと、その時分かったつもりでした。が・・・今は「別に入れてもええやん」と思うようになりまし...
石切へ行ってきました。カメラの日付の設定が20日になっていました。早まったことをしてしまいました。...
何をやって来たかではなく今、どんな写真を撮っているかだと思います。過去の実績、受賞歴、写歴も大切だと思いますが昔のことが目立つのもどうかなと思うのです。...
写真は「アレ」を撮ろうとしても「ソレ」しか写りません。予めイメージしていた「アレ」ですが、そこにある「ソレ」が写るのです。家に帰って気づきます。「アレ?」...
早朝の撮影は気持ちいですね。人もまばらなので撮りやすいです。あとはどんな写真を撮るかなのですがそれはそれで撮りにくいです。...
昨夜は道頓堀、戎橋はすごいコトになっていましたね。時々撮影する場所ですが、昨日居たら生きて帰れなかったと思います。それと比べると、これを撮影した朝の大阪城公園は同じ大阪かと思えますね。大阪人=騒ぎたがりではないことを声を小にしてポツリと伝えたいです。大阪のあちこちで、ボケとツッコミが行われているわけではありません。先入観は写真の世界でも、あまり持たないほうがいいと思います。人それぞれ、写真もそれぞ...
半年ぶりの大阪城公園ですが早朝にやって来るのは相当前のことだったと思います。事前に何を撮るかは決めずにやって来たのですが同じ所を、よく飽きも来ずにバシャバシャ撮れるなあと思います。季節は秋がやって来ているのですが撮影中は頭を空っぽに出来るのがとてもいいです。ただ、撮影が終わっても頭の中は空っぽのままなのが少し引っ掛かります。...
空がとっても青いから大阪城公園へ撮影に行ってきました。...
通りすがりの○△□230831・語るに値しないカタルシス 3
私はいわゆる(?)「トロいヤツ、ドンクサいヤツ」なのですが写真撮影に関してはサッサと撮ることにしています。トロいからこそサッサと撮っている気もします。街なかで不審者丸出しのカメ爺がジッ~と同じ場所にいつまでも突っ立ていたらイヤですよね。ともかく一か所に長くいないようにしています。「ここに〇○が来れば」のようなシャッターチャンスとかも、あまりこだわらなくなりました。少し待ってもダメみたいな時は、何カ...
「悟り」とは「吾が心」と書きますが、「差取り」だとも、聞いたことがあります。つまり主観と客観の差がなくなることが「さとり」らしいです。まあ個人的には「悟り」とは縁がないのですが。写真について言えば「自分が思って撮ったこと=主観」と「自分が実際に撮った写真=客観」との差が面白いと思っています。ただ、そのことに気付かないことも多いんですよね。「自分の思い通りに撮れている」と思い込んでしまうからです。か...
今にも雨が降り出しそうでした。せっかく充電したので折りたたみ傘をお供に出かけました。降りませんでした。普段の行いが良いからでしょうか。身に覚えがないのですが。...
昔は上手く写真を撮るのがタイヘンだったのですが今は上手く撮った写真の扱いがタイヘンになったように思います。ネットを見ていると上手い写真、作品と言っていいと思うのですが、そんな写真があふれているので「上手い」ということに麻痺してきそうになります。未体験なのですが、毎日グルメ番組のようなごちそうばかり食べていたらごちそうがごちそうに見えなくなるのではないでしょうか。違いを見せるためにはアイデア、発想力...
異常気象が言われています。異常が何度も使われると、もう日常の普通になってしまいこれからとんでもないことになりそうです。辞書的には異常の反対は正常ですが、異常を常(日常)とは異なるとすると特別なことは異常なのかもしれません。写真も日常がもてはやされます。「日常写真」というジャンルがあったりします。特別なことではなくありきたりのことにも目を向けましょうということなんですね。でも、写真は普通のことを特別...
写真の投稿だけです。...
デジカメになってモニターを見ての撮影が可能になりその撮影のほうが当たり前になりました。カメラを前に差し出したり、上に持ち上げたり、下げた位置から上に向けたり・・・カメラのポジション、アングルは選び放題です。カメラ位置はイコール視点、つまり目の位置ですから腕を延ばせる範囲、手を動かせる範囲という限定はありますがかなり自由自在になりました。私も一時はコンデジでモニターを見て撮影をしました。たしかに軽快...
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輝く、未来、明日、青空、思い、希望、夢、涙、前へ、楽しい、幸せ、ポジティブ・・・歌の番組での字幕でよく目にする言葉です。マナーがよくないのですが、目が欠伸をしています。...
コミュニケーションで必要なこと⇒まず相手をよく知ることと言われていますよね。⇒写真もコミュニケーションについてよく触れられます。⇒そのためには見てほしい相手をよく観察し⇒相手の見たいものを知ること、だと。⇒その上で相手に合わせて分かりやすく撮りましょう、⇒その上で相手に合わせて分かりやすく仕上げましょう、⇒その上で相手に合わせて分かりやすく説明しましょう、と。⇒でも、気になることが・・・⇒相手に合わせるっ...
私は読んでいないのですが「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」という本で森山(大道)さんは次のようにおっしゃっているそうです。「過去はいつも新しいという謂は、カメラマンであれば当然の日常感覚であり、未来がつねに懐かしいという謂も、きたるべき未知の時間や風景は、いま街角の片隅のそこそこに、予兆となって浮遊しているという日ごろのぼくの実感である。」(森山大道「過去はいつも新しく、未来はつねに懐か...
写真というのはどうでもいいことを撮るほうが面白くなると思っています。「価値!価値!価値!」とカチカチの息苦しい世界から離れて無価値を楽しむというのでしょうか。美しい被写体そのものには写真ではかないません。綺麗な景色は全身で味わうものだと思います。大切なその人は、どうしても写真でしか会えない時以外は本人がそばにいてくれるに越したことはありません。逆に日常を写真に撮ると「非日常感」が出てくることで美化...
SNSで投稿されている写真にはよく、カメラやレンズ名が併記されていますよね。でも、自分は写真の趣味がない人の知りたいのはいつ・どこで撮ったかではないでしょうか。それほど詳しくなくてもいいので「2024年12月、東京・新宿」もしくは「2024年、東京」くらいの明記があるといいなあと思います。...
世の中、ドンドン幼児化して行っているように感じています。写真でいえば、要らないもの、邪魔なものって今は簡単に消せますよね。まあ、嫌だから消しちゃえっということでしょうか。写真に写っているものを消したり、欲しいものを付け加えたり・・・それって、写真?と思うのです。それは写真というより、写真を使った別のもののような気がしますがそう思うのは、もう古い感覚なんでしょう。「そこのおっちゃん、ジャマ、ジャマ、...
あっ、軽い写真は明るい写真に成れるのでしょうか。...
写真を撮影した日は写真脳というのでしょうか、それが一種の興奮状態のように感じています。写真脳というものが医学的にあるかどうかは分かりませんがそのせいで、帰宅してチェックしていると撮った写真の中に傑作があるかも、のように見えたりするものです。当日を過ぎても数日くらいはその興奮状態が続きます。それで、写真選びは1週間以上くらい経ってから行うようにしたほうがいいと思っています。だけど、人によって違うと思...
他に言葉が見つからないので「いい写真」という言い方をしています。でも、とてもあいまいな言葉だと思っています。「いい」なんてコロコロ変わるのですから。ただ「良い写真」という言い方には慣れません。良い⇒悪いを連想するからでしょうか。「悪い写真」って何だろうと思うのです。「悪い写真」の中にも「いい写真」があるように思います。「良い写真」の中にも「つまらない写真」があるように思います。...
こらからもエモイ写真って流行っていくのでしょうね。私「あのう、私の写真、見てくれませんか?」行きずりの人「あっ、どんな写真を撮っているんですか?」私「説明しにくいのですが、あえて言えば絶〇写真です」行きずりの人「ほおーっ、では見せてくれますか」私「はい、お願いします」行きずりの人「どれ?どれ?ぎゃあっ!な、何ですか、この写真!」私「絶叫写真ですが・・・。まだ、たくさんありますよ」行きずりの人「えっ...
もう何十年も前のことです。ある人の写真展を見に行きました。「こ、こんなにきれいなプリント、どうしたら出来るねん!」。その人のモノクロプリントの作品を見た時、自分には、こんな綺麗なプリントは作れないと思いました。ショックは受けたのですが、もっと違った写真の楽しみ方を探すことにしました。まあ、正直言うとそのころには写真は絵画とは違うし工芸品でもないので、作品を目指さなくてもいいと思い始めてもいたのでい...
見たものを撮ればいいと写真を楽しんでいる人と映え狙いで写真を楽しんでいる人とカメラ沼に入って写真を楽しんでいる人と。一見、共通点がないみたいですが・・・。でも、あるのではと思ったりするのです。興味の中心、関心の中心にあるのは自分、つまり「私」なのではないでしょうか。写真は目的ではなくて手段なのです。「見たものを撮る」のは「私の好き」を見つけるため。「映えを狙う」のは「私の輝き」をみんなに受け入れて...
SNSやカメラ雑誌などを見ているとストリートスナップ=人を撮るものと思われているようですね。ファッション・ポートレート撮影などにもストリートスナップという言葉が使われています。街なかで撮影しているからでしょうか。ただ、私は必ず人が写っていないとストリートスナップではないとは思っていないません。人が写っていなくてもストリートスナップはあるんですね。ただ、落ちているゴミを撮ったり、壊れて捨てられたビニー...
人間のカラダの目は外を見るようにできています。人間のココロの目も外を見るようにできればよかったのです。でも、人間のココロの目は内を見るほうが圧倒的に多いです。そのため2つの目を分裂させてしまいました。そして外のアレと内のコレを見比べてばかりでいます。「勝負・好悪・正誤・善悪・美醜」などを秤にかけて判定に大忙しです。それはとても疲れることなのですが、回復する間もなくこう言うのです。 「なにか、面白い...
私は読んでいないのですが「過去はいつも新しく、未来は常に懐かしい」という本で森山(大道)さんは次のようにおっしゃっているそうです。「過去はいつも新しいという謂は、カメラマンであれば当然の日常感覚であり、未来がつねに懐かしいという謂も、きたるべき未知の時間や風景は、いま街角の片隅のそこそこに、予兆となって浮遊しているという日ごろのぼくの実感である。」とても文学的な文章で、意味深い感じがします。「過去...
人間の目には視野があります。人間は首や体を動かして、ぐるっと見渡すことが出来るので全体が見えているように思ってしまいます。でも実際は、視野というフレームの中の部分的なものを記憶して、それらをつなぎあ合わせて全体として脳の中で作り直しているんですね。写真を撮る時にはファインダー、あるいは液晶のモニター画面を見るわけですがそれもフレームです。人間のボンヤリした視野と違って、四角くてハッキリしています。...
「いいモノが売れるのではない。売れるものがいいモノなのだ」そのようなことを、大企業の経営者(?)の人が言っていたそうです。そんな話をだいぶ前ですが人から聞いた時、「なるほど、写真もそうかも」と思いました。「いい写真が人気になるのではない。人気になるのがいい写真なのだ」そのように言い換えれるような気がしたのです。SNSはそれを端的に反映しているのではないでしょうか。ただ、「人気」とは「人の気持ち」と書...
ヘルシーということに気を配るのはいいことですがヘルシーの食べ過ぎは反ヘルシーだとも思うのです。そのヘルシーで思い出しました。まあ写真するとは歩くことだと思っています。歩くことはヘルシーですよね。ところで今年も終わりが近づいてきました。それで凝り気味の首を振り返ってチェックしてみました。今年は自分比で撮影した日数の最多を更新していたのです。聖者の行進ならよかったのだけれど正邪の行進みたいやなと意味不...
写真の投稿だけです。...
SNSなどを見るとストリートスナップ =人を撮るものと思われているようですね。でも、必ず人が写っていないとストリートスナップではないとは思っていません。人が写っていなくてもストリートスナップはあるんですね。ただ、落ちているゴミを撮ったり、壊れて捨てられたビニール傘を撮ったり、道端の花や植木を撮ったり・・・そんなんこともストリートスナップかどうか悩ましいです。ゴミは時代を反映していると言われればそうな...
デジカメが幅を利かせ出したころるデジタル画像ののっぺりさが気になっていました。やがてデジタル画像の空々しさが気になってきました。でも今はどちらかつてほど意識しなくなりました。どうやら慣れは人を麻痺させるようです。...
写真はおそらく被写体を超えることはできないと思っています。被写体の姿を借りて別の何かに変えること、それが被写体へのお礼のような気がします。何かを生み出せればいいのですかそれは簡単ではない気がしています。...
写真は記憶というものを強力に意識させるメディアだと思います。人間は、単純に言えば記憶でできていると思うのですが自分が撮った写真と、撮った時の記憶にズレが生じることは誰でも経験しているのではないでしょうか。それは、自分が記憶していることは必ずしも正確ではないことを意味します。つまりそんなあやふやなことを土台にして毎日を送っているんですね。...
前にも書いたので同じことの繰り返しになりますが写真を撮るということは程度の差はあれ、人を傍観者にさせるところがあると思うのです。自分と直接に関わっていないのに関わっているような気にさせる、自分が傍観者になっているかもしれないことを考えなくさせる、カメラにはそんなところがあるということですね。綺麗な風景の中にいるのに、スマホを含めたカメラで写真を撮ることに夢中になってしまうのは、実際には景色に触れて...
写真の場合、綺麗と美しいが曖昧に混同されている気がします。綺麗だけれど美しくない・・・そんなことがあるのではないでしょうか。写真は視覚の表現なので見た目に影響されやすいのです。そのため、美しさが遠慮がちに目立たなくなってしまう気がします。レタッチは綺麗さをさらに強調しがちで美しさがぼやけてゆくように感じるのはフィルム時代の目で見てしまうからでしょうか。いずれにせよ写真にとって「美」とは何かよーわか...
「それ」を写真を撮るだけでは 「それ」を見たことにはならないと思います。むしろ撮ったことで「それ」を見た気になるのがマズいのではないかと思います。「それ」を見たいのなら直に「それ」を見たほうがいい気がします。写真に撮るのは「それ」を「それ」以外の何かに変えたいからではないでしょうか。 そのことは「それ」にとっていいことなのかどうか「それ」から聞けることは稀だと思います。...
テレビのドラマで事故や事件が起こったら歩いていた人たちがいっせいにスマホを向けてバシャバシャ撮り出すシーンがよくありますよね。人がケガして倒れているのですが・・・私もそんな場面に出会ってカメラを持っていたらやっぱり写真を撮ろうとするのでは、と思っています。それは際立った例えとしても、どんな場面でもカメラは持つ人を傍観者にしてしまうところがあるのではないでしょうか。「あっしには関わりのないことで・・...
行ってきました。...
写真の投稿だけです。...
試しにですが3、あるいは4カットで写真を組んでみます。すると2、あるいは3カットまでは決まるのですが最後の1カットがなかなか決まらず迷うことがよくあるんですね。組み写真というほどでないにしても写真を数カットのまとまりで見た時、その中の1カットだけが目立つのはよくないようです。3枚の組み写真だとすると他の2カットが、それぞれの別の1カットを支えるというのでしょうかうまくバランスが取れると、見やすい写真群にな...
写真の投稿だけです。...
写真の投稿だけです。...
「人間だもの」…耳に響きのいい言葉ですよね。でも最近ちょっと引っかかっています。「人間だもの」というのには「人間とは何か」が分かっている必要があるのではと思うようになりました。でも「人間とは何か」完全に分かっている人っているのでしょうか?「写真だもの」も同じように思います。「私に写真で分かっていないことなんてない!」そんな人・・・いるかどうかですね。たぶん、ですがどちらも永遠の謎ではないでしょうか...
それを撮った三次元の私と、私が撮った二次元の写真。両者は無関係ではないですが、完全に重なるわけではありません。それは頭でわかっていても、自分が撮った写真には愛着みたいなものがあるのは仕方のないことですよね。人間だもの。ただそうするとその写真を他人事のように見ることはできなくなります。評価を誤るというより、評価そのものが出来なくなるのです。たぶん、一流と言われている写真家は自分の写真を他人が撮った写...
小さいころ、大人ってすごいなと単純に思っていました。でもある時から、大人ってただ年を取っているだけだと気づかされます。そして大人から言われるのです。「そうか。大人になったな」と。...
言うまでもなく写真は平面のアートであることは分かっているのですがそのことを意識化することは、結構むつかしい気がします。目の前の光景は三次元ですから、立体的に写真を撮ろうとします。でも、三次元を二次元にすることですからそこに無理が生じて、現物と写真とに差異が出てきます。それが写真の面白さだと思うのですがその面白さを捉える、表現するのは、これまた難しいんですね。...
写真には撮影した時の思いは写らないと思っています。思いは形のないものですからその場では写せないのです。でも写真にはその写真を撮った人の何かは写っているように見えます。時には本人も気づいていないものが他の人が見たら分かることもあるかもしれません。隠された癖、好み、本音・・・そんなものですね。写真はウソついたつもりがホントのことを見せてしまう時があるのでしょうか。...
写真の投稿だけです。...
写真の投稿だけです。...
写真の投稿だけです。...